「あ、ルシルさーん」

 買い物を終え、街を歩いていると誰かが私を呼んだ。この声はコルテスさん。振り返ると私に手を振る姿が見える。

 近くまで来た彼に「こんにちは」と挨拶をすると、コルテスさんも丁寧に「こんにちは」と返してくれる。

「この間いただいたスイートポテト、めちゃめちゃしかったです! 皆で感動しました」

「そうですか! 良かった!」

 わざわざそれを言うために追いかけてきてくれたのだろうか。何て良い青年だろうと年の近いコルテスさんを近所のおばあちゃんの気持ちで眺める。

「お礼をお渡ししたくて」

「え! いえそんないいですよ。勝手にお持ちしただけですから」

「そうはいきません」

「これから差し上げづらくなってしまいます」

「俺もいただきづらくなってしまうので」

 私と彼の主張がぶつかった。お互いに「悪い」と思っている故、退きにくい。どちらかが折れるしかなかった。

「……では、お言葉に甘えて。ありがとうございます」

 私が頭を下げると、コルテスさんはうれしそうに笑った。

「こちらこそ。俺の気持ちの問題なので」

 言われて「そうか」と思う。きっと反対の立場なら同じことをするだろう。こういうところ、私とコルテスさんは少し似ていると思う。私は考え過ぎることはやめ、気楽に受け取ることにした。

「これからまだお買い物です?」

「いえ、もう終わりました」

「でしたら商工会にお越しいただけませんか」

「分かりました」とうなずき、コルテスさんと共に赤い屋根の建物を目指す。良い人付き合いをさせてもらっているなあと思うと、自然と笑みが浮かんだ。

 商工会のドアを開けると、カウンター前に人が立っていた。後ろ姿に見覚えがある。少し丸くなった背中に、ふわふわとした白い髪。

「あれ、じいちゃんどうしたの」

 コルテスさんのおじいさん、ジュノさんだ。ジュノさんは私たちを見て、「おや」と顔を綻ばせる。

「ルシルさんも一緒だったんだね。丁度良かった」

 私とコルテスさんは顔を見合わせ、互いに「何だろう」と首を傾けた。

「近々お宅に伺おうと思っていたんだよ」

 ジュノさんはコルテスさんと同じ雰囲気で朗らかに話し始めた。将来、コルテスさんもきっとこんな感じになるのだろうと思わせる程、彼らは似ている。

「そうですか、分かりました。先生にお伝えしておきます」

「うんうん、そうなんだけどね。ルシルさんに頼みたいことがあって」

「私に?」

 コルテスさんも初耳らしく、「何かあったの?」とジュノさんに不思議そうな顔を向けた。そろってキョトンとする私たちに、ジュノさんは「ほっほ」と笑う。

「明日は家に居るかい?」

「はい」

「じゃあ明日お邪魔させてもらおうかな」

 詳しく語らず、ジュノさんは私たちの前を通り過ぎ、商工会のドアを開けた。コルテスさんが「え!? じいちゃんもう少し教えてくれないの!?」と驚いている。しかしジュノさんは孫の追及を気に留めることなく、「リンゴ買いに行かなきゃ」と言って去っていった。ドアベルが私たちをからかうようにカラン、と少し大きめに鳴った。

「リンゴは……要りますものねえ……」

 何と言ったら良いのか分からず、空っぽの同意を口にする。コルテスさんはあきれた様子で「自由なんだから」と肩を落とした。

「わざわざここまで来なくても家で俺に言えばいいのに……」

「コルテスさんが働いているところを見たかったのでは?」

「あんなにぐ帰ったのに?」

 やっぱり、買い物の途中で思い付いたのかもしれない。不満そうにしているコルテスさんが珍しく、私は笑ってしまった。

「でもお珍しいですね、普段は割と前触れなくお越しになるのに」

「用事の相手がルシルさんだからでしょう。俺に口を利け、ということだったんだと思います。結局自分でしゃべっていましたが……」

「ふふふ」

「明日、俺も一緒に伺いますね。先約があるので、三時頃になると思います」

「分かりました。お待ちしています」

 コルテスさんからスイートポテトのお返しのクッキーをもらうと、私は家に帰った。先生にあったことを話すと「分かった」と簡単な返事。ジュノさんの用件について特に思い当たるものはないとのこと。

(一体何かしら。先生ではなく、私にご用だなんて)

 私自身も覚えはない。明日どんな話になるのかと、期待と緊張に包まれながらベッドに潜った。


 庭の植物のせんていをして戻ったら、先生がリビングのソファに転がっていた。時計を見ればもうすぐ三時。ジュノさんとコルテスさんとの約束の時間。いつから降りてきていたのだろうか。

 忍び足で歩き、様子をうかがう。起きているかと思えば微睡まどろんでいるだけのときもあるし、寝ているかと思えばしっかり起きているときもある。

(うーん、どっちだろう)

 二人が来るまではそうしていればいいけれど、何も掛けずにそこで横になるのは少し冷える時節だと、身をもって知っている。ダイニングの椅子に掛けてあったブランケットを広げ、ソローッとソファに近付いた。

(起きちゃうかな)

 気配を消して、慎重に様子を探る。心配で良かれと思ってこうして何かを掛けたことは今までにも数度ある。けれど他者の接近に敏感な先生は、体に布が触れるとたとえ寝ていたとしても目をパチッと開けてしまうのだ。

 寝る前に掛けてくれれば何ら問題はないのに。今回も目を覚ますこと前提で「どうぞもう一回寝てください!」と心の中で勢いをつけ、えいやと先生にブランケットを掛けた。

「……」

…………?

 おや、と首をひねる。これまでなら先生はほぼ同時にまぶたを開けていたのに、どうしてか目をつぶったままである。かがんでみると、かすかに上下するチェスト。これはもしや。

(寝、寝てる────!

 どう見てもこれは寝ている。眠っている。私が近付いても、ブランケットを被せられても、先生は目を覚まさなかった。感動で震えが起こる。

(どうしよう、どうしよう、寝てらっしゃる!)

 静かにハイテンションで先生の寝顔を凝視した。目を閉じると印象が変わる。何て無防備なんだろう。ツンとしたお鼻がかっこいい。眉間も寄っていない。

…………

 まじまじと寝姿を観察し、ようやく気持ちを落ち着けた私はそばに膝をついた。先生に近付いてほしくて、あんなにやきもきして。なのにこうも気を許した姿を見せられては、何だかやるせなくなってしまう。

「罪な人……」

 ため息に似た、ささやく声は誰にも届かない。

(いけない、いけない。そっとしておかないと)

 音を立てないように立ち上がったとき。不意に家の外から人の声が聞こえてきた。せっかく先生が寝ていたのに。起きてしまうなと少々残念に思いながら先生を見ると。

「来たか」

 もう起きていた。

「……君か」

 先生はブランケットと私を順に見ながら言った。「はい」と答えると、先生はフッと笑みを浮かべる。

 ギュッと心臓がつかまれたような気がした。


 やってきたのは微笑ほほえみをたたえたジュノさんと、どことなく不安そうなコルテスさん。どうして面持ちに差があるのだろうかと不思議に思いながら私は二人をリビングに通した。

「こちらお菓子です。どうぞ」

「やだ、昨日もいただきましたよ」

 コルテスさんは「これは別件なので」と視線をらして薄く笑う。そんな態度を取られては「お願い」の中身を聞くのが不安になるではないか。私が不審がっているのに気が付いたコルテスさんは、困ったように笑った。

「じいちゃんの世話好きには俺も驚きます」

「……?」

 それはどういう意味なのだろう。答えを知るべく、私はてのお茶をダイニングに運んだ。

 四人でテーブルに着くと、ジュノさんは早速話を始めた。

「最近、ご婦人とそのお孫さんが街に越してきまして」

(ああ)

 私は先日街で見かけた引っ越し業者のことを思い出した。先生に報告したら既に知っていたアレだ。

(おばあちゃんとそのお孫さんなんだ)

 耳を傾けながらほうほうと頷く。

「二人だけの暮らしのようです。ご婦人はあまり体が動かせないそうで、いつも窓辺で過ごされています。お孫さんの方は元気な青年なのですが、如何いかんせん親戚も知り合いもなく越してきたらしく、これは街として温かくお迎えしなくてはと思っております」

 コルテスさんが先程「世話好き」と言ったが、私にしてみればコルテスさん自身も相当親切な人である。ものの私のために、商工会の仕事のはんちゅう外であるにもかかわらず「家政婦」の仕事はないかと街を回ってくれたのだ。

 そのおじいさんが彼と同じように街に来た人を大事にしようとしている。胸にジンとくるものがあった。私ももう街の一員である。やれることがあるのなら、是非手伝いたい。

「私に何ができますか」

 自分から尋ねると、ジュノさんはにっこりと優しい笑みを浮かべた。

「彼らが街の暮らしに慣れるまで、しばらく手伝いに行ってあげてくれませんか」

 私は「お」と思った。つまりあれだ、手伝いということは。十六歳からのキャリアを見込まれてのオファー。確かに引っ越して直ぐであればやることは多いし、青年の手だけでは足りないこともあるだろう。

「あなたも頼りなくここに来てくれた人だし、街の人との懸け橋になるかと」

「成程」

 私は先生を見た。私としては「喜んで」と言いたいところだが、家の暮らしもある。先生からも了承を得ないと、私も行きがたい。

「……頻度は」

 先生が静かにく。コルテスさんはやっと少しこわっていた顔を緩めた。どうやら先生の反応を気にしていたみたいだ。

「毎日二時間程度来てもらえるとありがたいとのことでした。ちゃんとお給金も出すと」

「……」

 先生は少しだけ考える素振りを見せた後、軽く私の方へ顔を向けた。

「君がいいなら」

(ですよね)

 駄目とは言わないと思った。私の行動を制限する先生ではないし、頼みの内容からして断る理由もない。二時間ならば家事が滞ることもないだろうし、散歩を兼ねて買い物に行くのと同じくらいの時間だ。

「お受けいたします」

 私の答えに、ジュノさんは「ありがとう」と嬉しそうに言った。


「では、お邪魔しました」

「お茶、ごそうさまでした」

 話が終わると、ジュノさんとコルテスさんは席を立った。見送るために玄関までついていく。ジュノさんは「ミカン買いに行かないと」と言いながらトコトコと先に出た。今日はミカンの日らしい。

「コルテスさん」

 ジュノさんを追いかけようとしているところ悪いが、気になることがあるので引き留めた。話は円満に終わったのに、コルテスさんの表情は完全には晴れない。何か気にかかることでもあるのかと心配になった。

「お顔の色が優れませんが、どうされましたか」

 コルテスさんが「ああ」と苦笑いを浮かべる。そっとリビングへ通じる廊下を窺うと、コルテスさんは内緒話をするように身を屈めた。私は近くに寄った。

「ご了承いただきましたが、先生からあなたを毎日二時間お借りするのが心苦しいのですよ」

「……そ、そうでしたか」

 何だかこそばゆい気持ちに襲われる。まさかそういうことを気にしていたとは。気遣い屋さんな彼に頭が下がる。「ええっとあのその」と言葉を選んでいると、コルテスさんはクスリと笑った。

「余計なことを。失礼しました」

「む、むむ……」

 もはや口をつぐむしかない。

「あなたは先生の特別ですから」

 こちらがうっかり照れてしまう程、深くて柔らかい微笑みを残し、コルテスさんは大分先に行ってしまったジュノさんを追いかけた。彼が先生のことを慕っている気持ち、そして私のことも大事に思ってくれている気持ちがガツンと伝わってくる。

(ありがたいなあ……)

 遠くに聞こえる「じいちゃん! 待って!」という声を聴きながら、しみじみとしてドアに鍵をかけた。


 三日後。約束通り、私はくだんのお家に伺うために支度を整えた。お昼を済ませてからでいいとのことだったので、大体十三時から十五時でお手伝いする予定だ。玄関まで見送りに来てくれた先生に「帰りは十六時頃になると思います」と伝えると、頷きが返される。

「小腹が空きましたら、ビスケットやチーズがキッチンにあります」

「……」

「ミルクが切れておりますので、帰りに注文して参りますね」

「……」

「ええと、あとは」

「時間はいいのか」

(二時間だしね……)

 普段から家を離れることは珍しくないのに、先生に不便がないようにしなくてはと色々言いたくなってしまう。思えば二、三時間なんて先生は余裕で部屋に籠もっていられる。

 気を取り直して、「では、行って参ります」とぺこりと頭を下げた。

「気を付けて」

 軽く手を挙げて見送ってくれる先生に、思い切り笑顔を見せた。

 今日の天気は穏やかで、森は少々ひんやりしている。落ち葉を踏みながらちょっぴり緊張する気持ちと向き合った。おばあさんと孫。どんな人たちだろう。元気な青年、と聞くとコルテスさんをもう少し若くしたようなイメージを抱く。そうであればやりやすい。

(久し振りの感覚……)

 手に下げた籠には、土産みやげくりのシロップ漬けの瓶。リボンを結び、贈り物らしくした。ジュノさんに貰ったメモを頼りに道を行き、角を曲がる。少し開けたところに立つ、庭付きの家。門を通り、ドアまで数メートル。二人が越してくるまでしばらく誰も住んでいなかったのか、庭は少々荒れた印象だった。建物も湿気を帯びた感じがする。お手入れのしがありそうだ、とドアの前で気合を入れた。

 深呼吸をひとつして、ゴンゴンゴン、とドアノッカーをたたいて来訪を知らせる。息を詰めて待つこと数十秒。中からゴトゴトと音がした。そして私を出迎えたのは。

「誰、アンタ」

 すこぶる機嫌の悪そうな、私よりもいくつも年下に見える青年だった。くすみがかったブラウンの髪、強気な灰色の目。着崩したシャツは裾が半分ズボンからはみ出している。彼が孫でありジュノさんの言う「元気な青年」だろう。しかし思っていた元気と方向性が違う。

(これは俗に言う、ヤンチャというやつでは)

 とはいえこの程度のにらみにひるむ私ではない。先生の方が余程怖かった。私は努めてにこやかに、しかし強めの意志を持って青年に挨拶した。

「ルシル・オニバスといいます。ジュノさんからお話を伺ってお邪魔しました」

「あ、そ」

 青年は名乗ることなく、部屋の中に向かって「ばあちゃん」とぶっきらぼうに声をかける。すると「上がっていただいて」と少しかすれ気味の女性の声が聞こえた。青年はプイと背中を向け、私に「入れ」と顎で示す。これは相当歓迎されているぞ、と腹を決め、お宅の中へとお邪魔した。

 昼間なのに暗い廊下、そしてやはり薄暗いダイニング。古ぼけた感じのするマットやせた色の絵画は元の持ち主のものだろうか。塗装の剥がれたドア枠を見上げて少々寂しい気持ちになる。きちんと手入れすればうんと素敵になるだろうに。

 果たしてあの青年がそこまでするだろうか。見た目で判断して悪いが、食事もどうしているのか心配になってきた。

(おばあさんが、もしも雑な暮らしに耐えているのだとしたら……)

 私は色んな意味でハラハラしながら、青年が入っていった部屋に足を踏み入れる。

(あれ……?)

