ちらほらと雪が舞い始めたこの頃。バーレイさんの恋が発覚したのは既に先月の話になった。人の恋路を邪魔すると何かに蹴られると聞いたことがある。馬だったか牛だったか子猫だったか自信がないけれど、とにかく恋路は本人が歩くべきといういにしえのアドバイス。ずっと気にはなっているが、バーレイさんの恋の進捗状況を知るのは自然に聞こえてくるだけにとどめていた。

 たまに真っ赤になってリリアさんとしゃべっているバーレイさんを街で見かけては、「頑張ってるな」と見守った。私と先生はどうだった、と喋らされた挙句に鳥たちに報告されるという目に遭ったのだ。そんなに短期間でフラれては私だってやるせない。

 バーレイさんの人付き合いは始まったばかり。初めて人を好きになって、迷って悩んで落ち込んで舞い上がって。本人にとってもとうの出来事なのではないかと思う。

 先週の金曜日にパン屋さんの前で会ったが、彼の感情の激しさには驚かされた。

「バーレイさん、こんにちは。お買い物ですか」

「……ああ」

「パン屋さん、入らないんですか?」

「……ああ」

 何やら放心しており、様子がおかしかった。目の前でぱちんと手をたたけば、彼はようやくハッとして私を見た。「ああルシルか」と言われ、あきれて頭を傾けた。不注意にも程がある。

「さっきから話しかけていましたよ」

「わ、悪い。ちょっと、考えごとしてて……」

「リリアさん?」

 バーレイさんは一気に赤くなった。あまりの分かりやすさにこちらまで赤くなってしまった。バーレイさんが聞いてほしそうにしていたので「どうしたのですか」と尋ねてみた。

「チーズケーキが、かったんだって。あれ、すすす好きだって」

「バーレイさん、リリアさんが好きなのはチーズケーキですよ」

 彼自身が好きと言われたのかと勘違いするくらい、彼は照れていた。私の水を差すような一言に、「分かってるよ!」とみついてきたのは良いが。本当に分かっているのか疑わしい。

 何故なぜそんなに好きなのか。いてみれば彼いわく、答えは「ひとれ」だそうだ。出会ったあの時に惚れていたなんて、全然気が付かなかった。何でも、本人もよく分からないが、心を強烈に打たれたらしい。もはやどこがとかではなく、全部好きだそうだ。

(うーん、分かる。分かるんだけど……)

 彼を見ていてひとつとても心配なことがある。それは、リリアさんに気に入られることが目的になってしまっていないか、ということ。恋を実らせるにはそこが肝心ではあるものの。想いが通じ合っても、それが終着点ではない。むしろ、始まりと言えよう。

(バーレイさん、燃え尽きないだろうか……)

 燃え尽きては本末転倒。そこからどういう関係を作り上げていくかが、難しく味わい深いところなのだ。

(と、偉そうに思ってみたけど、私だって、ずっと模索しているもの。難しいことだよね……)

 穏やかな生活の中でも、ときには意思疎通に失敗することもあるし、毎日一緒に居るのにまだ分からないと思うことも多い。けれど、そうした関わりを自分の中で価値のあるものにしてゆくのが大事なのだと信じている。それが私にとっての、一緒に生きていくということ。偉そうに人に語るには至らない。私だって傍から見れば危なっかしいのかもしれない。それでも、「正解」にするのは自分達しかいないのだ。

 そう。だから──。

「ご免くださーい、お届けものでーす」

「はぁーい。ありがとうござ……ん?」

 たとえ、『フィリス様』と書かれたハートマークだらけの手紙が届いたとしても、放り出してはいけないのだ。

…………?

 たっぷり数十秒、私はぼうぜんとした。テーブルに置いた手紙を前に、しきりに首をひねる。はっきり言って、ここのところで一番当惑している。

「いやでも、ちょっ。ええ……?」

 手紙が届いたのはついさっき。いつもの郵便屋さんがいつものように届けてくれた。先生宛というので、毎度おなじみのスパイスの包みが届いたのかと思いきや。

 ピンクの封筒に、手書きのハートマークがこれでもかと書き殴られている。そこからいだせるのはもはや好意ではない。怨念めいた印象さえ受け、恐怖心をあおられる。『フィリス様』の文字がやけに達筆なのも気になる。

 何故先生宛にこんなものが。悪戯だとしたら、よく先生相手に、とある意味感心してしまう。様相からしてラブレターの可能性も否めないが、もしそうなら書いた人には悪いが想いのぶつけ方に検討の余地がある。

「見ようによっては可愛かわいくも……いややっぱりちょっと怖い……!」

 とにかく早く見せなくてはという気持ちがとても強く働き、私は手紙を摘まんで二階へ上がり、先生の部屋のドアをノックした。

「何か」

 現れた先生に封筒を見せる。先生は思い切り眉間を寄せた。

「これは」

「先程郵便で届きました」

 先生は「悪質な」とつぶやきながら手紙を受け取った。送り主の名前が書いていなかったけれど、誰からのものか分かっているのだろうか。

「人の気分を害することに人生を懸けている者からだ」

 私は「ええ」とった。先生にそんな知り合いがいることが驚きだ。先生はペーパーナイフを手にすると、躊躇ためらいなく封を切った。すると、とんでもなく不思議なことが起こった。

『フィリス! 久し振りだなあ! 百年振りか? はははなんちゃってそんな』

 何と、どこかから声が響き渡り……。

 ボッ!

!?

 急に手紙が発火した。同時に出所の分からない謎の声もんだ。もろもろについて何が起こったのか頭が追いつかず、私は目を白黒させた。腰を抜かさなかっただけ偉いと思う。

(え!? 何!? 何か聞こえた! とてもひょうきんな感じの声が!)

 先生に説明を求めようとその顔を見ると──。

…………

 真顔だった。感情ひとつない顔をして、手の中の炎と手紙を見つめている。手紙の送り主の期待通り、それはそれは気分を害しているようだった。燃やして良かったのですか、と訊くのもはばかられる程しの嫌悪感。

「聞くに堪えなかった。つい」

「左様ですか……」

「きっとまた来る。妙な物が届いたら私へ」

「ご用があるのでしょうか」

「予想はついている」

 先生の顔にとても面倒くさい、と書いてある。知り合いからの手紙なのに、うれしくないらしい。それにしても。

(先生のこと、「フィリス」って言うくらいだもの。親しい人なのではないのかな)

 声を届ける手紙なんて不思議なもの、初めて見た。お相手はもちろん魔法使い。一体どんな人なのだろう。本格的に降り始めた雪を見ながら、想像を膨らませた。


「来た」

 先の手紙がアレだったので、覚悟はしていた。次もきっと受け取るのが厳しめな物だろうと。今日も届けてくれたのは郵便屋さん。手渡してくれるときにちょっと苦笑いしていたのを見た。それもそのはず。

「先生ー! 届きました! 何か、ええと、何かすごく可愛いデコレーションの小包です」

 とても濃い赤の包み。ピンクと白のリボンがかけられている。そして宛名にはやはり渋い筆跡の「フィリス様」。どういう人がこれを送ってきているのか、好奇心が刺激されまくりである。私は急いで階段を駆け上がり、既にドアを開けて待っていた先生にそれをパスした。

 先生は物凄く嫌そうな顔で、砂糖菓子で作ったような可愛らしいリボンをほどいた。「悪質な」とまた聞こえる。開封して出てきたのは、手紙ではなくぬいぐるみだった。

「可愛い……」

 それは愛くるしいウサギのぬいぐるみ。ふわふわした白い毛のウサギさん。少し大きめな子で、これを子供が持ったら抱えているのか抱えられているのか、というサイズ。赤い目に青いチョッキがとてもお洒落しゃれである。

「中をあらためる」

!?

 ウサギの可愛さについて何の感動もない先生は手に大きなはさみを持っていた。まさかそれでウサギさんをどうしようというのだろう。いくら本物のウサギでないにしろ、何だか心が痛む。可哀かわいそうになってウサギを見ると、赤い目がキラリと光る。「助けて」と訴えられているような気がした。

…………れいに縫ってあげますからね」

『違うううう!』

 ウサギは両耳を先生にまとめてつかまれたまま叫んだ。ウサギが叫んだ、というのは語弊があるが、とにかくぬいぐるみから声が聞こえてきた。私は度肝を抜かれ、今日こそドッと尻もちをついた。

『何でだ! 検めるな! 中身を! 綿しかないわ!』

 可愛らしい見た目に反して、先日と同じ、しゃがれた高めの声だった。驚くことばかりで心臓が不安なくらいドキドキドキドキしている。健康上良くない気がする。

「貴様が化けていては事だろう」

なおさら切るな!』

 あっに取られて先生とウサギのぬいぐるみのやり取りを床から眺める。「人の気分を害することに人生を懸けている」送り主の魔法使いは、本日はどうやらご立腹のようだ。

『小生の手縫いだぞ! 丁重に扱え!』

(手縫いなんだ)

…………

 私が妙なところに感心する一方、先生はうるさそうに顔をしかめた。ウサギを検めても意味がないと知り、鋏を机に置く。

「用は」

『はーん! 嫌だね! それは次の便を待て!』

 先生が小声で「こいつ……」と呟いた。

『もう送っちゃったよー! じゃあなー!』

…………

 空気が冷たいのは外気のせいではない。先生は無言でウサギを持ち上げていた腕を下ろした。ぶらん、と耳だけを持たれたウサギさんが揺れる。

「どういった方なのですか……何だかとっても面倒く、失礼しました、変わった方ですね」

「落ち着くという概念がないのだろう」

「古いお知り合いですか」

 先生は何も答えない。あまり訊いてはいけなかっただろうか。私の狼狽うろたえた気配を察したのか、先生の目から鋭さが消える。

「……世界樹の研究者の一人だ。用件は研究発表の会合についてだろう」

「ええと、以前お話をお伺いした……協会の研究機関の方、ですか?」

「左様」

 先生はひどく気だるげな様子で首を傾けた。

「十年に一度会合があり、呼ばれる。行かないが」

(行かないんだ)

 しかし行かない理由は予想が付く。向こうが協会だから。協会にくみさない先生は、たとえ同じ研究者でも距離を置いている。

「だから資料だけ送れと言われる」

「それは送られるのですか」

「送る。……他の研究者の報告の資料と引き換えにされる」

 先生は「やむを得ない」と言ってため息をいた。

「用だけ伝えればいいものを。いつも余計なやり取りをさせられる」

(それは、先生に構ってほしいからなのでは)

 協会ができる前は、一緒に研究をしていたという話だったはず。離れてしまったけれど、あちらからすれば今でも大事な仲間なのではないか。きっかけがなくては近付けないだけなのでは。

