過熱する論争に、ヨハネスは片手をあげて言った。

「しかし彼女はまだ、薬師になって間もない。オルコット伯爵家ではあまり良い扱いをされておらず、貴族令嬢としての教育を学び直している最中だ。おそらく本人もその負担から婚姻に前向きになれないのだろう。すぐに婚姻を結ばせるのは、薬師業にとってマイナスに働くのではないか」

「すぐにでも、ということは、いずれは命じるおつもりが?」

「ディンズケール公爵。まだ十六歳の彼女の婚姻よりも、早急に解決しなければならない問題があるだろう」

公爵にまっすぐ目を向けながら、柔らかな──しかし淡々とした口調で話していたヨハネスは、一旦そこで言葉を区切った。

「──王妃のことだ。私も即位し、もうじき四か月が経つ。戴冠式も控えていることだ。そろそろ王妃を迎える準備をしなければならない」

「……!」

ヨハネスの言葉に、その場にいた者全員が目を見張った。

確かにヨハネスの婚姻は急務だ。

しかしヨハネスがレッドグライブ伯爵令嬢を愛していたことは周知の事実。

経緯が経緯なだけに強く進言しにくい問題ながら、それとなく次の婚約者候補を提案するも、まずは継いだばかりの王位の基盤を整えることが先決だとかわされていたのだ。

「秋に開かれる戴冠式で、王妃となる女性を公表しよう。──明日から早速、王妃候補にふさわしい令嬢を探していく」

ディンズケール公爵家の当主の部屋には、果てしなく延びる長い地下道が隠されている。

会議を終えすぐに帰宅したディンズケール公爵家当主、ジェレマイア・ディンズケールは、厳重に隠されているその地下道の扉を開けた。

ジェレマイア、という名前は、代々ディンズケール公爵家の当主だけが受け継ぐ名である。ディンズケールの公爵位を継ぐ者は、必ずこの名前と地下道を受け継ぐのだった。

この地下道の長さには骨が折れる。しかしこの長く暗い地下道を歩き、妙に感覚が研ぎ澄まされるようになった頃、その道はようやく終わる。

目の前に現れた扉を静かに開ける。

僅かな光が差し込む、腐臭漂うその空間に入り、ディンズケール公爵は跪いた。


猊下げいか。ジェレマイアが参りました」

「──ああ」

寝床に臥す男のしゃがれた声は、何重にもひび割れている。

常人であれば背筋がぞっとするだろうその声を受けて、ディンズケール公爵は「万事滞りなく終わりました」と述べた。

「首尾は」

「全て、想定通りに。ヴァイオレット・エルフォードは、クロムウェルをも凌ぐ魔術師だとこの目で確認致しました。使った男は、国外追放に」

「そうか。──それで良い」

掠れた声でそう言う男が、「それで」と、低くしゃがれた声を、その場に跪くもう一人の人物──ソフィア・オルコットの誘拐役にと選んだ、孤児の少年に向けた。

「お前からの中間報告では、本人達の元の人となりがわからない。入れ替わったように見えるが確証はない、と言っていたな。事件を通し、お前の目から見たその二人はどうだったのだ」

