籠を下げ、森の中を歩き回る。季節は巡り、暖かい気節が訪れた。寒くて厳しい時期が終わって、地面からは植物が芽吹き、順に花が綻ぶ。そこかしこからいい匂いがして、胸の中がルンと跳ねた。

「あったー! ラムソン!」

 目当てのものに出会い、私は一人で声を高くした。

 こけの生えた木の根元、一見ただの草に見えるそれは間違いなく春の味覚。秋はキノコ、春は山菜。森の近くに暮らすとこういった楽しさがある。

 としてラムソンを収穫し、籠に入れる。シャキシャキした歯ごたえと独特の香りが面白い山の恵み。どうやって食べてやろうかと不敵な笑みがこぼれる。もちろんこのままサラダでもいいし、クリーム系の料理に入れる葉物としても使える。一風変わった風味になって、季節を楽しく味わえる。

 手提げの籠をいっぱいにすると、私は満足して家へと戻った。庭から見えるガラス戸の向こう、リビングでは先生が眼鏡めがねを掛けて草稿の束と向き合っていた。

 あれから、先生にはくだんの会合の他の参加者の資料が続々と届いた。よく一階のソファで黙々とそれらを読んでいる。どうして二階で読まないのかと思ったけれど、くのもな気がしてそっと見守っている。他の人の分野の異なる研究成果に「ほうほう」とうなずき、分野のかぶる成果にはたまに渋い顔で首をひねっていた。

 読んでいるところを後ろから少しのぞかせてもらったけれど、やはり私には内容はチンプンカンプンだった。正直にそのまま先生に伝えると、「表現が回りくどいからな」と書き手の問題にされた。正真正銘、そういう意味ではなかったけれど、曖昧に笑ってした。

 玄関から家の中へ入り控えめに「戻りました」と言うと、中から「おかえり」と声が返ってきた。集中していると、返事がないこともある。今はどうやら違うらしい。

「大量でした」

 籠をテーブルに置けば先生がソファから立ち上がる。こんもりとした葉っぱの山を目にして先生が瞬いた。

「君は大抵の場合、大量だな」

「……」

 それは、必死で探しているからであって。行くからには空の籠を持って帰ることなどできない。ざっくり言うと、がめついのである。少し恥ずかしくなって「ええと」と口をとがらせると、「見つけるのがい」と好意的な言葉が降ってきた。

(それだ。それです)

 現金な私はその一言で自信を取り戻し、明るく笑う。

「そういえば、チャーリーに似合いそうなお花も摘んできました」

「チャーリー」

「ほら、いただいたウサギさんです」

「……」

 先生は途端に難しい顔になり、とても小さい声で「そうだったな」と発した。

 改めて言うと、チャーリーとは例のウサギのぬいぐるみのことである。いつまでも「小生さんお手製のウサギ」では愛着が湧かないと思い、先日命名した。

 かのウサギさんのぬいぐるみ、もといチャーリーは今やただのぬいぐるみであり、もうしゃべることはない。私の部屋のタンスの上にいい子で座っている。

 森の中にれいなスミレを見つけたので、持たせたら可愛かわいかろうと思って採ってきた。そう言って先生にスミレを見せる。

「あ、ドライフラワーにした方がいいでしょうか……」

「……君の好きなように」

 先生はあまりチャーリーに興味がない。小生さんお手製というのがどうもいけないらしい。名前を付けたと報告したときには「名前まで付けたの」という顔をしていた。

 ちなみに完全にただのぬいぐるみにされてしまった件について、チャーリーでもって連絡が取れなくなったことに気が付いた小生さんから先日抗議の手紙が一通届いたけれど、先生はやはり不愉快そうに破り捨てていた。あまりの躊躇いのなさに、流石さすがにちょっぴり小生さんが気の毒になったのは秘密だ。

