抜かりのない悪女
──リィンと、ヴァイオレットにだけ聞こえる鈴の音が響いた。
(思ったよりも、随分と早かったのね)
自室で優雅に本を読んでいたヴァイオレットは、ゆっくりと目を閉じた。
この震える鈴の音は、以前ヴァイオレットが編み出していた魔術式だ。
あらかじめ定めた条件を満たしたときに発動するよう、少し前から仕掛けていた。
胸の内で響く鈴の音に耳を澄まし、意識と魔力をその音に同調させていく。
(──捉えた)
ぱっと目を開くと同時に音を立てて本を閉じ、近くで控えていた侍女に視線を送る。
視線を受け取った侍女の一人がヴァイオレットの意を察し、素早く動いた。
「ヴァイオレット様。何かご入り用でしょうか」
「手紙の用意を」
「かしこまりました」
ヴァイオレットの言葉を受け、侍女がすかさず手紙の用意をし、ヴァイオレットに手渡した。
さらさらとペンを走らせ、書き終えた一通目の手紙を、封蝋もせず雑に封筒にしまう。
控えていた侍女の一人へ、「すぐに大聖堂のモーリスへ」と伝える。侍女は心得たように頷き、すぐさま部屋から出て行った。
手紙には即座に来いとだけ書いたので、あの男なら何を置いてもすぐにやってくるだろう。
そしてすぐに二通目の手紙を書き始める。こちらも内容はモーリス宛と同様簡素なものだが、現在の時刻を記したあとに、嫌がらせの意味を込めて殊更丁寧に封蝋をしてやった。
「これは丁度二時間後にクロードの許へ届くように。お前たちはもう下がっていいわ」
そう言いながら侍女に手紙を差し出すと、侍女たちは静かに一礼をし、部屋を出て行った。
「──さて。目的地まで、続いてくれるものかしら」
歌うように呟きながら、ヴァイオレットは優雅に微笑んだ。
◇
これは、割と大ピンチなのかもしれない。
言い訳をさせてもらうと、私も一応危ないかなあ、という気持ちは持っていた。
そのため昨日クロードさまにいただいた忠告を念頭に置いた上で、いざという時に命だけは助けてもらおうと、助かるための準備は事前にばっちりとしてきていたつもりでいたのだった。
しかしなんだか、思っていた危機と違う。
今私は路地裏の奥にある、大きいけれど古くて粗末な家の中に運ばれていた。
この部屋の隅には、怪我をしていたあの少年がいる。
彼は何の感情も読み取れない静かな顔で、この光景を観察するようにじっと見ていた。
あまり温厚ではなさそうな五、六人の男性たちに取り囲まれ、顔面蒼白で大変物騒なお話を聞いている、私のことを。
「こういう時って、指?」
「いや、手には傷をつけるなって言われてるだろ。歯とか?」
「若いうちに歯を失くすのは可哀想だなあ」
そんな会話が繰り広げられている。
『命が惜しければ金を出しな』で済むと思っていたのに、まさか人体を狙われるとは思わなかった。
なんてことになったのだろうと青ざめていると、リーダー格らしきくすんだ金髪の男性が、ちらりと私に目を向ける。
「──いや、髪でいいだろう。地毛では珍しい色だから、本人だとすぐにわかる」
「それもそうか」
──本人?
それではまるで、なんだか私だから狙われたような言い方だ。
戸惑う私の顔を一人の男性が覗き込み、「ガキじゃねえか」と憐れむような顔をした。
「巻き込まれて気の毒になあ。怪我しちまったリアムの手当てをするなんて、聞いてた話より良い子なのに」と言った。
「巻き込まれる……?」
意味がわからず私が首を傾げると、先ほどの金髪の男性が「悪女の仲間だぞ」と呆れたような声を出した。
「さすがにあの女には及ばないだろうが、そいつの二つ名は『毒物に精通した強欲悪女』だそうだ。人畜無害な大人しそうな顔をして……どうせあの女と悪女同盟を組んで、恐ろしいことに精を出してるに違いない。リアムを助けようとしたのも、美少年を騙して手を出そうとしたか、売り飛ばそうとでも思っていたんだろう。それが今度は自分がエサにされ、売り飛ばされるってわけだ」
「……!!」
とんでもない誤解と不穏な言葉に、声にならない声が出た。
「ちっ、ちがっ、あの誤解で……!」
「とぼけるなよ。お前のことは聞いている」
私の言葉に、金髪の男性が苦笑した。
「なんでも生家の財産を湯水のように使って家を没落させ、継母を使用人のように扱った挙句に投獄し、異母妹を悪女の許へ売り飛ばしたらしいな。まったく……人間の所業とは思えないぜ」
「……!」
非常に心当たりがある。
断じてそれは私じゃなく、かつ誇張されてはいるものの、おおむね事実ではあるのだった。
弁解ができずに絶句する私を見て、金髪の男性は「そもそも良い奴が、ヴァイオレット・エルフォードとつるむわけがないだろう」と顔を顰めた。
「夜会でドレスの裾を踏まれただけで、一つの家を没落させるなんて正気じゃない」
「ド、ドレスの裾を踏んだだけで没落ですか……!?」
驚きに目を剥いた。
没落は聞いたことがあるけれど、そんな些細なことが原因だとは聞いていない。
「ああ。──おまけにありもしない犯罪をでっちあげて、当主夫妻を投獄。当の娘を修道院行きにしたというじゃないか」
「ドレスの裾を踏んだだけで……!?」
「そうだ、ひどい話だよな。……とはいっても、まあ。その没落した家にも、同情なんてしないがな。不思議なことに人間は、貴族でも貧民でも大抵が後ろ暗いことをしないと生きていけないんだ。こんなふうに」
そう言って金髪の男性が、私の髪を一房掴み、髪をグイっと引っ張った。
その衝撃にクロードさまから贈られた髪留めが外れて、足元にからんと落ちた。
「あっ」
思わず声を出して髪留めに目を向ける。すると男性は苛立ったように「こんな時までアクセサリーの心配とは暢気だな」と言い、いつの間に取り出したのか、眼前にナイフを突き付けた。
刃物を突き付けられて、思わず固まった次の瞬間──ぐらりと、眩暈がした。
耐えがたい眩暈に思わず顔を顰めると、金髪の男性が少しだけ同情めいた声を出した。
「ああ、怖いよな。でも大丈夫、俺たちはお前の髪を切り、エルフォード公爵家に送りつけるだけだから」
そう言いながら少し間を置き、「その後お前がどうなるのかは知らないがな」と私の髪にナイフを当てる。
「しかし少なくとも花祭りまでは、長生きできるだろうよ」
目の前がぐるぐると回る。意識が無理に引っ張られるような強い浮遊感に、思わずぐえ、と変な声が出そうになり、寸前で堪えた。
覚えのある気持ちの悪い感覚に耐えきれず目を瞑ると、体が急に重くなる。
そうして急に空気が変わったことが、肌でわかった。
パッと目を開いた瞬間。どこか不機嫌な顔の神父さまと、ばっちりと目が合った。
◇
ソフィアとモーリスが、目を合わせたその瞬間。
「──お前のような者が、いつまで私に触れているの」
その小さな部屋の中。妙な威厳を孕んだ声が、凛と響いた。