鉛のような気分とは裏腹な、
朝早くから目を覚ましてしまった、この王国グロースヒンメルの若き国王ヨハネスは、自室の椅子に腰掛けて深く重い息を吐く。
(疲れた……想定以上だぞ、これは……)
目の前にあるのは、国内外から届いている大量の釣書だ。
つい先日開いた重臣会議で、ヨハネスは王妃候補の選定を始めると宣言した。
その日から早速、ヨハネスの元には高位貴族や周辺諸国の王侯貴族からの釣書がひっきりなしに届いている。
それは想定内だ。問題がないどころか、選択肢が増えることは良いことで、ありがたい。
だが、しかし。
「圧がすごい……」
問題は会議を含めた公務の最中に、あまり敵に回したくない
それだけならうまくあしらえば良い話と思いきや、あしらう前に対立する他の者たちが反応してしまう。
自分の家や派閥から王妃を選出したい者たちがちくちくと遠回しに嫌味の応酬を始めるのを、引き攣る胃を抑えながら宥めるのが、ここ最近の常だった。
今日もまたあの応酬の間に身を置かなければならないのかと思うと、まだ自室を出てもいないのに、既に帰りたい。
(あの中の誰かが
彼らが、盤石とは言えない玉座に座すヨハネスを、自身の都合の良いように動かしたいと考えていることは明白だった。
となるとおそらく妻となる女性とも、それなりに長い期間、駆け引きをしていかなければならないだろう。
仕方のないことだ。
せめて諸々が落ち着くまではと、今日この日まで伸ばしてしまってはいたものの、不本意な形で王位を継ぐと決まってから、ずっと覚悟していたことだった。
「私の妻となる女性も、気の毒なことだ……わっ」
重いため息を吐いたヨハネスの膝に、愛猫である白猫が音もなく飛び乗った。
紫色の大きな瞳が、何かもの言いたげにこちらを見て「ミャ」と鳴く。
「……心配してくれるのか?」
予想外の猫の行動に、目を見張る。
婚約者と伯父からの暗殺未遂など、さまざまなことが起きてひどく傷心中だったヨハネスが、王宮の片隅でうっかりと拾い、つい飼い始めてしまったのがこの白猫だ。
可愛さは天下一品で、おそらくは世界で一番の可愛さを誇るだろう。
しかしヨハネスにはまったく懐かず、悩みに悩み抜いてつけた名前をどれもこれも威嚇して拒絶し(よってこの猫に名前はまだない)、食事を求める時だけツンと澄ましながら寄ってきて、何故かヴァイオレットにだけごろごろと喉を鳴らす冷たい猫だが、どうやら飼い主を慰めに来てくれたらしい。
てっきりヨハネスを食事製造機か何かとしか思っていないのだろうと、そう思っていたのだが。
「そうか。お前にも、優しい心があったのだな……」
心を打たれ、頭を撫でてやろうとそっと手を伸ばす。
だがしかし、手が触れるか触れないかのところで「ミャッ!!」と前足で手を叩かれた。
気安く触れるなと言わんばかりに毛を逆立てて牙を剥き、凶悪な顔で睨みつけてくる。
どうやらこの猫は慰めにきたのではなく、食事を寄越せと催促に来たらしい。
「まったくお前は……この私にそんな態度を取るのは、この世でお前ともう一人くらいだぞ……」
そうぼやきながら、猫の食事を用意するため席を立つ。
本来なら侍女に任せるようなことだが、この猫は食事の出し方や器が気に入らないと牙を剥くのだ。
嫁入り前の女性に傷を負わせては忍びないということで、こういう手合いの扱いに慣れているヨハネスが、手ずから食事を用意していた。
最高級の皿に入れた、これまた猫界の中では最高級の猫用の食事を差し出す。
『まあ仕方ないわね』と言うような表情で品よく食べ始める猫を眺めながら、ヨハネスは「私は猛獣使いに向いているかもなあ」と、ぼそりと呟いた。
「幼い頃からヴァイオレットと関わってきた私だ。国王よりそちらの方が、よほど向いている気がするのだが」
猛獣を使うというよりは猛獣に良いように使われている気もするが、それは見ない振りをする。
「……こんな泣き言を言っているようでは、本当に情けないな……いてっ」
自嘲気味に自分を奮い立たせていると、あっという間に食事を平らげた猫がヨハネスの手に「ミャッ」とじゃれついた。
どうやら量が足りなかったようだ。皿を前足に乗せて、もっと寄越せと催促している。