 そこは何だか通ってきたところと比べると異世界で、私は一瞬戸惑った。れいじゅうたんに整理された本棚、そして窓辺で安楽椅子に座る身綺麗な老婦人。白い髪を編んで下の方でまとめている。上質そうなワンピースが深い色のひだを作っていた。

 彼女は私に向かって柔らかく微笑んだ。

「よくいらっしゃいました、ルシルさん」

 婦人は手招きし、私はそれに従って彼女の近くに立つ。すると、優しく手を握られた。

「来てくださって嬉しいわ。優しそうなお嬢さんだこと。エレーナ・ブルームよ」

 それはそれは上品なご挨拶だった。私は姿勢を正して、改めて「ルシル・オニバスと申します」と自己紹介をした。

(で、こちらは……?)

 脇でムスッとしている孫にちらりと視線をると、エレーナさんは「あなたはご挨拶したんでしょうね」と優しく厳しい口調で孫に訊く。

「……バーレイ」

 孫は渋々名乗った。二人の力関係が何となく把握できたような気がする。

「こちらよろしければどうぞ」

「あら何かしら、まあまあ!」

 持参した栗のシロップ漬けの瓶を籠から取り出し、エレーナさんに渡す。エレーナさんの顔がパッと明るくなった。

「ご自身で作られたの?」

 にこにこする彼女に「はい」と答えると、「そう。素晴らしいわ」ととても感心した様子で瓶の中身を眺めていた。

「ありがとう。はい、バーレイ」

 エレーナさんは孫に瓶を差し出すと、孫が飛びつくように瓶を受け取る。何だろう、言うことを聞かないと怖いのだろうか、このおばあちゃん。っすら寒気がしたが、孫はエレーナさんを気にすることなく、栗のシロップ漬けをかたきのように睨みつけている。栗に恨みでもあるのだろうかという形相だ。

「バーレイ。お茶を淹れて頂戴」

「あ、私が」

 手伝いに来た身である。お茶を所望されるなら私がやろうと思ったのだが。エレーナさんはやんわり「いいえ」と私をとどまらせる。バーレイさんも、命令したエレーナさんではなく、手を出そうとした私へと鋭い視線を投げ、「フン」と言って部屋をさっさと出ていった。

(ど、どういう人たちなのかしら)

 何となくピリピリした空気の家だなと思った。エレーナさんにされて突っ立っていると、「ルシルさん」と名を呼ばれた。

「申し訳ないのだけど、そちらの椅子を持ってきてくださる?」

 私は「はい」と彼女の視線の先にある椅子を持ち上げ、指定された場所へと動かした。エレーナさんは満足そうに頷き、「どうぞ」と言って今私が持ってきたばかりの椅子を指す。私は一瞬キョトンとしてしまった。

(私が座る用だったのね……)

 勧められたからにはとりあえず座る。エレーナさんはまた嬉しそうに笑った。

「直ぐお茶が来ますから」

 孫が現在鋭意淹れているであろうお茶。既に私は「このおばあちゃん強いぞ」という認識を固めていた。私が「お手伝いは」と訊くと、「大丈夫よ」と返ってくる。

「あなたはどこのご出身なの?」

「ブラメールです」

「いいところよねえ。静かで」

「ご存じですか」

 あんな田舎いなかを、と言いそうになるが、引っ込めた。エレーナさんは「もちろん」と頷く。

「私、色んなところに住むのが好きなの。バーレイは嫌かもしれないけど」

「だからコートデューへ?」

「そうよ。行ったことのないところに行きたいの」

 中々はつらつとしている。「若い頃は飛び回っていたのよ」と冗談めかして言う彼女に少女の影を見た。強くて可愛かわいいおばあちゃんである。

 そんなことを喋っていると、何やら甘い匂いが漂ってきた。

「ん?」

「あらあらあの子ったら」

 エレーナさんが呆れた顔で部屋の入り口へ顔を向ける。

「お茶はしばらく来ないかもしれないわ」

 肩をすくめて言った彼女の言葉の意味が分かるのは、三十分後のことだった。


「できた」

「一体どれだけ茶葉を蒸らしたのかと思ったわ」

 エレーナさんと他愛たわいのない世間話をしていると、仏頂面のバーレイさんがトレイを持って現れた。テーブルに置かれたのはティーポットとティーカップ、そして。

「栗のパイ……!」

 つやつやとしたパイ生地にゴロリと栗が入っている。私はハッとした。この栗は。

「いただいたもの、もう使ってしまったの?」

「……」

 エレーナさんの質問にバーレイさんは答えない。答えをはぐらかすように素知らぬ顔で余所を向いた。

「この短時間で……! わあ、生地が薄い……!」

 私は持ってきた栗のシロップ漬けが素敵なお菓子に変身したことに驚きを隠せなかった。しかもこのぶっきらぼうな青年が作ったというのだから仰天である。褒めるところしか見つからないパイに感動し、「すごいですね」とバーレイさんに話しかけた。

「……」

 凄まじいしたり顔が返ってきた。私が座っているからか、かなり上の方から「どうだ」と見下ろされた感じがした。

「……」

 何とも言えぬ気持ちでいる私へ挑戦的なまなしを投げると、バーレイさんは大股で部屋を後にした。強い。あの孫も強い。

「人付き合いが苦手な子なの。誰にでもみついてしまって。困ったものだわ」

 眉を下げるエレーナさんに、私は首を横に振り「気にしていない」ことを示した。今はそれよりもその青年がこしらえたパイに興味がある。

「ふふ、いただきましょうか」

「はい」

 良いあんばいに蒸らされた紅茶を一口飲み、パイにフォークを立てる。薄い皮はサクッと軽い。とても舌触りがよく、バターの利いた生地が甘い栗を引き立てた。あまりの美味しさにパチパチと瞬くと、エレーナさんが「美味しい栗だこと」と目を細める。

「ありがとうございます。でも、このパイ生地がとっても美味しいです。びっくりしました」

「今の彼のブームなのよ。毎日パイが出てくるわ。生地を切らさないの」

「毎日作ってるんですか……」

「そう。だから家の中のことが中々進まなくって」

 私はとても納得した。毎日パイ生地をね、お菓子作りに精を出していたら必要最低限の家事しかできなかろう。私はここに来た意味が大いにあると思い、脳内で計画を立てた。今日はお手伝いを「いい」と言うエレーナさんの厚意で顔合わせのお茶会しかしていないが、明日からはあっちもこっちも手を入れようと決意した。

 帰り際、失礼でない程度にお家の中を観察したけれど、窓拭き、カーペットの洗濯、ペンキ塗り、建て付けの修繕等、挙げればきりがない程仕事を見つけた。毎日二時間でどこまで進むか分からないが、住まいをきちんと整えなくてはと燃える。

(これは生活が落ち着くまでしばらくかかりそう)

 夕暮れが始まる帰り道、森に差しかかったところでミルクの注文をしていないことを思い出し、慌てて引き返したせいで帰りは予定よりも少し遅くなってしまった。

 森のトンネルを抜けると、家にあかりがいている。二階は暗い。リビングに先生が居るらしかった。私は先生の待つ家へと走る。

「ただいま戻りました!」とドアを開けるなり叫ぶと、玄関には先生が立っていた。

「……おかえり」

 沈む前のゆうのような、心ににじむ声。暗い森を歩いてきた私の気持ちが溶けるような感覚がした。

「お夕飯の支度をしますね」

 鍋に鶏肉を放り込み、野菜と共に弱火で煮始める。他の用意が整うまでそうしておけば、おのずと美味しいスープが出来上がる。並行してポテトをでて潰し、ローストしたガーリックを添える。ハーブを散らすのを忘れずに。

(あとは、マリネを出して。豆を辛く煮よう)

 せっせと手を動かしているキッチンの向こうから、先生がこちらを眺めている。豆を火にかけ、「どうかなさいましたか」と尋ねると先生は首を緩く横に振った。

「……鮮やかなものだと」

「ああ、この豆ですか? 良い色ですよね、艶があって」

「違う」

 違ったらしい。丁度「良い豆だ」と思っていたところだったので、てっきり豆のことだと思ってしまった。

「手際の話だ」

 ぴたり、と私の手が止まる。

「君の仕事が乞われるのは納得がいく」

「お、恐れ入ります……」

 私は小さくなった。何をいきなり改めておっしゃるのかと思えば。

(あれか、私がお手伝いに行き始めたからですね)

 先生は「疲労はないか」と心配までしてくれる。今日はエレーナさんとお喋りしていただけだったから、体力的には何も負担はなかった。

「本日はご挨拶でしたので大丈夫です。ありがとうございます」

「……無理をする前に言うように」

 優しい申し付けだ。喜びを噛みしめるように口を結び、私は頷いた。

「仕事はあるか」

「では、スープの味見を」

 先生は「承った」と言ってキッチンへやってきた。そして小皿にすくって味をみると、棚からコショウとビネガーを取り出した。今日のスープは特別だ。


 次の日。私は意気揚々と籠にお掃除グッズを詰め込んで家を出た。やる気満々で、ついつい道中早足になった。家に着くなり頭にピシッと三角巾を被る。私がエプロンを取り出したところで、振り返ったバーレイさんが「何してるんだこいつ」という顔で見てきた。

「お掃除が一番必要なところはどこですか」

「は?」

 私の大変分かりやすい質問に、バーレイ氏は更に人相を悪くした。「えー」と内心で驚いていると、彼は顎をしゃくってエレーナさんの部屋を指す。

「アンタはあっちだろ」

(そうなの?)

 さも当然という風に言われ、面食らう。

(おかしいな。あれ? 今日から私はお手伝いさんなのでは?)

 しきりに首を捻りながら大人しく彼の言う通り、昨日お茶した部屋に入った。後ろからバーレイさんの視線が突き刺さる。痛い。

「失礼いたします」

「いらっしゃい。どうぞ」

「どうぞ」と共に昨日座っていた椅子を示された。私は「何だかおかしいぞ」と思いながら、エレーナさんの方へ歩み寄る。

「あの、私、ジュノさんからお手伝いとお伺いしていたのですが」

「ええ勿論」

 あっけらかんとした物言いに戸惑いを覚える。ならばどうしてここの部屋に通されるのだろうか。どう見てもこの部屋は一番綺麗だ。

「お掃除したり、お料理したり、修繕したりするのかと思っていました」

「あらあら、何でもできるのね」

 エレーナ婦人はゆったりしたまま「うふふ」と笑った。困っている私の表情を読み取り、「まあお掛けになって」と再度椅子を勧める。何となく釈然としない思いで私は着席した。

「お手伝いにも色々あるわ」

「はあ……」

「あなたにはね、私の話し相手になってほしいのよ」

 話し相手。私は目を瞬いた。

(そういう仕事か!)

 ようやく合点がいった。先生のところでは全く需要がなかったどころかむしろ積極的にその仕事をしようものなら早々に解雇されていたであろう『話し相手』。世の中には家事手伝いに加えてお喋り相手を求める家主が存在する。初めてあたった。

 私は大分納得したが、それでも滞っている家の中のことが気になった。

「承知しました。でも、お掃除もお手伝いしますが」

「そういうことはバーレイに任せているから。あの子もやればできるのよ」

 断られてしまった。孫の彼が家事をしているのに、雇われている私の仕事がエレーナさんとお喋り。何だか非常に申し訳ない気持ちになる。これは相当面白い話をしないと釣り合わない。妙なプレッシャーを感じた。

 ごくり、と喉を鳴らしたところで本日のお茶とお菓子が運ばれてくる。テーブルに並べられたのは凝ってらっしゃるとおうわさのパイ。中に詰められたリンゴが蜜と共に今にもあふれんとしている。

「今日も美味しそうなパイですね」

「……ふん」

 バーレイさんはギラリと私をいちべつすると、何も言わずに去っていった。

「さ、どうぞ」

 エレーナさんは孫のギラギラな態度を気にすることなく、私にお茶を勧める。本当に私はお話し相手として呼ばれたらしい。最近面白しい話はなかったかと必死に考えを巡らす。

(……駄目だ!)

