高い空に千切れた雲が流れる。風が吹けば街の周りを囲む森の木々がザザアと音を立てて葉を揺らした。爽やかな風が乾いた空気を運んでくる。コートデューに涼しい季節が訪れていた。

 カランとドアベルを鳴らし、私はとある建物を訪れた。『コートデュー商工会』。日頃お世話になっているコルテスさんの城である。ベルに気が付いた商工会の人が私を見て用件を問うまでもなく「コルテスさんを呼びますね」と笑いかけてくれた。

 コルテスさんは爽やかな好青年で、商工会長の肩書を持つにしては相当若い。けれど街を盛り立てようという情熱は誰よりも強く、街の人たちから大層親しまれている。私も彼にはお世話になった。そんな彼は街の特産品のせっけんのことについて先生と話すためにしばしば我が家に顔を出すが、今日はこちらが赴いた。

「ルシルさん、こんにちは!」

 コーヒーのカップを二つ持ったコルテスさんが現れた。今日もにこにこと朗らかである。挨拶を返すと、「どうなさったんですか」と言いながら私に椅子とコーヒーを勧めてくれた。私は早速「実はですね」と持参した籠を机の上に載せる。

「あれ、それは何ですか?」

「こちら、スイートポテトです。よろしければ皆さんでどうぞ」

「え! いいんですか?」

「見てもいいです?」と目を輝かせる商工会長さんに、私は「どうぞどうぞ」と籠に掛けていたクロスをまくる。そこには黄金色に焼けたスイートポテトがぎっしり詰まっている。中身を目にした彼は「わああ!」とうれしそうな声を上げた。

「こんなにいただけるんですか?」

「作り過ぎまして。調子に乗って……」

「調子に……?」

 遠い目をする私をコルテスさんが不審そうに見る。時は一週間前に遡る。


 ──世界の季節の巡りには旬のしい食べ物がつきものであり、それのために生きているといっても過言でないのがこの私。

『ついにこの日が来ました!』

 所は我が家のサツマイモ畑。

 居候していたイーダさんの魔法によって私が寝ている間に全て収穫が終わるというあの屈辱のサツマイモ事件から一年。今年こそは大収穫をこの手で、と夢見て大事に育てること半年。

 いよいよ張り切って大・サツマイモ掘り大会を開催する運びとなった。ちなみに参加者は私一人。大事なのは規模ではなく気持ちだ。

 葉の勢いは昨年以上。武者震いがする。四方へと勢力を拡大していたつるをガッサガッサと抱え上げ、ニヤリと不敵に笑った。この蔓の先にお宝が埋まっているのだ。

 ブチブチと蔓を地面からがし、粗方地面が見えるようにすると、いよいよ私は土に手を付けた。期待で胸が膨らむ。

『いざ────!

 その二時間後。「はあ、はあ」と息荒く畑に立ち尽くす私を、遠くから先生が眺める。大・サツマイモ掘り大会は完全勝利にて幕を閉じた。地面には私に掘り起こされた芋たち。昨年を上回る取れ高に、興奮が覚めやらない。

 くるりと先生を振り返ると、先生はひとつうなずいた。最後に引き抜いた芋を片手に先生に駆け寄る。

『豊作です……! 何でも作れます。ご希望はありますか』

 先生は僅かに目線を上げて思案し始めた。私にお任せの場合もよくあるのだが、今回はどうやら要望があるらしい。私は大人しくそのまま先生の言葉を待つ。

『……スイートポテト』

 やがてぼそりとつぶやかれたソレに、私はピンとくるものがあった。

『ああ! 先生お好きですものね!』

 思わず声高に言ってしまった。スイートポテトと言えば、以前作ったときに先生が珍しく「おかわり」を所望したお菓子界のエースである。それを一番に思い出せなかった自分がない。心の中で「もう!」と拳を振った。