 先生はラムソンを鼻先に近付けて匂いを嗅ぐ。

「春らしさがある」

「そうですね」

 またひとつ、一緒に季節を迎えられた。心地のよい、柔らかな気持ちになった。


 穏やかな昼下がり。フレッシュチーズにハチミツやジャムを付けるといいことがあった。牛乳とレモンからチーズが作れると聞き、早速試したみたものの。味見段階でこれはとんでもないものを作ってしまったと思った。

「どうしよう……」

 深刻につぶやき、腕を組む。想像以上のしさに困惑した。私はソファに座る先生を「先生! 先生!」と手招きして呼びつけ、お皿のチーズを差し出した。

 とろりとしたハチミツの甘さ、酸味の利いたブラックベリーのジャム。そして口の中で溶けるようなチーズ。先生の反応はに。

「……」

(ですよねえ)

 表情を見れば分かる。これはかなり得点が高い。

土産みやげにしても大丈夫でしょうか」

 先生は頷いた。

 そう、これは本日招待されているお茶会へ持っていくもの。失敗したら別のものにするつもりだったけれど、上々の出来になった。持っていくのが惜しいくらいに。

 誘ってくれたのはバーレイさん。冬の間エレーナさんが頑張って彼を励まし続けた甲斐かいあって、暖かくなった頃、バーレイさんはやっと家から出られるようになった。

 そんな彼らは近頃、私やジュノさん、コルテスさん以外の街の人もお茶会に呼び始めた。バーレイさんの作るスイーツは瞬く間に評判になり、お金を出すから作ってほしいという人まで出てきたそう。

 彼らが街にみ始めて私はとてもうれしかったけれど、スイーツ発注の件については少々思うところがある。最初の発注者だったリリアさんが「頼めなくなっちゃった」と落ち込んでいたのだ。先日街で会ったときにしょんぼりと話していた。

 バーレイさんは口では「気にしないから頼んでくれていい」と言っているようだが、街でリリアさんと会うとたまに涙目になるらしいので、リリアさんの方が気にして「とても頼めない」とのこと。時間を置いてみる、と残念そうに笑う彼女は、少し寂しそうだった。

 さて今回、私は久し振りのご招待なので、「行きたい」と先生にはっきり意思表示をした。先生からは「どうぞ」と落ち着いた返事。決して自分も行くとは言わなかった。

 その代わり、「私は君と日々たしなんでいるからな」と勝ち誇った様子だったので、私も気兼ねなく出かけられる。あの瞬間を思い出す度に笑ってしまうのがこの二、三日の小さな悩みだ。


「こんにちはー」

「ん」

 約束の時間になってお宅を訪ねるとムスッとしているバーレイさんが出てきた。ムスッとしているのは彼の挨拶である。リリアさんには涙目でも、私にはこのような態度が取れるくらいには回復したと見た。

「ルシルさん、いらっしゃい」

「こんにちは」

 エレーナさんにひそひそと「バーレイさん元気になりましたか」と聞けば、苦笑いが返ってきた。

「毎日励ますのが大変でした。ずっと前向きなことを言い続けるのは私の性には合わないわね」

「はは……」

「あの子も失礼なことに、『ばあちゃんがそんなこと言うなんて』って何度も言うのよ」

 バーレイさんからすれば、エレーナさんは今まで人付き合いを否定してきた側の人。言うことがガラリと変われば驚くだろう。

「私も必死なのよ。あの子がコートデューで人々と生きていくことを望んだときから、今までの生き方を変えなくてはならなくなって。若くないから慣れるのに時間がかかります」

 笑いながらそう言うが、必死に見えないのがすごいところだ。

「何二人でこそこそやってんの」

 お茶のセットを持つバーレイさんににらまれる。私は「何でもありませんよ」と誤魔化しながら席に着いた。バーレイさんのプディングに対抗し、私も手土産をテーブルに並べた。