 頭の中に浮かんできたのは全て、世俗のあかにまみれた、ハッキリ言ってしょうもなくて笑える話。笑うしかない話とも言う。とても上品なご婦人に聞かせられるものではない。他にはないかと、私はあらゆる記憶の引き出しをひっくり返した。

(どうしよう、帰りに本屋でジョーク集でも買おうかな……)

「百面相をしてらっしゃるわ」

 エレーナさんは目をぱっちり開いて、面白いものを見つけたような顔をしている。私は両頬をパチンと両手で押さえた。

「失礼しました。何かお聞かせできる楽しいお話はなかったかと考えていました」

 するとエレーナさんは一瞬キョトンとし、フッと吹き出した。こんなご婦人でも吹き出すことがあるのかと私はある種の感動を覚える。勿論、大変ささやかなものではあったのだが。

「うふふ、真面目な方。いいのよ、気負わなくて。そうだ、あなた編み物はおやりになる?」

 私は「はい」と頷く。エレーナさんは嬉しそうに両手を合わせた。

「じゃあ明日は一緒に編み物をしましょう」

「は……はい!」

 私は元気良く返事をした。ジョーク集を買う必要はなさそうである。二時間も私の拙いジョークを聞き続けるのは彼女にとっても拷問に近いだろう。良かった、方針を示してくれる人で、とあんした。

 こうして、思ったのとちょっと違った私の「お手伝い」が始まったのであった。

 お手伝いの子が帰った後。薄闇に包まれた家に灯りがポツリとともる。エレーナはキッチンで夕食の準備をしている孫と、依然としてほこりっぽいダイニングを見比べ、小さくため息をいた。

「いつになったら綺麗になるのかしら」

 バーレイは何とも思っていない風に「さあ」と返す。エレーナは肩を竦めた。

「どうせ直ぐにまた引っ越すんでしょ」

「そうだけど。住んでいる間はきちんと住まないと」

「二人だけなのに?」

「二人だけでも、よ」

 不満そうに眉を寄せるバーレイに、エレーナは慈愛に満ちた顔で微笑んだ。

「たとえ一人でも、何でもできるようにならなくちゃ」

「……」

 エレーナさんのお家に通い出して三日目。ガチャン、と多少乱暴に目の前に置かれたのはクレームブリュレ。パイでないことに驚き、私はすかさずバーレイさんを見た。すると彼は昨日よりも大変不機嫌に「『今日は』パイじゃねーよ」と言い捨てて部屋を後にした。

「ええ……」

 思春期の男の子って難しい。どうしてご機嫌が悪いのだろうか。何かしただろうか、いや身に覚えがない。

「『今日は』っておっしゃいましたね……」

「何だか強調していったわね」

 編み針を手に、エレーナさんと顔を見合わせる。ふと私は昨日自分が言った言葉を思い出した。

『今日も美味しそうなパイですね』

 まさか、と彼が出ていった方をジロリと見る。あの言葉をいやだと受け取ったのだろうか。「今日も」「パイ」。そんなつもりではなかった。がっくりと項垂うなだれると、エレーナさんが「気になさらないで」と私をなだめる。

「召し上がって頂戴。紅茶が冷めてしまうわ」

 エレーナさんのやんわりとした言葉に流され、私はもどかしさと共に紅茶を飲み込んだ。続けて「そちらもどうぞ」という視線に応え、クレームブリュレも一口。バニラの香りが高く、卵の味が濃い。パリッとしたほろ苦い表面と大変良く調和している。

(う……! 美味しい……! まるでお店のデザート!)

 ついうなってしまう逸品に目を白黒させていると、エレーナさんは「今何を編んでいらっしゃるの?」とお喋りを始めた。

「自分用の靴下です。先日穴が開いてしまって」

「寒くなるものね」

「エレーナさんは何を編んでいらっしゃるのですか」

「肩掛けよ。この毛糸、とっても暖かいの。分けて差し上げるわ」

 エレーナさんがひょいひょいと毛糸の玉を私へす。糸の密度の高い初めて見る毛糸だった。

「これはね、標高の高い山岳地方で重宝されている毛糸なの」

「もしかして、以前お住まいに……?」

「うふふ」と貴婦人は笑った。どうやらそういうことらしい。「行ったことのないところに行きたい」と先日彼女は言った。

(私が思っているよりもあちらこちらへ移住しているのかも……?)

「他にはどのようなところにお住まいだったのですか」

 自分の知らない土地の話は、おとぎ話を聞く感覚に近い。私はワクワクして、エレーナさんに話を求めた。「聞き役」としてお相手を務めるのもありだろう。

「そうねえ。海の近くにも住んでいたこともあるし、洞窟の中で暮らした時期もあったわ」

「ど、洞窟……!?

「短い期間だけど」

 私の驚き顔を見てエレーナさんは「ぼうけんたんがお好き?」と微笑む。お好きかお好きでないかと訊かれたら正直お話のジャンルとして特別大好きという宗旨はないけれども。目の前で優雅にお茶をたしなみながら編み物をしている気品のあるご婦人が、「洞窟で暮らしていました」とあっては食いつかない訳にはいかない。何がどうなってそうしていたのか。そしてそこからどういうことがあって今に至っているのか。

 私は彼女の質問に「はい!」と前のめりで返事をした。


「──で、そこに財宝が隠してあるという暗号を読み解いて」

「お待ちください」

 私は両手を挙げてエレーナさんにストップを要請した。エレーナさんは「どうぞ」と言ってお茶を飲んだ。こめかみを指でギュッと押さえ、聴取した情報を整理する。もう頭の中がパンパンである。

(待って? ええと? 何だっけ? 古代集落のおさの家から? 手紙が見つかって?)

 聞いたままを記すとこうだ。洞窟暮らしに至るまでにはいくつかの過程があった。まずエレーナさんは、古くから放置されていた古代集落の見物に行き、そこで長の家とされる建物の地下に部屋を発見。そこには植物の繊維で作られた紙が良好な状態で残っていて、何とか文字を拾うと手紙だということが分かった。古代文字の専門家と共に本格的に内容を検証し、かつてその地域を掌握していた国が後に別の国に敗れた際に隠した財宝の数々が、どこかに眠っているということを知る。そのどこかを割り出すために、長とやり取りがあったであろう地域に出向き、より詳しい情報を探し出し……。

「結果その場所が洞窟だった、ということですか……?」

 パチパチとささやかな拍手をいただいた。私はドッと疲れ、信じられない気持ちでエレーナさんへ視線を送る。洞窟に寝泊まりしていたことも勿論だが、財宝の有無が気になって仕方がない。気になることが大渋滞している。何者なんだ、このおばあちゃん。

「それで、宝は……」

「あったのよ。たくさんの宝石の付いた装飾品がね。どこかの美術館で見られるわ」

 あまりに軽く言ってのけるものだから、こちらの「えええ!?」と叫びたい気持ちがしぼむ。ぼうぜんと、「そうなんですね」としか言えない。

「各地にお住まいというのは、もしかして……?」

「うふふ、あらもう二時間。ご苦労様。また明日。お話聞いて頂戴ね」

 優しく本日の業務終了を告げられ、私はこの大きな衝撃を胸に抱えたまま退出せざるを得ない。後ろ髪引かれる思いでエレーナさんにおいとま申し上げた。まだ心臓がドキドキしている。

「わ!」

 部屋を出たところに不機嫌そうなバーレイさんが立っていて、別の意味でドキッとしてしまった。ドキッとされた側のバーレイさんはムッとしかめ面になる。

「すみません。びっくりして……」

「……チッ」

 明らかな舌打ちをされた。何でも気に障るお年頃なのかもしれない。それ以上刺激しないよう、私は「失礼します」と言って頭を下げる。するとバーレイ氏は「パイだけじゃない」と怒っている動物が唸るように言った。

(お菓子の感想を求められている……!?

 年頃の子は難しい。私はくるりと振り返り、努めて穏やかに伝えた。

「とっても美味しかったです。ありがとうございました」

「ふん」

 さして嬉しそうでもなかったけれど、きっとさっきので正解だったのだろう。予期した反応が返ってこない点に関して言えば、初期の頃の先生とよく似ているなと思った。

 今日は話を聞くだけでも体力を使い、重い足でズシズシと家に帰った。干して出かけた洗濯物を取り込んでから家に入ろうとすると、既に物がなくなっている。どう考えても先生が取り込んだに違いない。「ひえ!」と飛び上がり、私は勢い良く家のドアを開けた。

「ただいま戻りました! 先生、洗濯物ありがとうございました!」

 しかし飛び込んだリビングに先生は居なかった。二階へ続く階段を見上げる。

(私が居ない間、何をしてらっしゃるんだろう)

 たった二時間。されど二時間。私が家に居るときだって、先生が何をしているか逐一つぶさに把握してはいないけれど。

(痕跡があると、途端に先生の行動が気になってしまう)

 キッチンに用意していたチーズは少し減っていたし、ケトルにはほんのり熱が残っている。少し、意外だなと思った。洗濯物を取り込んだり、お茶を淹れたり。二階に籠もり切りではなく、家の中をウロウロしているらしい。

(お買い物や散歩に行くだけだったらこんなことないのに)

「……明日から、おやつを飲み物と一緒にトレイに載せておこうかな」

 もしよければ、というくらいの気持ちで用意していたチーズがちゃんと減っているということであれば、最初からお持たせした方が先生に手間をかけなくていい。飲み物も量を増やして渡そうか、冷めやすい時期なので迷う。

「後で、ご希望を伺おう」

 夕食の用意を始めながら、先生と話すことを考える。どういう言葉が返ってくるだろうか。穏やかで静かな暮らしにスパイスが加わるように、目新しい話題が増えるということは悪くないことだと思った。

「昨日はどこまでお話ししたかしら?」

「海峡に沈む海賊の宝を見つけたところです」

 本日も上品にしているエレーナさんは「ああ!」と手を鳴らした。エレーナさんの冒険譚、もといトレジャーハンター記録を拝聴して本日でもう一週間以上が過ぎた。毎日きっかり二時間、測っているかのような正確さでエレーナさんは私に話をする。時間に厳しい人なのか、人を雇うことの心得がしっかりしている人なのかは分からないが、毎回続きの気になるいいところで終わるので巧みな話術の持ち主なのは確かだ。

(何だか、私の方が楽しませてもらっているような)

 はっきり言って、私は「話し相手」として雇われることに慣れていない。これまでの家政婦稼業では、家主の身の回りの世話や炊事洗濯等を任されて給金を貰っていた。それ故お話だけを仕事とすることに少々難しさを覚えている。苦痛な話を聞き続けたり、抱腹絶倒の面白い話をしなくてはならないならまだしも、心躍る楽しい話を聞かせてもらえる上に美味しいお茶とお菓子まで付いてくる。

「来てくれて嬉しいわ」とエレーナさんは言う。それを聞くと、私も嬉しい。しかし、だからこそ、「お金を頂かなくてもお話をしに来るのに」と思ってしまう私が居る。むしろ、払わなくてはならないのは私の方では、という気さえしてきた。

 彼女が雇用の関係を持ちたい理由は教えられていない。任されるのが家事であれば手間賃を貰っていると思えばいいのだけれど。今回はちょっと違う。雇い主のことはあまり詮索しないのが私のやり方である。が、慣れていないせいか、彼女にどういう意図があるのか気になってしまう。

(知り合いが居ないから? まさか自由に人とお話ししてはいけない生まれの人? それとも単純に、毎日自分のために人に二時間割かせるのをお礼なしにはお願いしづらいと思っているから?)

 考えれば考えるほど、自分が雇われている意味が分からなくなってきた。街の暮らしに慣れるまで、という曖昧な期限の終わりはいつ来るのだろうか。私という「街の人」が彼女とみになることがそれを指すのであれば、目標は直ぐに達成できる。しかし街の暮らし、というともっと広義のような気がした。

(私も街の人のお話をたくさんして差し上げればいいのかな。それとも私が誰かとのかおつなぎになればいいのかな。あ、外部から移り住んだ私がどうやって街に馴染んだかをお伝えすればいい? あれ? でも二人は私よりも移住回数は格段に多そうだし……)

 エレーナさんがどこまで望んでいるのか、確かめる必要があるのかもしれない。

「うふふ、あなたとお話ししていると娘を思い出すわ」

「それは、バーレイさんのお母様ですか?」

「ええ。では、また明日ね」

 意図的になのかどうかは分からない。話を掘り下げる時間は残されていなかった。私に優しく業務終了を告げる彼女の声を受け、その心が読み取れないもどかしさを覚えた。


 部屋を出たら、バーレイさんがせっせと何かをしていた。小麦を捏ねたようなものを綺麗に纏めて、表面が滑らかな球が二つ仕上がったところだった。ふと、頭をよぎるのはエレーナさんと最後に交わした会話。

(バーレイさんの、お母様)

 さっきの今なので、口に出したい気持ちがもたげた。しかし彼の纏う雰囲気がそれを阻む。いつになったら心を開いてくれるのだろうか。

 相も変わらず、この家はエレーナさんの部屋とキッチン以外は雑然としているし、埃っぽく湿っぽい。私は不要と言われているのを承知でバーレイさんにこそこそと話しかけた。

「あの……出過ぎたことかもしれませんが、お話し相手以外にも何かしますよ」

 バーレイさんは案の定ギュッと眉を寄せた。

「いい」

(ですよねー)

 やっぱりか、と肩を落とす。しかし、「でも」とバーレイさんが言葉を続けた。

「……ケーキ型が欲しい。一回り大きいやつ」

…………

「案内しろって言ってんだけど」

 まさか過ぎるお願いに、一瞬頭が真っ白になった。意外なのはケーキ型ではなく、道案内を頼まれたことそのもの。私はコクコクと頷き、いたく不本意そうな青年と家を出た。

「にゃあん」

「あれマカロンさん」

 私たちと入れ違いに、この街を渡り歩いては住人たちから食事を貰っている猫のマカロンさんが家の敷地に足を踏み入れる。

『あらルシルちゃん、来てたの』

 私を見て挨拶をするようにひと鳴き。手を振って「こんにちは」と言うと、尻尾をゆらりとくねらせた。

「こちらでご飯を?」

「ばあちゃんが。でもアイツ、絶対触らせないな」

「ああ……ね」

 マカロンさんは大変可愛い猫ちゃんだ。しかし可愛さ以上にそれはそれはお高くて、したたかでたくましい。人からしっかり食料は貰うが、人へのリターンはなし。馴染みの私にも、そして頻繁にご飯の提供をしているリリアさん、コルテスさんにも決してでさせないのが彼女の流儀。

(どこでも誰にでもそうなんだなあ)