『たくさん作ります! シナモンたっぷり入……』

『入れますね』と言いたかったところだったが、張り切る私に対し、先生が何故なぜか少々難しい表情を浮かべているのに気が付いた。言葉が途切れたのは無意識である。

 途端に不安に駆られた私は先生のその顔の意味を必死に考えた。けれど一体今の会話のどこでお顔を難しくするところがあっただろうか。

『特別』

『はい』

 いつも通り唐突に先生が口を開く。私は姿勢を正した。

『好みなのではない。君の作るアレが好ましいだけだ』

『そ──』

 そうなんだ。特別好きなのではなかったのか。成程。へー。そうかそうか。

…………

 案の定私は押し黙り、先生がどうしたのかとまた見てくる。その視線に耐えつつ、心の中で「ああもう」と叫んだ。

(素直なんだか、素直でないのだか)

 スイートポテトが好き、でいいじゃないかと思う私と、えて細かな修正を入れてきた先生のちょっとした難しさが可愛いと思う私が全力でぶつかり合う。

『……ありがとうございます。承知しました』

 私が作るのだけが好きだと言われてしまったら、頑張るしかない。そこまで去年のがお好きと言うのであれば。

 私が小さく応えると、先生は柔らかい雰囲気をまとい、ひとつ頷いた。


 そんな私が勢いに任せてスイートポテトを食べ切れない程大量生産したという長い話を、流石さすがにそっくりそのままコルテスさんに語って聞かせる訳にはいかない。

 私はフッと穏やかに笑い「先日サツマイモがたくさん採れましたので」と纏めた。コルテスさんは「そうでしたか! ありがとうございます!」とにっこり顔。籠を掲げて部屋に居る職員さんたちに「やったよー」と知らせれば、皆さんから口々にお礼を言われてしまった。恐れ入ります。

「そういえば、先生はいかがお過ごしですか」

 コルテスさんはよく先生のことを気にする。私のことも気にしてくれるとてもいい人だ。私はコーヒーを一口飲み、「そうですねえ」と考える。

 近頃の先生といえば。

 食事の際に定時よりも少し早く降りてきて支度を手伝ってくれるようになったり、一緒にリビングで過ごす時間が長くなったり、はたまた私の一人遊びに付き合ってくれることが多くなったり。昨年とは大分違った生活を送っている。

「……よく構っていただいてます」

 あまり具体的にお知らせするのもはばかられたので、ざっくりと言ったつもりだったのだが、それでもコルテスさんには十分伝わったらしく、「あ。そ、そっちか」と照れられてしまった。

(そっち、とは)

 その反応で、私は何かを誤ったらしいと察した。もしかしたら「元気かどうか」とかれただけだったのかもしれない。自然にのろた形になってしまい、穴に入りたくなる。

「ルシルさんのご実家に一緒に行かれた、とお聞きしたときは実は相当驚きました」

「ですよねえ!」

 先程の羞恥をにするように、大げさに頷いた。しかし思えば先生はあのときを境に、色々としてくれるようになったような気がする。食事の支度の手伝いをしてくれるようになったのは解雇されてからぐのことだったが、それ以外の先生の変化は、私たちが私の実家から帰ってきてから現れ始めた。明らかに一緒に居てくれる時間が増えている。

「先生が魔法を使うのと、どちらが珍しいでしょうね」

 目元を優しく和らげて、コルテスさんがちょっと意地悪な風に微笑ほほえむ。私は「どうでしょうか」と彼から目をらした。

「……俺はルシルさんが先生のところに居てくださって、とても嬉しく思っています」

 先のからかうような口調から一転、しみじみと言われ、何と答えたらよいのか分からない。

 コルテスさんや街の人たちが先生を慕い、同時に距離を測りかねているのは知っている。そんな中、ものの私が先生の隣に収まってしまったのだ。思うところがある人も居るのでは、と実は内心案じていた。

