「イーサン様? あれ? いない」
バッシュ公爵家本邸を取り仕切る家令、イーサンの執務室に音もなく現れたのは、イーサン直属の『影』である男だった。
「なんだ。早急にって言うから、各所に配属されている奴らの報告書を持ってきたってのに……って、あ! そういや四日後に、エレノアお嬢様が
あのお嬢様を語り出したら止まらない、お嬢様狂い(影にのみ公認)の上司の事だ。きっとお嬢様を迎え入れる準備をする為に、あちこち奔走しているのだろう。
「まあ、机の上に置いておけばいいか……って、ん?」
「……なんだこれ?」
豪華だが、年季の入ったその本は、かなり読みこまれているのが分かる。
そして異質なのは、その場違いに愛らしい装丁である。表紙には、まるで幼い子供向けに作られた絵本のような可愛らしい動植物の絵が沢山描かれており、その中央にはこれまた可愛らしい、産着にくるまれた赤子の姿絵が……。
「…………」
男は悟った。これは絶対ヤバイブツである……と。手にしたが最後、後には引けなくなる類のモノに違いない。
もしこの本を目にした事が、持ち主である陰険腹黒上司に見付かりでもしたら、確実に命を取られる。まさに『禁書』と呼ぶに相応しい代物であろう。
では、ここでコレを見た事を無かった事にするのか。……否。
「……フッ……。こーんな面白そうなもん、見逃す手はないよなー! それに、こんな場所に安易に放置していく方が悪い! 行き掛けの駄賃として、一丁拝ませてもらうかー!」
そう。ヤバイ上司にはヤバイ部下が付くものである。
特にこの男、誰に対しても物怖じせず、遠慮も忖度もないところを買われ、イーサン付きの『影』となった男なのだ。普通の『影』とは一味も二味も違う。地雷を笑顔で自ら踏み抜きに行く……そんな男なのだ。
ゆえに彼は、誰もが「あ、これヤバイ」と手を出す事を躊躇するものでも、面白そうなら「自爆上等!」とばかりに、自ら首を突っ込むところがあった。
なので当然の結果として、どう考えてもヤバすぎるだろうその本を手に取ると、嬉々としてページを捲った。
「なになに? え~っと……ん? 『天使観察記録』……? 『これは女神様より賜りし、天の御使いの誕生と成長を見守り称える書である』……うわ……真面目にヤバそう……!」
どうやらこれは、観察記録という名の日記であるようだ。
しかも最初のページから濃い。寧ろこの文章、「この先を見るなら覚悟を決めろ」という警告文にすら見える。普通の人間であれば間違いなくこの段階で本を閉じ、ソッと元あった場所に戻すに違いない。
だが……。
「はっはー! いーじゃん、いーじゃん! っか、日記なのに警告文って、イーサン様マジで面白れー!」
そう、ヤバイ上司の部下にはヤバイ奴が……(以下略)
そうして男は、ワクワクしながらページをパラリとめくったのだった。
◇◇◇◇◇
アルバ歴●●●●年◆月■■日(快晴)
本日未明。バッシュ侯爵家本邸に、明けの光と共に天使が降臨された。
そう、待ちに待ったバッシュ侯爵家直系のお子様が誕生されたのだ。しかも玉のように光り輝く愛らしい姫君である。マリア様、本当にお疲れ様で御座いました。そして心よりの感謝と敬意をお捧げいたします。
『他の男と遊んでいないで、とっとと当主の子を作れ!』という言葉をオブラートに包み、口でも心でも散々言い続け、「うっさいわね、あんた! 出来る時は出来る! 出来ない時は出来ないのよ!!」と、キレたマリア様と罵り合いを繰り返し、はや●年……。
なんとかマリア様にその気になってもらおうと、アイザック様とお会いする時は必ず、精の付く料理やその気になる薬をお飲み物に混ぜて供するも、ご懐妊する気配もなく、『淑女の中の淑女』と評されているとおり、様々な殿方と逢瀬を繰り返し、アイザック様ではなく、そのご友人方との間にボロボロ子供を作っておられた姿を、歯軋りしながら見守り続けた屈辱の日々。
「あんたは私の義母か!?」と、やはりキレたマリア様に罵られ、ついでにジョゼフ伯父上に、「お前、いい加減にせんか!!」と鉄拳制裁を食らっていたあの辛い日々が、このような最高な形で報われようとは……!! しかも姫君!!
