甘い囁き

流れ出た血と取り込んだ魔力を媒介にして、勝手に俺と祭壇が接続される。式場の何かが脳を侵食し、その意味を刻みつけていく。

四肢が溶け出して散っていく感覚。それは本来感じ取れる範囲を超え、広く深く拡大されていく。意識は一滴の水となって河に混じり、そこから河全体へと及んでいく。

上流から下流へ、下流から上流へ。急流を溺れながら流されていくように、一気に視界が駆け巡る。手足の感覚と視野が一致せず、吐き気が込み上げる。しかし、高速で移り変わる景色が、何かを俺に訴えかけているということだけは理解出来た。

第三者の意図を感じる。全力で『観察』と『集中』を起動した。

目に飛び込んでくる景色はあまりに速く、そして複雑だ。何度も河の中を巡り、感覚を染み渡らせ、目視を繰り返してようやくそれらしい結論を得る。

河底には、凄まじい規模の術式が敷き詰められていた。かろうじて読み取れた内容から察するに、祭壇との接続によって河を体感出来る理由は、この地の治水に役立てるためだ。そして、式場は大河そのものでもある。

この地は河の穢れを集め、浄化し、自然本来の美しさを保つために設計されたようだ。だが、土地の開発が進んだからなのか、この街の近辺に存在していた筈の術式が一部欠落してしまっている。

河守が咎められているのは、きっとこの所為なのだろう。

ただ、俺に理解出来たのはそこまでだ。術式の全てを目で追うことは出来なかったし、原本を知らずして欠落を埋めることも不可能。現状、この祭壇を復元する方法は無い。

何故俺に現状を見せた?

こんな光景を知らずとも、河守が地位を追われることは解り切っている。こんな真似をせずとも、俺は上位存在に与するしかないのに。

何故だ?

接続が切れる。疑問に包まれながら、冷たい石の上で目を醒ます。

……朝か? 夜か?

時間が解らない。口から下が血で固まっていて、不快感が募る。掌に水を生み出し顔を洗って、ふらつく頭をどうにか正常化した。

気絶している間に、体は僅かながらも穢れを受け入れたらしい。浄化が進んだ訳でもないのに、少し動けるようになっている。

我ながら不出来な陽術を使い、全力で穢れを相殺しにかかる。この数時間で、一部の魔術が異様に成長している。それが必要なことであれば、人間は何にでも適応するものだと改めて実感した。

祭壇から吸い上げた魔力も使って、陽術と『健康』を併用し、とにかく体調を戻していく。

ああクソ、体中が痛え。

腹も減った。

震える手で鞄から干し肉を取り出し、どうにか口に放り込む。硬い繊維を食い千切る力が出せず、唇から肉の端がはみ出したままになる。

……まともに動けそうにはない、か。

たった一度の接続でこれだ、やはり祭壇は人に御せるものではない。加えて、式場の穢れを押し込める器としても、俺の体は弱すぎる。穢れは全体の一割も減っておらず、改善の方法は思いつかない。現状維持すら出来ないようだ。

諦めが過る。認めたくなくて、細く長く息を吐いた。

意識を切り替え、ひとまず体の回復を最優先にする。今は祭壇を気にしたところでどうしようもない。調子が戻れば、まだ何か策が出ることだってあるだろう。

祭壇に寄りかかって暫く休んでいると、二人分の足音がした。ジャーク達が戻って来たかと思ったが、どうやら違う。

気配をまるで感じない──しかし、ジャークではない。あの男なら、気配も足音も殺す筈だ。この相手は普通に歩いているだけで、隠れようとする意志が感じられない。

となれば、俺の知覚領域を超える存在ということだ。

目だけを動かして、相手を視界に収める。

「……やあ、君か。どうだった? 魚は釣れたかな?」

船旅の前後で、俺が感知出来なかった存在は三つ。

ジャークと、俺に礼を言った謎の声と、そして彼女。

不機嫌そうに唇をきつく結んだ少女は、透き通るような線の細い美女の後ろで、首を横に振った。この美女は、俺に礼を言った存在だろう。

目の前にいる筈なのに、相手の気配を正確に把握出来ない。強度差以前の問題として、存在の格に差があるため理解が及ばないらしい。

となれば体は痛むが、先方に失礼があってはいけない。干し肉を仕舞い、どうにか祭壇から身を離して、二人に笑いかける。

「はじめまして、ここの管理者の方ですか?」

「いいえ……そういった権限はありません。私は管理ではなく、監視をする存在です」

なるほど、そっちか。ただ、監視をしたとて、その内容を誰にどう伝える?