「ルシルさんと一緒に居る先生は少し雰囲気が違います。先生の優しい一面がよく見れるようになりました。あの方、お優しいのに、ご自身ではその自覚がないので」

「ああ。だから仏頂面なんですよね……」

「難しい方です」

 コルテスさんにこんなにバレていますよ、と先生に教えてあげたい。私たちは眉を下げて笑い合った。

 帰り際、コルテスさんが「またお話聞かせてくださいね」と手を振る。私は先の失態を思い返し、すように首をかしげ、商工会を後にした。

 普段と変わらないコートデューの街を眺めながら歩く。静かにたたずむ家々。のんびりした様子で歩く人々。けんそうの気配もなく、事件の影もなく。耳に届くのは風の音や生活の音。本日も至って平和な街の中を私もゆったりとした足取りで歩く。

 商工会から二本、脇道の前を通過したとき。そういえば卵の在庫があと二つだったというとても重要なことを思い出した。是非に卵屋さんに寄らなくてはと大通りの角を曲がる。すると。

「すみませーん、通りまーす。ちょっと失礼しまーす」

「あーい、いいよいいよ。いやいかん、ストーップ!」

 何やらにぎやかな声が聞こえてきた。その辺に居た人々と同様、「何事だ」と私もキョトンとして声の方へ顔を向ける。見えたのは大きな荷物を積んだ荷車を押している屈強な男たち数名。

(お引っ越し?)

 見慣れないその光景に、思い当たることはひとつ。お引っ越しだとしたら、私のようにトランクひとつで汽車に飛び乗ってやってきました、という形ではない。荷物の大きさと数からして、計画性のあるしっかりした移住だ。住む所ももう決まっているのだろう。

(良いと思います)

 人が増えて活気が出るのは良いことだと、コートデューに来た初日、宿屋のテオさんが言っていた。いつの間にか私もそう思うようになっている。自分がこの街の一員になっていると実感し、角を曲がっていく荷車を見届けた。

 どんな人が来たのだろう。想像を膨らませながら卵屋さんへと向かった。


「ただいま戻りました」

 家に帰ると、一階には誰も居なかった。先生は二階の研究室か書斎に籠もったままだろう。

 キッチンに行くと、出かける前に一緒に食べたスイートポテトの在庫が減っていることに気が付く。

(ははーん。おかわりされましたね)

 正直、前回投入したシナモンの量の記憶がなく、前と同じ味になるかどうか自信がなかった。たくさん入れたことだけは覚えていたので、今回もとにかく盛大に入れた。結果、どうやらご満足いただける出来だったらしい。

 よかったよかったと、一人でにやにやしていると、ぺたぺたと階段を下る音が聞こえてきた。先生だ。手に小皿を持っている。

 おかわりと察して「いくつ召し上がりますか」と尋ねると、先生は首を横に振った。

「君が帰ったので、ついでに持ってきただけだ」

 ついで、とは私の帰宅確認のついで、だろう。

「そうでしたか」

 わざわざ降りてきてくれたのかと思うと、胸の中がくすぐったくなる。

「コルテスは」

 今度こそ「元気かどうか訊かれている」と察し、「お元気そうでした」と答えた。先生は何でもない風に頷く。元気であればよい、ということだ。

「お店がひとつ増えていました。食料品と、雑貨を売っているみたいです」

「……」

 続けて本日見知ったことを報告したが、先生からの反応は特にない。ひょっとしたら街の仲間の猫や鳥から既に聞いていたのかもしれない。彼らの情報網が侮れないことはよくよく知っている。うっかり私の惚気が巡り巡って先生のお耳に入った体験を経て、私は外で話すことに気を付けなくてはならなくなった。知らなければ気にすることもなかったのに。

「お聞き及びかもしれませんが、どなたかお引っ越しされてきたかもしれません。荷物をたくさん運んでる方を見ました」

「知っている」

 やはりか。もはやこの街で私が先生に一番乗りでお知らせできそうなことなど、『本日のメニュー』くらいしか残っていないのかもしれない。

「これは」

 先生が私の買い物籠の中身に興味を示し、布の小袋を取り出した。

(あ、見つかった)