はははっ! その他大勢の御夫君方や恋人の方々、見ましたか!? これが正夫アイザック様の底力です! アイザック様、今まで「ヘタレ」と心の中で罵っていた私をどうぞお許しくださいませ。
……え? 実際口に出して言っていた? はて、なんの事やら?
それはともかく、天使……いえ、お嬢様は本当に、なんとお可愛らしいお方なのか……!
マリア様似のふわふわしたヘーゼルブロンドの
ああ、アイザック様が感激のあまり、「僕の天使は世界一可愛い!!」と、お嬢様を抱き締めながら滂沱の涙を流しておられる。私も同じく滂沱の涙を流しながら、心の底からそのお言葉に同意し、高速で首を縦に振りまくります。そんな私を、ジョゼフ伯父上が不気味そうに見つめているのも気になりません。
ちょっ……!! というか伯父上! なにアイザック様からお嬢様を手渡されているのです!? そこは順番でいけば、本邸をお預かりする私の方が先でしょう!? って、「お嬢様、おねむのようですね」なんて言って、お嬢様をマリア様の傍に戻すなんてあんまりです! この鬼畜!! 準備万端に差し出したこの手を、どこに引っ込めろと言うのですか!? え? 「普通に元に戻せばいいだろう」ですって!?
思わず巨大な青筋が立ってしまった瞬間、タイミングよくお嬢様が泣き出してしまいました。
お、お嬢様!? これはお嬢様に対し、怒りを滾らせたわけではありません! どうか泣き止まれてください!!
狼狽える私でしたが、「お前がいるから泣き止まんのだ!」と、伯父上に謂れのない冤罪をふっかけられた私は、部屋から追い出されてしまいました。……くっ! 伯父上! この恨みは絶対に忘れませんよ!?
ちなみにですが、お嬢様のお名前は『エレノア』と相成りました。
この名前は、マリア様が名付けられました。名前の意味は『光り輝く者』だそうです。まさにお嬢様の為に存在するような名です。私とアイザック様が競うように考え抜いた、五百近い名前の候補が無駄になりましたが、これ以上にお嬢様に相応しい名はないでしょう。完敗です。
「え? この子の名前? あ~……考えていなかったわ。え~と……じゃあこんな名前はどう?」と、その場のノリで適当に思いついた名をお嬢様に与えられた時は、真面目に殺意が湧きましたが、結果が良ければ全て無問題です。やはりマリア様はただ者ではありませんでした。
アルバ歴●●●●年◆月▲▲日(曇り)
エレノアお嬢様の愛らしさを一分一秒でも目に焼き付けるのに忙しく、中々筆が進まずにいましたが、本日、大変に喜ばしい出来事が起こった為、その感動を書き残す事にします。
なんと! アイザック様がエレノアお嬢様を、このままバッシュ侯爵領でお育てになる事を決められたのです!!