 そう思えば、「小生」さんがわざわざ手縫いのウサギさんを送ったことが何だかいじらしい。魔法でなく、手縫いなのだ。

 私は両耳を握られているウサギさんを指して、先生に尋ねた。

「その子どうされますか?」

「不気味だから燃や」

「ください!」

 危ないところだった。尋ねなければウサギさんが灰になるところだった。先生の目には少しも愛らしく映っていないらしい。

 ぬいぐるみを無心した私を、先生がいぶかしむようにジロリと見る。

 先生はスッとぬいぐるみを持つ手を私から遠ざけるように掲げた。くれようという意志とは反対のものを感じる。

「魔法の媒介となったものだ。君が欲しいと言うのなら、除法してから。呪いきであれば触れさせない」

 小生さん、先生からの信用が薄い。

(凄く欲しい、ということではないのだけど。燃やすのが忍びないだけで……)

 先生が早速「呪いはなし」と確認をするそばでは、如何いかんとも言い難かった。

「しばし預かる。いいな」

「……はい」

 こうしてしばらくの間、先生の部屋にウサギのぬいぐるみが置かれることになった。局所的に可愛らしくなった部屋を見て、ついホンワカした気持ちになってしまった。


 後日、小生さんの言った通り、先の二つに続いてまた家に届け物があった。

 段々とサイズアップしていく趣向だろうか。今度は一メートル四方の大きな箱である。郵便屋さんがえんやこらと重そうに運んできた。何ならご親切に「大変ですので」とリビングまで搬入してくれた。

「はあ、はあ。では、確かにお届けしました」

「スミマセン……」

 息を弾ませる郵便屋さんに申し訳なくなって、私のせいでもないのに謝ってしまった。「これで最後だと思います」と言うと、郵便屋さんはホッとした顔を浮かべて去ってゆく。

「魔法じゃなくて、郵便で送られるんですね」と何となくずっと疑問だったことを口にすると、先生から「それは彼への嫌がらせだ」と返ってきた。郵便屋さんに何の恨みがあるというのだ。

「からかっているだけだ」

 遊びで彼を困らせるとはけしからない。少し親しみを抱いていた小生さんだが、その一言で大きく心の距離を取る。

 先生はいい加減うんざりした面持ちで第三の箱を開けた。あんなに重たそうに郵便屋さんが運んでくれたのだ。一体今回は何が入っているのだろう。怖いもの見たさが私の背中を押す。果たして中にあったものは。

「……空ですね」

「いや、何かある」

 若干いらいらし始めた先生が箱の奥に手を伸ばす。それは一枚のただのメモ用紙だった。

『ご存じでしたか? 十年前の会合をスキップしていたことを。今回こそやります。それなりの研究成果が出ていることを期待しています。欠席の者は資料を送ること。期限は来月の中旬とする。尚、提出のない場合は他の一切の資料の共有はされ得ぬことご了承されたし。かしこ』

 書かれていたのは以上である。こんなに大掛かりなことをしてきた割にはあっさりとした内容だった。いや、全てはこの「なあんだ」という気持ちにさせるための布石だったのかもしれない。

…………最初のお手紙で済んでいたのでは」

「あれには無意味なことしか書かれていなかった。無駄なところに力を注ぐ」

 先生は大き目にため息を吐き、「さて」とメモをダイニングテーブルに置いた。

「存外締め切りが近い」

「そうですね……」

 今日から数えてあとひと月半しかない。まさか通算二十年分の研究成果の纏めをこれからするのでは、と不穏な予感がした。「まさかね」と思いながら、柔らかく先生に尋ねてみる。しかし。

「成果を披露するために研究しているのではない」

 私は目を見開いた。つまり、そういうことだ。これから纏めると言っているのだ。

「それは皆同じこと」

 しかも全員。関係者ではない私が何故か心配になった。皆さん間に合うのか。

「いつもこんなものだ。呆れたことだろう」

「いえ、そういうつもりは」

「故にしばらく籠もる」

 先生は非常に決まりが悪そうに言った。「割といつも籠もっていますが」と頭に浮かんだけれど、「承知しました」と言うだけに留めておいた。

 そして、先生のその宣言が本当にその通りだと知るのは、ぐのことだった。


 次の日の朝。先生が定時に降りてきた。朝食をり、飲み物を持って二階へ。私は洗濯をし、掃除を進めた。

 昼。先生が定時に降りてきた。昼食を摂り、飲み物を持って二階へ。私はお風呂の用意と夕食の仕込みに精を出した。

 夜。先生が定時に降りてきた。夕食を摂り、お風呂へ。上がったら飲み物を持って二階へ消えた。

 本日先生を見たのはこれだけ。ソファに息抜きさえしに来なかった。

(これは……久々の感じ)

 この生活には覚えがある。家政婦として就業していた頃の、初期も初期の先生だ。一体どういう人なのか、上で何をしているのか、まだ探り探りだった時代。

 必要最低限しか一階にやってこない先生に戻ってしまった。しかしあの頃と事情は異なる。今の私は先生が上で何をしているのか何となく知っている。

 本日一日で悟った。これは大変なことなのだ、と。寸暇を惜しんで取り組んでいるのだということを。

(サポートしなくては!)

 私は一人残された夜のリビングで拳を握った。

 今私がすべきことは手厚いフォロー。意識を研究のまとめに集中させている先生のお邪魔にならないよう、そーっと過ごし、先生が不便のないように定期的に物資を届け、栄養のあるものを提供するのだ。

「いつまで起きてらっしゃるのだろう」

 二階へ続く階段をる。夜食は要るだろうか。飲み物は足りているだろうか。私ができることは、ないだろうか。せめて、私がお風呂から上がったら追加の紅茶を持っていこう。

 そしてさらに次の日。先生が昼食を終えて二時間後。つまり十四時半のことであるが、私はせっせと間食用の食べ物をこしらえていた。そろそろ小腹が空いてくるのではないか、と予想した。

 スパイスを投入したケーキ。卵白だけで作るふわふわもっちりとした食感。夕食までのつなぎに丁度良いだろう。一緒に出す飲み物はココア。頭を使うときは甘いものがいいと兄が言っていた。

(本当は一緒に食べたいけど……)

 涙をみ、トレイにカップとケーキを載せて慎重に階段を上がる。聞こえるか聞こえないかくらいの強さでドアをノックした。少しして、眼鏡めがねを装着した先生がドアを開ける。

「差し入れです」

「……」

 先生はトレイと私を見比べ、「ありがたい」と呟く。難しい感じにしわの寄っていた先生の額がフッと緩んだ。

(お疲れだわ!)

 眼鏡の奥の瞳が細められる。より一層、私がお支えしなくてはならないという気持ちに駆り立てられた。

 それから数回の差し入れを経て、傾向と対策を練った。差し入れは、できたてを持って部屋に伺うよりも最初から二階に上がるときにお持たせした方がよさそうだということ。特に今はずっと集中しているようなので、切れ目のタイミングが分からない。思考の邪魔をしたくなく、最初から持っていってもらうことにした。

「どうぞ」と午前中に焼いたクッキーを小皿に載せて飲み物と共に先生に手渡せば、意図を察したらしく、先生は「助かる」と受け取った。

(よしよし)

 更に。夜は二階に上がる前に夜食のリクエストを受け付けることにしたらどうだろうとひらめいた。何時に何を、と決めていたらノックせずとも部屋の前に置いておけばいい。先生の良いタイミングで夜食を回収すればいいのだ。先生にそのように提案すれば、遠慮したのか躊躇いを見せた。

「要らない日は要らないとおっしゃっていただければ結構ですので」

「……君の負担が増えよう」

「やりたくてやろうとしていることです。できればやらせていただく方が嬉しいです」

 しばし考えた後、遠慮がちに先生がリクエストしたのはスープだった。私は喜んで承った。我ながらナイスアイデアと自画自賛し、約束の時間通り部屋の前に卵とほうれん草のスープを届けた。

 次の日スープカップを持って降りてきた先生から「美味かった」と珍しく言葉で感想をいただいた。嬉しくて跳ねる反面、余程大変なんだな、と苦労がしのばれる。今までこういうときは一人でどうしていたのだろうか、と過去の先生が心配になった。


 それから数日が過ぎ。先生は寸分も狂わぬ時間管理で生活した。挨拶を交わし、尋ねればとてもざっくり進捗を教えてくれる。

(考えてる……)

 頭の中が考えごとでいっぱいなのは明らかで、声をかけるのも様子を見ながらが良い、ということも察した。そもそも「進みましたか」とかつに訊くのは、追い詰めるようでよろしくなかった。

 ──先生が極めて忙しくしている一方。

「暇……」

 私はついに暇を持て余した。先生の本格的な巣ごもり生活の応援態勢も整い、先生も私も慣れてきた。何が要るだろう、アレをした方がいいのではと思うことは一通りやってしまった。先生は上から降りてこないし、新たな要望もない。

 模索している内は良かった。気は紛れていた。しかし、今となっては。

 庭仕事がさして忙しくない季節はどうしても家の中で過ごすことになる。掃除も洗濯も済んでしまえば「さてどうしよう」という体たらく。一人でお茶をしてもイマイチ楽しくなく、編み物をしていても集中力が続かない。二階から先生が降りてこないか気にしてしまうのだ。つまり、先生がいなくてはつまらないのである。

 だらりとダイニングテーブルに伸びる。

(最近、よく一緒に居てくれたからなあ……)

 ソファで寝に来るときも、前より長く一階に居てくれたり。ただただ顔を見に降りてきてくれたり。

「うーん。手持ち無沙汰」

 項垂うなだれながら買い物に街へ降りる。何となく面白くなくて地面をこするようにのたのたと歩いていると、前方に見知った顔を見つけた。

(リリアさん、とバーレイさん)

 二人は少し先にある建物の角のところで話をしていた。リリアさんは相変わらず綺麗で可愛いし、バーレイさんは分かりやすく照れている。リリアさんはどういう気持ちで居るのだろう。

「じゃあね、そろそろ行くわ」

「わ、分かった! ありがとう!」

「ありがとう!」だって。何て素直なんだ。私に向けるあのブスッとした顔は一体何なのか。自分がどんな顔をしているのか彼は知っているだろうか。見ているこちらがこそばゆい。

うましてないで、私も行こう)

 目当ての毛糸屋さんに向かおうと小道に入ろうとしたとき、「あの!」と青年の声がひとのない通りに響いた。私は入りかけた小道をバックし、ひょいと顔を出した。すると、さっきまで二人が話していた角にはまだバーレイさんが立っており、背を向けようとしているリリアさんが驚いた様子で目を瞬かせていた。

あの。いつも綺麗だと、思って」

 完熟のトマトぐらい真っ赤になったバーレイさんが絞り出すように声を発する。彼の緊張がダイレクトに伝わってきて全身がくすぐったさに襲われる。

(ど、どうなる!?

