傷や折れ目がついていないことを確認してほっと安堵の息を吐くと、冷ややかな声が聞こえた。
「三流にも程遠いわね」
「うっ……」
私を見下ろすヴァイオレットさまの目は『野良犬の方がまともな芸をする』とでも言いたげだ。
その眼差しに今日十度目の心が折れる音を聞きながら、私は本をしっかりと抱えて立ち上がり、目を逸らしながらごにょごにょと訴えた。
「し、しかしこのような貴重な薬術の本を、頭の上に乗せて歩くのは
今私がしっかり握りしめているこの本は、先日ヴァイオレットさまが手に入れたという遠い東の国の薬術書で、王宮
薬師にとっては国宝級の書物を頭に乗せて歩くだなんて。切実に読みたいし、落として破れでもしたらどうしようかとハラハラする。
せめて乗せるものを、他のものに替えていただけないだろうか。
そう願いを込めて、ヴァイオレットさまに目を向けると。
「幼児以上の教養さえないお前に、落としても大丈夫という甘えは許されなくてよ」
冷ややかな眼差しで一刀両断されてしまった。
「まったくお前は。歩行、会話、貴族としての知識、どれ一つとしてまともにこなせるものがないではないの。予想をはるかに下回るひどい出来だわ」
そう言う美しい紫色の双眸が、私を鋭く
「まがりなりにも貴族ともあろう者が嘆かわしい。この私が直々に、お前に淑女教育を施してあげることに感謝なさい」
「うっ……ありがとうございます……」
恐ろしさに涙を呑みながら、お礼を言う。
そう。私は今、ヴァイオレットさまに淑女教育をしていただいている。
お母さまが亡くなってからというもの、長年薬作りにだけ精を出してきた私には、恥ずかしながら貴族としてのマナーがごくごく僅かにしか身についていない。
それに気付いたヴァイオレットさまが「あまりにも見苦しい」と、こうして教育係を買って出てくださったのだ。
ありがたいことだ。しかし同時に、けれど、と思う。
実家が没落寸前である私が、今後貴族として振る舞う機会はないのではないだろうか、と。
しかしとてもじゃないけれど、そんなことが私に言えるわけもない。
ちらりと、目の前の美しい人に目を向ける。
ヴァイオレット・エルフォードさま。
ひとたび目が合うだけで、思わず平伏したくなってしまうほどの威厳に満ちたこの方は、当代きっての悪女だ。
国内で一、二を争う大貴族、エルフォード公爵家の一人娘であり、今まで誰も想像さえしていなかった入れ替わりの魔術を生み出した、稀代の魔術師でもある。
つまり権力も魔術も、とんでもなく規格外なお方なのだ。
彼女の傍若無人ぶりは、元引きこもりの私にもよくわかる。
なんせつい三か月前。ヴァイオレットさまは、とある目的のために投獄されたご自分と私との体を入れ替えた。
事前のご説明のない完全な不意打ちだったので、目が覚めたら投獄中の悪女になっていた私は、それはもう驚いたものだった。
とはいえ牢の中は三食おやつ付き、薬が作り放題という破格の待遇。
対するオルコット伯爵家では食べるのに勇気が必要なタイプの食事が多く、牢の中よりもよっぽど牢獄らしかった。
そんな私と入れ替わってしまったヴァイオレットさま。
普通の悪女ならば確実に、『ぎゃふん、失敗』となる流れだと思う。
しかし稀代の悪女という呼び名は伊達ではない。
ヴァイオレットさまは私だと思い込んで失礼を働いたオルコット伯爵家の人々に、暴言や脅迫やその他諸々の手段を使い、
そしてその結果、現在オルコット伯爵家は没落まであと僅か、という秒読み態勢に入っている。