「げ。何これ。うま」

「バーレイ。もっときちんと話しなさい」

 エレーナさんの苦言はどこ吹く風。バーレイさんは私の持ってきたチーズや添え物をまた口に含むと「何だこれ」と悔しそうにうなった。エレーナさんはあきがおで小さく息を吐く。

「全部ルシルが作ったの?」

「はい」

「チッ」とかすかな舌打ちが聞こえた。エレーナさんが強めに「バーレイ」と呼ぶ。負けん気の強さは変わらない。私は二人の様子を眺めながらふと、「そういえば」と話を切り出した。

「夜に光るお花ってご存じです?」

「ええ、知っているわ」

「ああ、アレ」

 試しに質問してみたら二人からは「当然知っている」という反応。流石、各地を回っていただけのことはある。

「それが? どうなさったの?」

 私は照れを隠すために膝に視線を落とした。実は。

「あのその、今度見に連れていっていただくので……お二人はご存じかなあと」

「あら!」とエレーナさんが声を弾ませる。

「あの辺は天然の宝石の採れる山が近くにありますからね」

(違う)

 目的が違う。発想が完全にトレジャーハンターだ。私は頭を横に振り、「いいえ」と伝える。するとエレーナさんだけでなく、バーレイさんもキョトンとした。バーレイさんも同じことを連想していたらしい。

「お花そのものを見に行くのです」

「嫌だわ、私ったら。ぐ頭が宝探しに行ってしまって。あなたもフィリスさんもそういう方ではないのに」

 私や先生でなくても「宝探しですか?」とはなりにくい。言及しようかどうか迷ったが、今は控えておいた。

「でも、そう。いいわね。お二人で旅行ってことね」

「……はい」

 こそばゆくて頬をく。そう、私は先生と近々旅行に行くのだ。先生の提出資料の中にあった夜に光る花。せっかくどこかに行こうと言ってもらったので、それが見てみたいとお願いし、花咲く季節を待っていた。

「いついらっしゃるの?」

「来週です」

「そう。確かに見頃ね。よく知っていらっしゃるわ」

「えへへ」とにやにやしていると、横からバーレイさんが深刻そうに「大丈夫か」と訊いてくる。

「へ」

 何が、と言う前に彼から発せられたのは。

「あそこ、野宿だぞ。しかも夜はすげー冷える」

「……あら」

 それは初耳だった。私の表情からスッと笑みが消える。

「フィリスさんのことですから大丈夫でしょうよ」

 エレーナさんがフォローを入れてくれたが、先生からは少しもそんなこと聞いていない。私は今まで、かなり気楽に構えていた。「花が光るなんて、凄く素敵、見てみたい」と、そんな感じだったのである。

 過酷な現場なのかどうか、確認を取りたい気持ちが収まらない。家に帰った私は、すかさず先生に話の詳細を聞くことにした。


「言うなれば野宿」

「……!」

 あっさりと返ってきた「野宿」の一言に目をく。言うなればって何だろう。私は一瞬ひるんでしまった。

うわさではとても寒いとか……?」

「空気が澄んでよく見える」

(メリットだった)

 先生は紅茶を飲みながら、そしてチーズの残りにフルーツの砂糖漬けを突っ込みながら淡々と言った。私の居ぬ間に新たな食べ方を編み出している。

 大丈夫だろうかと震える私を見て、先生は「何故なぜ不安なんだ」とばかりに首を傾けた。

「さして案じることはない。言う必要もなかった」

(出た)

 先生が「大丈夫」と判断したことはあまり外部には公開されない。大丈夫だとしても情報の共有はときには必要なのだ。私は神妙に「持っていくものは」と尋ねた。

「寝袋。毛布。鍋。皿」

 小旅行ではなさそうな匂いがしてきた。どちらかと言うと冒険の気配すらする。そもそも旅行だってろくにしたことがないのに。いきなりそんなレベルの高いところへ行くのが心配でならない。いくら実家が遠く、大変な田舎いなかでも、そこに帰省するのとはちょっと違う。「お花を見に行く」とルンルンしていた私が膝を突いた。