「やっぱり、自然が豊かなこの領地でのびのびと育ってほしいんだ」と仰るアイザック様に、心の底からの感謝と、お嬢様の次にですが、絶対的忠誠をお捧げする事を女神様にお誓いいたしました。
我がホール伯爵家は、代々バッシュ侯爵家に忠誠を捧げ、家門をまとめる一族。その忠誠は当代のご当主様に捧げられるもの。……ですがエレノアお嬢様は女神様から遣わされた天使。ゆえに、一足飛びで私の絶対的忠誠はエレノアお嬢様に捧げる事と相成りました。ゆえに、アイザック様への忠誠は次席となったのです。
それを私から聞かされた父上が、「お前……。色々と間違っているぞ。というかそれって、絶対の忠誠って言わないのでは……?」と、なにやら青い顔をしながら呟いておられましたが、アルバ王国の男子であるのならば、女神様の使徒を崇め奉るのは当然の事ではないでしょうか。ええ、アイザック様なら「その通りだよ!」と、笑顔で全力同意されるはずです。
「そうだとしても、黙っていろ! あああ! こんな話が、兄上のお耳に入ったとしたら……!」
やれやれ、父上もお年なのだろうか。年々心配性になっていかれる。
「誰のせいだと思っているんだ! この大馬鹿者がー!!」等と、父上が私の考えている事を読唇術で読んでキレておられました。
おっと! そろそろお嬢様のお世話に戻らなくては。きっと私がいない事で不安になり、泣いておられるに違いありません。
待っていてくださいませ、エレノアお嬢様。今イーサンがお傍に馳せ参じます!
「……普通、観察記録って毎日つけるもんじゃねぇ? 感情が爆発した時の情熱を書きなぐるって……メモ帳かよ?」
等と呟きつつ、ページをめくると、そこからは『エレノアお嬢様の愛らしさ』についての、ありとあらゆる称賛の言葉が書き連ねられていた。……というか、エレノアお嬢様の食事についての描写も書き連ねられているという事は、あの男は授乳中にも片時も傍から離れなかったという事になる。
「なんだか物凄く、乳母になった女に同情してしまうんだが……」そう呟きながら、男はひたすらにエレノアの一挙一動を書き連ねられているページを流し読みしつつ、それ以外の事が書かれているページを読み進めていった。
アルバ歴●●●●年●月▲■日(快晴)
エレノアお嬢様は元気にお乳を飲み、日々可愛らしさを増していかれている。
そのご成長ぶりを見逃さぬ為にも、片時もお傍から離れたくない。ですが私は本邸をお預かりする家令。執り行う業務は多岐にわたります。
なので、どうしても自分自身で行わなくてはならない用事以外を、アイザック様のお仕事に振る事にいたしました。
アイザック様は私と競い合うかのように、エレノアお嬢様の育児を積極的に行っており、王都邸で家令を務めるジョゼフ伯父上から「業務が滞っておられますぞ!? いい加減真面目に仕事をしなさい!!」と雷を落とされていました。なので今なら、最高のタイミングで仕事を押し付け……いえ、お任せする事が出来ます。
「あれ? 僕、こんなに仕事サボっていたっけ?」と首を傾げられておられましたが、疑問に思いつつも増えた仕事を黙々とこなされておられる。この素直さと真面目さが、アイザック様の最大の美点でしょう。どうかずっと、このまま変わらずにいてほしい……。心の底からそう願います。
ところでですがつい先日、マリア様が「エレノアの筆頭婚約者を決めてきたわよー!」と、本邸に報告に来られました。
お相手は、エレノアお嬢様の異父兄であられる、オリヴァー・クロス子爵令息だそうです。……くっ! なんという余計な事を……!!
オリヴァー様は、お小さい頃より神童と誉れ高き御方。多分ですが、あの分家の筆頭であり、マリア様の生家であるグロリス伯爵家とエレノアお嬢様が縁続きになるのを防ぐ為、先手必勝とばかりに結ばれたご縁かと愚考いたします。その事については、流石はマリア様と称賛してよろしいでしょう。
……ですが後に、この本邸の『影』に調べさせた調査結果によれば、当のクロス子爵家側は、この婚約に乗り気ではないとの事。なんともはや、理解出来ません! エレノアお嬢様になんの不満が!?
しかも、王都勤めのアイザック様に師事する為、オリヴァー様が王都邸に居を構えてしまえば、自動的にエレノアお嬢様も王都邸に移られる可能性が……!? これは由々しき事態です!!
