第九章 良心の正義と赦し
暗い。
俺は、チセを助けようと、ガルドリードに向かっていたはずだ。
だけど、俺じゃ多分あいつに敵わない。
俺じゃ、チセは助けられない。
俺じゃ、この村を救えない。
チセが笑うと、みんなが笑顔になった。
だけど、あいつらの無邪気な笑顔を、今の俺じゃ守ってやれない。
その不甲斐なさに俺は歯嚙みした。
力が欲しかった。
大切なものを守るための力を。
一度手を繫いだきりの彼女の小さな手は、柔らかく、温かだった。
二人で並んで仰ぎ見る空は明るく青く、空気も澄んでいて。
彼女と一緒にいるだけで──世界は、俺の心は、幸福に満たされたんだ。
思わず俺は、暗闇の中に手を伸ばした。
ピシッと音がした。
暗闇だけだったそこに、細い光の筋が見えた。
『自分の守りたい人に気づけば、もう一枚の卵の殻を割って、聖なる守りの力は開花するわ』
かつての優しい母の言葉を思い出した。
「俺は!」
出るんだ。
俺は心の中で決意する。
これを割る。
光が差し込む割れ目を力の限り打ち付けると、その光はだんだん大きくなっていく。
出るんだ!
彼女を守るために。
彼女の愛するものを守るために。
俺の大切な世界を守るためにーー!
◆
アルの体を覆う、赤い鱗一枚一枚が頭の方から徐々に剝がれていく。そしてそれは、はらはらと陽の光を反射しながら地に散っていく。チラチラと光りながら鱗が落ちる。
それはまるで、鮮やかな赤い花びらが舞い落ちるようで、美しい光景だった。
剝がれた鱗の隙間から覗くのは金色の体。それは天から注ぐ光を受けてキラキラと輝いていた。
やがて脱皮するかのように、黄金色の体表があらわになった部分から、一回りも二回りも大きくなり、黒竜と双璧をなすような大きさへと変化していった。
灰色だったツノが抜け落ち、代わりに白いパールのように艶めく美しいものに生え替わる。
「チセを……、離せっ!」
黒竜は、自分に肉薄するアルの様子が違うことにようやく気がついて、残された片方の目をこれでもかというほど見開いた。
その視線の先には、彼が蔑み続けた小柄な体軀の赤竜はいなかった。
そこにいたのは、自分を上回ろうかというほどの大きさの黄金色の竜。
赤かった翼も、付け根部分から金へと色を変えていた。
アルが、一度瞼を閉じて、かっと目を見開いた。
「みんな、目を閉じてろ! チセは俺が助ける。俺を信じろ!」
アルが、大きな声で叫んだ。
私も、地上で見守るみんなも、その言葉を信じて、頼りにして、目を覆った。
けれど、黒竜だけはそれが出来ない。アルが、もうすぐそばまで迫って来たからだ。ここで目を瞑ったら、何者に変わったのかもわからない、アルの攻撃を防ぐことも出来ないのだ。
「
アルが叫ぶと、黄金色の竜に生まれ変わった彼の口から、黒竜に向かって膨大な量の光が熱となって放射された。
一瞬遅れてガルドリードはその光線から逃れようとする。しかし、その一瞬が明暗を分けた。
その光は、その名のとおり罪深き者へ懲罰を与えるかのよう。
不思議なことに、私は閉じた瞼の裏は眩しさを感じるものの、熱さを感じることはなかった。
それに対して、ガルドリードは黒竜の翼と体表、そして彼の喉を焼かれていった。
「ぎゃああああああ!」
じゅうじゅうと肉とかそういった類のものが焼かれる、嫌な匂いがする。翼を失ったガルドリードはなす