「はい。申し上げます」

少年が、その青い目をまっすぐに男に向ける。

男は、常人ならば直視することを躊躇われる外見をしていた。

肌が岩のように硬くなり、しかし表面は木の枝のように枯れている。

かと思えば別の部分は腐りかけ、死臭のようなにおいが漂っていた。

そんな男を少年は、強靭な意思を持って見据えていた。

「あれは間違いなく演技でした。私の未熟さゆえに騙されかけてしまいましたが、盗み聞きした彼女達の会話に、入れ替わった演技をしているという内容がありました」

そこまで言って少年は言葉を切り、淡々と口を開く。

「ですから、入れ替わりの魔術は存在しなかった。僕はそう、確信しています」

空気が凍るような、重い沈黙が広がった。

「……そうか」

しゃがれた声が、静かに響く。

「──この私を、たばかるか」

一瞬の間を置いて響いたその声に、場の空気がビリビリと震えた。

「動じぬな。死ぬ覚悟で裏切るか。ははは、アーバスノットが妹の病を治したから、それでよいと?」

ぐっぐっぐと、何かが潰れるような音がする。

その不気味な音は、男の笑い声だ。しばらく鳴っていたが、急にふっと音が途切れた瞬間、リアムの足元に何か小さなものが投げつけられる。

何かが砕けた音が聞こえると、それは以前街で自分に渡された、あの軟膏だった。

「お前らのような鼠どもがアーバスノットの治療を受けるには、大金を払う必要があると以前教えたはずだが──まあ、いい。私は子どもには、少し甘い。幼い子どもに希望のない人生を歩ませるのはしのびないからな」

またぐっぐと音が出て、「しかし」と男が口を開いた。

「お前の妹の病が癒えた頃、また同じ苦痛を授けよう。治るのだろう? 治るから良いのだろう? ならば何度も何度も、同じ苦痛を与えてやる。いっそ死んだ方がましだというくらいに」