アイザック様はお嬢様を溺愛されながら、「マリアがメルに迷惑かけちゃったな……。まあ、オリヴァーだったらエレノアの相手として文句なしだけど」と、あっさりその御縁談を認めてしまわれました。なんとも不甲斐ない。それでも貴方は生物学上の父ですか!?
……仕方がありませんね。ここはエレノアお嬢様の心の父を自負しているこの私が、なんとしてでもエレノアお嬢様とオリヴァー様とのご縁談を白紙に戻す為に尽力する事にいたしましょう。
エレノアお嬢様は、生涯私の傍に……いえ、このバッシュ侯爵領で心穏やかに過ごされるべきなのですから。
「……なんかこの人、勝手に自分を『父』とか言ってるよ。ってか、跡取り娘に結婚させないって、どーゆー拷問? しかも自分の傍から放さねぇって執念、マジでヤベェ……! というより、当主に仕事押し付けてエレノアお嬢様の傍にべったりって、もはや溺愛というより、執念? いや、狂気だろこれ!?」
いい感じに背中がうすら寒くなるのを感じるが、先を読むのを止められない。そんな恐怖小説を見るノリで、男は更にページをめくり、読み進めていった。
アルバ歴●●●●年▲月◆■日(晴れのち曇り)
先日、そろそろ離乳食をとの侍医からの言葉に従い、最高級の野菜や果物を用意したうえで、私手ずから離乳食を作らせていただきました。
「えっ!? イ、イーサン様が……手料理を!?」と、料理長以下シェフ達が驚愕の表情を浮かべ、しきりと窓越しに空を見上げていました。確かに今日は、季節外れの肌寒さです。エレノアお嬢様が風邪をお引きになるといけませんので、空調の術式の精度を更にあげなくては……。
そんな事を考えている隙に、私が丹精込めて作成した離乳食を、料理長が摘まみ食いしている姿が衝撃と共に目に飛び込んできました。
ああ、なんたることか! エレノアお嬢様が最初に召し上がられるべき、記念すべき離乳食第一号を……。なんたる愚行!
余程命がいらないのだろうと判断し、私自らの手で引導を渡してあげようとしたら、「摘まみ食いじゃなくて毒見です!!」と、必死の形相で言い返されてしまいました。
毒見などと……心外な! この私がエレノアお嬢様を弑し奉るとでも!?
「毒じゃなくても、材料や料理の仕方で毒になりうるのです! まず、蜂蜜は赤子に供してはなりません! マンゴーは体質に合わない子もおります! 砂糖を加えた生クリームも言語道断! そして、キノコ類は柔らかく煮るだけでは駄目です! 細かくしてすり潰さなくては!!」
……なんということでしょう。このように多くの愚を犯してしまっていたとは……!
私はこの手でお嬢様を害するところだったのですね!? 真に滅するべきは、この私の方でした!! ああ、お嬢様! 愚か者よと、このイーサンをお笑いくださいませ!!
「いえ、これから気を付ければ宜しいのではないかと。というか、イーサン様はお忙しいお方なのですし、料理は私達料理人にお任せくださいませ」
……寛大な料理長の言葉に、私は目が覚めるような思いを味わいました。
そうですね、そのための専門職です。素人である私の出る幕ではありませんでした。猛省です。
私は私に出来る事を……そう、食事介助にて、エレノアお嬢様をお腹いっぱいにさせる事。それを全力でこなす事。それこそが私の執るべき道です。
ええ、決して美味しい離乳食でお嬢様の胃袋を掴み、初の『パパ呼び』をさせようなどと、そのようなだいそれた事を画策しているわけではありません。これはあくまで、お嬢様の健やかなご成長の為なのです。
……そうと決まれば、万が一にでも食事の時間にアイザック様が割り込んでこないよう、私の仕事をもう少し多く、アイザック様の仕事に紛れ込ませておく事にいたしましょう。
「……『家令』って、いったいなんだっけ?」
確か家長に代わり、屋敷の一切を取り仕切ったり、仕事の補佐をしたりする役目を担う役職だよな? 間違っても、当主の愛娘の初めてのパパ呼びを得ようと、家長に仕事を押し付けたりなんてしないよな?