 事の次第は気になるが、好奇心よりもバーレイさんへの心配が勝って、私はその場から動けなくなってしまった。何だか隠れて盗み見をしているようで気がとがめるが、このまま放ってはおけない。

「……? ありがとう?」

 別れの挨拶をしたというのに、唐突に「綺麗だ」と言われたリリアさんは不思議そうにしながら微笑ほほえんだ。明らかにちょっとタイミングがずれている。二人の間に微妙な空気が漂っていた。バーレイさんはどういうつもりなのだろうか。

「初めて会ったときから、そう思ってて……ずっと言いたくて」

(バ、バーレイさんんん)

 甘酸っぱさが尋常じゃない。助けて! と私は何かに訴えた。想いがあふれるというのは、身に覚えがある。きっと彼は今そういう気持ちになってしまったのだ。心を揺さぶる瞬間は、不意に訪れる。

「そうなの? 嬉しいわ」

 言われ慣れているであろうリリアさんは、存外嬉しそうだった。バーレイさん程の純粋さを持った人は珍しいのかもしれない。

(良かった、リリアさんの反応がいい感じで)

「本当に!」

(ん?)

 ひと際大きくバーレイさんがまた声を発する。瞬間、私の胸の中にピンと嫌な予感が走った。この胸騒ぎは一体。

「本気でそう思ってる」

「え、ええと?」

 リリアさんも妙な気配を察したのか、戸惑いを見せた。気が付いていないのはバーレイさんだけ。私が「まさか」と思ったのと、バーレイさんがリリアさんに向かって「好きなんだ!」と叫んだのはほとんど同時だった。

…………

 辺りを静寂が包む。通りには幸い私たちしか居ない。彼らからしたら、二人だけのつもりだろう。沈黙は肌を刺し、一瞬を永遠に感じさせた。バーレイさんは熱に浮かされた様に立ち尽くしたままで、リリアさんはそんなバーレイさんを見つめていた。

 固唾を飲んで見守る中、コツリとリリアさんの靴が石畳を鳴らす。去ろうとしていた彼女はきちんとバーレイさんに向き合った。彼女の第一声はいかなるものか。

「……お付き合いを、ということであれば。ごめんなさい」

「!」

(はっ!)

 リリアさんは静かな声で言ったが、バーレイさんへの衝撃は大きい。ぐらっとよろめきそうになったバーレイさんは足に力を入れて何とかこらえた。

「どうして、と訊きたいかしら」

 リリアさんはバーレイさんの心を読み取り、淡々と続ける。しかしその声色には、残念さが混じっているような気がした。

 無言でかすかにバーレイさんがうなずくのを確認し、リリアさんは「それはね」と答える。

「あなたと私とでは、寿命がとっても違うんでしょう。申し訳ないけれど、お付き合いを考えるなら、そこから目をらすことはできないわ」

「……寿命が違うから、駄目ってこと……?」

 呆然とバーレイさんが言う。初めから望みはなかったのか、と瞳が問いかけていた。リリアさんは「いいえ」とはっきり否定する。

「だから、大きな寿命の差を受け入れる覚悟ができる程、あなたを好きじゃないと無理ってことよ。遊びで付き合うつもりもないし。私たち、今それ程の関係じゃないでしょう」

…………

(リリアさん)

 リリアさんは眉を下げて「ごめんね」と繰り返す。そして一度だけバーレイさんの頭を優しくでて今度こそ背を向けた。バーレイさんは何も言えなかった。

 通りの向こうへと消えていったリリアさんの影。バーレイさんは見えなくなってからもずっと同じ方を眺めている。放心しているようだった。

(……あのままにはしてはおけない)

 私は勇気を出して小道を出ると、足早にバーレイさんに近付いた。何と声をかけてよいやら分からなかったが、とりあえず「バーレイさん」と名を呼んでみた。

「……」

 返事がない。どうしたものかと考えて彼の顔を見ると、ツーと両の目から涙が流れて筋を作った。私はギョッとして目を見張った。

「俺……馬鹿なの?」

 何が起きたのか、何をしてしまったのか。後悔とショックがバーレイさんを呑み込んでいる。生気を失った青年はそれ以上の言葉を紡ぐことなく、ただただ涙を流し続けた。


 私は殆ど引きずるようにして彼の家へと彼を連れていった。家の中に入ると、バーレイさんは崩れ落ちるように膝を突いた。傷は深い。

 私はバーレイさんに「お部屋に行って座りましょう」と提案した。ずるずると壁伝いに進む青年。相当落ち込んでいる。

 続いて家の中にお邪魔すると、エレーナさんが「帰ったの?」と自身の部屋から出てきた。バーレイさんの帰宅を確認しに来た彼女と、バチッと目が合った。彼女にちゃんと会うのはいつ振りだろう。少し緊張を覚えた私とは違い、エレーナさんは「あらルシルさん」と至って普通の態度だった。しかし力なく椅子に腰かける孫を見て「あらまあ」と驚く。

「何があったの?」

「え。ええと」

「例の女の子?」

 エレーナさんがズバリと当て、バーレイさんが無言で頷く。私は「え」と目を点にした。

(リリアさんのこと、エレーナさんに言ってたんだ。す、すごい……)

 エレーナさんは「そう」と低く呟いた。

「……失敗した……」

 重い空気の中、バーレイさんが低く何か言った。私とエレーナさんは顔を見合わせる。優しく「何て?」と訊き返すと、力なくまた何かもにょもにょ聞こえてきた。さっきよりは聞き取りやすい。

「つい。言っちゃった。すげー好きって思っちゃって」

(思っちゃったか……)

 想いが溢れてしまうという現象は一体何なのだろう。私もしばしば溢れてしまう。言葉でどうしようもなくて抱き着くこともあれば、泣いてしまうことも。

…………本当馬鹿」

 エレーナさんはバーレイさんの言葉にじっと耳を傾けている。

(リリアさんからすれば悩む余地もない段階だったんだろうなあ)

 彼女の返事は「今は覚悟できる程好きじゃないから」。誠実で正直な答えだったと思う。「今は」ということは、このまま会話を重ねて、互いを知っていけば未来は分からなかったかもしれない。

 バーレイさんの気持ちを知っていたリリアさんは、今後に期待があったのだろうか。それとも、人当たりのいい彼女だから、何事もない顔で接していたのか。それは彼女にしか分からないことである。

(ちょっぴり残念そうではあったから、全くない話ではなかったのかもしれない)

「バーレイ。それが人と生きるということよ」

 黙って話を聞いていたエレーナさんが、孫の頭を撫でながら優しい声で話しかけた。エレーナさんは何度も何度も撫でる手を繰り返す。

「残念だったわね。でもこれで絶望しては駄目よ。もしもあなたが、望んだ幸福を得ていたら、いつか今以上の苦悩を得ることを覚悟しなくてはならなかったのだから」

(エレーナさん……)

「でも。あなたはそれでも、また立ち上がれる?」

 バーレイさんがゆっくりと顔を上げる。涙の跡がくっきりと残り、後から後からその筋を上書きするように水滴が伝っている。

「次、頑張りなさいな。あなたは世界を泳ぎ始めたばかりなのだから」

「……ばあちゃん」

 涙声だった。

「なあに」

「そんなこと言うと思わなかった。だからよしておけばよかったのに、って言われると思った」

「やあね。さ、今日は部屋に戻ってお休み。いいこと。落ち込み過ぎては駄目よ」

 エレーナさんはそう言ってバーレイさんを椅子から立たせると、自分の部屋に行くように促した。バーレイさんは私に「ごめん」と一言残すと、背中を丸くして家の奥へ消えた。当然落ち込んではいるものの、エレーナさんの言葉で多少顔色が良くなったように見えた。

(「ごめん」なんていいですよ……)

 彼が消えた方を見ながら案じていると、「ルシルさん」と名前を呼ばれる。エレーナさんが眉を下げて私を見ていた。何にも頼らず立っているのがつらいのか、エレーナさんはテーブルに手を突いて体を支え、さっきまでバーレイさんが座っていた椅子に腰かけた。

「お世話をおかけしましたね。あの子ったら」

「いえ。居合わせてしまって。大丈夫でしょうか」

「しばらくそうっとしてあげてください。私が責任持って励まします。全く、好きな方がいると聞いてから心配していましたが……」

 内心「そうでしょうね」と思った。エレーナさんは、コルテスさんとの食事会以降も人と距離を置いたままだった。家を訪れたとき、挨拶だけ交わして閉じられてしまうドアを眺めては寂しい気持ちになった。彼女の気持ちは変わっていないのだと。

 だから、いくら許容範囲を広げ、バーレイさんが街の人と交流することを認めたとしても、深い関係になることをエレーナさんが案じないはずはないのだ。きっとずっと、バーレイさんの人間関係を心配し続けていたに違いない。

「ここだけのお話。くいかなくて良かったと思っているのよ」

「そう、ですか……」

 私の耳には「応援もできなかった」と聞こえた。心配はしても、せめて上手くいかないことは願ってほしくなかったという私の気持ちが流れ出す。思い切りげんな態度を取ってしまった私に、エレーナさんは困ったように微笑んだ。

「初めての恋に舞い上がっているのが手に取るように分かって、気が気ではありませんでした。考えなしに深い仲になっては、あの子も相手の方も後に傷付いたでしょう」

…………ああ」

 エレーナさんの声は、いつにも増してずっと優しく、悲し気だった。私の胸の中でさっき広がった暗い気持ちが消えていく。

「あれこれまた口を出しても煩がられると思って静観していました。実はさっき何があったかは鳥たちが速報を届けてくれました。相手の方は、しっかりした方ですわね。私の言いたかったことをきちんと伝えてくださいました」

「……」

「あなたにはこんな後ろ向きなことばかり言って、嫌な気持ちにさせてしまったかしら」

 私は「いいえ」と首を小さく振った。彼女が何を言いたかったのか、よく分かった。リリアさんが言った通り、「覚悟をしなくてはならない」ということを理解していないのでは、と案じていたということだ。エレーナさんの心配は当たり、そしてエレーナさんがひとまず安心する結果になった。

「……あの、お気を悪くされたらすみません。本当に、お訊きするだけなのですが」

「何かしら」

 エレーナさんの瞳が優しく細められる。慈愛の籠もったまなしだった。まるで、いとしい者でも見るような。私はいつにない親近感を向けられたまま、ずっと聞きたかったことを口にした。

「やっぱり、人と深く関わって生きるのには抵抗がありますか」

 エレーナさんの笑みが深まる。その話題には触れてくれるなと言われるかと思ったが、彼女は「そうねえ」とため息混じりにしみじみと言った。そして何の前置きもなく、彼女は私に大事なことを打ち明けてくれた。

「娘がね、魔法を使えない彼と一緒になったでしょう?」

「え!」

 つい大きな声を上げると、エレーナさんは「あら、言っていなかったかしら」とキョトンとした。私はそんな彼女に呆然とした。聞いていたら忘れるはずがない。だって、それは、つまり。

(私と、先生の間柄のような……)

 エレーナさんは私の心の中を読んだかのように「そうね」と呟いた。

「あなた方が家にそろって来られたとき、少し胸が痛んだのは事実です」

 彼女から向けれらた冷たい視線を思い出した。ゾッとする程、冷たかったあの目を。

「……今、娘さんは」

 エレーナさんは深く息を吐き、遠くを見た。

「幸せは彼女にとって一瞬だったけれど、彼を失い消えない傷になりました。あの子は長く深い悲しみにとらわれて、私の前から消えてしまったの」

(そんな……!)