 庭を抜けて勝手知ったる風に家の窓にちょこんと座るマカロンさんを見送り、私たちは商店のある通りを目指した。

 背後から「あらあら猫ちゃん、また来たの」と喜んでいるエレーナさんの声が聞こえた。


 せっかくなので案内がてら、他の店や、店以外も紹介することにした。

「ここはミルクをおうちに運んでくださるので大変助かります」

「……ふーん」

「あそこは資材屋さんです。材木とペンキのまとめ買いキャンペーンは決して逃さないように」

「……はあ」

 伝える情報を耳よりなものに厳選しているからか、バーレイさんは特段うるさがる様子なく耳を傾けている。どの程度しっかり聞いてくれているのかは不明だが。そうして歩いていると、赤い屋根の建物が見えてきた。

「あ、あれが商工会です。マカロンさんがよく出入りしているところです」

「あっそ」

 商工会にはあまり興味がなかったらしい。あいづちを打ってくれただけでもいい方かもしれない。私は他に面白いものはないかと辺りを見回す。しかしバーレイさんはそんな私の意図に気が付いたのか、若干イラッとした様子で「いいから。早く連れてけよ」と催促してきた。

(どうしてこんなにつっけんどんなのかしら)

 年下の彼にムキになって怒るのも大人げない。ここは大人の余裕を見せなくては。私が自分に言い聞かせ、「こちらです」と進行方向を指したとき。その先で見知った人がこちらに手を振って歩いてくるのが見えた。

「リリアさん!」

「ルシルちゃーん」

 リリアさんはシックでかつれんな雰囲気の素敵なワンピースに身を包み、買い物袋と花束を手に抱えていた。袋から長いパンがはみ出している。私は何も言わないバーレイさんを背に、リリアさんに向かって小走りした。彼女も嬉しそうにこちらへ足を進める。

「久し振りね。元気だった?」

 小首をかしげ、柔らかく笑うリリアさん。胸の中がきゅんとした。

「はい。リリアさんもお元気にされてましたか?」

「ありがと。この通りよ。あら、その子は?」

 リリアさんの視線の先にはバーレイさん。先行した私に追いつき、背後にぬんと立っていた。気配がなかった。怖い。心なしか表情が固い。どうしたのだろう。いぶかしみながら私はリリアさんに彼を紹介する。

「最近おばあ様と越してこられたお孫さんのバーレイさんです」

「ああ、誰か引っ越してきたってお客さんから聞いたわ。初めまして、リリアよ」

「……」

(えー。何も言わない)

 ジトッとバーレイさんを見れば、見返してきた瞳が何かを訴えている。てっきり得意の無愛想かと思えば、何というか、困っているような印象を受けた。詳しいことは一切分からなかったが、せっかくリリアさんが話しかけてくれたのだ。バーレイさんがどうしたのかは後で聞くとして、今は話の間を持たせなくてはならない。

「暮らしに慣れるまで、お手伝いに行っているんです。バーレイさん、お菓子作りが上手でいつも美味しいものを出していただいています」

「ええ! すごーい! それなら私もお手伝いに行っちゃおうかしら」

 ちゃたっぷりに笑う彼女。文句なしに可愛かった。

「……」

 やはり何も答えない彼。私に対してだったら若干失礼気味でも何かは言うのに。口も開かないどころか、誰とも目を合わせないでいる。もしかして緊張しているのでは、と思い至った。

(可愛いところもある)

 リリアさんがうんともすんとも言わないバーレイさんに気を悪くした様子はなく、むしろ彼が緊張してしまったことを察したようで、大変エレガントに「開店の準備をしなくっちゃ。またね二人とも」と別れの挨拶を告げる。くるりときびすを返したときにたっぷりとした黒髪が翻る。何だかいい匂いがした。

 ひゅるり。冷たい風が吹いた。残された私たちはリリアさんの背中を見守る。

「来たばかりの頃、私もお世話になりました。彼女自身も確か余所からの人だったはずです。とっても優しくて……あれ?」

 私が説明している途中でバーレイさんがスタスタと歩き始めた。私は追いかけ、隣に並ぶ。また知らぬ間に機嫌を損ねたかと思ったが、のぞき込んだ彼の表情は一概に気分を害しているとは言えなかった。何かを我慢しているような、諦めたような。複雑な感情が彼の瞳の中に見えた気がした。

 そのまましばらく黙って歩き続けると、不意にバーレイさんはポツリと言った。

「仲良くなるなって、言われてる」

 私以外には聞こえない、小さな声だった。

(それは、どういうこと?)

 誰に、どうして。浮かんだ疑問を口にする前に、バーレイさんはプイとそっぽを向いて心を閉ざしてしまった。自然と歩みの遅くなる足が、地面をこすった。バーレイさんが一歩二歩と先を行く。

「バーレイさん?」

「……」

 バーレイさんはやはり私を見ることはなかった。会話はもうできず、私たちは無言でケーキ型を売っている店を目指した。


「できた」

 ひょいと掲げるのは、手製のミカンの皮入浴剤。先日から食べてはせっせと干していたかんきつるいの皮の水分がいい感じに抜けたので、細かく切って袋に詰めた。袋の口をひもじれば出来上がり。匂いを嗅ぐと爽やかな良い匂いがする。

「明日、バーレイさんにもあげよう。これで少しは気分転換になるかなあ……」

 バーレイさんに街を案内してから五日つ。バーレイさんと顔を合わせても、直ぐに目を逸らされてしまう。帰り際に私に何かを言おうとする素振りを見せることもあったが、何も言われることはない。躊躇ためらった挙句、やめてしまうようだった。部屋の中を歩き回りながらいらったように頭をいている姿も目にしている。彼がスッキリしないでいる、あるいは悩んでいるというのが見ていて手に取るように分かった。

 原因はやはりアレだろう。『仲良くなるなって、言われてる』。誰が彼にそう言ったのか。バーレイさんはエレーナさんと二人暮らし。私が思いつく人はエレーナさんしかいない、のだが。

(エレーナさんが、「仲良くなるな」なんて言うかなあ……?)

 そもそもそんなことを孫に言い付ける理由が分からない。彼女自身はあんなに話し上手で朗らかなのに。

(孫が良からぬ付き合いに巻き込まれないようにしている、とか……?)

 存外厳しい、いや厳し過ぎるおばあ様なのかもしれない。私が家事を手伝うと言ってもバーレイさんにだけやらせようとするのも、孫への教育の一環なのだろうか。それにしたって誰とも仲良くしてはいけないというのは少々度が過ぎてはいやしないか。

(……いや待って。エレーナさんだって、私以外と話をすることがあるのかしら)

 私が出向いて出会ったことがあるのはマカロンさんだけ。バーレイさんは勿論、エレーナさんが誰かとあそこで話しているのを見たこともなければそんな話を聞いたこともない。

(もしかしたら、ジュノさんがお顔を出しているかもしれないけれど)

 自ら交流を望むのであれば、彼女は私かジュノさんにそう頼むだろう。しかし、現状でそうなっていない、ということは。

(彼女自身も広く人付き合いをしないようにしているのでは)

 そんなことを思い始めたら、街の人をエレーナさんに紹介してみようかという気持ちが萎んでしまった。もとよりそういう気が彼女にあったなら、既に希望されていておかしくない。お金を払う関係にある私にならお願いしやすいはずである。

「……でもなあ」

 たとえ教育方針であったとしても。エレーナさんの生き方だったとしても。それはエレーナさんの考えであり、バーレイさんが同じとは限らない。

(人付き合いを制限されて不満がないはずはないでしょう……)

 ただ、バーレイさんも不思議なもので、人付き合い禁止令を守る割には、家の中のことに関しておばあさんの言い付けに従っている様子はない。手入れを必要とする家の状態は毎日変わらない。むしろ庭に植えられている木の葉が落ち放題で、散らかっていく傾向にある。

(ご家庭の事情は様々だけど……)

 バーレイさんのあの顔を、エレーナさんは知っているのだろうか。

「行って参ります」

 ルシルの声に少し疲れが窺える。連日余所の家とここの仕事をしているのだ。疲労がかさむのは当然のことだろう、とフィリスはジロリとルシルを見た。

「な、何でしょう」

 その視線に気が付いたルシルがビクリと肩を揺らす。

「何かあったのは君では」

「え」

 ルシルは目を点にした。さながら「どうして分かったのか」という顔で。フィリスがそのままルシルに言葉を促すように眺めているとルシルは苦笑いを浮かべた。

「エレーナさんとお孫さんのことを考えていました。お家によって色々複雑だなあと」

「……そうか」

 彼女は見守ることに慣れている。けていると言う方が正しいのかもしれない。手を出すべきときと場合をよく心得ている。大家族という環境と、自立して働いて生きてきた経験のなせることだろう。

「お二人にはお二人の生活の仕方がありますから、軽率に口を出すこともできませんので、もう少し理解を深めたいなと。と、勝手に私が思っているだけです。気をみ過ぎたかもしれません」

「疲れはないか」

 ルシルはパッと笑い、両手で拳を作ってみせた。

「疲れは全然!」

「そうか」

 僅かに眉を下げたフィリスに、ルシルはもじもじとしながら「ありがとうございます」と言う。

「あの、では。改めて。行って参ります」

 先程よりは声が明るい。フィリスは目を細め、ルシルの髪に付いていた何かのくずを摘まむ。

「……気を付けて」

…………はい」

 背を丸め、頬を押さえて歩いていった背中が森に消えるのを見守った。

「マカロン、最近丸くなった……?」

「にゃあん」

 コルテスはいつも通り窓辺に現れた猫に餌を差し出しながら違和感を口にした。ふっくらした体つきの猫は、満足そうに尾を揺らす。

「どこかでいいもの貰ってるな?」

「にゃーん」

「どうかしらね」と聞こえるマカロンの声。コルテスは肩を竦めた。あちらこちらへ彼女の行きつけがあるのはよく知っている。自分の所もその内のひとつ。

「うちはツマミだもんな」

『それがいいのよ』

 リリアのところはしっかり昼食。粉屋のロイズはマカロンのためにいい魚をいつも取っておいてあるとか。

「しっかりしてるよなあ」

『ありがと』

 コルテスの提供した肉や魚のかけら盛りを平らげると、マカロンは大きく伸びをした。これからひと眠りして、最近お気に入りのあの家に行く。

『じゃあね』

「あんまり太るんじゃないよ」

『余計なお世話よ』

 フン、と失礼な男に背を向け、マカロンはぴょんと乗っていた木箱の上から飛び降りた。一旦昼寝をしにすみに戻る。ゴロンと寝転がり、今日のおやつは何かしらと考えながら目を閉じた。


「あら猫ちゃん、いらっしゃい」

「にゃー」

 マカロンがきちんと門から入り、庭を横切って家に向かっていくといつものようにエレーナが窓から顔を出した。その窓の傍にちょこんと腰を下ろすと、「いい子ねえ」と言って用意していた皿がそっと差し出される。ここは他の家と違い、素材そのままではなく、かなり手の込んだ猫用のおやつを提供してくれる。腕のいいのがいる、とマカロンは大層この家を気に入っていた。

「今日はカップケーキですって。どうぞ」

 皿の上に載っているのは人が口にしているのとそっくりのケーキだった。マカロンは鼻を近付け、様子を探る。

「ふふ、猫ちゃん用にあの子が作ってくれたから大丈夫よ」

『そうみたいね』

 マカロンは「無害」と認定し、早速ぱくりと一口食べる。

『あらやだ! 美味しい!』

 他では味わえない逸品に舌鼓を打つ。エレーナはマカロンが喜んでケーキを食べるのを、にこにこして見守った。あまりの愛らしさについ撫でようと伸ばした手を、マカロンはすかさずける。エレーナは「あらあら」と苦笑し、自分のうっかりをびた。

「ごめんなさいね。苦手だったわね」

『嫌いなのよ』

 いささか不満気に鳴くマカロンだったが、エレーナ自身のことは勿論嫌いではない。食べ終わっても直ぐ帰ろうとは思わず、そこに寝そべった。部屋の中からルシルの匂いがする。先程まで居たような残り香だ。彼女がここに出入りしているのは知っている。

『あの子どう? 毎日遊びに来てるんでしょ?』

 訊いても答えがないことは承知している。ただの独り言である。マカロンは首を伸ばして部屋の中を覗いた。そのとき。

「いいお嬢さんよ。仕事で来ていることをわきまえてくれる、とってもいい方」

…………

 マカロンはぜんとした。次の瞬間、全身の毛が逆立つ。返ってきた。しかも質問に応える内容で、的確に。今の今まで、普通で何の変哲もないおばあちゃんだと思っていたエレーナが突然異様な存在に見えた。

「あ、喋ってしまったわ」とケロリとして口元を押さえるエレーナに、マカロンは警戒を強める。

『何者なの!』

 シャアアと鳴くマカロン。エレーナは「あらあら」と困った様子でまた手を伸ばした。

『触らないで!』

 俊敏に窓から降り、マカロンは一目散に庭を横切った。報告しなければ。背後を気にしながら全速力で駆ける。幸い、後ろからエレーナが追ってくることはなかった。


「行っちゃったわ……」

 寂しそうな声が、空っ風に消える。お気に入りだった猫は、もう帰ってこないと思った。

「……十六時」

 リビングに降りてきたフィリスは時計を見てつぶやいた。

 普段より少しばかり帰りが遅い。大方買い物に寄っているのだろう。ついでに、という意見について異論はない。手伝いに行き始めた彼女は最近はこうしてよく帰りに店を回る。出かけて戻るまで、移動の時間を含めても三時間は超える。

 まだか。

 事情は分かっているのに、そう思う自分が居ることに驚く。ルシルが居ないリビング。降りてきたはいいが、手持ち無沙汰である。ソファで寝るのは、気分ではなかった。庭を眺め、何か干してあるかを確かめる。ルシルの靴下が二足と、タオルが二枚干されていた。

「……」

 庭に出て、干してあるものに触れる。しっかり乾いていた。迷わず竿さおから外し、それらを持って家に入る。戸を閉めようとしたところで、小さな足音に気が付いた。人間ではない。ソファに靴下とタオルを置くと、ガラス戸を開けて来訪者を待った。

『先生ー!』

 駆けてくるのは、ルシルが「マカロンさん」と呼ぶ馴染みの猫だった。

 買い物を済ませた夕暮れの帰り道。ちょっぴり感傷的になってしまう空の色を背負って歩く。しかし心持ちは明るい。はっきりした影を踏みながら、足取り軽く森に入った。

 というのも。何と、今日お家を訪ねたら、ついにあの雑然とした家の玄関が少し綺麗になっていたのだ。それだけだったら「ようやく重い腰を上げたのかな」でおしまいなのだが、バーレイさんにそれとなく尋ねてみたら何と何と「誰か来るかもしれないし」と言ったのだ。

 内心で「あれ? 私は?」と思ったのは口に出さないでおく代わりに、ぺしぺしとバーレイさんの肩を叩いた。案の定煩がられたが、私は嬉しくてにやにやしてしまった。

 出がけに先生に心配されてしまったので、帰ったらいい顔を見せたい。取り繕う必要なく、自然に笑顔が浮かぶ。早く先生に会いたい気持ちが足を速め、小走りで森を抜けた。

 オレンジに照らされる我が家。私は元気良く「ただいま戻りました!」とドアを開き──固まった。

…………

「……あら……?」

 大層お天気が悪い感じの先生が玄関の壁に寄りかかり、けんのんな眼差しをこちらに向けている。明らかに何かあった。

「にゃあん」

!?