なんでもヴァイオレットさまの信念は『受けた仕打ちは必ず返す』なのだそうだ。私の生家であるオルコット伯爵家以外にも、没落をさせた家があると聞く。
恐ろしい方だ。失言には、ゆめゆめ気を付けなければならない。
そのためヴァイオレットさまの逆鱗に触れる前に、なんとしても迅速に一人前の淑女にならなければと思うけれど、現在私の淑女レベルは幼児未満。先が長い。
「最近の幼児、すごすぎます……」
嘆き交じりの感嘆の息を吐く。
いくら私のレベルが低すぎるとはいっても、幼児なんて生きているだけで偉いというのに、頑張りすぎではないだろうか。
「貴族に生まれた者ならば、このくらいは当然でしょう?」
しかし私の言葉に、ヴァイオレットさまがさらりと生ごみを見るような目を見せた。
「今日お前に教えたようなことは、私は三歳の時にはすべてできていたわ」
「三歳……!」
思ったよりも幼児だったことに愕然とし、思わずヴァイオレットさまをまじまじと見る。
「……教師役の方も、さぞかしすごいお方だったのでしょうね……。どんな方だったのですか?」
三歳児といえども、ヴァイオレットさまを指導できる
やはり胆力のある方なのかしらと私が質問をすると、ヴァイオレットさまが一瞬沈黙をして。
どうしたのかしら、と不思議に思った次の瞬間。
「教師の力量が全てではないでしょうに」
びっくりするほど冷たい瞳で微笑まれ、私は「ひっ」と声を出した。
「素晴らしい教師に教えられた生徒が素晴らしい結果を残すのなら、お前は私の次に立派な淑女になってなければおかしいでしょう? それとも私が教師役では不服という意味なのかしら」
「……! いえっ、そういった意味ではなく!」
予想外の超解釈にあたふたと弁解をするも、ヴァイオレットさまは「ではどういう意味なの?」と冷ややかだ。まさか『ヴァイオレットさまを教えるのは教師の方もかなり怖かっただろうなあと思いまして』と言うわけにもいかない。完全に詰んでいる。
もはや私もこれまでだろうかと震えていると、じろりと私を見ていたヴァイオレットさまが急に何かを思いついたような表情をして、すぐに微笑んだ。
「……まあ、仕方ないことよね」
「えっ?」
「今まで野良犬同然の生活を送っていたのですもの。人間としての振る舞いが身に付くまでに時間がかかるのは、仕方のないことだわ」
なんだか不穏な気配のする優しさと微笑みを纏いながら、ヴァイオレットさまは「体で覚えればいいのよね」と
なんだか、少し嫌な予感がする。
「お前が私のように振る舞えるよう、おまじないをしてあげる」
ヴァイオレットさまが、私の額にそっと指で触れる。
触れられた部分がほんのりと熱くなり、体が勝手に軽やかに動き始めた。
「ええっ、ちょっ、これはっ……!?」
何がなんだかよくわからず、仰天する。
先ほどまでは背筋を伸ばすことで精一杯だった私の体が、手に持っていた本を頭に乗せて、優雅に歩き、礼を執っている。
端的に言って、とても怖い。
「こっ、ここっ、怖い! 怖いです! ヴァイオレットさま、一体これは……!?」
「あら、思ったよりもうまくいったわね」
仰天する私の言葉が聞こえていないかのように、ヴァイオレットさまがご自身の口元に指を当て、興味深そうな顔をする。
「肉体操作。今考えついたばかりのお試しの魔術にしては、大きな問題点はなさそうだわ」
「今考えついた!?」
思いつきで人を実験体に……!?