 どうしてバーレイさんがエレーナさんと暮らしているのかが、今明らかになった。同時に私は大きな衝撃に見舞われる。とてもごととしては聞けない、ショックな話だった。

 心の中を見せない彼女が抱えていたのは、私には計り知れないような暗い過去だったのだ。絶望。それ以外の何物でもない。

 あまりのことに言葉が見つからない。ただ、口が無意味に動くだけ。

「……ここのところ、バーレイは楽しそうだったわ。あの方に熱を上げてから」

 動揺している私に対し、エレーナさんは至って穏やかだった。庭の方から差し込む光がほのかに彼女を照らしている。私は突っ立ったまま、彼女を見下ろした。

「彼女のために色々作って。上手に話せないのにしきりに話しかけて。さいなことで嫌われていないか心配して。本当に、とても生き生きとしていたわ。それがあの子に……娘にそっくりで」

 エレーナさんの視線の先には、誰かが居るようだった。

「娘も本当に幸せそうで、毎日輝いていたわ。そう、だから……私もこちら側で生きていく決心をしたのよ」

「決心……?」

「丁度、魔法使いとそうでない人が決別しようとしていた時期でした。もう遠い昔のことよ」

 ただただポカンと話を聞いている私を前に、エレーナさんは「ふふ」と手で口元を隠した。

「そういうことを、バーレイを見ていたら思い出しました。……あの子が居てくれて良かった」

 エレーナさんの顔は、どこか晴れ晴れとしていた。木々の新緑が芽吹くようなみずみずしさと、柔らかさをたたえていた。

「生きていれば皆経験することだというのに。私も娘も、悲しみと距離を取るのが上手ではなかったのね」

(エレーナさん……)

 私はいつか、彼女に「あなたは一生幸せかもしれないわね」、「気楽で羨ましいと思うわ」と言われたことを思い出した。今思えば、彼女からすると、あのときの私の回答は本当に能天気なものだったのだろう。

(魔法使い側の悲しみは、よく分かった。でも、できれば……こちらの想いも知ってほしい)

 私は一歩彼女に近付き、その目を見た。深い緑の瞳が静かにそこに居る。

「エレーナさん。私……」

「なあに?」

「現実は違うと言われてしまうかもしれませんが、一応、考えていることはあって。私は、私があの家から居なくなっても、あそこに穏やかな空気が残っているようにしたいのです」

「……」

 エレーナさんは、黙って私の言葉に耳を傾ける。私は懸命に話し続けた。

「それはきっと直ぐにかなうことではありません。積み重ねた日々の結果なのだと思います。実際にどうなるかは誰にも分かりませんが、私はそうなればいいな、と願っています。だから、私、先生とは、自然に過ごしていたいんです」

 普通に生活して、普通にドキドキして、普通に想い合って。先を憂いてばかりでは、私の願いは遠ざかってしまうだろう。

「強い印象はなく、あなた方からしたら風のように通り過ぎてしまうのかもしれません。きっと、とっても難しいことなのでしょう。それでも、やっぱり、私は……」

 エレーナさんは何か考え込むようにうつむいた。浅はかだと、呆れられてはいないと思う。話している間、真剣に聞いてくれていた。

 立ったままその場で見守っていると、やがて彼女は顔を上げた。

「本当に、私は失礼なことを言ったわね。……『彼』も、そうだったのかしら」

 エレーナさんはそう言って私の手を握った。

「フィリスさんはお幸せでしょう。どうぞ、私たちともよろしくね」

「……!」

 いつの間にか、目にまっていた涙が落ちた。私はただ頷くだけの返事しかできなかったけれど、エレーナさんは「ありがとう」とキラキラした声で嬉しそうに笑った。

「ただいま戻りました」

 家のドアを開き、部屋の中に声をかける。しかし返事はない。リビングに入っても先生は居ない。静かなものである。

 どうしてだろう。突然、慣れ親しんだキッチン、リビングが空虚なものに感じた。そこはかとない寂しさが私を襲う。

(エレーナさんのお話を聞いたからかな……)

「よいしょ」とダイニングの椅子に腰かけ、一息ついた。テーブルに頭を預け、誰も座っていないソファに顔を向ける。時計の針は十六時を指していた。定時になれば先生が降りてくる。

(根を詰めているから、食事のときだけでも息抜きしていただかないと)

 けれど食事とお風呂が済めばまた直ぐ二階へ消えてしまう。私は夜食を作って、部屋の前に届けて、また明日の朝。同じ家に居るのに中々会えない。今は仕方ないと分かっているからいいが。

(……ずっとでは、確かに辛いよね)

 長い間悲しみに暮れていたエレーナさんたち。もしも、もしも私が彼女の娘さんの立場だったらどうするだろう。目をつぶって想像してみたが、きっとこの程度ではないのだろうな、と思うくらいのことしか浮かばない。

「先生は……どうだろう」

 先生は、何事にも距離を取るのが上手い。上手い、というかむしろ距離を取りたがる。分かりやすく積極的に進んで人からの干渉を断るのが先生だ。割り切らないと人と生きていけないから、深く関係を築かないようにしていたエレーナさんとは大分タイプが違う。

(それでも……私が居なくなっても全然平気だとは思わない)

 胸がずきりと痛みを覚える。

 私が居なくなったことを憂うよりも、私と居たことをいつくしんでほしい。私と居たことで悲しみにさいなまれるよりも、私と居たことで前を向いて歩いてほしい。

(私も、先生と居ることでそうありたいと思う)

「……はあー」

 両手で顔を覆い、胸に溜まった切ない気持ちを吐き出した。

 私と先生が想い合うようになれた環境を、ずっと守っていきたい。私も先生も、それが心地よくて、その中で互いをいだして、今に至るのだから。

「……うん」

 顔を上げ、再び誰も居ないソファを見た。次いで、上に続く階段を見遣る。頑張っている先生に、何か他にできることはないのか。まだやれることが、いや、まだやりたいことがあるはずだ。

 私が先生を想ってすることは、全てが先生のためではない。自分のためでもあるのだから。

 あなたを想って私が私のためにしたことを、後で「そんなことしてたのか」と呆れて笑ってくれればいい。それが、明日であっても、ずっと先であっても。

「よし」

 エプロンをパン、とはたいて皺を伸ばす。いつもより姿勢の良い私が、いつものキッチンに立った。


「何だかしいものができてしまった……!」

 新たな気持ちで作った夕食に続き、夜食も上々の出来だった。過去で一、二を争うと思われる。トロトロに煮た豚肉とラディッシュのスープ。風味付けにスターアニスを投入。ここに来て初めて知り、最近やっと使い方を会得したスパイスのひとつである。分かり合えるまで長い戦いだった。こんしんのスープにジンジャーの砂糖漬けを小皿で添える。これで美味しく温まってもらいたい。

(到着。間に合いました)

 こぼさないように注意して、約束の時間通りに部屋の前に置いた。

 現在時刻は二十二時。いったいいつ寝ているのか。そもそも就寝時間については普段からよく知らないが、寝るのが得意な先生が近頃寝不足気味な顔つきをしているので、きっと睡眠時間を削っているのだろう。

(十年に一度、か)

 結構スパンが長い。かと思えばタイト過ぎるスケジュールで提出の期限を設定してしまうあたり、無計画というか、無頓着というか。開催を忘れるくらいならもっと短い間隔で開催すればいいし、もっと長く準備期間を設ければいい。諸々ひっくるめて流石さすが長寿の魔法使いたちだな、と思う。

(覚えておかなくちゃ。次は十年後)

 十年おきに一大イベントがあると、私も心得ておかなくてはならない。何なら、「来年ですよ」とかお知らせした方がいいのかもしれない。

「……何回立ち会えるかは分かりませんが」

 降りてきた階段を見上げ、部屋に籠もる先生を想う。

「終わったら盛大にお祝いだな」

 トレイを抱える腕に力を込める。「よし」と気合を入れると、お風呂に入る準備をした。今日はゆっくりふやけよう。


『お祝いの日のごはん』

・ホタテのテリーヌ

・チキンのロースト(ハーブ)

「うーんんん」

 机とにらめっこをして三十分。朝食を済ませ、いつもの家事ルーティーンを終えると早速、お祝い用のごそうのメニュー作成を始めた。

 自筆のお料理ノートを広げ、何か良きものはないかとページをパラパラめくる。メインと付け合わせは決まったけれど、前菜がいまいちピンとこない。

「……休憩」

 ベッドの上にゴロンと倒れる。頭の中は様々な食材でいっぱいだった。

「ステーキ食べたい……」

 段々と、今自分が食べたいものに思考がシフトしてゆく。

「キノコのクリームパスタ……なまレモン絞り……」

 ハッとしていつの間にか閉じていた目を開く。ガバリと身を起こし、頭を振った。

「見に行こう」

 このままでは、私のおなかくばかり。実際に食材を前にするといい案が浮かぶかもしれない。そうと決まれば、書置きを残し、ピューッと家を飛び出した。

 まずはいつもの八百屋さん。『今が美味しい!』と札がかかっていたのはルッコラ。先生もお好きなルッコラ。

(ルッコラいいよねえ。何と合わせよう)

 野菜の前で考えを巡らせていると、店のおじさんが「ルッコラかい?」と声をかけてくれた。

「はい。どうやって食べようかなと」

「生ハムとサラダにしても美味いし、ガーリックといためても美味いぞ」

 私は「ですよねえ」と頷いた。どちらも美味しいことは知っている。何ならペーストにしてトーストに塗っても美味しいことも知っている。

 おじさんは、私の反応がかんばしくないことを察し、「じゃあこれは」と言って新たなアイデアをもたらした。

「スモークサーモンと合わせたらどうだ。俺はこのサラダ永遠に食える。母ちゃんが中々やってくれないが」

「スモークサーモン! あ、いいですね! 華やかに盛ればお祝いっぽい!」

「何だ、お祝いなのか? ああ、星夜祭も近いしなあ」

「あの、ええと」

「先生は幸せもんだぞ」

 うっかり赤くなってしまい、慌てて両手を振ってした。

「俺もなあ、今や大カブの母ちゃんがまだスプラウト、いやアスパラガス、いやズッキーニぐらい細かった頃はなあ、毎年星夜祭とか記念日にはお互いにプレゼントを」

「アンタ」

「あ」

 店の奥からおかみさんが登場した。何やらご機嫌が悪そうである。私は危険を察知して、じりじりと後ずさった。ルッコラは今買っても仕方がない。今日のところはここで失礼させていただこう。