伝達が巧くいっていれば、こんな状況にはなっていない筈だ。

俺の表情を読んだのか、美女はうっすらとした笑みを浮かべた。

「私が情報を伝える相手は、貴方です。現状について疑問があるのでしょう? 私もいつまで顕現していられるか解りませんし、訊きたいことは今のうちにどうぞ」

「まさか……そこまで弱体化していると?」

「そうですね。正直なところ、長くはないでしょう。式場がすぐにでも修復されれば、私も存在を維持することは出来ます。ただ、あれはもう直せませんね。正しい構造を教えたとしても、周辺一帯の河底に、何一つ間違えず術式を刻める人間がいませんから」

修復範囲はあまりに広く、かつ水中での作業となれば息も魔力も続かない。それは確かに言う通りだ。まともに作業をするならば、ラ・レイ師並の魔術師が十人は欲しい。

「貴方が人生の全てを賭けたとしても、私が消える方がきっと早い。挑戦を否定はしませんが、自身を祭壇の一部として組み込むことはお止めなさい。無駄死には嫌なのでしょう?」

「……そりゃあ、そうですね」

発言からして、先程の光景を見せた理由は、俺に無理をさせないためか。実際、道筋が見えず俺は足を止めてしまった。しかし、かといって……この大河周辺を丸ごと放棄して良いものか?

どうしようもないのだとしても、あまりに影響が大き過ぎる。

「このまま穢れが溜まれば、どうなります? そもそも、何故この地はこんなにも穢れが溜まりやすいのですか?」

穢れは自然発生するもので、この祭壇はそれを集めるように出来ているとしても、量が多過ぎる気がする。

監視者は困ったように眉根を寄せ、頬に手を当てて答えた。

「量が多い理由としては……そもそも穢れが、生物の数に比例するからですね。祭壇はなるべく広範囲を隙間無く、かつ効率的に祓うため、各地に点在しています」

ああ、生き物は水源の近くに集まる、か。それを見越した上で、ここに祭壇を配置した訳だ。

少しずつ、現実が明るみになっていく。

「もう一つの質問については?」

「それは貴方が身を以てご存じでしょう。全ての生物が死滅するとまでは言いませんが、どれだけの存在があの苦痛に耐えられるでしょうね?」

環境に適応出来る生物が、それほどいるとは思えない。一部の魔獣や異能持ち、抵抗力の強い達人であればもしやが有り得るといったところか。

考えれば考えるほど、明るい未来が見えない。ただ、ここでまた疑問が生じる。

「いや……ううん? だとすれば、河守が職務を戻しても、何も変わらないということですか?」

「託宣の内容を誤読していますよ。あくまで対象は河守ではなく、アレンドラ・ズ・キセインです。そもそも、河底の術式が消えた理由は推船師という存在にあります。船を上流に戻す際に、彼女らは河の流れを堰き止め、逆流させる。強大な魔術師がそれを行えば、環境が乱れることは想像に難くないでしょう」

ああ、そうか。

だからなのか。

点と点が繋がる。

河沿いで生きているジャークが、何故ゲンゲンの密輸をするのか。船の戻し作業は夜に行われる──つまり周囲を気にせず、大規模な魔術が繰り返し使われている。きっとこの街は、大河という圧倒的な資源を持ちながら、魚がまともに獲れないのだろう。

水運を活かすために、水産を殺す道を選んだのか。

ならば術式が直っても、アレンドラがいなくなっても同じことだ。船の戻し作業という鍛錬を経て、腕を磨いた別の推船師がいずれ現れる。

……手詰まりだな。

手足から力が抜け、その場にへたり込んだ。彼女はよく、こうも淡々としていられる。

「アレンドラがいなければ、少しは延命が出来ますか?」

「僅かであれば。それでも、しないよりは良いでしょう」

そう言って、美女は少女の頭を撫でる。少女は抵抗せず、むしろ手に頭を擦りつけるよう背伸びをした。

現状を理解しているのかいないのか……少女はとにかく、監視者に懐いているように見える。