それと同時に私を囚えた彼の手が緩み、私は宙へと放り出された。
「あ……」
突然のことに、私は何も出来なかった。
けれど、そんな私が落ちたのは、弾力のある柔らかい場所だった。
見上げると、目の前には金色の大きな竜がいた。私を見下ろすその瞳は、あの蒼色。
金色の竜が水を掬い上げるように、両手で私を優しく受け止めてくれていたのだ。
「……アル、なの?」
その変化する様を見ていたというのに、すぐにはそれを理解しきれなくて、金色の竜に問う。
「ああ、俺はアル。アルフリートだ」
優しい声で告げられて、そして、守られているという安心感で、私はほうっと息を吐き出す。
そんな私に金色の竜が顔を近づけてきた。
私は寄せられた大きな顔に抱きついて頰を擦り寄せる。そうして感謝の気持ちを伝えたのだった。
そうして、私は丁寧にアルに地上へと運ばれて地面にそっと降ろされた。アル自身も、地に足をつけた。
「俺はアレを排除してくる。チセと、この村に手を出した、あいつへの罰だ。そして俺のケジメもつけてくる」
そうして今度はゆっくりとアルが地面に倒れ伏すガルドリードに対峙する。
「貴様ぁぁーー!」
体表と翼を焼かれた苦痛に顔を歪ませて、ガルドリードが
「お前を許した父上が間違っていた。俺もだ。……お前にはあの時、もっときちんと自分がしたことに向き合わさせなければならなかったんだ」
「クソッタレがぁぁ!」
「なんとでも言えばいい。けれど、……自らの行いを省みもしない、お前のために頭を下げた父親の思いにも気がつかない。そんなお前に、もう許される余地はない」
「うるせえんだよ! あのクソ親父が馬鹿なんだ。俺たちはお前ら王族なんかに媚びへつらう必要はない! 我ら黒竜族は武力でお前らなど蹂躙出来るんだからな!」
「……お前は俺に、過去に謀反と同等の発言をした。その上にそれを言ったら、もう救いようのない謀反者だ。情状酌量の余地もない」
「知るか!」
「……それと、一族まで巻き込むな。お前の罪はお前一人で背負え」
罵詈雑言しか返さないガルドリードに、アルが淡々と言葉を告げていく。
それは多分、制裁の言葉。最後通告。
でも、多分……。
──因果応報。
前の世界に、そういう言葉があった。
それは良くも悪くも、己の行いには、それ相応の報いが訪れるという意味だ。
ならば、ガルドリードがこれから受けるであろう制裁は、妥当なのだろうか?
「アル……」
硬い表皮に覆われた竜体のその表情だけでは、アルのガルドリードへの思いは窺い知れなかった。
「みんな。また、目を瞑って欲しい。俺はあれを断罪する」
──どうしよう。
多分、アルはガルドリードを殺そうとしているような気がしてならない。そんな嫌な予感が私の胸をよぎった。
そして、それは私の頭の中で「ダメだ」と警鐘を鳴らす。
人は、そんな正義のもとにその力を振るったとしても、誰かの命を奪えば、それを一生抱えて生きるものだ。もしかしたら、世の中にはそんなこと気にしない人もいるかもしれない。
だけど、アルは違うはずだ。
私と一緒に、笑い、仲間への優しさを持ち合わせる、そんな人だ。
そして、これからもそんな純粋なままの彼でいて欲しい。
アルの手を汚させてはならない。
──アルを止めなきゃ!