 離れてもよく聞こえるおかみさんの声を背に、赤くなった頬をあおぎながら歩く。

(もう。おじさんたら。……それにしても)

 ──星夜祭。実はもうすぐそんな時期になっていた。勿論、忘れるはずがない。私にとって、印象的なあの日。初めて世界樹を見に連れていってもらった。空一面の流星群に不思議な大木は歌い、私の心を震わせた。

(私の想いが溢れたのは、あのとき)

 記念日と言えば、記念日である。少なくとも私にとっては、記憶に残る大事な一日。今のところ、星夜祭はどうする、何するという話は出ていない。細かいことを言うと、「星夜祭」としては何かしなくても良いのだが。その日を記念の日だと思っている身としては、何もないのもちょっぴり寂しい。

(でも、先生と記念日ですね、なんて確認したこともないし。それに、小生さんの言っていた期日も迫っているし)

 きっと星夜当日は何事もなく過ぎるだろう。

「うーん」

 私は立ち止まって考えた。

(別に、先生から何をしてもらわなくてもいいのよ。いいけど、私が何かしたいなあ)

 星夜当日でなくてもいい。その日はきっと先生はまだ忙しいだろう。先生の仕事が終わってから、ご馳走を作る日に揃えればいい。

(そういえば、エレーナさんのところで「話し相手」をしていたときのお給金を有効活用したいと思っていたのだった)

 お給金は思った以上に多く、封筒を開けた当時どうしようかとドキドキしてしまった。返すのも変だし、欲しいものもなかったので大事に取っておいたが、ようやく用途が決まった。

「ちょっと特別な贈り物をしよう」

 消耗品ではなく、残る何かがいい。慕っている気持ちの表現のひとつとして、残る何かが。

(こんな風に思うのは……)

 頭にちらついたのは、上品に笑う彼女。

 後に残るものがある、ということは。もらった人の支えになるものだろうか。

 先生が当初物置だと言った部屋(実際には寝室だった)には、昔魔法使いたちが使っていたというほうきつえじゅうたんが雑然と置いてある。以前寝床はどこかと尋ねたときに見せてもらった。「前時代の遺物」と称されたそれら。再度使うことはないようだが、要らない物ならあそこには置いてはおかないだろう。

(執着はしないだろうけど……きっと、大事にしてくれる。先生なりの距離感で)

 遠い未来、私が贈った物を部屋のどこかに保管している先生を思い浮かべた。それはあの物置の一角かもしれないし、先生の研究室かもしれない。どうするかは、先生の自由だ。けれど。

(どう扱われるかを左右するのは、きっと私次第)

 想像通り大事にしてもらえるよう、私も贈ったときの気持ちを忘れずに、大事に先生と生きていこう。一生懸命作った食事も、愛情を込めた言葉も大切にしたいが、「慕っている気持ち」を残すことは、私にとっても支えになることだろう。

(何がいいかな)

 前を向き、また歩き始める。コートデューの街は今日も変わらない。建物の二階の窓が街に降り注ぐ光を反射してピカリと光った。


 そうと決まれば、先生へのプレゼント探しが始まった。さりげなく先生の欲しいものを聞こうと思ったが、先生がそれどころではないので質問するのは遠慮した。

(今回は、サプライズということで)

 何かないかと店のショーウインドウを睨みつける。残る物というコンセプトから、使ったらなくなってしまうもののたぐいは候補に入れていない。ふと、布地屋さんが目に入る。新しいシャツを拵えるというアイデアが脳をかすめた。

「うーん、消耗品といえば消耗品になるか……」

 立ち止まり、首を捻る。消耗品ではない、特別感のある、長く使えそうな贈り物。

 それは一体──。

 偶然か必然か。私の視界には『彫金』と看板を掲げる一軒の小さな店が飛び込んできた。あんな店あっただろうかと思いさえする、普段さっぱり気に留めていなかったその店が輝きを放っていた。脳にビシャリと稲妻が落ちる。

 ──彫金。すなわち、金物。と来れば……アクセサリー?

 私はその場で考え込んだ。アクセサリー。先生が着けているのは見たことがない。装飾品とは無縁の人である。

(うーん? でも記念メダルを贈ったってなあ……)

 メダルや盾よりはまだアクセサリーの方がピンとくる。具体的に物までは確定してはいないが、金物はよい線ではないかという気持ちが強まってきた。金属は布や木より長持ちする。

(一旦のぞかせてもらおう)

 足早に店へ向かい、凝ったデザインのドアノブに手をかけた。カランとドアベルが綺麗な音を響かせる。店内は大小様々な彫金の作品が飾ってあり、小さな窓から入る光を受けて渋く、あるいは鮮烈に光っていた。奥は直ぐ工房になっているようで、ごちゃごちゃと道具が並んでいる。

「はい。いらっしゃい。ご用は」

 出てきたのはカーキ色のエプロンを着けて、ただいま作業中、という様子の男性。ぼさっとした癖毛の、真面目そうなお兄さんだ。私よりは確実に年上のように見えるけれど、中年というには若い感じである。

 彼がここの彫金師だろうか。いかにも職人という感じで、言葉が短い、話が早い。世間話も仕事のひとつという例の八百屋さんのおじさんとは違う印象を受ける。

 私が緊張しながら「内緒で贈り物を考えておりまして」と始めると、職人さんは「相手は? 具体的に物は決まってますか」とこれまた話が早い。

 一方の私は具体的に、と言われて言葉を詰まらせる。とりあえず、答えられる方だけ答えることにして「あの、大事な方に」と告げる。

「大事な方、というと? 恋人? 恩人?」

「あ、ええと、こ、恋人……? です」

 歯切れの悪い言い方になってしまい、職人さんはろんなものを見る目をした。

「冷やかしじゃないですよね」

「も、勿論!」

「困りますよ、作った後で『やっぱり別れたから要らない』とか『振られたから返品する』とか」

…………

 職人さんはとても冗談を言っているようには見えなかった。むしろいささか攻撃的な言い方である。突然の物言いに驚いて固まる私に、職人さんは更に強く畳みかける。

「恋人は? ちゃんと想い合っています? 本気で愛していますか、誓えますか!?

 あまりの覇気に圧倒され、私はただ「はい」と答えた。

(何故私はここで職人さんに先生への愛情を確認されているのだろう)

 当惑する私をに、職人さんは「じゃあお受けします」と言って帳面を取り出し、まっさらなページを開いた。

「すみませんね、ここのところキャンセルが三件続いたものですから」

 ようやく口調が穏やかになった。キャンセルが相次いだことでピリピリしていたらしい。「そうなんですね」と適当なあいづちを打つと、「おかけください」と椅子を勧められた。作業台を兼ねているらしい机を挟み、職人さんと向かい合って座った。

「店主のエヴァンズです。それで、どういったものを?」

「あ、どうも。オニバスと申します。あの、できればあまり重たくない感じで、かつ想いが伝わるような……」

 視線を彷徨せる私に、職人さん、もといエヴァンズさんの顔がまた険しくなる。

「本当に想い合ってます?」

「あ、合ってます! 合ってます!」

 必死で弁明をし、何を贈ろうか悩んでいると伝えると、エヴァンズさんは「分かりました」と言って重そうなケースを机の下から取り出した。中にはネックレス、腕輪、指輪といった装飾品からプレート、タグ、メダルといった作品が並ぶ。こうして目の前に並べられると、断然アクセサリーの類が心をくすぐる。

「どれも素敵ですね……!」

「素材やデザインは別で選んでいただきます」

「あ、そうなんですか」

「ペアにされます?」

(ペア!)

 私は思わず机に乗り出した。流石この手の注文を受けているプロである。提案が的確だ。ペア、つまり、お揃い。いい、すごくいい。「それでいこう」と決断し、「ペアだとどういった物ができますか」と質問をしてみると、「何でもいけます」と簡単な返事。ははーん。

「どうします? 指輪? ブレスレット?」と訊かれ、深く悩む。これは難題だ。

(こうしてどれにする、と訊かれると)

 いつの間にかアクセサリーを注文する感じになっているが、脳内で「本当に?」と自問する声が聞こえた。

 というのも、先生が装飾品を装着しているところを見たことがないのに、という懸念が再び私を苛んだから。贈ったところでさして喜ばれるかどうか。

「あの、普段そういったものは着けない方なんですけど」

「勿論そういう方もいらっしゃいますよね。ま、それでも贈りたいのが、贈る側のお気持ちですよね」

 まるで私の心の内を代弁するかのようだった。私は「そうなんです」と強く頷く。

「残る物を差し上げたくて……」

「そうですね。こちらは一生ものですから」

「一生もの……」

 その言葉が胸を掴んだ。店に飾られている作品の数々に目を奪われた。

「ちなみに」とエヴァンズさんが言って指差したのは、店内の柱に貼ってある一枚の紙。そこには『手作り彫金体験』と書かれているではないか。

「え……? もしや」

「ご自身で作りたいという方も最近いらっしゃるので。僕が横で口出ししながら作っていただくという」

「ぜ──是非!」

 そんなこともできるのか、と目からうろこが落ちた。上手くできるだろうかという不安は、「できそうな気がする」という謎の自信に打ち消された。店側が提示しているくらいだ。上手くやらせてくれる、ということだろう。

「で、どれにしますか」

 じゃあどれにする、という段階になるとやはり直ぐには決心が付かない。先生とお揃いのアクセサリーを作ろうとしている。中々めっに踏み切れることではない。しかも一生物だし、自分で作れるときた。ここは慎重に選ばなくてはならない。ネックレスにするのか、指輪にするのか。それとも。

「……ちょっと考えてもいいですか」

 エヴァンズさんは「ごゆっくり」と言って席を立ち、途中の作業に戻った。ここで悩んでいていいらしい。

 一人になった私は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。先生の姿を思い浮かべる。先生はいつも同じ格好なので、想像がしやすい。

 あの黒いシャツ。ネックレスを着ければとても目立つのではないか。しかしちょっと存在感があり過ぎる気がする。イマイチ。

 次にあの骨張った手。ブレスレットを手首に着けるか、指輪をはめるか。どちらもいけそうな気がする。でもどちらかと言えば、指輪の方が似合うかもしれない。

 アンクレットは歩くときにちらちら見えそうだけれど、あまりイメージが湧かなかった。

(指輪かなあ……)

 一番しっくりくるのが指輪である。細めのデザインが頭に浮かんだ。うん、そうしよう。私はこっそりほくそ笑み、部屋の奥に居るエヴァンズさんに「すみません」と声をかけた。