 びっくり楽しませようと内緒にしておきたかったのだが、もう見られてしまったのなら仕方がない。

かんきつけいの果物の皮を乾燥させたものが詰まっているそうです。お風呂に浮かべるものだと聞きました」

「……」

 先生が興味深そうに小袋を鼻に近付ける。

「さっきお話しした新しくできたお店をのぞいてみたら、いただけました。今晩試してみますね」

 先生は小袋を自身の鼻先から遠ざけると、今度は私の方へ差し出す。ふんわりと優しい、いい匂いがした。

「……美味しそうな匂いがします」

 私の正直な感想に、先生が口元を和らげる。

「楽しみだな」

 あなたが楽しいと感じることを提供できて嬉しい。自然とこぼれる笑顔をそのままに私は「はい」と返事をした。


(はー。熱い)

 夜。ほんのり柑橘の匂いのするお湯にあまりにいやされたため、ついつい長湯をしてしまった私は若干湯あたり気味でお風呂を出た。石鹸に加え、お湯までいい匂いにしてしまった。

(とても良かった。香り袋、自分でも作れそうな気がするから、今度作ってみよう)

 幸いこれからオレンジやレモンが食べ頃になる。皮を残して、たくさん作って保存しておいてもいいかもしれない。

「よいしょ」

 リビングのソファに座り、「ふー」と息を吐いた。

(あれ)

 そこでふと気が付く。パジャマのズボンが前後ろ反対であることに。道理で少し変な感じがすると思った。

「しまったしまった」

 その場で直そうとしたのが私の浅はかなところである。脱いで前後を確認し、はこうとした瞬間。タン、と階段を誰かが踏んだ。いや誰かなど考えなくても一人しかいない。

「……」

…………

 グラス片手に階段上で立ち止まった先生。いざパジャマをはかんとす、という姿勢で固まった私。頭の中は真っ白だった。素知らぬ顔でさっさとはけば良かった、と後の私は語る。しかし今の私は動揺して動けず。極めてよろしくない格好のまま硬直してしまった。

(あ、あわ、あわわわわ)

 着替えを見られた、いや見られているという非常事態。私は──いや私たちは今、過去最大のピンチに──。

「失礼」

 この間、時間にして二秒。先生は全く何ともない様子で下る方へと階段を進み、私の前をスルーしてキッチンへ行って水をグラスに注ぐと、スタスタと戻っていく。去り際に「冷えるぞ」と優しい言葉を残して。

…………

 一人その場に残された私はおもむろにパジャマをはいた。そして再びソファに腰かけ、頭を抱える。

(あああああああああ!!!)

 やってしまった。こういう事件を起こさないように気を付けていたのに。何という間の悪さ。しかもどうして直ぐにはかなかったんだ。自分が分からない。せめてもっとちゃんと隠すとか。

(み、見えたよね……!?

 羞恥で身をよじり、先生を思い出す。あの位置で、見えないはずがない。しかも眼鏡めがねをかけていた気がする。

「う、うう……!」

 何と思われただろうか。だらしのないやつと思われただろうか。それとも。

「……いや」

 背中を丸めたまま顔を上げ、階段をにらむ。何やら恐ろしいことに気が付いてしまったかもしれない。

「何とも思っていないのでは……?」

『失礼』と言ったが出直すでもなく普通に降りてきた先生。そしてとどめの『冷えるぞ』。

 どう聞いても、どう見てもあれは平静の先生だった。恥ずかしがっているのは私だけということである。

 ドサリ。ショックがかさみ、ソファに倒れた。

 喜んでほしかったとか、照れてほしかったとか、怒ってほしかったとか、そういうことではない。むしろ喜ばれたら先生の偽物かと疑う。これは不幸な事故である。先生の珍しい反応を期待して醜態をさらした訳ではない。そんな体の張り方はしない。

 しかし。

(無反応ですか……)