 壁に寄り立つ先生の足元にどうしてかマカロンさんまで居た。ただならぬ状況に、何かあったどころではないのでは、と足が竦んだ。

 青くなって口を開けている私に、先生は「荷物を置いてソファへ」と言い、壁に預けた肩を起点にしてゴロリと身を返すとリビングへ消えた。マカロンさんも続く。

(え────!?

 狼狽うろたえながら靴を脱ぎ、買い物袋をひとまずテーブルに置いた。食料庫へうのは後回しだ。先生の座るソファの向こう、ガラス戸の端にタオルが落ちている。あそこにタオルを置いた覚えはない。小さいけれど、くっきりと足跡が付いていた。マカロンさんが家に上がるときに足を拭いたものと思われる。先生の土足厳禁が徹底された証拠だ。

「い、いかがいたしましたでしょうか」

 恐る恐るソファに腰かけると、先生と一匹が揃って私を見ている。凄みのある一人と一匹。迫力で既に負けている。

「君の通っている家だが」

「は、はい」

『魔法使いの家よ!』

 勢い良くマカロンさんが鳴く。

『アタシ聞いたのよ! あのおばあちゃんが私の質問に答えたのを! 今まで猫の言葉が分かるの隠していたんだわ!』

 興奮してにゃあにゃあと鳴くマカロンさんの目の前に先生が手をかざす。落ち着きなさい、という意図が伝わったのか、マカロンさんは「フーッ」と毛を立てて息を吐く。

 一方、悲しいことに猫語が解せない私は目を白黒とさせるしかなかった。「あのう」と小さく挙手すると、先生が訳す。

「彼らが、魔法使いではないかと言っている」

「え!?

 私は身を乗り出した。

「またですか!」

 口をいて正直な感想が飛び出た。

「また、だ」

 先生は「自分のせいではない」と視線を逸らす。私は慌てて「勿論です」と応じた。

(それにしても、え? うそ?)

 先生を始めとして、既に数名の魔法使いにお目にかかっている。その辺を歩いている人を見て「この人魔法使いかも」と疑ったり、「庭のトマトの実が少ない。魔法をかけられているかも」と怪しむ感性はないが、魔法使いの存在を聞いてそこまで肝をつぶすことはなくなった。

 だから、今の私としては、どうしてあの二人が魔法使いだと分かったのか、何故なぜそう思うのかが気になるところで。

(私には全然分からなかった)

 私にとっての彼らは、かつてトレジャーハントを生業にしていたおばあちゃんとお菓子作りの好きな孫なのである。家庭に複雑な事情がありそうだとは思ったけれど、それと彼らが魔法使いなのは関係があるとは露程も思わなかった。

「どうして分かったのでしょう」

「猫の言葉を理解したそうだ。それよりも」

「それよりも?」

 それより大事なことがあるだろうか。私はまだ何かあるのかと目を瞬かせる。先程まで興奮していたマカロンさんも「へ?」と顔を上げていた。

「君のしている『手伝い』とは、何だ?」

…………え?」

 先生の鋭い視線が私をく。その目に自由を奪われたように、私は固まり、言葉を詰まらせた。そして胸に覚える「しまった」という感覚。

(た、大変だ……)

 私は今、大変重要なことを失念していたと気が付いた。仕事として「話し相手」をしていることをお伝えしていなかった。今更ながら、もしかしたらマズイことになったのでは、と背中がひやりとする。

(「話し相手」を仕事だと納得してもらえるだろうか……)

 私はどう説明しようかと、心の中で頭を抱えた。繰り返すが、先生が家政婦に対して求める仕事は家の管理だけだった。自分の相手をさせるなんて申し出られてもお断り。何なら最初の最初に「余計なこと」をしないようにくぎを刺されている。

(ででででも、お話し相手を求めるお家だってあるし)

 世間ではそういうことは珍しくない、という自分の理解に励まされ、私は依然として厳しい表情の先生に向かって口を開いた。

「お伝えしておらず、申し訳ありませんでした。エレーナさんのお話し相手を務めております」

「話し相手」

 返ってきた声のトーンが異様に低い。

「私は君がここと同様、不便をしている家に手伝いに行っていると承知していた」

 報告連絡相談の手落ちである。私は深々と頭を下げてもう一度「すみません」と謝った。

「君から謝罪を求めているのではない。君が話し相手として雇われていることに疑問があるだけだ」

「あ、あの。使用人を雇われる家の中には、話し相手を務めとして乞われるところもありまして」

「知っている」

 知っていた。私は口を噤む。先生は仕事としての話し相手に理解がない訳ではないらしい。ただ、先生には不要なサービスではあっただけで。

(では一体何故先生は)

「何故君が」

 先生の発言と思考が被る。

「何故、君が。ということが理解できない」

「それは、ジュノさんが……」

「そう話を君に持ってきたのは彼であって、君を選んだのは越してきた彼らではない。君をきっかけに街の人間と、ということでもないのだろう? 家の中も越してきてから変わらないのなら、君である必要はあるのか」

 先生がかたわらにたたずむマカロンさんへ視線を遣る。マカロンさんは先生の並べた事実に対して「そうです」と言うように小さく鳴いた。

「街の暮らしに慣れる、とは。君がそもそもあの家に呼ばれている意義が見当たらない」

…………

 本音を言うなら「ですよねえ」と同意を示したかった。エレーナさんとバーレイさんへ抱く親しみとは話を別にして。薄ぼんやり思っていた私の疑問をピンポイントで突いてくるとは、流石さすが先生だ。

「あ、あのでもきっとご事情が」

 どんなご事情だ。言いながら自分で突っ込んだ。そのご事情が分からなくて悩んでいたのはどこの誰かではなく私である。素直に先生に同意すれば良かったのに、たとえ奇妙でも楽しく彼らと過ごした時間が、彼らを擁護するよう私を動かした。

…………

 たっぷり十数秒、先生は私をジッと眺めた。そして。

「君に尋ねるべきことではなかった。失礼」

「……」

 先生はソファから腰を上げた。

(そ、その通りなのだけど。エレーナさんとバーレイさんの事情を知っているのは彼らしか居ないのだけれど)

 先生のすっぱりとした言い方がサクッと胸に刺さった。言葉を失って肩を落とす私と、階段へ向かって歩いていく先生を見て、マカロンさんが困ったように足踏みしている。マカロンさんが気を揉んでは悪いと思い「大丈夫です」と力なく笑いかけると、階段の上の方で足音が止まった。私とマカロンさんは揃って顔を上げる。

「明日行って話す」

「「……」」

 どこへ。誰と。いや答えはひとつしかない。明日、先生が私と共にお宅へお邪魔して真意を先方に問うということだ。

 同じ考えに至ったのだろうか、マカロンさんと互いに険しくなった顔で見つめ合った。一体どうなってしまうのだろう。

 先生がご機嫌斜めなことも含め、今夜から明日への不安に押しつぶされそうになった私は、マカロンさんへのお願いを口にした。

「今日、泊まっていかれませんか……」

『い、嫌よ……』


 次の日は大変爽やかな快晴だった。そんなすがすがしさとは反対に。

「にゃあー」

 足元を歩くマカロンさんが「大丈夫か」と言わんばかりに鳴いた。結局激しい葛藤の末、家で一泊してくれたマカロンさん。彼女が居てくれたおかげで、家の雰囲気が大分和んだ。私がしきりに「美味しいですか?」などと話しかけていたからでもある。

 私たちの少し後ろを先生がついてくる。両手をポケットに突っ込んで何事もない顔で歩いているが、やる気満々なのを知っている。私がいつもの時間通りに身支度を整えた頃には既に先生は玄関に居た。

 チラと振り向くと、先生は空を眺めていた。その表情からは、何も読み取ることができなかった。

 そんな私たち一行を出迎えたのは頭に三角頭巾を被り、はたきを持ったバーレイさんだった。彼はドアを開けて「……は?」と一瞬固まり、来訪者が私だけでないのに気が付くと、途端に赤くなって頭巾を髪の毛ごとむしるように取り去り、背中に隠した。凄い顔で睨まれたけれど、不可抗力だ。

!」

 バーレイさんは三角巾姿を見られたのが余程恥ずかしかったのか、挨拶もなしに足音を立てて奥の部屋へ消えた。大声で「ばあちゃん!」と叫んでいる。そして今度は私たちに向けて「入れ!」と荒々しくご案内してくれた。お言葉に甘え、私たちはお宅へ上がらせてもらった。バーレイさんの姿はもう既に見えない。別の部屋に引っ込んでしまったのだろうか。

「こんにちは」

「いらっしゃい。今日はお客さんが多いのね。あら、その猫ちゃん……」

 エレーナさんは私、先生、そしてマカロンさんを見て何かに気が付いたように目を瞬いた。そして今度は真実を見抜くような目で私たちを眺める。

「ご用件がおありのようね。どうぞ、お掛けになってください」

 エレーナさんは先生に椅子を勧めたが、先生は素っ気なく「結構」と断った。エレーナさんは「あら」と首を傾げる。部屋の空気がピリピリし出し、私の胃はキリキリし始めた。

「ではお名前をお聞かせいただけます? 私はエレーナ・ブルームと申します」

「フィリスと言う」

 先生が名乗った瞬間、エレーナさんの顔が固まった。目を大きく見開き、明らかに驚いている。そして動揺を見せながら「フィリス、とおっしゃって? あなたが?」と確認する。

「そう言っている」

 先生が煩わしそうに頷くと、エレーナさんは顔を背けてため息を吐いた。

「驚いた。まさかこちらにいらっしゃるなんて。動物たちが先生と呼んでいるのはあなただったのね」

 エレーナさんの言葉に驚いたのは私だ。どうして魔法使いの人々は誰も彼もが先生のことを知っているのだろう。私がひそかにどうもくしていると、エレーナさんは表情をガラリと変えて、威厳たっぷりに先生を見据えた。

「で、どうしてあなたが彼女と一緒においでになったの? どういったご関係?」

 私が「あ」と口を開けたときにはもう遅く、先生が間髪れずに答えていた。

「彼女の伴侶だ」

「ッ!?

「え」

『やったわ!』

 ──は ん り ょ !

 一瞬で爆発するかと思った。先生の口から聞いたことのない単語が飛び出した。顔がどんどん熱くなるし、目の前がチカチカする。大事な話がいざ始まろうというのに、しおしおと両手で顔を隠してしまった。脈の音が煩いし、耳まで遠くなったように、先生とエレーナさんの会話が聞き取りにくい。マカロンさんが私の足をカリカリしているのだけは分かった。

「……あなたが? 彼女の?」

 エレーナさんの声が冷たい。更に冷たく「そう言っている」と繰り返すのは先生。おかしい、部屋の中はストーブで暖かくしてあるのに、寒い。

 エレーナさんの冷たい視線が私に投げられる。

「……娘のよう、と思っていたのだけれど」

「え?」

 彼女は小さな声で何か言ったが、私の耳には届かなかった。もう一度、とお願いする前にエレーナさんは先生に顔を向けてしまう。

「それで? いらっしゃったご用件は? 私が魔法使いだと分かってご心配になったの?」

「そちらが魔法使いかどうかは関係ない。何故、街の暮らしに慣れるという方便を使って話し相手を雇う必要があるのかと訊きに来た」

「方便だなんて失礼では?」

「街に馴染もうという意志があるのなら撤回しよう」

 ビリビリと緊張が走る。何だか私が口を挟めるような余地がない。格上の人々が持ちうる迫力を全面に出して喋っている、そんな感じだった。

 エレーナさんは、はあ、と大きくため息を吐き、私を見た。温度の感じられない冷たい目で。いつもの温かさはどこに行ってしまったのだろう。

「街の人と関係を持たない理由は簡単よ。直ぐに引っ越すから。それでもね、お分かりいただけるか分からないけれど、お話し相手は欲しいのよ」

「だから人を雇うのか」

「そう。お金の関係であれば、お互いサッパリとしていられますからね」

 先生は顔をしかめた。エレーナさんはまた笑う。

「ご不満そうだわ」

「彼女以外でも務まるだろう」

「……はあ。仕方ないわね。ルシルさん」

 唐突に名を呼ばれ、「はい!」と思わず高い声が出る。彼女は私に手招きした。私は先生を気にしながら固い動きで近寄る。

「あなたとの大事な時間を私が買うのが気に入らないそうだわ」

「へ」

「あなたが彼とギクシャクしては心が痛いので」

「え、え」

 エレーナさんは「今までありがとう」と言い、片手で私の手を取ると、足元に置いていたバッグから封筒を取り出し、私の手に握らせた。

「お給金よ。どうぞ」

「え、えええ」

 戸惑う私にエレーナさんは笑いかける。本心の読み取れない、綺麗な微笑みだ。同時に、背後でそれはそれは深いため息が聞こえた。

(先生)

 ぎぎ、と後ろを首だけで振り返ると、不機嫌とへきえきを足して二乗したような雰囲気の先生。珍しくもやもやした表情をしていた。

「彼女の意志があるなら、止めることはしない。聞くべきことは聞いた。失礼する」

(せ、先生……!?