「決まりましたか?」

 エヴァンズさんは手に途中の作品を持って戻ってきた。何を作っているのかと尋ねれば、結婚式で使うティアラだという。細かくて繊細な装飾が施されているソレを掲げて見せてくれた。技術の粋を集めたような作品だった。彼の腕の良さがうかがれる。

「で、何にします」

「はい。あの、指輪にしようかと」

「分かりました。サイズはお分かりですか?」

「サイズ……?」

 私は固まった。サイズ。そうか。指輪を作るには指のサイズを知る必要がある。当たり前だ。

 私がフリーズしたのを見て、職人の目が「こいつ何も分かっていないんだな」と言いたげに細められた。

「そういえば、内緒で贈りたいってさっき言いましたよね」

「言いましたね」

「サイズが分からないで、どうするんですか」

「……何とかします。寝ているときに測るとか」

 今度はエヴァンズさんがぜんとして固まる。

「ええ……? 上手くいくかなあソレ」

「が、頑張ります。ですのでこの件は秘密にしてくださいね」

「言いませんよ」とさも当たり前という顔で答える玄人くろうと。私は一瞬ホッとしたけれど、次の瞬間「もしも彼が鳥に餌をやるのが趣味で、鳥だけには色々喋る人だったら」という可能性に気が付いた。これはいけない。いただけない。私はすかさず「人以外にも」と付け加えた。

「人以外にも……?」

 エヴァンズさんの表情が「何を言っているんだこの人」と険しくなる。もしかしなくても要らぬ心配だったのかもしれないが、私としては極めて慎重を期す事態なので仕方がない。

 私はとにかく「お願いしますよ」と念を押し、いかにして先生にバレずに指のサイズを測るかということを思案した。

 このとき、屋根の上では数羽の鳥が休憩しているところだった。偶然聞こえてきたのは自分たちへの警句。

『秘密だって』

『成程なあ』

 ピチチと喉を鳴らし、仲間たちに申し送る。どうせ、フィリスは今忙しい。余程の緊急事態でなければ窓をくちばしつつくことはない。それに。

『こりゃあ面白いことになってきたぜ』

 皆で示し合わせ、ルシルの秘密のプレゼント作戦を見守ることにした。

「手袋を編みたいのですが。うん、これが一番無難だよね」

 小麦粉の塊をねながら一人ブツブツ呟く私を不審がる人は居ない。彫金屋さんからの帰り道から現在まで、頭を占めるのはにして気取られないように先生の指のサイズを入手するか、である。やはり寝込みを狙うのが一番いい手のような気がするが、起きたときのリスクが大きいのが悩みどころ。

(いくら言い訳を捏ねたところで、先生が降りてこないとどうしようもないのだけど)

 先生の資料提出の期限までひと月を切った。ここからがいよいよ辛い時期かもしれない。今だって本当に最低限にしか部屋から出てこないのに、どうなってしまうのだろうか。ひょっとしたら最終的に部屋にご飯を持っていく形式になるのでは。

(そうしたらいよいよ寂しいなあ……)

 こね、と黄色い塊を丸くする。今日はこれを薄く平らにし、四角く切って、中に具材を入れて挟み、でた後にクリームソースでいただく予定だ。やる気に任せて新しいメニューに色々と挑戦している。総じて先生の反応が鈍いのが悲しいが、決して新メニューが気に入らないからではない。私とちゃんと会話はしてくれるものの、ずっと頭の中に何かがあるような感じである。せめて食事くらいは息抜きになればいいのだが、中々難しい。

「お夕飯まであと一時間もあるから。ええと何しようかな」

「んー」と考え、時計から目を離すと、慣れ親しんだ、ぺたぺたという音が聞こえてきた。

(え? 先生?)

 考えたところで一人しかいないのだけど、珍しいではないか。巣ごもり強化期間はおしまいか、それとも非常事態の発生か。キッチンから小走りで出て先生が階段を降りてくるところへ向かう。

「いかがされましたか」

「……」

 反応が鈍い。先生は首をかしげ、時計を見た。

「……間違えた」

「え?」

「一時間、誤った」

 先生は目をしぱしぱさせて憎らしそうにしている。私はきょうがくした。これまで先生が時間を誤ることがあっただろうか。何なら先生自身が時計代わりで、先生が降りてきたら時計を見なくとも時間が分かるとすら思っているのに。

 唖然として言葉を失っている私の目を先生がてのひらで覆う。何も見えない。

「君が駆けてくるから、変だと思った」

(ああ、いつもはキッチンで仕上げをしているから……)

 先生のため息のみが聞こえる。深刻そうなため息だった。どう見てもこれは相当やられている。心配になってきた。目を塞がれたまま、「先生」と声をかけた。

「せっかく降りていらしたのですから、お茶でもいかがですか」

「……そうしよう」

 目を覆う掌が離れ、観念したような先生の顔が見えた。

(大丈夫かしら……)

 妙な胸騒ぎを覚えたのは、ゆうではない。

 先生の異変は時間の誤差に留まらなかった。二日後の朝、朝食を終えて二階へ上がっていったかと思えば、また降りてきた。これはいよいよ何かあったぞと、焦って「どうしましたか!」とテーブルを拭く手を止めれば、先生は非常に不本意そうな様子で「眼鏡が消えた」と教えてくれた。

(め、眼鏡!)

 それは大変だ。それがなければ先生の疲れ目がいよいよ悪化してしまう。私は布巾を放り出し、「今朝はかけて降りていらっしゃいませんでしたよ」と証言した。

「でもお部屋にないのですよね」

「……」

 先生は眉根を寄せていた。記憶を辿たどっているのだろう。私も真剣だ。

「昨夜はお使いでしたか?」

「ああ」

「今朝お顔を洗われた際は?」

「……!」

 先生がスッと顔を上げる。どうやら思い当たるものがあったらしい。

「それですか?」

「それだ」

「助かった」と言い残し、二階の洗面台を目指して階段をまた上がろうとする。私はとっにその袖を捕まえた。「どうした」と先生が首をこちらに向ける。私は「えい」と思い切って抱き着いた。そしてその背をトントンと叩く。こういうとき先生が私にしてくれるように。

「お疲れでいらっしゃいます。ご無理なさらないでください」

「……」

 先生が無言でそっと佇む。体温が直に伝わり、温かい。

…………

 そのまま数十秒、何も言葉を交わさずそのままの体勢で時間が流れた。そして不意に先生は体を離し、「分かった」と言って階段の先へ消えてしまった。一連の動作は素早く、先生がどんな顔をしていたのかは知ることができなかった。もう姿のない階段を一度だけ見上げ、中断したテーブル拭きをしに戻った。

 そうは言っても、きっと頑張ってしまうのだろう。

(ああ、心配だなあ)


 ──という私の予想が覆るのは、十五時のことだった。足音と共に先生が階段を下る。じっくり煮るシチューの仕込みが終わり、ソファで一休みしていた私は跳ね起きた。

(え! 今日は三時間も間違えてる!?

 三時間誤るとは相当だ。今朝のこともあり余計に狼狽えた私だったが、先生がスンとした顔でソファに座ったので、「あれ」と目を瞬いた。

「……お茶をおれしますね」

「いや、いい」

 ソファから降りようとしたところをやんわり止められる。先生はポフポフとソファを叩いた。

「休んでいたのだろう。寝ていていい」

「でしたら先生が」

「寝に来たのでは」と言いかけた言葉は、ぱちりと目が合った瞬間に消える。紫色の瞳が、真っ直ぐにこちらを向いていた。そして伝わる先生の意志。察するにこれは先の言葉を引き継いでおり、翻訳すると「寝ないのか」。いや、どちらかと言うと「寝ろ」という圧すら感じる。

(先生が休みに来たのでは?)

 という大きな疑問を抱いたまま、私はおずおずと再びソファに横になった。先生に足を向けるのは気が引けたため、先程と方向を変え、先生側を頭とした。足を曲げて丸くなり、ブランケットまで被ってしっかり寝転ぶ。

…………

 気のせいかもしれないが、物凄く見られている気がする。体ごと横を向いているから視界には入っていないのだけれど、突き刺さるような視線を向けられているような気配がする。はっきり言って落ち着かない。気になる。でもこれは顔を上げたら恥ずかしくて大変なやつ。

 分かっている。そんなことは見なくとも分かっているのだ。しかし。

…………

(た、耐えられない……!)

 一方的に見られているというのも厳しい話で。私はついにそろりと首を上に向け、先生を見上げた。

「ぐう……」

 思った通り、先生は腕を組んで私をジッと見下ろしていた。普段見ない角度に心臓が高鳴る。何を考えているのか分からないその瞳が、ただただ私を映している。狼狽えているのは私だけ。きっと、こんなにドキドキしているのも。

(ううう……また……)

 とてつもない切なさが胸を締め付けるのに、目を逸らすことができない。

「……あの、先生」

「……」

……ッ!?

 前触れなく先生の腕が伸び、驚くべき方向から私の顎を掴んだ。先生からすればとても自然な向きで持ちやすいのかもしれないが、私としては隣に置いてあるボールでも引き寄せるように顎を触られるとは想定していない。顎を起点として、体中をぞわぞわとした感覚が走る。恥ずかしくて顔を逸らそうにも逸らせない。

 一体何が起こっているんだと動転する私を余所に、先生はヌッと身をかがめて私を覗き込んだ。より近いところで、殆ど強制的に視線を合わせる体勢となった。はらりと先生の髪が零れる。反射的にギュッと目を閉じた。

「気が安らぐ」

「……?」

 っすら目を開けてみる。穏やかな面持ちの先生が視界を埋めていた。

「……」

(うわあ……)

 優しく頭部全体を包まれる。掌、指が添えられた頬が異様に熱い。それが先生の体温なのか、自分の体温なのか、もはや判別が付かない。少しも揺れない紫の瞳に焼かれる思いがした。

 先生はしばらく私を見つめ続け、満足したのだろうか、不意にするりと離れる。そして、まるで何事もなかった様子でスタスタと去っていった。信じられない。どういうことだ。

「……うぇ」

 ソファに横たわり、真っ赤になっているであろう私はもぞもぞとブランケットを頭まで被る。転げ回りたい衝動をグッと堪えた。

「う、うう。うえええん」

 ブランケットの中で丸くなり、うめごえを上げる。どうにかなりそうだし、頭は真っ白だし。顔を見に来たにしても、しっかり見過ぎである。あんな風に頭まで掴まなくても。

 羞恥で殆ど泣きそうになりながら、落ち着きを取り戻すまでしっかり二十分。私はそのまま丸くなって過ごした。

 根を詰め過ぎたと思うのはいつ振りだろうか。それこそ二十年前の会合のとき以来かもしれない。我ながら進歩のないことだ。フィリスはそう思いながら、動かしていた手を止めた。起きたまま迎える何度目かの夜。起きていることは得意だが、昔は今よりももっと長い間寝ずとも平気だった。近頃はどうもそうはいかないらしい。