「アル! やめて!」
このまま彼がしようとしていることを放置したら、なんだか取り返しのつかないことがアルの身に起こりそうな予感がした。だから、私は思わず叫んでアルの元へ駆け寄った。
幸い、ガルドリードは起き上がるほどの力はないようで、地に伏せたままだった。
「チセ。危ない! 一体何を……」
戸惑いの言葉を口にするアルの大きな体にしがみ付いて、私は首を大きく横に振った。そんな私を守ろうというのだろうか。アルが大きな翼で私を包み込んだ。
「あの人とアルの今までの関係は私にはわからない。だけど、私は……!」
「私は?」
「アルに、その手で誰かを殺めて欲しくないの。それがいかに正義のもとに行ったとしても。人は誰かを殺めれば、自分自身の良心に一生苛まれるの。私は、アルにそんな苦しみを抱えて欲しくない。だから、アルに手を汚して欲しくないの!」
「チセ……」
竜型のアルが、大きく目を見開いた。
「それに、私は、笑ってみんなと幸せにしているアルが好きなの! 私はみんなに優しいアルが好き。思いやりのあるあなたが好き。だから、あなたにはそういう人で在り続けて欲しいのよ!」
私は必死に訴えた。
そんなやりとりをしていると、遠くから、知らない人の声がした。
「何事だ!」
目を凝らしてよく見ると、それは三人の竜騎士たちだった。
「レブナント」
三人のうちの先頭を飛ぶ騎士に向かって、アルがその人の名前を呼ぶ。
彼らはやがて村に降り立って、地に倒れ伏したガルドリードと、黄金色の竜と化したアルを交互に確認する。
「そのお姿……。アルフリート殿下ですよね?」
「ああ、アルフリートだ。それにしても、ここまで姿が変わったのによくわかったな。お前はよくガルドリードを窘めていてくれた騎士レブナントだろう?」
「はい、そうです。質問にお返ししますと、殿下とわかったのはお声が同じだからです。それに、私は国王陛下からよく聞かされていました。『いつかあいつは、母と同じく聖なる存在になる』と。私はそれを信じておりましたから」
「そうか」
アルが顔を伏せて、口元で笑った。
「元々アルフリート殿下がこの村に向かったと陛下に内々に教えられていました。そしてそのあと、ガルドリードが姿をくらましたことに気がついたのです。……嫌な予感がして、部下を連れて奴を追ってきました」
「ありがとう。奴はそこにいる。王都に連れて帰って、しかるべき場所で適正に裁いてくれ」
そう言って、アルが地に伏せ焼け焦げたガルドリードを指さした。
「はっ。承知しました!」
そして、レブナントは部下二人に命じて、ガルドリードを捕縛した。
そこで、アルが少し逡巡した。
「チセ」
「なあに?」
「チセは、『みんなに優しい俺が好きだ』と言ったな」
「う、うん……」
「好き」と勢いで言った言葉を改めて復唱されると気恥ずかしくなって、私は頰に熱を感じる。
「それは、こういった罪を犯したものも対象か?」
多分頰が赤くなっているだろうと思って両頰を押さえている私に、アルが真っ直ぐで真剣な目を向けてきた。
「過ちを認めて考えを改める『更生』とか、その後罪を償いながら生きる『贖う』という生き方があるわ。彼に、もしそれが出来るのであれば」
私はそう答えてから、前世で読んだ物語にそんなテーマを持った話があったことを思い出す。
『良心の正義』で生きる男と『法の正義』を信条に生きる男たちの話だ。私はその中で、元々は犯罪者だったのに『良心の正義』に目覚めて生きた主人公がいたことを思い出した。
私はその小説の世界に夢中になり、そして、その物語から『良心の正義』という考え方もあることを学んだのだ。
「前に『自分が変わりたいと思えば変われる』って言ったよね?」
そう。それは泉のほとりで語り合った時の私の言葉だ。
「……今こ私は、その場で簡単に命を奪わずに、彼に更生の機会を与えて、もしその結果、彼が気づきを得て心を入れ替えられたなら、新しい人生を生きることを認めたり、そのための支援をしてあげたりしてもいいと思うの」
「……チセ……」
「過ちを犯しても、やりなおすチャンスがあってもいいと、私は思うわ。甘い考えだと言われるかもしれない。でも私は、この世界が、この世界に住む全ての人にとって優しいものであって欲しいのよ」