「ルシル」

「はい」

 呼ばれていつの間にかうつむいていた顔をもたげる。

「君に不便をかけるつもりは毛頭ない。君はかばんに菓子でも詰め込んでいればいい」

…………ぐ」

 旅行のためにお菓子をたくさん用意していることがバレている。しかも、不便をかけないつもり、だなんて。それは私がいつも思っていることだ。

「で、でも私寝袋なんて持って」

「ある」

(ある)

「寝袋も、毛布も、外で使用する鍋も食器も既に整えてある」

 あんぐりする私をいちべつすると、先生は「だから大丈夫」とほおづえを突いた。

「そんなこともできず、どうして君を連れていく約束ができよう」

 呆れさえもうかがえる表情を浮かべる先生。そうだ、先生は実は何でもできるのだ。

(失礼しました……)

 狼狽うろたえてしまった自分が恥ずかしくなる。ここまで言い切られては、もう何も言うことはない。

「……私は、楽しみにしていればよろしいのですね」

「そう」

 いつもの肯定のお返事。安心して笑うしかない。私は頬を緩め、先生の食べているものに手を伸ばした。


 チュンチュンと早起きの鳥たちが挨拶を交わす。爽やかで涼しい空気が辺りを包んでいる。

 いよいよ出発の朝。朝といっても空はまだ薄暗い。私と先生はそんな時間に家を出ようとしていた。ずしっと重い鞄を持って玄関に集合する。想定通り、荷物は結構な量になった。

「戸締まりはしました。コルテスさんにも出かけると伝えてあります。寝袋はこっち。お菓子はこっち」

 出発前の指差し確認。びし、びし、と荷物を指していると、不意に先生が「今日は指に着けたのか」と発した。

…………

 私はピタリと動きを止め、小さく「はい」と答えた。

 先生の視線は私の左手の薬指に注がれていた。実はいつも指に着けていないため、少々気恥ずかしい。勿論普段から着けたいのは山々なのだが、水仕事、土仕事をするときに傷が付く、あるいは紛失することを恐れ、平時は鎖に通して首に掛けている。

 しかし今日はお出かけなのでそんな必要はない。指輪は指輪たるべく、指へと収まった。なるべく自然を装い、着けていることを意識しないようにしていたのに、もう気が付かれてしまった。

「……たまに指にあるとドキドキします」

「じき慣れる」

 先生は慣れたのだろうか。私の差し上げたその、おそろいの指輪に。何でもなく言われた一言が、やけに胸をくすぐった。

「同じものが増えていく」

「はい」

 確認するように先生が言う。私は自信満々に頷いた。


 ゴトンゴトンと汽車が揺れる。黒い煙が空に筋を作っている。車両には私たちだけ。

 コートデューから出発して汽車内で一泊した。先生と私の実家に帰ったときに一度経験している分、勝手が分かっており、車中泊は大変快適に過ごすことができた。食堂車でったごはんに郷土料理が出てきて、テンションが上がったのは言うまでもない。はしゃぐ私を先生が静かに眺めていた。

 乗り換えはこれで二回目。先程乗り継いだ駅は閑散としていた。大きな荷物を搬入していると、駅員さんが駆けてきて手伝ってくれた。のどかなところだった。今汽車が通っているのは地名さえも知らない土地。

 ここにはもう、私が知っているのは先生しか居ない。

 先生は窓枠に肘をかけ、頬杖を突いている。何を思うのか、流れていく外の景色をジッと見つめる。少し開いた窓から風が入り込み、先生の髪がそよぐ。

 温かい風に乗って届くのは草や花の香り。汽車は平らな草原を走っており、一面は新緑に覆われていた。遠くに黄色い花畑が点々と見える。差し込む光は柔らかく、ぼうっと車内の窓辺が光っている。