 先生はさっさと部屋を出ていってしまった。そして家のドアが開閉する音が聞こえる。エレーナさんに手を取られたままの私は、呆然として立ち尽くした。

 最近少々その影を潜めていたが、元々気難しい人だということは知っている。不機嫌を隠さない人だということも。そういう先生なので、相手に対してとてもとても厳しい態度を取ることもあるし、突き放すことだってある。しかし。

(先生のご様子が、いつもと違ったような……!)

 相手と相容れなかった場合の先生の行動としては、些か物足りないような感触だった。大抵の場合、相手が「ぐっ」となるところまで言い切るのが先生だ。

 どうしようか。エレーナさんの手を振り払って追いかけようかと考えたとき。

「まだお若いわねえ」

「へ!?

 予想だにしない言葉に、変な声を出してしまった。そして思わず尋ねてしまう。

「エ、エレーナさん、先生よりも年上なんですか!?

「そうだと思うわ。多分」

…………

 先生の年が分からない以上、エレーナさんがいくつなのか私には推察もできない。ただただ言葉を失って、目の前のご婦人をしげしげと眺めた。私のぶしつけな視線を、エレーナさんは「そんなタチヨタカみたいなお顔をして」とクスクス笑って跳ね返す。

「何ですかタチヨタカって……」

「鳥よ」

 さっきまでの緊迫感ビリビリの空気は彼女の笑い声で一気に緩み、気が抜けてしまった。いつの間にか、手は自由になっている。しかし先生を追いかけようにももう行ってしまっただろう。

「バーレイもあれでもう大きいですからね」

(バーレイさん!)

 そうだ。彼も魔法使いである以上、てっきり年下かと思いきや私よりもはるかにとんでもなく年上である可能性が濃厚になった。

「あの子は確か八十九だったかしら」

「はちじゅうきゅう」

 イーダさんよりも年下なんですね、という感想しか出てこない。この件に関しては受け入れるしかないのだ。私はこめかみを押さえながら「お二人も協会の方なんですか」と尋ねる。すると、エレーナさんはキョトンとした。

「ルシルさん、協会のことまでご存じなの?」

「あの、はい。色々ありまして」

「そう……あなたも大変ということねえ」

 エレーナさんは気の毒がるように呟いた。

「……私たちは協会には入っていませんよ。発足前から他の魔法使いとは疎遠です」

 内心で「そうなんだ」と少し驚いた。イーダさんから大多数は入るものだと聞いていたからだ。むしろ入らなくては生きづらいと。

「魔法使いと相容れず。ずっと魔法を使わない方々に紛れて生きています。でも元々は種族関係なく皆一緒に生きていたのですよ」

「え、そうなのですか」

「あるときから共生が難しくなって……魔法使いは魔法使いだけ、人は人だけの暮らしがいいと。争いになって仕方がなかったので」

 一体どのくらい前の話なのだろうか。皆目見当も付かないが、イーダさんと出会ったばかりの頃、そんなような話を聞いたことがあるような気もする。魔法使い狩りだの、専用の監獄だのと。

(あれ? でも争いになるなら、エレーナさんたち魔法使いが普通の人と生きるのも難しいのでは?)

 私の疑問を察したのか、エレーナさんは苦笑いを浮かべた。

「私たちは魔法使いだと知られないように暮らしているの。今回はフィリスさんやあなたが居てバレてしまったけれど。ここは特殊な街ね」

「あ……成程。あの、はい。私は全然気が付きませんでした」

「ふふ。でもね、十年も居てご覧なさい。あなたもきっと妙に思うわ。バーレイが変わらないことを」

 私は目を点にした。直ぐに言葉が出なかった。

(ああ、確かに。彼が十年後もあの容姿だったら、魔法使いかもとひらめくかはさておき、不思議には思うかも)

「気味悪く思うかもしれないわね」

 自嘲する彼女に、反射的に「そんなこと!」と返す。しかしエレーナさんは首を緩く横に振る。その仕草に、胸がズキンとした。

(過去に気味悪がられたことがある、ということかな……)

 想像して気持ちが暗くなるのと同時に、心の中で「ああそうか」とに落ちる。これが、彼女たちが各地を転々としている理由だ。

「ここも、離れてしまうのですか?」

「そうね。その内。五年、いえ少なくとも三年は居るつもりですけど」

「誰とも関わらず?」

「あなたに来ていただけなくなってしまいましたからね。どうしようかしら」

…………

 無意識に愁眉が寄る。何か言いたいし、いい案はないかと考えるのだが、残念なことに何も出ない。胸の内にはもやが掛かり、何ともスッキリしない。彼女は人の中で生きながら、人に全く期待しない生き方をしているのだ。それなのに話し相手を欲するのだから、こちらだって諦め切れないではないか。歯がゆくて寂しい気持ちがほとばしり、何か口にしようと唇を開けたが、何も言葉は紡げず、また閉じた。

「ねえ、教えてくださる?」

「……?」

 私の困り顔を前に、エレーナさんが薄く笑う。確かに笑っているのに、その瞳を見ると背筋に寒気が走った。

「魔法使いを伴侶にして、あなたはどんな気持ち?」

「ご質問の意味が……」

 分からない。どういう答えを求められているのかも、どうして今彼女がそんな質問をしたのかも。エレーナさんは「失礼」と断り、言い方を変えて再度私に問いかける。

「あなたは彼のことをどう思ってるの。あなたが魔法使いの彼とどうやって暮らしてらっしゃるのか聞かせて?」

 魔法使いと普通の人。彼女が敬遠する暮らしを営んでいる私たち。どう答えたら彼女が満足なのかはサッパリ分からない。分からないからこそ、正直に答えた方がいい気がした。

「わ──私は」

 よどみ、時折言葉を途切れさせながら私は言葉を紡ぐ。

「私は、あの方をお慕いしています。その人となりにかれました」

「仲良しね。古いお付き合いなの?」

「いえ、あのまだ一年と少しです……」

「あら」

「なのであの、至らなくて私がひとりで日々翻弄されて……」

「そう」とエレーナさんの目が細められる。段々恥ずかしくなってきたので、ここらでくくろう。

「毎日一緒に過ごせて、その、幸せだと……」

 途端にエレーナさんの目が冷たく光った。その瞬間、体の中心を握られたような感覚に襲われる。苦しさで体を少し折ったが、エレーナさんから目を離せなかった。そんな私に淡々と彼女は言う。

「あなたは一生幸せかもしれないわね」

(ああ……)

「あなたは」が僅かに強調された彼女の言葉が、私たちの種族の違いを指していることは明らかだった。

「気楽で羨ましいと思うわ。置いていく方はいいわね」

 独り言のように彼女は言う。しかしその一言は確かに私の胸を刺した。細長い針が、ぶつりと音を立てて心臓を貫いたかのように。

 うんでもすんでも言うべきなのだろうが、言葉が出なかった。

(普通の人と関わる魔法使いが思うこと……)

 先生は私に対しても街の人に対しても、何も言わない。それは言う必要がないからではなく、先生がそう思っていないから。しかし。

(そっか、そういう風に思うのですね)

 彼女の言葉が心を陰らせる。寿命の差は私が決めたことではないし、誰にもどうしようもないことだと分かっているのに、身勝手な存在のように言われ、何だか気持ちが下を向く。

「あら、ごめんなさい。悪く言うつもりはなかったのよ。嫌ね、年を取るといびるような言い方になって」

「いえ……そんなことは」

「またどうかいらしてね」

 エレーナさんはいつもの優しい顔に戻り、眉を下げて微笑んだ。顔を見せに来るのはやぶさかではない。しかし、何とも釈然としない気持ちが私の中で渦を巻く。来てほしいと言いながら、数年後には去ってしまうつもりなのだ。それこそ私からしたら、何て寂しいことをするのだ、と言いたい。

 エレーナさんは私の気持ちを察してか、念押すように「ね?」と繰り返す。私は渋々頷いた。彼女は「よかった」と笑い、「あら」と窓の外を見た。

 エレーナさんが「雨だわ」と顔を曇らせる。窓ガラスに細かい雨のしずくが点々と付いていた。まだそこまで激しく降っているのではなさそうだったが、雨空を見て、私の心が一層沈んだ。

「バーレイ、ルシルさんに傘をお貸しして」

 エレーナさんの言葉で、バーレイさんがいつの間にか隣接する部屋のキッチンに居たことを知る。話を聞いている途中、物音ひとつしなかった。ずっと静かに佇んでいたのだろうか。

「あなたをらしてお帰しする訳にはいきませんから」

「またね」と言ってエレーナさんは軽く手を振る。私はどういう顔を彼女に向けたらよいのか分からなかった。

 部屋を出て玄関へ向かうと、そこでバーレイさんが「ん」と言って傘を突き出してきた。小さくお礼を言い、それを受け取る。

「二本しかないから。ちゃんと返せよ」

「勿論です」

「……」

…………

 帰るとも言えず、また帰れとも言われず。私たちは暗い玄関で言葉なく立ち尽くす。

「俺。ばあちゃんの言うこと、あんま納得してない。でも俺にはばあちゃんしかいないから。納得はしてないけど、結構言うこと聞いてるつもり」

「そうみたいですね」

「割り切れないなら仲良くするな、とか。何でも魔法を使わずにやれ、とか」

 ああ、それもあったのかと大いに納得した。魔法使いだと知られてはならないのだから、魔法を使うなとは当然のお達しである。今回魔法使いだと露見してしまったのは、先生が居たから。余所の街だったら、たとえ動物と会話しようとも不思議に見える可能性はあるが、魔法使いだとは思われないだろう。

「……ばあちゃんが人に事情話してるの、初めて聞いた」

「え」

「魔法使いと暮らしてるやつも、初めて見た」

「……」

「じゃあな」

 優しく、びついたような声が私を外へ追いやった。軒下から見た街は、ザアザアと雨に包まれて灰色にけぶっていた。

 足音を立てながら水たまりを可能な限り避け、家に向かう。時間的にも天気的にも、空は暗く、視界が悪い。森の中は一層光がなく、手元に灯りがないことがとてもこころもとなかった。

(先生、どうしてるかな)

 ギュッと傘の柄を握ったとき、風で木の葉が揺れ、頭上から大量の水が滝のように降ってきた。葉にまっていた雨が一挙に地面に向かって落ちる。傘が破れてしまうのではないかと思う程の重さと衝撃。

「わあああああ」

 身を縮こめて傘に隠れる。しかしその水量の多さと勢いの激しさで、傘の横から或いは足元から水が盛大にかかる。濡らしては帰せぬというエレーナさんの気遣いはむなしく、私はずぶ濡れになった。

「はあ……」

 木の葉からの雨粒落下が終息し、ようやく足を踏み出す。地面がぬかるんでいるので歩みは慎重になり、歩幅が自然と狭くなる。家はまだ先である。帰り着けるのはいつになることかとうんざりした。

 ぐちゃ、ばちゃ、と歩き続ける。木々に覆われた森は雨そのものだけは多少防いでくれるが、暗く、寒い。葉の屋根を打ち付ける雨音に心細くなる。

(先生……)

 心の中で先生を呼ぶ。出口はまだかと顔を上げると、前方に光がちらついた。何の光だろうか。家の灯りではない。足を止め、正体を確かめようと立ち止まって目を凝らした。小さな灯りは強まったり弱まったりしながら段々と近付いてくるようだった。

「……ランタン?」

 優しい光に見覚えがある。あれがランタンだとしたら。道の先には家しかないし、こんな時間に加え、この天気だ。携えてくる人は一人しか居ない。

「先生!?

 雨音に負けない声で呼ぶ。足元に気を配りながらできるだけ早く歩き、向かってくる灯りを夢中になって目指した。そして。

「……先生」

 ランタンの灯りが先生を照らす。現れたのは、傘を差し、その腕にもう一本私のためと思われる傘をかけ、反対の手にランタンを持った先生だった。先生はランタンを前へかざすと、傘のてっぺんから足のつま先まで、ずいっと私を眺めた。

「寒かろう」

「ックシュン」

 不本意ながらくしゃみで返事をしてしまう。「大丈夫です」と言おうとしたが、しんぴょうせいがなくなってしまった。

 先生は案じるように眉を寄せ、「早く帰ろう」と来た道をくるりと向く。

「あの……」

 口にしかけた言葉は雨に消えた。

(迎えに来てくださったのですか、なんて)

 訊く必要はない。傘二本、ランタン。それだけで分かるのだから。口にすべきことは他にある。先生の隣に並ぶと、ランタンは私の足元に向けられた。その自然な気遣いに切ない程の感謝が込み上げた。

「ありがとう、ございます」

 雨音に消されないよう、先生の目を見て言った。紫色の瞳がゆっくりと瞬く。歩き出した私たちの傘の縁からぽたぽたと銀色に光る雫が落ちる。

「礼を言われる身ではない」

「え?」

 キョトンとした私に対して、先生は難しい面持ちになった。

「雨が降ると分かっていた。君は傘を持たぬのだから、置いていくべきではなかった」

(あ、エレーナさんの家で?)

 すっかり頭の中が彼らのセンセーショナルな事情でいっぱいになっていたし、あの状況を「置いていかれた」とは認識していなかった。私はどうも気にしているらしい先生に「思ってもみませんでした」と正直に伝えた。

 先生は私から視線を外し、前を見る。先生の吐く白い息に気を取られ、雨音も足音もあまり耳に入らない。

「……により、恥を知った」

…………恥?)