「あれ? まさかとは思うけど、ひょっとしてイーサン様が隠れご当主様だったりする……?」
いや、んなわけないだろう。もしあの人が当主であったとしたら、バッシュ公爵家の未来が危うい。というか、果てしなく暗い。
あの、どこまでもほんわかとしたご当主様は、この
あの病み……いや、闇の魔王が真のご当主様だったなんて、有り得るわけがない。というか、それがもし事実だったとしても、家臣領民一同、全力で揉み潰すに違いない。
そんな事を考えつつ、ページをめくろうとした瞬間、男はその指を止めた。
──なんだろう……。凄く嫌な予感がする。
まるで本能が、「この先を読むな! 後悔するぞ!?」と警告を発しているようだ。いや、実際警告を発しているのだろう。
いつの間にか頬を伝っていた汗を、男は手の甲で拭った。
「──チッ! この俺をここまで動揺させるとは……! 流石はイーサン様直筆の闇の魔導書。やるな!」
実際は魔導書などではなく、純然たる愛を綴った「お嬢様観察記録」という名の溺愛日記であるのだが、既に男の中でのコレは、邪悪な思考の詰まった禁書的存在になりつつあった。
男は、湧き上がってくる得体のしれない恐怖を振り払い、己を鼓舞するように、わざとブツブツ文句を言いながら次のページを捲った。
アルバ歴●●●●年▲月●■日(雷雨)
──お嬢様がいらっしゃらない……!!
早朝、三時間ほどの仮眠の後で訪室すると……お嬢様のお姿がどこにも見当たらなかった!!
まさかのハイハイでかくれんぼかと、お部屋の隅々。それこそベッドの絨毯下まで探すも、やはりどこにも見当たらない。
よくよく考えれば、ハイハイが出来るようになったばかりのお嬢様が、ご自分で安全柵を越えられよう筈もなかった。いかに自分が動揺していたのかに気付きました。私もまだまだ修行が足りませんね。
というわけで、一番疑わしいお方……すなわちアイザック様の部屋へと向かう事にしました。
「このような早朝にお嬢様を連れ出すなど、なんて非常識な! お嬢様の健全なご成長が阻害されたらどうするのですか!?」
多分ですが、ご自身の寝室にお嬢様を連れ込まれているのでしょう。なんという羨ま……ゲフンゲフン。いえ、いくら実の父とはいえ、このような無体はよろしくありません。ここはお嬢様の『心の父』である私が、アイザック様にしっかりと常識を叩き込まねば。
そう思いながら、アイザック様の寝室にお邪魔したというのに、お嬢様はおろかアイザック様のお姿もありません。ベッドも使った形跡がない……という事は、もしや執務室?
胸の内に、得体のしれない不安が過ります。
急ぎ、アイザック様の執務室を訪れますが、そこにもお二人のお姿は見当たりません。
ふと、執務机の上に便箋が置かれているのが目に入りました。しかもそこには……ああ! 信じられない内容が……!!
『エレノアと逃げます。特にイーサン、追わないでください。 アイザック』
私は直ちに、屋敷中の『影』達を総動員し、エレノアお嬢様を連れ去った
おのれ……! いったい、どこに逃げたというのでしょう。王都邸? クロス子爵家? まさかのワイアット公爵家?
……いえ、どこに逃げようと、誰を頼ろうとも必ず見つけ出し、お嬢様を我が元に取り戻してみせます!
──私は絶対 あ き ら め ま せ ん か ら ね……!!?