 光を受けてちらちらと輝くのは先生の薬指。時折光の加減で、白く溶けてしまう金の輪。私は心を奪われたように、その一点を見つめていた。

 私の視線に気が付いたのか、先生の目がこちらを向く。私は不思議と急に嬉しくなって、口を両手で覆い「いいえ」と笑った。先生はフッと鼻先で笑みを零すと、頬杖を突いたまま流し目をこちらにした。


「着いた」

「おお……」

 原っぱにぽつんとある駅で、私たちは汽車を降りた。ここに駅があることすら奇跡、と思うような場所だった。もはや駅員も居なかった。

(よいしょ、よいしょ)

 私たちはひたすら草原を歩いた。成程これはどう見ても野宿だと納得せざるを得ない大自然の中。道という道もないようなところを、先生について突き進んだ。辺りを低い山や丘が囲む、開けたところに到着すると、先生は「ここだ」と一言発した。方角と場所を知らなければ、絶対に辿たどけなかっただろう。体力に自信のある私でも疲れた。景色が綺麗だから頑張れた。

 日は少し陰ったところで、草原の鮮やかな緑がキラキラと輝いている。さわさわと風にくすぐられる草の音が爽やかだ。私はしゃがみ、花はないかと探した。

「夜にならねば花弁は開かない」と後ろから声がかかる。振り返れば、先生が早速野営の準備をしていた。せめて花のつぼみでもと思ったけれど、私もお手伝いをしなくては。

「そちらを持って」

「はい」

「火を起こす」

「はい」

 シートを敷き、寝袋を用意し。火の準備や食事の支度は、見る見る内に整った。空の下で小さな鍋を火にかけ、スープを作った。パンをナイフで切り分け、上にチーズやサラミを載せて食べた。先生は慣れたもので、食後の紅茶までしっかり用意されていた。私に何ら不都合はない。与えられるものを受け取っていたら食事が終わっていた。

 私の生まれ育ったところも大変な田舎だが、こういう経験はほとんどしたことがない。寝起きはいつも屋根のあるところだった。

 今居るところには屋根は勿論、四方に壁もない。時折風が吹けば炎が揺れ、辺りの物が飛ばないかを気にした。

 背中に何もない、というのが少しこころもとない。解放的な自然の中に居ると、その大きさ、広さが畏れ多く感じられる。空を見上げても、視界を阻むものはなく、どこまでも続いている。パチパチとたきの音が聞こえる。

 夕暮れはもう直ぐ終わりで、だいだいから紫へと周りの様相は変わっていった。火を眺めていると、吸い込まれそうな感覚に襲われる。

「ルシル」

 先生が私を呼ぶ。「はい」と顔を上げれば、先生の向こうに光る群れを見た。私は思わず立ち上がる。待っていた、そのときが来たのだ。

「わあ……」

 不思議で幻想的な光景だった。柔らかで白い光が、ぼんやりと地面に続いている。花は既に光り始めていた。

「夜が来る。よりよく見えよう」

 肩に厚手のブランケットが掛けられた。先生は先を歩き、光の中に迎えられていく。ついていってよいものか、あまりに神秘的で躊躇ためらわれてしまう。そんな私に先生が手を差し伸べた。

「気を取られては転ぶ」

「……」

 先生に手を引かれながら、私も光の中へと入っていく。違う世界に来てしまったのではないかと錯覚しそうになる。

 空は次第に暗くなり、星が瞬き始める。空の輝きと、地上の輝き。地面から続く闇、山の先は空と混ざり、境はなくなってしまう。

 夜空を、宇宙を歩いているような。

(ぐるぐるする)