 おもい合う仲で無反応はどうだ、といまだ私の中に住まう乙女がいかつくて険しい顔で問題提起をしてきた。

(少しくらいドキ! とか)

 先生に私が思う「普通」の反応や行動を当てはめるのは間違っているのかもしれない。しかしそれを考慮しても、いささか衝撃が大きかったのである。

 ドキドキしてしまうのは私だけだろうか。先生だって全く照れない人ではない。けれど、私みたくドキドキバクバク心の臓を鳴らしているかといえばそうでもない。正確にはそうでもないように見える。

「好いてくださっているのは知っているのですよ」

 誰に言うでもなく、ぽつりと言葉が口から零れた。先生が雇用関係を解消してまで一緒に居てくれることの意味を忘れるつもりはない。しかし、しかしである。恋をしているが故の物足りなさにさいなまれることもあるのだ。

 大事にされているのに、どうしてもっと近付きたいと思ってしまうのだろう。強欲だと自戒しても、その気持ちは段々と大きくなってきた。先生が私との距離を詰めてくれていると感じるこの頃は特に。

 ごろんとあおけになり、天井を眺める。二階に籠もるあの方に近付くのは難しい。家政婦時代から、先生と近付きたければあちらが来ることを待たなくてはならないのはよくよく知っている。こちらが熱い想いを掲げ、全力疾走で先生に向かおうものなら、先生はそれよりも早く遠ざかるか、それはそれははっきり「来ないで」と拒否するだろう。

(想い合う仲だとお互いに思っていても……何でも許せる訳じゃないものね。私が今まで大事にしてきた先生との心地のよい空間にひびが入ることだけは避けたい)

 それでも。ドキドキしているのは自分だけかも、と思うのはちょっと寂しいことなのだ。

(もう少しだけ、近くに寄ってもいいですか)

 せめて、先生の心臓の音が聞こえるくらい。チクタクと鳴る秒針の音を、私の心音が追い抜いていく。


 一夜明け。朝食の準備をしていると、七時十五分前に先生がやってきた。昨日の今日なので、少しだけ顔を見るのが恥ずかしい。「昨夜はお見苦しいものを」と言おうかと思ったが、先生の様子が全くいつもと変わりなかったのでやめた。わざわざ話題に出したところで、私が大やけどを負うだけである。

 先生は私の隣に立つと、小鍋を取り出す。私は次の言葉を期待して待った。朝に先生が飲み物を出してくれるのが、日々の私の楽しみだ。大体選択肢が二つ与えられ、好きな方を選ばせてもらえる。昨日はコーヒーか紅茶だった。その前はココアかホットミルク。今日は何だろう。

「……ジンジャーコーヒー、シナモンアップルミルクティー」

(ひ、ひねってきた……!?

 予想していなかった二択に面食らう。これまでオーソドックスかつ飽きのこないラインナップだったのだが、突然初めて聞く名前の飲み物が提示された。名前から味がイマイチ想像できない。甘いのか、甘くないのかすらも不明だ。色んな意味で迷う。

「ジンジャー? シナモンアップル?」

「そう」

「どちらが甘いですか」

「両方」

 口を開けて「ほー」と間抜けな反応をしてしまった。そうか、ジンジャーの方も甘いのか。こうなったらより未知な方を選ぶしかない。

「では、ジンジャー? コーヒーを」

 先生は「承った」と言い、戸棚から粉末にしたジンジャーの瓶と、カルダモンの瓶を取り出した。どうやらジンジャーコーヒーにはジンジャーの他にカルダモンも付いてくるらしい。いよいよどんな味なのか分からない。

「手が空いているのであれば」

 隣で作る過程を興味津々で見ていた私の方へ、先生がカルダモンとグラインダーをそっと押してす。私は「はい!」と元気に返事をした。私がゴリゴリとカルダモンを砕いている横で、先生は生クリームを用意した。