「いやぁぁぁっ!! ご当主様、にげてーー!!!」
思わず叫び声をあげながら、バン! と、呪いの書(という名の観察記録)を閉じる。
「……あ、もう逃げおおせていたわ。……し、しかし……。これか……!? これなのか? イーサン様のご当主様への塩対応の真相って!?」
恐る恐る、隙間を覗き込むように続きを見てみると、どうやら上司の『初パパ呼び』の陰謀に気が付いたご当主様が、エレノアお嬢様を連れて王都邸へと逃亡されたようだ。
「あ~……。イーサン様、ジョゼフ様には勝てないからなー……」
案の定、何度も王都邸に突撃しては返り討ちに遭っていたようで、その事に関する呪詛が延々とつづられていた。
あれ? そういやお嬢様、一回こちらに遊びにこられた事があったって……あ、その日はジョゼフ様と王都邸の家令役、交代させられていたのか。『赦すまじ!』が五ページにもわたって書きなぐられている。まさに呪いの書!!
「以前、先輩がイーサン様について、『人格破綻を起こす程の悲しい出来事があった』って言っていたけど、それってこの事だったのかな?」
だがこの呪書を見る限り、そもそも今とたいして性格が変わらないように思えるのは、果たして自分の気の所為なのだろうか?
「あ、そうか! きっとお嬢様がお生まれになった時、喜びのあまり人格破綻したんだな! あの病みの大魔王をぶっ壊すなんて、スゲェなお嬢様! ただもんじゃねぇ!」
「ええ、お嬢様は真実、女神様の御使いですからね」
後方から突然かけられた声に、ビキリと硬直する。
ギギギ……と振り向くとそこには、眉間の縦ジワをクッキリ作りながら、眼鏡のフレームを指クイしている病み……いや、闇上司がいたのだった。
『あ……。俺、死んだわ』自分の死期を瞬時で悟った男は、そう覚悟を決めた。
結論から言うと男は滅せられる事なく、一発ぶちのめされただけで終わった(一日意識不明になったけど)。
ただその理由が、「これからエレノアお嬢様がいらっしゃるのです。そんな時に戦力を欠かすなど、言語道断!」であった。お嬢様ガチ勢、ぱない。
「あの呪いの書……じゃなくて『天使観察記録』が机の上に置いてあったのも、お嬢様がいらっしゃるから、その記録の為に引っ張り出してきたんだろうなー」
きっとあの観察記録という名の溺愛日記には、今見た記録の数倍暑苦しい、まるで恐怖小説のごとくに愛が暴走した、えげつないまでの情熱が呪詛のごとくに書き連ねられていくに違いない。
「あ~……。イーサン様の補佐として、『エレノアお嬢様秘蔵コレクション』共々、あのヤバイ呪物が生涯お嬢様の目に触れないよう、気を付けるとするか!」
折角、鉄面皮な上司の浮かれ姿という貴重なものを拝めているのだ。お嬢様にドン引きされて「こんなところ、二度と来ない!」なんて事にでもなったら、人格破綻が最終段階に達してしまうに違いない。それはそれで面白いかもだが、このバッシュ公爵領の未来までもが破綻してしまう。
「……いや。でもイーサン様が語ってくるエレノアお嬢様だったとしたら、寧ろ面白がる可能性がある……かも?」
まあでも、実際のお嬢様を見た事がないからなんとも言えないけれども。
そもそも、あの(心の)親馬鹿上司の言う事だから、頭から信用する事なんて出来ない。百パーセント願望による妄言である可能性もある。実際、古参の使用人などはお嬢様の事を、「野生の子猿に近いお方」なんて言っているし。
「ま、もうじき実物見られるわけだし。天使なのか野生の猿なのか、楽しみにするとしようか!」
後にその影は、エレノアの人物像が百パーセントイーサンの言ったとおりであった事を知った。
そして面白半分に『天使観察記録』をエレノアに見せ、真面目にイーサンに滅せられそうになるのだが、この時点でその未来を予想した者はだれもいなかったのだった。