私がそう訴えると、アルの表情が心なしか柔らかなものに変わる。
「なるほどそう、だな……。チセの言葉にも一理ありそうな気がする。それに、叶うなら俺もあいつに変わって欲しい。もし、もしも考えを変えてくれる可能性があるのなら……俺はあいつの命までは奪いたくない」
そう呟くと、アルが追ってきた騎士の方に体を向ける。
「……レブナント。ガルドリードの身柄を引き渡す際に、陛下にも今の話を伝えてくれないか。こいつの罪は王家への暴言と村の器物損壊に止まっている。幸い死者は出ていないし、負傷者は俺かチセで治せるからな」
「はっ」
「それと、奪った翼は
「更生状況次第では、機能を失った部位を回復しないでもない」そう言おうとした言葉を、ガルドリードが横から遮る。
「お前からの慈悲など、受けるものか!」
ドラゴンブレスを吐く器官と喋るための器官は場所が違うのだろうか? 喉を焼かれたというのに、ガルドリードがアルに悪態をついた。
「ガルドリード……」
アルが少し悲しそうに眉を下げる。
「いい加減にしろ、ガルドリード!」
そんなガルドリードを、レブナントが叱責する。
「ガルドリード。お前にだって、お前が死んだら嘆く者がいる。誰だかわかるか」
アルがガルドリードに尋ねた。
「知るか!」
相変わらず彼は悪態ばかりだ。
「……お前の父のヴァルドはどう思う。子供の頃の一件だって、彼は必死にお前のために赦しを乞うたんだ。お前を産んだ母はどうだ。子を亡くした母親はどう思う。……そういう、自分の周りの者の気持ちも考えろ」
「……父上、母上……」
ガルドリードは大きく目を見開いてから、ガクリと項垂れた。
そうして、翼もドラゴンブレスを吐くための喉も奪われたガルドリードは、レブナントたちにおとなしく連行されていったのだった。
ようやく、村に平和が戻ってきた。
金色の竜だったアルが、大きな竜の体から人のそれに変わっていく。
って、あれ?
アルが、アルの姿じゃなかったのだ。
髪は背中に届くほど長く、金色に変わっていた。
瞳は元と同じく蒼。
アルの面影はある。
けれど十五歳ほどかと思っていた見た目は、二十歳前後の青年のものに変わっていた。
その青年が、背中に生えた金色の翼をはためかせて私たちの前に舞い降りた。
みんな、アルらしき青年(?)を凝視している。
「えっと、……アル?」
「ああ、そうだよ。俺はアル。……アルフリートだ」
私の前に歩いてきたアルだと名乗る青年が、目を細めて蕩けるように微笑んだ。
ちょ! 美形すぎる……!
元々顔だちのよかった彼が青年の姿に成長し(?)微笑むと、それは私には眩しすぎるほどだった。
合計四十一歳になろうかともいう私(しかも彼氏なし!)には厳しかった。眩しすぎた。
「君のおかげで、俺は自分の守るべきものに気づくことが出来た。……チセの、この村のおかげだ」
「どうして……?」
どきどきうるさい胸を押さえながらも、私はなぜその姿なのかと問いかけたくて、アルの頭から足元までを眺め見る。
その問いにアルがにこりと笑った。
「この姿が、多分俺の本来の姿だよ。……俺は、聖女の息子として、聖竜にならないといけなかったんだ」
すると、アルの「聖竜」と言う言葉に、ゴブリンたちを含む村人たちがわっと沸いた。
「聖女様の御子息……!」
「では、かつて失われた癒しの力は……!」
「森も戻るかゴブ……!」
口々に問われる言葉に、アルが彼らの方を見て頷いた。
「ああ。これからは、俺が癒していく。もう、飢える心配はしなくてよくなるはずだ。……
アルの体を中心にして優しい光が広がった。それはどこまでもどこまでも広がっていく。
その光はこの戦いで傷を負った獣人たちを癒す。
畑も、森も、緑が鮮やかさを取り戻していく。
それは、かつてこの国の聖女が国中を満たしたものと同じだった。
再び歓声で村が沸いた。
「聖竜様が降臨なされた!」
「聖竜様がお生まれになられた!」
「ゴブーー!」
村人たちが、口々に喜びの声を上げた。
そんな騒ぎの中、アルが私の真正面に立って、私を蕩けるような瞳で見下ろした。
「チセ」
「なっ、なあに?」
まだ、この姿のアルを前にするとドキドキしてしまう。そんな様子に微笑んで、彼が私に一言告げたのだ。
「チセ。俺もチセが好きだ。聡明でみんなに優しい、そんなチセを愛おしく思うよ」