 眩暈めまいがしそうだった。手が触れている温度が私をつなめている。ぎゅう、とその手に力を込めると前を向く先生が振り返る。

 言葉にできず、ただ首を横に振った。群生する花の真ん中で、先生は立ち止まる。

「今しか咲かない。気に入っただろうか」

 今度は縦に何度も首をブンブン振った。先生は「そうか」と低い声で応えた。

「好きなだけ眺めるといい。朝はしばらく来ないのだから」

 私は小さく頷き、先生に頭を寄せ、花を見つめた。「寒くはないか」と案じる声が胸をたたく。山間は空気が冷たい。先生こそ寒くはないかと心配になる。私は地面に座り、先生に隣へ来るよう合図した。バサッと、ブランケットを先生にもかける。すっぽり包むには少々足りないが、身を寄せ合えば暖かい。

「……」

 花が、星が、ささやくから。私たちの間に言葉はない。

 夜明けはまだ先。いつまででも起きていられそうだと思った。

 空が白み始めた。花はもう光らない。星も姿をくらました。時折ささやかな風が草原の表面をで、朝露を乗せた葉がしずくを落とすまいと耐えるように揺れる。

「すう……」

 ルシルが寝袋で丸くなる。流石に耐えがたい程空気が冷たくなり、昨夜はやむなく寝袋に収まった。毛布やブランケット、湯をめた保温の利く容器で以て寒さをしのいだ。フィリスはうつ伏せから上体だけを起こし、隣のルシルを眺める。至って穏やかで、平和そのもの。憂いも陰りもない。ただ見ている、という行為に没頭した。

 君はどこに居ても君だが、一日として同じ君は居ない。

 そばに居るルシルに覚えるのはひたすら心地のよい安寧である。しかしその一方で、せわしなく彼女にどうもくする自身が居ることも自覚している。面白いこともあるものだ。

 光る花を前にルシルは鮮やかな心の響きを奏で、瞳には光彩が次々と現れた。その姿が強烈にフィリスの視線を奪っていたことは、ルシルは露程も知らない。フィリスは自嘲した。フィリスがルシルに彼女のまだ見ぬ世界を見せたいと思うのは、自分がまだ見ぬルシルを見たいからなのかもしれない。

 彼女だけではない。

 ルシルを通して見た世界はフィリスにとって、まるで新たな場所に光が当たったかのように見えた。かつて目にしたことのある光景でも、何故か新鮮に映った。彩られていく。抵抗できぬ程の強い力で。

 知らぬ街でも、海でも、君の望むところへ。君は、世界は。とどまることなく美しくなるだろう。

「くふん」

 ルシルが変なくしゃみをした。初めて聞く妙なものだった。

「ふっ」

 フィリスはルシルの体に自身のブランケットをかけた。すると、っすらと目を開けた彼女と目が合う。ルシルは数度まぶしそうにまばたきをし、微睡まどろみをたたえたまま柔らかく微笑ほほえんだ。

「おはようございます」

「……おはよう」

 昨夜の光景がまだ瞳に残っているかのような、ほのかな光を見た。

「えっ。他にも光る花があるんですか」

 爽やかな風が雲を運ぶ朝。流石に空気はまだ冷たく、寝袋からた後、先生がれてくれた熱々のコーヒーを飲みながら私は驚きの声を上げた。筆舌に尽くしがたい昨夜の情景を思い出してしみじみとしていたら、先生が「まだある」と言い出したのである。

「北と東に。光るものを好むのであればキノコの方が多い」

「キノコ」

 意外と世の中には光るものが多いらしい。私は「ううん」と唸った。

「虫にもいる。深海にもそのような魚が住んでいる」

 どんどん対象が広がってきた。この調子だとまだまだ出てきそうである。とてもありがたいけれど、見るものは全て光らなくても構わない。今回だって、先生のまとめた資料にあったからこそ気になったのだ。

(……だって、あまりそういうこと、触れる機会がなかったから)

 先生の好きな景色。興味のあるもの。先生が今まで見てきたこと。直に知りたい。あなたがそれらをどう感じ、何を思うのか。

 光るものの候補を探す先生に、「あの」と声をかけた。

「先生のお好きなところに行きたいです」

「……?」

 何故そんなに不思議そうなのだろう。表情こそ、さして変化はないが、纏う雰囲気で「どうして」と聞こえる。それが分からない私は、まだ先生を深く理解できていないということなのだろう。或いは、「どうして」と思う先生が、私を。

「ふふ」

 段々とおかしくなってきて、私は笑ってしまった。先生はますますげんな態度を深めた。

「知りたいのです。先生のことを」

…………

(……え? 何故に?)