「肥満は猫の体に悪いぞ」と言いながら、気を紛らわせるために猫じゃらしを取り出す。揺らすと本物の蝶のようにゆらゆら動く、どんな怠惰な猫でも動き出したくなると評判の猫じゃらしだ。
「本物のようだろう。さすがのお前も、この猫じゃらしには夢中に…………」
猫じゃらしを振るヨハネスを冷めた目で見ながらみじろぎもしない猫に、無言で猫じゃらしを仕舞う。
「……では私は仕事に行ってくる。……私がいない間、良い子にしているのだぞ」
冷ややかな猫にそう声をかけ、身支度を整える。
朝食を摂ったらすぐに公務だ。
頭の中で今日の予定を思い返し、重い気分を頭から追いやったヨハネスは、急ぎ足で自室から出た。
◇
ヨハネスが出て行った後。ニャイオレットは、日のあたる場所に用意された自分の特上のベッドでごろごろと寝転んでいた。
日差しを浴びて良い気分になりながらも、考えるのは今しがた出て行った下僕のことである。
ニャイオレットは、猫の中の猫だ。
真っ白で美しい毛並みはもちろんのこと、しなやかな肢体も獲物を仕留める身体能力も、それからこれと認めた人間以外にはけして媚びない誇り高さも、当代随一の猫だと自負している。
そのような素晴らしい猫であるからして、当然ながら世話をさせている下僕もそれなりの人間だ。ヨハネスと呼ばれるあの人間は、人間の中では割と位の高い人物であるらしい。
人間の中で一番偉いのは、ニャイオレットが唯一素敵な人間だと認めているヴァイオレット・エルフォードという美しい人間のようなのだが、ヨハネスはそのヴァイオレットにも、少しは物を言える立場のようなのだ。
素晴らしい。それでこそ、ニャイオレットの下僕に相応しいというものだ。
小言が多いところは玉に瑕だが、そこそこ気が利く下僕ヨハネスに、ニャイオレットは心から満足をしている。
だがしかし、最近この下僕の様子が少し変なのだ。
初めて会った時から、不幸に祟られているような辛気臭い顔をした人間だなと思っていたが、近頃はその不幸顔が更に輪をかけて陰気である。
じめじめカビカビした人間が側にいると、なんだか不幸がうつりそうで嫌だ。
毎日ご機嫌に生きていたいニャイオレットにとって、これは由々しき事態である。
ふかふかのベッドの上でうとうととしながらそんなことを考えつつ、どうしたものかなあと、窓の外に目を向ける。
するとそこに、見覚えのある人間を見つけた。
ニャイオレットの尊敬しているヴァイオレットが、あれは少々おかしな人間だけれど、人間を元気にする薬を作ることだけは上手なのだということを言っていた。
「にゃあ」
良いことを思いつき、眠気が覚めたニャイオレットは、少しだけ開けられていた窓に無理やり頭を突っ込んで外に出た。
本来ならば猫は、世話を焼かせてあげる立場であるのだが。
たまには下僕のケアをするのもできる猫の務めだろうと、ニャイオレットは尻尾を揺らして歩き出した。
◇
「うーん、良い空気」
白く眩しい日差しが降り注ぐ、早朝。
畑に水をやりながら、私は元気にわさわさと育っている薬草畑に目を向けた。
葉の上に乗った水滴が、朝日を受けてきらきらと輝いている。その絶景に「早起きするって得だなあ」と独り
「頑張って育てた甲斐があったなあ……それにしても、栄養たっぷりの土壌で育つ植物は色よし艶よし元気よし、素晴らしさの三拍……しっ!?」
唐突に、後頭部に衝撃を感じた。ずしゃん、と音を立てて前のめりに転んだ私がわけもわからずに顔を上げると、目の前には得意げな顔でこちらを見下ろしている、高貴で美しい白猫がいた。
「ニャ、ニャイオレットさま……!?」
「ニャ」
名前を呼ばれたニャイオレットさまが、満足そうな顔をしている。
どうやら木の上かどこからかジャンプしたニャイオレットさまが、私の後頭部に着地したらしい。
以前一度だけお会いした時も、なかなか肝の冷える悪戯をする猫だなあと思っていたけれど、そのお転婆ぶりは健在のようだ。
起き上がって、まだ衝撃の残る後頭部をさする。
「ニャイオレットさま。人の後頭部に飛び乗るのは危ないです……」と控えめに苦言を呈しながら、そんな苦言などどこ吹く風といった様子のニャイオレットさまに目を向けた。