「……! あの病気は……」

リアムが目を見開いた瞬間、男はひどく嬉しそうに「今更気付くとは」と、喉の奥で笑った。

「希望を抱いた瞬間に、また苦痛に舞い戻る。──その絶望は、計り知れなかろうな」

それまで動揺を見せなかった孤児が、その時初めて動揺する。

ひどく醜悪に微笑む男を、孤児は震えながら見つめていた。

「──……年を取ると、物忘れがひどくていかんなあ。さて、忘れてしまった。先ほどお前は、何と言った? お前は妹に、どんな人生を歩ませる?」

「……っ……」

「選べ。最愛の妹が送る人生を。苦痛なき生か、永遠に続く苦痛の生か」



少年が去ったあと、忌々し気なため息が広がった。

「あれほどに悩むとは、思わなんだな」

「ええ」

しかし結局、裏切った。

ならば良いだろうと何の感慨も覚えず、ディンズケール公爵は頷いた。

「自身を攫った人間を心酔させ、またもや花を降らせおった」

そう言って男が、目を閉じて口を開く。

「──相も変わらず、人をたぶらかす一族よ。忌々しい、アーバスノットが」

憎しみのこもるその声に、ディンズケール公爵はこうべを垂れた。

「……ですがあの一族の薬は、猊下。まだあなたに必要です」

「わかっておる。そうでなければアーバスノットなど、とうに死なせておったわ」

怒りの滲むその声音に、ディンズケール公爵は男を見上げた。

「しかし朗報もございました。──入れ替わりの禁術は、確かに存在した」

「──……そうだな。これでようやく、我が悲願が達成される」

ディンズケール公爵の言葉に一瞬の間を置いて、男がぐっぐと音を立てた。

どうやって広場にまで辿り着いたのか、よく覚えてはいなかった。気付けばリアムは広場にいて、喧騒の中、一人静かに立ち尽くしていた。

立ち止まっているリアムの背に誰かがぶつかり、転んだ。舌打ちと共に短い罵声が浴びせられたが、ぼんやりと霞む思考には、その意味も擦りむいた膝の痛みも届かなかった。

何も思い出せない。

揺らぐ思考の中でわかるのはただ一つ、自分が確かに誓いを破り、あの人を裏切ったということだ。

「……」

「『リアムさん』」

掠れた声で何かを呟こうとした時、幻聴が聞こえて頭を持ち上げた。

逆光に照らされる淡い金髪の女性が、リアムに手を差し伸べている。表情は見えないがきっと彼女は、美しい紫色の瞳に心配そうな色を宿し、自分を見ていることだろう。

目にして唇を戦慄わななかせ──瞬間気付いた違う気配に、ハッとする。

その反応を見た女性が、微かに笑う気配がした。

「あら、ずいぶんな反応ね。つい昨日まではどこぞの情けない男のように、あれほど私にべったりだったではないの。そうね、まるで私を──……監視していたみたいに」

「……」

「お前だけが最初から違う目的で動いていたことに、この私が気付かないとでも思っていたの?」

そう言いながらその人は、獲物を追い詰める猫のように瞳に愉悦を滲ませて、にっこり笑った。

「仔鼠さん。お前が今どんな楽しいお話をしてきたのか、私に教えてもらえるかしら?」

月に一度、錬金術師であるフレデリック・フォスターは、アーバスノット侯爵邸へと訪れる。

(──初めて使いに出た時からずっと、侯爵は王都から離れた別邸に住んでいたが)

しかし最近では、王都にあるこの本邸に戻ってきている。

おかげで随分と、通うのに楽になった。馬車は苦手だし、フレデリックは方向音痴だ。月に一度の遠方への旅は、なかなかこたえるものがある。

魔術師だったら転移魔術を使えるのに、とフレデリックはうっすらと思う。そんなことを言えばフレデリックの義父は非常に怒るだろうが、実際のところ羨ましいものは羨ましいのだった。


そんなことを考えながら、フレデリックが通された応接室でアーバスノット侯爵を待っていると。

「──失礼。待たせた」

アーバスノット侯爵が、小脇に何やら論文のような紙の束と、手紙を持って入ってきた。

(珍しいことだな)

アーバスノット侯爵邸に赴いた時、待たされることはある。アーバスノットの血を引く者は製薬中、皆時間を忘れるほどの高い集中力を持つという。

しかし今回アーバスノット侯爵は、どうやら何か読書をしていたようだ。

彼の心をそこまで掴む読み物は珍しい──と思いかけ、ふとつい先日、花祭りで活躍した二人の女性のことを思い出す。

「粗茶だ」

「ありがとうございます」

侯爵自ら手際よく淹れた紅茶が差し出され、フレデリックはそれを恭しく受け取りながら、口を開いた。

「あなたのご令孫が、また手柄を立てたようですね」

フレデリックの言葉に、侯爵は返事もせず、じろりとフレデリックを睨んだ。

「さすがは比類なき才を持つアーバスノットだと、話題になっているようですよ」

フレデリックの言葉に、侯爵は微かに眉を寄せた。

調薬に魅せられ、才に恵まれたアーバスノット。

彼がその血を呪いのようだと思っていることは、フレデリックにはよくわかる。

「彼女は非常に面白いですよ。常に凶星に囲まれている」

「興味がない」

「はは」

侯爵が淹れた茶を飲む。

ほのかに甘みのあるこの茶は、かつて侯爵の妻が彼のために淹れていたという、秘伝のハーブティーなのだそうだ。

遺すべき形見を間違えた哀れな男を眺めながら、フレデリックは小さく呟いた。

「……気を付けてと言ったのに。彼女はおそらく、まだ自分の危機に気付いてはいない」

木漏れ日のように柔らかに輝くあの星は、自分にかかる雲の影に当分気付けないだろう。

「……ただ、彼女は良くも悪くも悪運が強そうだ。心配なのは、もう一人のご令嬢の方ですね」

「興味はない」

「今度は本当に興味がなさそうですね」

軽口を叩くと、またもやじろりとした視線が向けられる。

その視線に苦笑しつつ、フレデリックはその星のことを思い出す。

(ヴァイオレット・エルフォード)

あれは輝くばかりの星だった。

ソフィア・オルコットの輝きが木漏れ日だとするならば、彼女の星は燃え尽きる瞬間の、ろうそくの炎によく似ている。

その未来を口には出さず、フレデリックは何も言わずにお茶を飲む侯爵を見る。

──二度と人を診ないと決めながらも、薬を作り続ける男。

アーバスノットが生み出す奇跡の薬は、その血に善良さが溶け込んでいるからなのだろうと、フレデリックは思っている。

「──……相変わらず、このお茶はとても優しい味がします」

浮かんだ言葉を呑み込んで、フレデリックは穏やかに微笑んだ。