 珍しく先生が固まってしまった。あまりおかしなことを言っているつもりはない。同じ台詞せりふを私も言われたことがある。言葉が足りなかっただろうか。

「ええと。つまりですね。今回も私がこちらに来たかったのは」

「……、いい」

「え」

「理解した。結構」

「いや……」

 いや。突然ここで目をらされても。私はコーヒーの入っているブリキ製のカップを地面に置いた。手を草地に突いて先生の方へ身を乗り出す。が、先生は違う方を向いたまま。かたくなに私と目を合わせないという強い意志を感じた。

(ど──どうしてここで恥ずかしがっているのですか)

 せっかく追加で語ろうかと思ったのに、すげなく断られてしまったのはまだ良しとしよう。しかし先の会話のどこにここまで感情を殺す要素があっただろうか。

「先生」

…………

(応答すら)

「……」

(えい)

 痺れを切らした私は、意を決して大胆にも、頑なな先生の懐へと飛び込んだ。膝を山にして座り、そこへ肘を置いて口元を隠す先生の腕の下へガバッと入った。

…………

 そのまま左耳を先生の胸部へと寄せる。トク、トクと脈打つ音が聞こえた。

(よし。脈に乱れは……なし!)

 内心「くう」と悔しがる。今なら、少しくらいはドキドキしているかと期待したのだが。正常なリズムである。

 それならば。目は合わせてくれずとも、どんなお顔かしらと抱き着いたまま顔を上げれば、先生の目とバチッと合った。が、直ぐにまた逸らされた。ここまでくれば若干心配になる。

「……妙なことを言ってしまったでしょうか」

 意味が曲がりに曲がって「何て破廉恥な」などと思われていても困る。

「いや」

 答えは打って響くように返ってきた。先生を見上げたまましばらく待つと、先生はやがて観念したかのように俯き、私を見る。そして。

 ──どさ。そのまま後ろへ倒れた。

「わ」

 先生を捕獲していた私も一緒についていく。柔らかい草が私たちを受け止めた。今度は私が先生を見下ろす番だった。

「先生?」

 もう一度呼ぶ。すると先生はやっと私をぐ見た。

「君を鏡として己を見た」

 先生の指が私の額にかかる髪をける。

「知らんと欲すれば、変わり移ろう。そうして、染め上げられる果てはあるのだろうか」

 紫色の瞳に吸い込まれそうになる。それでいて私の内側へと入り込み、全てを見透かされるかと恐ろしささえ抱かせる、強い色。

 あなたを知って、私が変わって。私を知って、あなたが変わって。その繰り返しに果てはなく、どちらかが片方だけ、ということもきっとない。

(どうぞ)

 私は差し出すように先生に目を近付ける。その視線がいくら鋭くても、幾度交わっても。私も、きっとあなたも。お互いのおもいの底までは、深くて見えやしないのだろう。

 自然の一部となった私たちもろとも、朝日は一帯を照らし、風は辺りを撫でる。ゆっくりと離した唇が外気に触れた。私たちの隙間をかぐわしい草の匂いが通り過ぎる。どちらともなく微笑みが浮かぶ。

 つま先が触れ、鼻先が触れ、胸を合わせても、近付きたい気持ちは止まらない。甘く、苦しい切なさに心を繋がれていればいい。

 それでいいのだ。飽きずあなたを想うのだ。足りることは到底ない。あなたが見せる美しさは止めどなく世界を変えていく。きらきらと、鮮やかに私をきつけながら。