「……それよりもニャイオレットさま。いくら王宮の庭園とはいえ、お外を一人で出歩いて大丈夫ですか? 陛下が心配しているのでは……」
「ミャ」
心配ご無用、と言いたげな表情だ。きっと大丈夫じゃないのだろう。
迷子になってしまう前に王宮に送り届けなくてはと、私が手に持っていたじょうろを置くと、足元にいるニャイオレットさまがミャアミャアと鳴き始めた。
どうやら私に何かを訴えているようだ。
「ニャイオレットさま、どうしました? 何か欲しいものややりたいことがあるのですか?」
「ニャ!」
当たっていたらしい。ニャイオレットさまの否定はミャア、肯定はニャア、となんとなく理解していた私は、彼女の要望に答えるべく次々と質問をしていくことにした。
「もしかして、薬草が気になりますか? お任せください。薬草のことならこの私が一つ一つご説明を……」
「ミャッ!!」
「えっ、まさか違う? では、肉球のマッサージとか……?」
「ミャ」
「それも違うのですか……お薬? でも、ニャイオレットさまにお薬は必要ないですよね……」
「ミャーニャ」
「うーん……? これは微妙な反応……」
新しい返事に困惑しつつも、当たらずといえども遠からずということだろうとあたりをつけ、次々と質問をしていく。
「毛並みを綺麗に整えるお薬?」
「ミャ」
「肉球がぷにぷにになる薬?」
「ミャッ」
「う、うーん……? それでは、疲れが取れるお薬ですか?」
「ミャニャニャ」
「んんん……げ、元気が出るお薬……?」
「ニャン!」
「あ、当たった! ……しかしニャイオレットさま、それ以上お元気になりたいのですね」
ようやく当たったことにホッとしつつ、ですが、と私は眉を下げた。
「一応そういった種類のお薬もあることはあるのですが、すぐにご用意できるのは人間用のお薬のみでして……。ニャイオレットさま用のお薬をお作りするには、少し時間が……」
私がそう言うと、ニャイオレットさまがミャアミャアとお怒りの鳴き声を上げる。
「す、すみません……。しかし人間と猫では摂取していい成分も薬の量も変わってきますので、まったく別なお薬を作ることと同じというか……。あっ、それにニャイオレットさまの飼い主は陛下ですから、一度陛下にもご了承をいただかないと」
「ミャー!!」
私の言葉に、ニャイオレットさまがかんかんにお怒りになった。
世界で一番察しの悪い愚かな生き物に、どうわからせてやろうか、というような目をしている。心底怖いけれど、ここは私には如何ともし難い問題だ。
譲らない私に、ニャイオレットさまが拗ねたご様子でぷいっとそっぽを向く。
そっぽを向いた先は、日差しを浴びてすくすくと育つ薬草畑だ。
その畑を目にしたニャイオレットさまの目が、カッと見開かれる。
次の瞬間。
「ニャッ、ニャイオレットさま!!」
早朝の庭園に、私の悲鳴が響き渡った。
◇
朝食を終え公務に向かう途中、王宮の廊下を歩いていたヨハネスは何気なく窓の外に目を向けて、ギョッと目を剥いた。
「……悪いが、少し遅れると伝えてくれ」
側を歩く従僕にそう言い残し、ヨハネスは全力で庭園へと向かった。
全力で走ったヨハネスが、庭園に着くと。
「ニャイオレットさま! それはさすがにご無体というもので……!」
王宮薬師の制服に身を包んだソフィア・オルコットが、畑をひらひらと舞う蝶を追いかけようと構える白猫の前に仁王立ちをし、必死で止めている。
その白猫は、今ヨハネスの部屋でぬくぬくと寝ている筈の飼い猫だ。
「そこの薬草は繊細でして! 蝶々を追いかけたいと思うお気持ちは本能的に仕方ないのだとは思いますが、ここでは堪え……あっ、ニャイオレットさま!」
「オルコット伯爵令嬢!」
いつどうやって脱走したのだろうかと青ざめつつ、今まさに蝶々に飛びかかろうとした白猫を慌てて捕まえる。
腕の中の猫は一瞬大暴れの気配を見せたが、腕の主がヨハネスだと知ると一瞬固まり──ミャアミャアと鳴き声を上げながら、更に大暴れをした。
蹴られ噛まれ引っ掻かれながらも猫を抑えつつ、あたふたと慌てふためいているソフィアに「大丈夫か」と声をかける。