「固くする必要はない」

「はい」

 おっしゃる通り、生クリームがふんわり柔らかく立てられる。先生は私から細かくなったカルダモンを回収すると、コーヒーの粉と共にジンジャー、カルダモンの粉末にお湯をかけた。スパイスたちは後入れかと思っていた私は「一緒に入れてしまうのか」と目をく。

 ドリップしたコーヒーにふわりと先のクリームを載せ、軽くシナモンの粉を振れば完成。既に複雑な香りがしている。自分では思い付かない取り合わせにパチパチと拍手を送った。

「こういうものもあった、と思い出した」

 先生はそう言いながら私にクリームをすくったスプーンを差し出した。少し余ったらしい。私は先生の目を見た。口には出さないけれど「お食べ」と言っている。

「……」

 パカと口を開けると、スプーンが差し入れられた。何だか自分が鳥の子になったような気分である。

 口の中にほんのりとした甘さが広がった。「美味しいです」という意図を込めて頷くと、先生も頷きを返す。

(ぐうう)

 心の中で眉間を押さえた。先生が何の気もなしにやっていると分かっているので、この嬉しいやら恥ずかしいやら照れ臭いやらという微妙な気持ちのがない。

(もう……!)

 少しくらいお返しをしてもいいだろう。大丈夫、ちょっとくっつくくらいなら先生の許容範囲を脱しないことは把握している。

 私は「えい」と先生の腕に額を寄せ、そっと手を添わせた。すり、とおでこをこすりつけてみる。「どうだ!」と勝ち誇るにしては自分の心臓の音がうるさいのだが、そのままキュッと先生の袖を握る手に力を入れる。布越しに指先が先生の腕をでてしまい、内心「あわわ」と慌てたのは秘密だ。

「……」

 無意識に目を閉じた私の前髪を骨ばった指がける。そして少々無遠慮にてのひらが額を覆った。これは。

「熱は」

「ございません」

 何ということだ。完成度はさておき、こちらとしてはしなだれかかったつもりが、体調不良で倒れかかったと思われた。先生の掌体温測定は正確だ。熱はないが、照れによる多少の体温上昇は否めない。先生が「平熱以上」と判定する前に私はサッと身を離した。

 このしょっぱい気持ちをどうしよう。

 せめて少しでもドキッとしてはもらえないだろうか。甘かった口の中は、いつの間にか元に戻っていた。


 そんなことがあってから数日。

 シトシトと庭がれる。本日、森は朝から長い雨に晒されている。足元より冷たさが忍び寄るよう。庭には出られないし、窓も開けられない。

(先生はずっと二階)

 先日の悔しさが尾を引く。あれからリベンジのチャンスを狙い続けている私だが、二階に籠もられては仕方がない。かといって先生が一階に居たら何かアクションを起こせるのか、と訊かれたら必ずしもそうとは言い切れないのが歯がゆいところ。タイミングと、先生のセーフ/アウトの判定を見極めるのは難しいのだ。

 雨の様子を見に寄った、庭に面したガラス戸に自分の姿が映る。先生をドキリとさせたいという野望を掲げたはよいものの、圧倒的に私よりも先生の方が趣深いというか、味わい深いというか。

(私でなくても参ってしまうよ……!)

 昨日だって、お風呂上がりの先生にあっさりときめいてしまった。顔にかかる髪を疎ましそうに払う手、飲み物の進捗をうかがう流し目。それらによって抱き着きたい衝動に駆られたのだが。ソファで待つかと思いきやキッチンに向かってきて発した「どうした」に目と耳を奪われて固まってしまった。

(私が意識し過ぎている説もある)

 変な野望を掲げたことにより、普段よりも神経を使って先生を見ているせいで、余計に意識してしまう。普段の当たり前のやり取りすらドキドキしてしまう自分が居た。どうしてこうなった。

「はあああ」

 声と共にため息を放出する。どうしたものだろう。私はガラス戸に背を向け、雨の日の針仕事に取り掛かることにした。

 雨の日にやるために繕い物をめている。ボタンの取れかかったシャツ、裾のほつれたスカート、穴の開いた靴下など、仕事はたくさんあった。雨の音で集中力が高まる。ひたすら無心に針を通す作業は、庭の草むしりに似ている。