 どういう意味か、訊いてもいいだろうか。先生が何かを悔いたらしい、ということだけは理解できたが情報が足りな過ぎて具体的なことが何ひとつ分からない。分からないことは訊く。私に関わることであるならなおさら

「あの……」

 出した足が、水たまりを踏む。森にまれるように、私たちは奥へと消えた。


 浴室の中を温かい湯気が立ち上る。たっぷりとしたお湯に肩までかり、凍ったような体がじゅわわと溶けていく。

「はあああああ……」

 気持ちがいい。浴槽の縁に首を任せ、天井を仰いだ。白いタイルの浴室に白い湯気が満ちている。雨に濡れた髪も体も綺麗サッパリ。せっけんい香りが心をいやした。

 家に着くなり、先生にお風呂に入るように促された。いつもは先生の後に入るので不思議な気分だ。後を気にせず温まってくることを約束させられたので、甘えようと思う。お風呂から出てくしゃみをするようでは、また先生が心配してしまうだろう。

 ズルズルと身を沈ませ、口元までお湯に沈む。外ではまだ雨が降っている。耳を澄ませると雨音が聞こえる。目を閉じれば、まだ雨の中に居るような感覚がした。そうしていると、帰り道、先生と話したことがよみがえってきた。落ち着いていた胸の内がまたソワソワとし始めてしまった。

 ──暗い森の中、ランタンの灯りだけを頼りに私は先生を見ていた。ランタンは主に足元を照らしており、その光はさして強くない。前を向く先生の横顔がぼんやりと闇に浮かぶ。私が話の続きを求めると、先生は言葉を練るようにしばし黙り、やがてポツリポツリと語り出した。

「君の意志を無視して、己の主張のみを通そうとしたことを詫びなくてはならない」

「……?」

 詫びられる側の心の準備が整っていない。雰囲気からして先生的には深刻な問題らしいのだが、私の方に謝られる覚えがない。思い切り「何のことでしょう」という顔をしてしまった。先生は前を向いたままだったけれど私の気配を察したらしく、「そうか」と呟いた。

「要は。他人との金銭のやり取りにより君の時間を奪われることに納得がいかなかった、ということだ」

「働く、ということにご反対でしたか?」

「そうではない。君の仕事が頼りになることは身を以て知っている。他者が困り必要としているのに君が応えようというのなら止める理由はない」

「が──」と先生は言葉を切り、ようやくこちらに視線を移した。

「話し相手ならば君でなくてもいいだろう、と」

(そういえば……)

 エレーナさんのお家でも先生は同じことを言っていた。それで、エレーナさんは諦めて私にお給金を……。

「ん?」

 疑問が声に出た。あのとき、エレーナさんが折れたようにも見えたけれど、先生は先生であの対応に納得した風ではなかった。むしろ様子がいつもと違うという印象を受けた。

『あなたとの大事な時間を私が買うのが気に入らないそうだわ』

 何だろう。この話の行き着く先が微かに見えたような気がした。胸の内がそわっとする。先生は深刻顔で続けた。

「私にとっては君でなくてはならないものが、他人に買われ奪われることが気に入らなかった」

「……!?

「彼女に対し、己の都合で君の自由を取るなと主張していたが、彼女は私の内を見透かし、私も同じことであると指摘された」

「え、え……」

「だから、君に詫びねば。私も君の意志を確認することなく、己の要求のみにとらわれていたのだから。すまない──」

「あ、あの!」

 ほとんど無意識に叫んでいた。とてもその謝罪を受け入れることはできない。この件に対して私が「私の意見なしに勝手に決めないで」などと怒っていたならまだしも。私は自身の顔を片手で覆った。ジュッと音がしそうな程熱い。

(私にとっては君でなくてはならないものが? 他人に買われ奪われることが気に入らなかった? え? え? それってそれってもしかして)

 まさか、やきもち、というやつでは。俗に言う。噂の。あの。

「……」

 頭の中が真っ白になった。脳が空になったような感覚。完全に抜け殻よろしくほうけてしまった私を、先生がげんそうな面持ちで眺めていた。ちょっと気持ちの整理がつかない。何と反応したらよいのか分からない。

「何も気にしてませんよ」と言うのが先生への適切な回答だったかもしれない、と思い付いたのはお風呂のドアが閉まったときだった。

「先生、気の晴れないお顔だったよね……」

 浴室に私の声が響く。果たしてやきもちという言葉で片付けてしまってよいのか。先生は私の家族に「縛るようなことはしない」と宣言してくれている。先生はあの言葉をたがえたくはないのだ。私の家族にも、私にも、そして先生自身にも。本当に、何と嬉しいことだろう。

 先生が、私の反応が鈍かったのを違う意味に捉えている可能性はとても高い。まさか私が不謹慎にも頬を染めているなんて思いもしないだろう。

「ちゃんとお伝えしなくちゃ」

 よいしょと言って浴槽から出る。体は芯まで温まり、ほかほかと湯気を立てていた。


「お先にありがとうございました。せんせ……」

 リビングに着いた途端、違和感に気が付く。いい匂いがした。そして目を遣ったダイニングテーブルの上には匂いの元が並んでいた。スープに、お肉のソテーに、根菜のサラダ。どう見ても夕食である。

「えっ……!

 腰を抜かすかと思った。これから夕食を作るから今日だけは定時に間に合わないな、と考えていた。しかし、もうここにそれらがあるということは。

「先生!」

 先生はどこだと視線を彷徨さまよわせる。見たところキッチンにもソファにも居ない。それもそのはず。返事は地下の食料庫からあった。

 慌てて食料庫への入り口につんいになり、中を覗き込む。先生が果物を手にしているところだった。先生は手にそれぞれリンゴとミカンを持っており、それらを私へ向けてきた。

「え? あ、ええと、リンゴがいいです……?」

 先生は頷くと、ミカンを箱に戻す。そしてリンゴひとつを手に、キッチンへ上がってきた。手際良くリンゴの皮をいて六等分にし、お皿に載せた。早い。私より早いかもしれない。唖然としていると、「席へ」と着席を促される。

 私がお風呂から出てくる頃合いを見計らって作られたのか、料理はまだ温かそうだ。揃って両手を合わせ、スープを一口。

(うわあああん美味しい)

 ジンジャーの利いたキノコのスープ。飲んでいたら更に体がぽかぽかしてきた。

「美味しいです……」

「そうか」

 緩み切った顔で感想を伝えると、先生は僅かに安堵した表情を浮かべた。その顔を見たら、何だか胸の中がいっぱいになってしまう。言わなくては、とスプーンを置いた。

「先生。今回のことは私の配慮不足が原因でした。お仕事内容が分かった時点で先生にお伝えしていれば良かったと思っています」

 先生は何を考えているか分からない目で、私の話に耳を傾ける。

「至りませんで、申し訳ありませんでした」

「謝る必要はない」

 頑として頷かない先生に、私は苦笑して首を横に振った。先生は首を傾げる。

「お互いに謝りたいのは同じですので。ここは引き分けにしてくださいませんか」

…………

 先生は大きく息を吐く。自分に厳しい人だ。釈然としないのかもしれないけれど、私が譲れない点でもある。お互いに相手の気持ちをみたいのだから、先生も私も納得するしかない。先生をジッと見つめていると、かの人はやがて纏う空気を和らげた。

「そうだな」

 万事について「相手が」「自分が」と言っていてはキリのないこと。相手をおもうからこそ意見がぶつかることもある。そのときにどうするかを、一緒に考えられる関係で居たい。

 微笑み合い、どちらともなくカトラリーに手を伸ばす。「美味しいです、ありがとうございます」と繰り返すと、「そうか」と返ってきた。顔はいつもの無表情に戻っていたけれど、口元を隠す仕草で「照れたんだ」と分かり、私まで赤くなってしまった。

『あなたは一生幸せかもしれないわね』

 ふと、脳裏に過るあの言葉。貫かれた心はまだ塞がらないらしい。じわじわとほのぐらい気持ちが滲まないよう、目の前の幸福に集中した。


 次の日の午後。借りた傘を返すためにエレーナさんの家に向かって歩いていると、途中でコルテスさんに出会った。コルテスさんはいつものように朗らかに「こんにちは」と声をかけてくれた。

「いかがですか、ブルームさんのお家。俺もこれからお邪魔しに行くところなんです」

 えて「いかがですか」には答えず、私は「あら、ご用事ですか」と質問を返す。コルテスさんは気にする素振りを見せず、「用事、というか」と苦笑いを浮かべた。

「じいちゃんにですねえ」

「ジュノさん?」

「お二人がお困りでないか様子を見てこいと言われて。何でしょうね、じいちゃんがいたく気になるらしくて。先生に似た何かを感じるとか何とか」

「……」

 鋭い。私は何かうっかり言ってしまう前にそれ以上の言及を控えた。

「そんな訳ですが、長居するつもりはないので。お顔を見て、ご様子を聞いたら帰ります。お邪魔になってもいけませんし」

 子供のように無邪気な顔をされた。私は曖昧に笑い、昨日の雨のことなどを話しながらエレーナさんの家まで連れ立った。

 昨日の今日なので若干ドキドキしながらドアノッカーを叩く。中から出てきたのはバーレイさん。私の手にある傘を見ると、「早」と一言。がっかりした気色を感じ取り、「何ですか」と訊けば、ぶっきらぼうに「別に」と返される。そしてバーレイさんは私の隣にいるコルテスさんへ「誰」とまた言葉短く尋ねた。

 不愛想にももろともせず、コルテスさんは「ジュノの孫のコルテスと言います」とにこやかに挨拶をした。彼も長年先生と接してきた猛者だ。無愛想への耐性が高い。

「ああ、そう。何か用? ばあちゃん呼ぶ?」

「いえいえ、ご足労は要りません。お困りごとがないかとじいちゃんが気にしていますので、お節介でご様子を窺いに来ただけです」

 親切かつ丁寧なコルテスさんの言葉に、バーレイさんが「う」と言葉を詰まらせた。決して嫌がったり、疎ましがっている風ではない。きっと、嬉しいのだと思う。こうして訪ねて様子を見に来てくれたのだ。わざわざ、という感じを出さないのがコルテスさんの凄いところである。

(見習いたい、あのさりげなさ)

 私が密かに感心している横で、バーレイさんは口をとがらせて「ない」と答える。

(なければ話は終わってしまうし、コルテスさんは帰ってしまう。この貴重なやり取りが、はかなく風のように通り過ぎてしまう)

 バーレイさんの目が「あーあ」と諦めた色を浮かべたのを、私は見てしまった。

(ここは私が……)

 私はコルテスさんを手本とし、それとない感じに世間話を始めた。

「コルテスさん、バーレイさんはお菓子を作られるんですよ」

「ええ! そうなんですか」

「そうなんです、しかもプロ級です」

「ルシルさんもお上手なのに」

「私の出る幕がないんですよ」

 コルテスさんは目を瞬かせ、バーレイさんを興味深そうに見る。バーレイさんは気恥ずかしいのか、「い、いや」と目を泳がせた。

「……」

 コルテスさんと目が合う。「嫌がっているのではないですよ」と伝えるため、私は首を横に振った。すると、コルテスさんはパッとまばゆい笑顔を浮かべた。

「実は、たまに家で街の人と持ち寄りの食事会をするのですが、皆さん今度いかがですか。いやあルシルさんたちともやりたいなあとずっと思っていたんですよ~」

 持ち寄りの食事会。何やら楽しそうな響きではないか。個人的にはとても嬉しい。是非行きたい。先生も一緒に行ってくれるかどうかは帰ってから要相談だ。

「私は喜んでー……」

「……」

 大人しいバーレイさんに視線を移すと、案の定固まっていた。揺れる瞳が、その心を表している。私は固唾を飲んでバーレイさんの反応を見守った。

 複雑な事情を持つ彼は果たして。

「……俺たち、を……? こいつも、一緒?」

(おおおおお?)

 もしかしたら断ってしまうかもと思われた彼だったが、何ということだろう。その目が「いいの?」とピュアな輝きを放っているではないか。

(嬉しい……?)

 それならば。私はリリアさんと会ったあの日のことを思い出していた。そう。バーレイさんが私に、人と仲良くなってはいけない、と言われていることを漏らしたあの日。バーレイさんはあのとき、エレーナさんの言い付けに従い、せっかく知り合えた彼女とろくに話ができなかった。

 私は意を決し、コルテスさんにひとつ提案をした。

「あの、もしよかったら、リリアさんもお誘いしてはいかがでしょう。実は先日バーレイさんと一緒に街中でお会いしまして」

 人の好いコルテスさんは私の申し出を「そうでしたか! そうしましょう!」と受け入れる。横目でバーレイさんを見れば頬が赤い。

「お返事は直ぐでなくて結構です。そうですね、とりあえず来週の水曜日の夜などどうでしょうか」

「丁度リリアさんのお店がお休みの日ですね」

「あ、そうでしたね」

 善意に満ち満ちているコルテスさんと「丁度良かった」と笑い合う。バーレイさんは私に向かって「よく笑っていられるな」という目をしてきたけれど、話はコルテスさんが帰ってからだ。

「……ばあちゃんに、言っとく」

「よろしくお願いします!」

 私がここに残ると思っているコルテスさんは、バーレイさんと私に向かって「では失礼します」と言い、来たときと同様、爽やかに笑いながら去っていった。

 バタン、とドアが閉まるや否や、バーレイさんは「おい」と低く私を呼んだ。ひそひそ話すのには理由があるのだろう。私も身を屈めて小さい声で「はい」と応える。

「ど、どどどどういうつもりだよ。人まで増やして! 俺たちの事情知ってるくせに!」

 明らかに動揺しているバーレイさん。私は「まあまあ」と彼の背を宥めるように叩いた。彼が「行きたい」と思っているのは明らかだったけれど、「行きたいんでしょ」と直接言うのははばかられた。行きたいけれど、エレーナさんの手前、相当迷っているからである。

「リリアさんは私やコルテスさんとも仲良しですから。私たちは、何ら問題はありません。私たち、は」

「……私たち、は」

「そうです。私たちは、あなた方がもし断られても楽しくお食事会を開催します」

 バーレイさんの顔がゆがんだ。気分を害しているのは百も承知だ。それこそが、バーレイさんの素直な気持ち。ここで平気にしていられる人ではなくて良かった、と内心で安心してしまった。