勝手に動く手足に翻弄されながら、つい人間性を疑う気持ちでヴァイオレットさまを凝視する。
そんな私の思考が滲み出てしまったのか、ヴァイオレットさまが子猫のように目を細めて、小首を傾げた。
「何か文句でもあって?」
「! な、ないです……ひゃっ!」
自由になれない体で、つい慌てて両手を振ろうとすると。
その瞬間にふっと体が自由になり──バランスを崩した私の体は、後ろに向かって倒れていった。
咄嗟に目を瞑って衝撃に身構えると、次の瞬間私の後頭部にぼすん、と何か分厚いものがぶつかった。
同時に私の左肩が誰かの大きな手で支えられ、頭上から低い声が降ってきた。
「──何をしている。ヴァイオレット」
振り返って見上げると、そこには盛大に顔を
「クロードさま」
驚いて名前を呼ぶと、クロードさまは私に目をおとし、気遣わしげに眉を寄せて「大丈夫か」と言った。
どうやら転びかけた私を助けてくれたらしい。私を助けながら本も守ってくださったようで、クロードさまの右手には、私の頭に乗っていた本が
「ありがとうございます、本まで……! あっ、でも、勢いよくぶつかってしまってクロードさまは……」
「大丈夫だ。君を受け止めたくらいでは怪我はしない」
そうクロードさまが優しく苦笑しながら、手にした本を私に差し出す。
「久しぶりだな」
「! はい! お久しぶりです」
はにかむように笑うクロードさまを見て、本を受け取る私の頬も勝手にゆるんだ。
クロードさまの言う通り、こうしてお顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。
三か月前までは塔の中で毎日顔を合わせていたというのに、お忙しいクロードさまと、研究所にこもりきりの私とではなかなか都合がつかない。
それが、まさかこの公爵邸でお会いするなんて。
クロードさまも、ヴァイオレットさまにご用があってきたのかしら。そんなことを思った瞬間、ヴァイオレットさまが口を開いた。
「嫌だわ、クロード。何をしている、だなんて白々しい」
そんなことを言いつつも、ヴァイオレットさまはいたぶる獲物を見つけた猫のように、目を弧にする。
「お前にはソフィアに淑女教育を施してあげるのだと教えてあげたではないの。だというのにわざわざやってくるなんて、石頭のくせに物忘れまで激しいのか、それとも単純に邪魔をしにきたのか──どちらにせよ、困ったものだわ」
「見てわかるはずだと思うが」
クロードさまの地を這うような低い声を無視し、ヴァイオレットさまは「ねえソフィア」と私の方に目を向けた。
「友人は選んだ方が良いわ。お前の生涯の友とするには、クロードは間違いなく不適格ではなくて?」
「えっ!? まさか、とんでもありません!」
全力で首を振りながら、大きな声で宣言する。
「クロードさまは優しい方です! 今後末長く、できれば一生友人でいていただきたいと、私の方からお願いしたいほどで……!」
「………………」
沈黙するクロードさまと、笑いを堪えている様子のヴァイオレットさまとの間に、不穏な空気が漂い始める。
もしかして私は、また気付かないうちに失言したのだろうかと困惑していると、小さなため息と共に、よく通る低い声が響いた。
「底意地の悪いことは
見るとクロードさまのすぐ後ろに、国王となったヨハネス陛下が、呆れた顔で立っていた。
なんと。陛下がいたことに、今まで全く気付かなかった。
「へ、陛下……!」
慌てて礼を執ろうとする私に「そのままでいい」と手をあげて、ヴァイオレットさまに目を向ける。
「私がいるのだから、クロードは伴として来ただけだと察しているだろう?」
「まさか。存在感が薄すぎて、今の今までお前が来ていたことに気づかなかったわ」
「最初に目が合ったよな? それに仮にも国王がここにいて気付かないわけが……オルコット伯爵令嬢?」
「はっ、はい!」
気まずさにそっと視線を逸らした瞬間、名前を呼ばれて背筋を伸ばす。
そんな私に一瞬なんとも言えない微妙な眼差しを向け、陛下が「すまないが」と口を開いた。
「今日、私はヴァイオレットに話があってきたんだ。そろそろ終わる時間のようだし、今日はこれで
「わ、私は大丈夫ですが……」
ヴァイオレットさまの前で不用意なことを言うわけにはいかない。そう思ってヴァイオレットさまに目線を向けると、つまらなそうな表情はしているものの、意外にも小さく頷いた。
「ではクロード。オルコット伯爵令嬢を、無事に家まで送り届けるように」
「かしこまりました」
陛下の言葉にクロードさまが頷き、「行こう。馬車を待たせている」と私に声をかけた。
「頼んだ。それではまたな、オルコット伯爵令嬢」
「はっ、はい、失礼致します」
慌てて礼をし、それからヴァイオレットさまにも、先ほど教えていただいた通りに一礼をした。
「ヴァイオレットさま、今日はありがとうございました。それでは、また」
「次までに、少しは今日教えたことを完璧になさい」
「がっ……頑張ります……」
少しはと完璧は、意味が違うのではないだろうか。
そう思いながらごにょごにょと尻すぼみな返事をし、もう一度丁寧に礼をする。
そしてクロードさまの後についていきながら、私はエルフォード公爵邸を後にした。