「すまない。これは私の飼い猫なのだが、私の管理不足で脱走したようで、迷惑をかけてしまった」
「いえ! 陛下が来てくださったおかげで薬草は無事でしたので。そ、それより陛下は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
着ている服は割とずたぼろだが、この猫の扱いには慣れているので怪我はない。
呪詛のような低い鳴き声をあげる猫に呆れた目を向けつつ、「蝶を追いかけて庭園に来たのか?」とぼやいた。
「普段蝶など見向きもせず、先ほども何の興味も示さなかったではないか……気まぐれめ」
何事もなくすんで良かったが、脱走現場を見たヨハネスの寿命は、確実に五年は縮んだと思う。戸締りだけは厳重にしようと心の中で猛省していると、何かを考えていた様子のソフィアが、「あのう」と慎重に口を開いた。
「陛下は今、落ち着かない状況だとお聞きしましたが……お疲れは出ていませんか?」
唐突にそんなことを言うソフィアは、少し気まずそうだ。
王妃探しのことを耳にし、リリーのことは大丈夫なのかと気遣っているのだろう。塔の中でも非礼を働いたヨハネスを診察しようとしていたが、どうやらこの心優しい薬師はまたもやヨハネスのことを気遣ってくれるようだ。
「大丈夫だ。そろそろ、私も国王としての責務を果たしたいと思ってな。新しく王妃となる女性が決まったら、ぜひ祝福してくれ」
そんなヨハネスにソフィアがじっと観察するような目を向けた後、腕の中の白猫に視線を移した。
「私の勘違いでしたら申し訳ないのですが……ニャイオレットさまは、なんだか薬が欲しいようで」
「薬?」
思わず訝しげに首を傾げる。
ヨハネスが付けた名前は何一つ気に入らず、呼べば威嚇してきた猫のことを、ニャイオレットという誰かを彷彿とさせるあだ名で呼んでいることは気になるが、それよりも薬を欲しがる猫というのは、一体どういうことだろう。
「と言ってもニャイオレットさまは猫ですので、コミュニケーションがちゃんと取れているのかと聞かれればなんとも言えないのですが……私の察する限りでは、元気が出るお薬が欲しいようで」
「元気が出る薬?」
正直言って今これ以上元気になられると、少し困る。
できればあと十年、十五年後あたりに是非とも頼みたい薬ではある。
そんなことを考えていると、ソフィアが猫に向かって、とても優しい目を向けた。
「……これも私の勘といいますか、ただの想像なのですが……もしかしてニャイオレットさまは、そのお薬を陛下に差し上げたかったのかもしれませんね」
「え?」
「猫は、獲った獲物を飼い主に渡しに行くことがあると、以前同僚から聞いたことがあります。普段獲らないという蝶を獲ろうとしたのも……お疲れの陛下を、元気づけたかったのかもしれません」
「……」
まさか、この猫が。そう思いつつ、猫に目を向ける。
ヨハネスの腕をガジガジと噛んで鬱憤を晴らしているこの猫は、目が合った途端に『そうだそうだ感謝しなさい』と言いたげな、じとりとした目でヨハネスを睨んだ。
(……なるほど)
あの会議で王妃を選ぶと発言したことを、翻す気も後悔したこともない。
しかしあの日からふとした瞬間に湧き上がる、感傷や自責や不安といった感情を、この猫の前でだけは隠すことをしていなかった。
(ただの偶然、気まぐれなのかもしれないが)
ソフィアの優しい思い込みということも、ヨハネスの都合の良い妄想という可能性もある。
けれども。
ヨハネスは猫の頭を撫で、「優しい奴だな」と呟いた。
おそらく自分は様々な力関係を意識して、王妃を選ぶことだろう。
しかし王妃となる女性には、最大限誠実に、相手を理解しようと努めよう。もう身近な人の苦しみに、気付かないことがないように。
頭を撫でるヨハネスの手を、不快そうに前足で払う猫に笑みを向けつつ、ヨハネスは「仕事から戻ったら、お前の好きなおやつをやろう」と言った。
腕の中の白猫が、当然でしょう、と言いたげに鼻を鳴らす。
「普段は一つだが、今日は特別に二つやろう」
ヨハネスの言葉に、猫がようやく満足そうな顔で「ニャ」と鳴く。上機嫌なその顔に、ヨハネスとソフィアは顔を見合わせ、同時に吹き出した。