 弊害は目に見える形で現れた。食事の時間を誤ったり、眼鏡を置き忘れたり。ルシルも呆れたことだろう。

『フィリスよどうだ調子は! 小生全然寝てないけどまだまだ余裕』

 先日届いた不気味なウサギが不意に遠くの者との声をつなぐ。やはりろくな代物ではなかった。ルシルにその場で渡さないで正解だった。疲労の原因の一端はこれにもある。こちらの都合など構わず話しかけてくる。殆どは無視しているが、耳障りで仕方がない。

『締め切りを早く設定し過ぎた』と悔やむのであれば、喋っている場合ではあるまい。一時『あの女の子は誰だ』と煩かったので一度だけ魔法を使って黙らせたが、自力で破られ、また話し出した。

『小生の魔法がそう簡単に解けると思うなよ!』とのことだったが、憎らしいことに、言葉通り腹が立つほど複雑な魔法が何重にもかかっている。それらを除法する手間と時間が惜しく、製作者との繫がりを断つことが後回しになっている。

 普段であればこのような面倒な物は物置か書斎に放置してしまうが、試しても戻ってくるので早々に諦めた。ルシルが欲しがったので取っておいてあるが、本心では除法ではなく一思いに燃やしてしまいたい。

「煩い。寝ろ」

 いまだに何かを喋り続けていたウサギにフィリスがぴしゃりと言うと、ウサギから『まだ終わらないのに寝られる訳がなかろう!』と聞こえてくる。フィリスはあっさり「私は寝る」と言って席を立った。

『え! 終わったの!? 寝られるの!?』と動揺する声に知らぬふりをして、広げていた本を閉じ、紙を片付けた。

『ゆ、許せん……! 可愛いお嬢さんにしく差し入れさせて……! あまつさえもう終わって寝るだと……!?

 終わっている訳があるまい、愚か者。

「貴様のように口ばかり動かしていては終わらぬ」

『ぬぬぬぬぬ』

 ウサギはショックだったのか、そこで会話を閉じた。もう自分のことに専念してくれるといい。フィリスはそんなことを思いながら廊下を歩き、物置と言う名の寝室へ向かう。

『お疲れでいらっしゃいます』

 あれが自分に対する客観的で的確な意見である。従うべきだと思った。事実、認識力の低下は著しく、失態を犯している。

『ご無理なさらないでください』

 彼女が背中を叩く度、何かが自分の中に戻ってくるような感覚がした。彼女がもたらす安らぎにはいつも目を覚まされる。彼女の言葉に従い、定期的に休息を挟むべきだ。都度彼女を見に行くのがいいだろう。

 世話になるばかりだと、フィリスは己に呆れて目を閉じた。一定の間隔で呼吸を繰り返す。外では星が騒がしい。

 そうか、もうすぐ星夜か。それすらもおろそかにするとは。

「……愚かだな」

(来た……この瞬間が……!)

 珍しく暖かな日差しが降り注ぐ午後。私はソファですやりと眠る先生を前に、仁王立った。リボン状にした紙をビッと伸ばし、無防備な手を狙う。

「はあ……はあ……!」

 本日で期限まであと二週間というところ。近頃先生は努めて休憩を入れるようになった。長い時間ではないけれど、テーブルで向かい合ってお茶をしたり、一緒に庭を眺めたり。どういう法則にのっとっているのかは分からないが、時折不意に頭を撫でられた。

 そして遂に今日、「終わりが見えてきた」と、多少安心した面持ちで言った先生はソファにゴロリと寝た。最近まではずっと張り詰めた感じだったので、比較的グッと穏やかに見える。二十年分の観察と研究を纏めろと言われたら先生でもこうなるのかと変に感心してしまった。

 そして。仕事に目途が立ち、転機を迎えたのは先生だけではない。先生の指のサイズを測ることをたんたんと狙っていた私にも、絶好の機会が到来した。今だ、今しかないと己を煽る。

 気配を察知して先生が起きてしまわないように、私は思考を止めて完全な無になる。頭を空にする。呼吸を止める。自分は無機物だと信じ込む。

…………

 シュルリ。シュッ。

 手早くしかし正確に慎重に先生の指の一番太い関節に紙を巻き、紙が合わさるところに印をつけ、さっと身を離した。

「……! は、はあ、はあ……!」

 止めていた息を吐き、呼吸を繰り返す。ドキドキして先生を見れば、変わらずスヤスヤと眠っていた。

「や、やった……!」

 つんいになって勝利の感動に打ち震えた。先生が疲れているせいか、存外容易たやすく秘密裏に入手できた。喜びを噛みしめ、叫びたいところをグッと堪えたとき。

『うおおおおやったー!』

 バサバサバサ! 一斉に鳥が飛び立ったのを音で知る。咄嗟に外に視線を遣れば、庭の地面や木々に止まっていた鳥が次々と羽ばたきを始めていた。

(な、何ですと……!)

 見られていたというのか。私の完全に内緒の犯行が。よもや先生に報告するつもりではあるまいなと恐れ、私はキッチンへ駆けた。とある袋を持ち、急いで極めて静かに外へ出ると、袋の中に手を突っ込んで物を掴み、そっと辺りへく。

「ここはこれでどうかひとつご内密に……!」

「ちゅんちゅん」

「カアカア」

 鳥たちは鳴きながら私の撒いた豆を突く。買収である。通じているのかどうか定かではないが、今はこうするしか私には方法がない。遅れて飛んできた鳥たちにも行き渡るよう、バラバラ、とまた豆を放った。

 バラバラ、ちゅんちゅん、バラバラ、ぴちちち。

…………先生には秘密ですよ……!」

『喋んないよ』

『大丈夫だよ』

 こそこそと玄関先で行われた闇取引の間も、余程疲れていたのか、先生は目覚めることはなかった。


 キョロキョロと周りを気にしながら店に近付き、ドアを細く開け、身を滑らせるように入店してきた私を、店の職人エヴァンズさんは一言「スパイか」と例えた。

「例のアレ、入手してきました」

 メモを懐からサッと取り出して手渡す。エヴァンズさんは「細めな方なんですね」と言いながら腰に手を遣った。

「うちで測っていただくのが一番正確なんですが仕方ないですね。あまり大きく変わらなければ後から直せますので、これでやってみましょう」

「よろしくお願いします!」

 ようやく内緒の贈り物作戦が動き出した。

「はい。では始めましょうか」

 私の前に並べられたのは金の棒二本。私は息を呑んだ。上手くできるだろうか。いや、やるのだ。

「肩の力を抜いて」

「は、はい」

 私の緊張に気が付いたエヴァンズさんから的確な指示が飛ぶ。私は深呼吸を数回繰り返し、「よし」と腕をまくって作業台の前に座った。

「火の加減は、このままで」

「はい」

 エヴァンズさんの言うことに従い、棒を熱していく。

(ついに彫金にまで手を出してしまった)

 自分のクラフトワークに新たな一ページが追加されようとしている。ハマってしまったらどうしよう。家に道具一式を揃えなくてはならなくなる。

 謎の不安を抱きつつ、熱し終わった金の棒を水にけた。棒はもう曲げられる柔らかさになっているらしい。指輪の形に丸くするのかと思いきや、次もまた液体が登場した。

「洗浄します」

 エヴァンズさんの説明に「ほうほう」と頷きながら酸を取る液体に浸す。「もういいですよ」と声がかかったら、いよいよ曲げる工程だそう。

「綺麗に、丸く……?」

「あ、今はそれ気にしなくていいです。形は後で整えるので。棒の端と端をぴったり合わせることに専念してください」

「……こんな感じでしょうか……!」

 これも初めてでは中々難しい。神経を研ぎ澄まし、ぴたりと合うように棒を曲げた。エヴァンズさんは「器用ですね、上出来です」と何とか指輪の形をしているものを見て顔を綻ばせた。

(よしよしよし)

 続いて継ぎ目に細いのこぎりを通し、接着用のロウを流した。普段経験しない特別な作業が新鮮で楽しい。

「ロウは直ぐ固まりますので。いよいよ成形していただきます」

 現れたのは円柱の道具と木槌。リングを円柱の棒に通して外からコンコンと叩けば内部が綺麗な円形になるという仕組み。

「中の棒に対して浮いているところを打ってください」

 力加減が分からず、弱い力で叩いてみる。何度か繰り返していると、段々指輪が緩くなってきた。円柱に見えた棒は、実は緩やかなえんすいだったらしい。

「少し場所をずらしてください。そうやって段々とリングを棒の太い方へ移動させていくと綺麗な丸になります」

「成程成程……」

 輪っかを指輪たらしめんと、慎重に木槌で叩き続ける。しばらくそうしていると内側は丸くはなったものの、輪の全体が反っていることに気がついた。「どうしましょう」と訊けば、何てことのない顔で金床が用意され、載せて打つべしと指示を受ける。上に一枚ぶ厚い平らな木の板を噛ませ、「真っ直ぐになれ!」と優しく何度も叩いた。

「……わあ、できた」

 そうして完成した、形の整った指輪。手に取って色んな角度から眺めてみる。まずひとつ。先生用から作るには勇気がなかったので、これは私の。ピカと輝く金の輪。自画自賛ではあるが、私はれしてため息を零した。

「凄い。思ったよりはるかに上手に作れました。もっとゆがんでしまうかと」

「上手なもんでした。道具を使うの慣れてます?」

 褒められて悪い気はしない。日頃から木工作業で金槌を握ったり鋸を扱ったりしていたのが多少よかったのかもしれない。

「では、もうひとつの方も作りましょうか」

 今度は先生用の指輪。私は「油断しなければ大丈夫」と自分に言い聞かせ、エヴァンズさんの指示を信じてもう一本の金の棒へと手を伸ばした。


 細心の注意を払い、素晴らしい集中力を発揮した私が作ったのは、細くて目立たない、シンプルな金の指輪。我ながらよくやったと思う。

「できた……! ありがとうございます!」

「良かったですね。どうぞ、ケースに収めました」

 エヴァンズさんが出来上がったばかりの指輪に専用のケースを用意してくれた。青いベルベットの布地の箱には、中にクッションが詰まっており、そこにきちんと指輪が挟まっている。より一層それっぽくなり、何だかドキドキしてきてしまった。

(先生のお仕事が終わったらお祝いを兼ねてお渡ししよう)

「喜んでくれるといいですね」

「ううん、どうでしょう。前にも言いましたけどアクセサリーは普段着けられないので」

 曖昧に笑う私にエヴァンズさんは言った。

「装飾品は、身に着ける人を飾るだけではありません。けの意味もありますし、逆に呪いをかける意味もあります。あなたは自ら作ることと、一生物ということにこだわった。そこにはあなたの込めた想いがあるはず」