…………

 やがて雨の音も耳に届かなくなり、黙々と自分の世界で手を動かすのみ。針を刺す、糸を抜く、また刺す、それしか考えられなくなっていることすら気が付かない。

 そんな状態の私を現実に引き戻したのは、控えめなコンコンという音だった。私はハッとした。あまりに控えめな音だったので「何か鳴った?」と部屋の中をきょろきょろと見回した。そうしていると、再びコン、と固い音がした。ようやく私はノックだと気が付き、慌てて手にしていた針を針山に刺した。

「はあい! ただいま!」

 先生が私の部屋を訪ねてくるのは珍しい。何かあったかと足早にドアに向かった。

「どうかなさいましたか?」

「いや」

(いや?)

 用事はないのだろうか。では何故こちらに。私は意図を問うように首を傾げてみた。先生は「どこに居るかと」と言ってくるりと背を向ける。脳にビシッと電撃が走った。

(さ──探しに来たのね!? いつも大抵キッチンかリビングに居るから!)

 まさかいつもリビングに私が居なければ探しているのだろうか。晴れた日は大体庭に居るし、買い物に行くときは声掛けするかメモを残す。真偽は分からないけれど、少なくとも今日は明らかに居所を確かめに来たのである。心の中の動揺を押し隠し、何でもない風でペタペタと廊下を歩いてゆく先生の背中に話しかける。ちょっと寒いのにやはり裸足はだし

「温かいものをおれします」

「いい。邪魔をした」

 つれなく断る先生がいとしい。思わずほくそ笑んでしまった。「私も一息入れたいので」と追いかけた。

 作ったのは濃い目のレモネード。裸足の先生が少しでも温かくなるようにと、体を温めるスパイス入り。ピリッとした香りが立つ。

「どうぞ」

 ソファで大人しく待つ先生の前にあるローテーブルにカップを置く。立ち去る気配がないので私も隣にお邪魔した。ホコホコと湯気を立てるレモネード。口を付けてみたけれど熱過ぎて飲めなかった。

「お熱いのでお気を付けください」

 一旦カップを置き、先生に注意を促す。先生はコクリと頷き、ソファに沈んで静かに呼吸を繰り返す。ガラス戸から入る光は弱く、部屋の中は薄暗い。ソファの端が多少光を受けるくらいだ。二つのカップが白いもやを揺らしている。

(やっぱり少し寒いよね)

 ガラス戸の近くは肌寒い。私はチラと先生を見た。先生は腕を組んで目を閉じていた。その姿を見ていたら、近寄りたくなった。言葉なく、雨の音だけが聞こえる空間に、布が擦れる音が混ざる。

 そっと体を寄せると、温かさに触れた。

…………

 互いに何も言わない。ただただ、「くっついているなあ」と思うばかり。頭の中に細い糸のような期待がよぎる。

 ──ギュッとしてくれないだろうか。

 いや。心の中で頭を横に振る。先生から自発的にそのようなことをしてくると期待してはならないのはよく分かっている。何故なら、いつもこうして寄っていくのは私の方からだから。先生が先生の意志によって先生の方から私に手を伸ばすことはほぼない。いたわりを込めて頭や背中を撫でてくれることはあるものの。

(いいのですけど、それがいいのですけどね……)

 私の希望をかなえてくれるという一貫した姿勢を貫く先生。何の文句があろうかと、冷静な私が自分を戒める。

「……ちょっと、寒いですね」

 結局、言ってしまった。ずるい言い方をしてしまったなあ、とぼんやり心の中で呟く。先生は私をチラリと見た。目を合わせない私をどう思っただろう。先生は体をこちらに傾けた。触れる面積が増える。くっついていたい、という気持ちは伝わったようだ。

 ドキドキと聞こえるのは、やはり私だけだった。