「ご事情は分かっています。来る、来ないの選択はあなた方にしかできません」

 バーレイさんは物憂げに眉を寄せて、口を曲げる。

「だから、私も私の選択をしますね。私たちは、あなた方に来ていただきたいと思っていますよ」

「……ルシル」

「では。今日はこれで失礼します。先生に傘をお返しするだけだとお伝えしていますので」

 笑いかけると、バーレイさんは難しい顔をしたまま頷いた。玄関を出る私に力なく手を挙げて見送ってくれた。

「さて……」

 庭を抜け、門を出たところで家を振り返る。静まり返った、二人だけのお家。この食事会への参加は二人にとって大きな意味を持つだろう。参加したい気持ちのあるバーレイさんが、エレーナさんを説得できるかどうかが鍵だ。魔法使いであることを明かす必要は勿論ない。強要するつもりもない。けれど。せっかくコートデューに住んでいるのに。せっかくいい人たちなのに。せっかく、食事会に行きたい気持ちがあるのに。それを棒に振るのはもったいないことなのではないか、と思うのだ。

 せめて、一度ここでの暮らし方について考えてみるくらい、いいだろう。

「それにしてもコルテスさんはできた人だなあ」

 ブラブラと歩いて家に帰り、先生にコルテスさんから食事会のお誘いを受けたことを報告した。全くかどうかは分からないが、先生に「行きたくない」という気配はなかった。何事もなければ一緒に行ってくれると信じている。

「バーレイさんはいらっしゃるでしょうか。エレーナさんまで、というのは難しいでしょうか」

「年を取ると頭が固くなる」

「……」

 先生の返事はアッサリしたものだった。少々辛辣に聞こえたのは気のせいだろうか。エレーナさんに対し、先日のアレが尾を引いているのかもしれない。

「君は自身の思うことをしたのだろう。後は彼らが考えればよかろう」

 先生はへいたんな調子で「君が疲れる」と締め括った。二人を案じる私を案じてくれているらしい。素っ気なく、そして優しいのが先生である。

「そうですね」

 先生の言葉に私は気を入れ替え、当日何を持っていくかを思案することにした。


 先生も巻き込み、アレがいい、コレが美味しかったと料理の検討を重ねて迎えた次の週の水曜日。予定変更のお知らせはなかった。街に買い物に出ても、コルテスさんに参加者を尋ねに行くことはしないでおいた。

 今日になれば、答えは分かるのだ。私は先生と共に森を抜け、街の通りを行き目的地に到着した。

「こんばんは。お邪魔いたします。本日はお招きいただきありがとうございます」

 初めて訪れるコルテスさんのお家。それは商工会から数分のところにあった。入り口に先生と並べば、中からコルテスさんとそのご両親、ジュノさんが嬉しそうに迎えてくれた。

「こちら、ポテトグラタンです。持ってくる間に冷めてしまったので……」

「ありがとうございます! ストーブの上に載せておきましょうか。うわあルシルさんのご飯、食べてみたかったんですよ~!」

 恐縮してしまうようなことを言われながら部屋に案内され、コルテスさんが満面の笑みで「どうぞどうぞ」と椅子を勧めてくれた。家の中は観葉植物の鉢植えが飾られ、窓にはレースのカーテンが掛けられている。音を立てて暖炉の火がぜ、傍の椅子には可愛いクロスステッチのクッション。

(可愛いお家だなあ……)

 飾りっ気のある家の中を感心して眺めていると、コルテスさんが「母の趣味です」と教えてくれた。

「素敵ですね。ね、先生」

 先生が隣で置物のように座っているので、声をかけてみた。先生は頷くだけかと思いきや「家は君が花を飾る」とぼそりと呟く。あまりにぼそりとしていたので、私にしか聞こえなかった。コルテスさんたちは「何て言ったの?」という顔をしていたが、私からの復唱は差し控えさせていただこう。

「あの、他の方々は」

「ああ、もうすぐいらっしゃるんじゃないですかね。ほら、噂をすれば声が聞こえる」

 コルテスさんに倣って窓の外へ意識を向ければ、複数人の声がした。緊張を抑えていた胸がドキリと跳ねる。コルテスさんは小走りで部屋を出た。

 トントン、とドアが叩かれ、待ち構えていたコルテスさんが「はーい」と即座にドアを開ける音がした。

「こんばんは~。お邪魔します! あ、ルシルちゃんたちもう来てるのね!」

「皆さんお揃いでいらしたんですね~」

「そうなの。そこでお会いしたのよ」

 コルテスさんとリリアさんが喋りながら部屋にやってきた。そして、その後ろには。

「お邪魔いたします」

「……ます」

 上品に笑うエレーナさんと、カチコチになったバーレイさん。私は思わず立ち上がった。

「こんばんは」

 私たちにしか分からない視線を交わし、気持ちを込めて笑う。

「こんばんは、ルシルさん」

 エレーナさんは、眉を下げて微笑んだ。

 テーブルの半分はコルテスさんの家族が占め、もう半分は招待を受けた私たちが埋める。先生の席はテーブルの奥の端で、皆を見渡せる。先生から見て左手の並びの手前には私。その隣はリリアさん。先生の右手、つまり私の向かいにはエレーナさんが座り、その横にバーレイさんが落ち着いた。私は斜め向かいからバーレイさんの様子を窺ったが、緊張しているようで表情が固い。コルテスさんのお母さんから給仕を受け、耳を赤くしている。

「可愛いわね~。バーレイ君はいくつなの?」

 リリアさんがニコニコして問うと、バーレイさんはボン! と顔中を真っ赤にした。「あらあら」とリリアさんは笑うが、私はバーレイさんが自身の年齢を公開するのかどうかが気になって仕方がない。耳を澄まし、回ってきたミートローフをエレーナさんと先生に取り分ける。

「あら、ありがとう」

 エレーナさんにお皿を渡すと、機嫌の良さそうな笑みが返ってくる。

(何か心配していたより、普通だけど……)

 思っているのといつもどこか違うのが彼女であると学んだ。今日来るに至った経緯を知りたいが、まさかこの場では聞けない。おまけに先日あんなに火花を散らし合った先生に「美味しいですわね」と話しかけている。何と肝が据わっていることかと目を見張った。

(二人はどういうスタンスでの参加なんだろう!)

 魔法使いだと隠したままの参加なのか、そうでないのか。分からないのでかつに何か口走らないように気を付けなくては。

 私が脳内会議を繰り広げる中、テーブルのはすかいで動きがあった。顔が真っ赤のバーレイ氏である。

「も、もうすぐ九十歳……」

「ごふ!」

 盛大にむせた。私がゴッホゴッホとき込む横でリリアさんの「え?」という声が聞こえた。咽ながら見たエレーナさんは、至って普通の顔で微笑んでいる。が、目の奥には冷たい光が宿る。まるで、場がどうなるかを静かに観察しているように。

 自分の脈の音が、煩く耳の奥で鳴る。

「……」

 一瞬静まり返った部屋の中、一番に聞こえたのは「ほほほ」というとても平和な笑い声。その主はコルテスさんのおじいさん、ジュノさんだった。

「ワシよりも年上でしたか。ほっほ、愉快」

…………

 本人の言う通り、ジュノさんはそれはもう愉快そうだった。ツボに入ったときのコルテスさんみたく、コロコロと笑うおじいちゃん。初めはキョトンとして見ていた周りも、次第に顔を綻ばせる。

「ほほほほ! そんな子供の見た目で! ほっほ」

「じ、じいちゃん失礼だよ!」

 ジュノさんをいさめながら、自身も釣られて笑ってしまうコルテスさん。あまりにおかしそうに笑うジュノさんが面白くて、こちらまで笑いが込み上げてくる。

「……私もよくからかわれたものだ」

 ポツリと先生が呟いた。その目はジュノさんを映している。

(昔、昔に。先生もああやって笑われたことがあるのかな)

「……そうでしたね。あの頃は皆そうでしたわ」

 エレーナさんの口調は至って穏やかだった。瞳には先の冷たさはない。温かい目で孫のバーレイさんを見ている。

「わ、笑うなよ! そんなこと言ったら家のばあちゃんなんて……!」

「バーレイ」

 エレーナさんの厳しい声が制する。バーレイさんは渋い顔で口を噤んだ。ひとしきり笑ったジュノさんは、朗らかに先生に話しかけた。

「こうして見ても、ワシが子供の頃から全然お変わりありませんな」

「少しは変わろう」

「いやいつもそんなもんですよ先生は」

 ジュノさんはまた口ひげを揺らして笑い、先生は僅かに首を捻って肩を竦めた。先生はよくコルテスさんにジュノさんのことを訊く。先生にとって、ジュノさんは気に掛ける存在なのだと気が付いたのは割と最近のこと。

「仲がよろしいのですわね」とエレーナさんが微笑むと、ジュノさんはニコニコと続けた。

「先生のことは子供の頃から知っております。うちの坊主も、ついには孫まで。永くお付き合いいただいて、こんなに嬉しいことはありません」

 ジュノさんの言葉にコルテスさんのお父さんと、コルテスさんが頷く。先生は何も言わなかったけれど、ここに居ることが答えの全てだ。きっと、先生が気に掛ける存在は私が思っているより多い。近過ぎず、どちらかというとちょっと遠くから、どれだけ街を見てきたのだろう。

 バーレイさんはもう赤くなく、我を忘れたように彼らを眺めていた。

「……別れを恐れるのは、愚かなことかしら」

 囁くようにエレーナさんが呟いた。あまりに小さい声だったので、聞こえたのは私と先生だけだった。先生は目を伏せたまま「いや」と答える。

「そんなことは決してあるまい」

 低い声が胸にみ込む。私はどんな顔をしたらよいのか分からなかった。一方、エレーナさんは先生の言葉を聞いて意外なほど穏やかな顔をしていた。

「そうですわね。ここに住むあなたがそうおっしゃるのでしたら……」

 エレーナさんは心の底から浮かび上がってきたかのような微笑みを湛え、テーブルに着く皆を見回した。そして、深々と頭を下げる。

「どうか皆様、バーレイとも長いお付き合いをよろしくお願いいたします」

「そんな! 勿論です! こちらこそ!」

 エレーナさんに一番に応えたのはコルテスさんだった。するとバーレイさんがキョトンとした顔でコルテスさんを見る。続いて、リリアさんもジュノさんも喜んで受け入れた。エレーナさんは目元を和らげ「ありがとう」と言う。バーレイさんは顔を赤らめてうつむいてしまった。

 一見微笑ましい光景だが、私はまだ笑えない。

(……バーレイさんだけではない)

 言い方ひとつなのかもしれない。深く考え過ぎなのかもしれない。しかし、私ははっきりさせておきたい。

「エレーナさん、足りません」

 エレーナさんは怪訝な様子で眉を下げた。「何が? どうなさったの?」と心外さを滲ませる声色で私に問う。

「バーレイさんだけではありませんよ。ねえ、皆さん」

「まあ……」

 エレーナさんは口元を覆った。私に同意を求められた皆は、一斉にエレーナさんに笑いかける。

「そうですよ、いやそんなの当たり前じゃないですか」

「ルシルさん何を分かり切ったことを」

 私はえへへと笑い「すみません」と謝る。軽く笑いながらエレーナさんを視界に入れる。

 相容れないと諦めても、割り切った関係でも、人との関わりを捨てきれない彼女。他人に深く踏み入れず、踏み入らせない。その人生に何があったのかは無理に聞くことはできないけれど。

(ここだったら。コートデューの街だったら。心をさいなむものを和らげる何かが見つかるかもしれない)

「どうかしらね」

 私の心を読んだのか。エレーナさんはそう言って私を見た。瞳の奥に何があるのか、彼女は人に悟らせはしない。私たちが二人を受け入れたい気持ちは伝えた。綺麗に笑顔を浮かべる彼女が、それを受け入れたかどうか、その顔を見ただけでは分からない。

(これ以上は、本当にお節介ですね)

 私は何も言わずにエレーナさんに頭を下げる。向かいの彼女から、僅かに息が漏れる音が聞こえた。私たちのやり取りを、紫色の瞳がジッと眺めている。


「ルシル」

 楽しい食事会を終え、コルテスさんのお家を出た別れ際。バーレイさんが私を呼び留めた。

「……」

「どうしましたか」

 声をかけられたはいいが、バーレイさんはもじもじとして中々話し始めない。ぴゅう、と冷たい風が吹いた。ぶるっと体を震わせると、バーレイさんは慌てた様子でキュッと眉を寄せる。

「あの、あ、あありがとう、な」

「何がですか」

「今日のこと!」

 他の人に聞かれるのが嫌なのか、早口なうえ小声だった。聞き取るために、私は彼に身を寄せた。

「だ、だから、その、行きたいって言えたのはお前のおかげっていうか。ばあちゃんもお前のこと気に入ってたから多分折れてくれたんだと」

 何だか照れながらお礼を言われると、こそばゆい気持ちになる。

「もっと反対されるかと思った」

「すんなりいったんですか?」

「魔法使いだと表明するならいいって」

「ああ……」

 やはり、と思った。彼女は魔法使いだと伝えたときの皆の反応を見ようとしていたのだ。駄目だと判断したら即刻街から出ていくつもりだったのではないだろうか。

(でも、エレーナさんは、「長くよろしく」と)

「……さっき、早く家の中片付けろって言われた」

「あら」

「あれではあなたのお友達が呼べないわよ。そのお子さんも、そのお孫さんも、だってさ」

 バーレイさんは苦笑し、私も笑みが漏れる。白い息が夜の中に消えていく。手を振って去るバーレイさんがエレーナさんに腕を差し出すところを見送り、私も先生の下に駆けた。

「お待たせしました」

 月明かりに照らされる先生を見上げて微笑む。先生の髪が銀色にきらめいた。「帰ろう」と私に告げると、先生は息を残してくるりと森を向く。黒の衣に身を包む先生が暗闇に溶け込んでいく。見失わないようにランタンを持って追いかけた。

 心許ない程静かで暗い夜の森は、張り詰めたような、キンと冷えた空気で私たちを包む。ランタンがあっても視界は悪い。足元の何かにつまずくと、先生から無言で手が差し出された。

「……ありがとうございます」

 骨張った薄いてのひらが私の手を覆った。導かれるように歩く。分け合う温度が、やけに熱く感じた。