「伝わるといいですね」とエヴァンズさんは私を励ました。贈り物をするときは相手が気に入ってくれるかどうかと、渡すまで小さな心配が付いて回る。特に今回は先生に対して、みのなさそうに見える指輪。ずっと「これで良かっただろうか」という思いがおりのように心に残っていた。けれど。

 エヴァンズさんの言葉がその澱を溶かしてくれた。今は「これにして良かった」と思える。私はへらりと笑い、エヴァンズさんに頭を下げた。

 綺麗な包みに入れてもらった素敵な小箱。大事に抱えて店を出た。西に光る夕日が金のように輝く美しい日だった。

 先生が茶色の封筒を持って二階から降りてきたのは、それから一週間後のことだった。先生はその封筒をバサリとダイニングテーブルに置くと、キッチンにやってきて何事もない顔でカップを二つと小さな鍋を取り出した。いつも通りの行動ではあったけれど、その表情が最近の中では一段と「いつも通り」に見え、私は不思議に思ってマヨネーズを作る手を止めた。

「先生? もしかしてあれは、送られるものですか?」

「……」

 先生から頷きが返ってくる。私は「わあ!」と歓声を上げた。手を叩いて喜びを表す。

「おめでとうございます! ご苦労様でした!」

「君にも苦労をかけた」

(あらあら)

 私は普通に生活をしていただけだ。そのように告げると、先生は微かに眉を寄せて「助かった」と言った。こそばゆくて、私は視線をテーブルへと移す。

「あの……あれ、少し見せていただいてもよろしいですか」

 先生の研究を理解できる自信はない。けれど、どういうことを先生がお部屋でやっていたのかが分かるものがそこにある。実はこれは結構貴重な機会。ちらっとでも見たいと思った。

「そのつもりで持ってきた。どうぞ」

 私は弾かれたように直ぐに手を洗い、よくよく拭いてからキッチンを飛び出した。そーっと封筒から紙の束を取り出す。想像していたよりも厚みがなく、私は驚いた。二十年分の成果であればもっと膨大な量になるかと思っていた。パラパラとめくりながら読むと、年代や日付と共に難しい言葉で色々書いてある。

(成程、二十年の間に取った記録が綺麗に整理されているのね。わあ、これは大仕事でしたね……)

 記録をそのまま使うのであれば、ここまで骨は折れなかったかもしれない。疲労が一番のピークを迎えていたときの先生を思い出し、その苦労をおもんぱかった。

 しみじみとしながら、不思議な言葉の羅列に心を奪われる。これが、先生の研究していること。世界樹が生物に与える影響について。世界樹が根を張る構造について。

(む、難しい~)

 概念からして、存在そのものからして私には馴染みが薄い。難解な文字列が続く中、『参考』というところに、色々な植物の名前や特性が書かれているのが目に留まった。

(夜に光る花、食虫植物、種子でなく胞子で増える葉)

 世の中には、見たことのない面白いものがたくさんある。先生を通じて、世界までかい見られたような気がした。

「ありがとうございます。凄いものを」

 心を打たれながら大事な資料を封筒にった。先生はやはり何てことない顔をしている。「別に凄くない」と思っていそうだな、と思った。

「これはどうやって送られますか」

 先方からの連絡は郵便屋さん経由だったことを思い出すと、こちらから送るときも郵送なのだろうか。あちらから届いたということは、こちらからも送れるということでなければおかしい。

「面倒だが自力で飛ばす。飛ばす技術がない者は郵便を頼るが、時間がかかる」

「魔法使いの皆さんも郵便をご利用されているとは……!」

 魔法使いは私たちと所を別にしているし、持つ社会文化も違うので意外であった。

「相手が何者であるかは関係ない。送り先さえあれば届く。昔から重宝されている」

「では送り先を訪ねれば魔法使いの方に会える……?」

「実際に住んではいないこともあるだろう。郵便を受け取るためだけの住所で、一か所を共同で使う場合もある」

 そういう仕組みになっているのか、と初めて知る事実に感心した。では私もイーダさんの送り先の住所さえ教えてもらえれば、やり取りできるということだ。良いことを聞いた、と小さく跳ねる。

「ルシル」

「はい」

 キッチンの中で腕を組み、佇む先生。

「ココア。ミルクティー」

 いつも通り。その変わらなさに安心する自分が居る。自然と小さな笑いが零れた。

「……ココアがいいです」

 この瞬間を愛しいと思うことも、変わらないだろう。

 さて。とうとう。とうとうこのときがやってきた。シチューの煮え具合を睨みながら、そしてチキンにスパイスとハーブをみ込みながら考えた。

 決めていた。先生の仕事が終わったらお祝いをする、と。「今日はお祝いなのでご馳走にしましょう!」と先生に提案をしたらあまりピンと来ていなかったようだけど、ご馳走について異論はなかったらしく、同意を得た。

(あとはアレをこうしてソレをああして)

 料理の方は順調だ。定時には先生とテーブルに着ける。問題は、例の指輪をいつどんな感じで渡そうか、ということである。

 食前か、食後か。テンションもどうしよう。にぎやかにいこうか、落ち着いていこうか。正解が分からなくて悩ましい。もしも食前に渡して良からぬ反応だったとき、ご飯が美味しく食べられるだろうか。いやしかしそうなったらご飯でばんかいを図るしかないという説もある。

「ううううううん」

 そうしている間に、シチューがグツグツ言い始めた。蓋を取ってブーケガルニを投入し、また蓋をする。オーブンが温まったのでチキンを入れる。あとはルッコラとスモークサーモンのサラダを作り、ホタテのテリーヌが固まれば完了である。

「……君」

「はい」

 階段の上から先生が顔を見せた。先生には夕食まで休んでいることを強めにお勧めしていた。お休みセット(飲み物とおやつ)に不足でもあっただろうか。

「今いいか」

「はい、何でしょう」

 先生は私が忙しくしていないことを確認すると、そのまま一階に降りてくる。私はその手にくだんのウサギさんのぬいぐるみがあることに注目した。相変わらず耳が持ち手扱いされている。

「不愉快な魔法を解いた」

(不愉快な魔法)

 何の変哲もないぬいぐるみが先生から手渡される。相変わらず可愛らしいウサギさん。しかしよくできている。

「遅くなった。すまない」

「と、とんでもありません! ありがとうございます! でも私がいただいてよろしいのですか? せっかく先生の」

「不要」

 先生の眉が疎ましそうに寄る。私は苦笑いを浮かべた。

「では、頂戴いたします」

「ああ。……それはさておき」

 先生は両手をズボンのポケットに突っ込み、ゆらりと私を見下ろした。

「……行きたいところはあるか」

(唐突)

 その言葉で全てを理解する域には未だ私は至っていない。「お魚屋さん」や「八百屋さん」という答えを求められているのではなさそうだということしか分からない。もう少し情報を引き出したい。私は「と、言いますと」と訊き返した。

「君にも多くの世界を見せたい。私の世話のみに人生を使うのではなく」

「あら、私は……」

「君と共にある生活を幸福としたうえでの意見だ」

 先生と家に居るだけで楽しいですよ、と言おうとしたのが見透かされたようだった。目を瞬かせる私に先生は続けた。

「この度、私の時間に君を巻き込んで分かった。私は君が居れば永遠に家で愉快に過ごせる」

(ゆ、愉快……!?

 言い方と表情には愉快さの欠片かけらもない。そもそも、先生がそんな言葉を使うとは。衝撃的な発言に、思わず固まる。そんな私に対し、先生は淡々と言葉を紡ぐ。ひとさじの照れもなく、淡々と。まるで、心の内を語るというよりはただの証言に聞こえる。

「だが、私の時間に君を囚え続けることは、君の人生を私の世話のみで終わらせることになり、愚かとしか言いようがない」

「お、愚か、ですか……?」

 そうでしょうか、と私は戸惑いたっぷりで首を傾げる。先生と一緒に居られれば私だってずっと楽しく暮らせるのに。先生は再度「愚かだ」と言い切った。

 先生は遠くを見るように続ける。その視線は私を外の世界へいざなった。

「海。高原。遺跡。外には君の見たことのないものが多くある。きっと君は気に入るだろう」

 紫色の目が優しく細められた。じわじわと頬を襲う熱。腕にあるぬいぐるみをギュウと抱き締めた。

「世界は広く、美しい。……君にはそれがよく分かるだろう。今以上に」

(……先生)

 この気持ちを何と表そう。言葉を尽くして何か言いたいのに、気持ちが繊細に揺れ、言葉を捕まえることができない。与えられるものの大きさに押しつぶされそうになる。

 私は唇をキュッと結び、息を思い切り吸い込んだ。

「少々お待ちください!」

 私は早口で言い切ると、自分の部屋に駆けた。ドアを開けるや否や、ぬいぐるみをタンスの上に置き、引き出しに仕舞っておいた小箱を持ってまた部屋を出る。

 そしてリビングの同じ場所に立ち、「どうしたのだろう」という顔で私を待つ先生の下へ走った。勢い余ってけつまずく。ズデッと膝を突いたけれど構わない。先生が案じるように身を屈めたところへ迎えるように小箱を差し出し、パカと蓋を開けた。

「気持ちです! 受け取ってください……!」

…………

 私が片膝を突いて箱を掲げ、それを先生が見下ろすこと十数秒。心臓がドキドキと鳴っている。私は目を瞑り、俯いて先生からの反応を待った。

 ぐい。言葉より先に、腕を掴まれた。そのまま引っ張り上げられる形で立ち上がる。掴まれた手には例の小箱。先生は掴んだ腕を離さなかった。

「第四指」

(……その通りです)

 見ただけでサイズが分かったのだろうか。またじわ、と耳の辺りが熱くなる感覚がした。

「……」

 何も言わず、先生が小箱に収まるクッションから指輪を抜き取る。そして躊躇いなく自身の左手の薬指に指輪をはめた。

(は、はめた────……!

 差し上げておいて何だが、先生の一連の動作のあまりの抵抗のなさに愕然とした。先生は指輪を着けた手を興味深そうに眺めている。

「こうしたものを身に着けるのは久し振りだ」

 先生は指輪を見つめたまま、ぽつりと言った。

(久し振り)

「古く、魔法の媒介にしていた頃は自分で作ったものだったが」

 心の中で「そうなの?」と返す。魔法の媒介うんぬんといういわれの杖や箒が先生の寝室兼物置に保管されているのは知っていたけれど、指輪まであったかどうかは記憶にない。

「──君がくれようとは」

 先生がとびきり柔らかく微笑んだ。紫色の目が私を捉える。

「生涯、大事にしよう」

 自分の顔がクシャリと歪んだ。それ以上の言葉は要らない。私も先生もそう思った。泣くのを堪えて踏ん張る私の手を取り、先生がもうひとつの指輪をはめてくれる。

 ささやかな金色が遠い未来でも、どこかで光っているといい。二人の手にある細い輪が、温かな光を反射していた。