河守
後ろを何度も振り返りつつ、廊下を走って逃げる。あんな騒ぎがあったからか、出口に辿り着くまで兵には出会わなかった。
横に並ぶデニスが歯を軋らせて、唇から血を垂らす。
「クソッ、本当に置いてきて良かったのか!?」
「俺だって良かったとは思ってねえ! ……でも、軍とやり合うのはどう考えたって無理だ。あの兵長一人ですら相手に出来ん。話しぶりからして、もう戦闘にはならん筈だ。フェリスが殺されるとは限らん」
素人目で見る限り、両者の力は拮抗していた。恐らく二人が全力で遣り合えば、どちらかが死ぬことになっていただろう。だからこそ、あの場での戦闘を避けたに違いない。
俺達のような足手纏いがいなければ、フェリスなら撤退出来る。
そう信じるしかない。
自分がきっかけとなってしまった所為か、アイザンは走っているのに、むしろ顔が青白くなっていた。
「……お、おれ、俺が今からでも戻って、」
「馬鹿、行ってもどうにもならん! お前が今やるべきことは、フェリスが言っていた通り、家族を連れて逃げることだ。……デニス、こうなった以上はそっちに全力を尽くすぞ」
「せめてそれくらいはやらなきゃ、アイツが残ってくれた意味がねえな。おいアイザン、しっかりしろ! まずはお前の家に向かうぞ、道はどっちだ!」
アイザンの背中を叩いて叱咤しているうちに、ようやく出口が見えてきた。
入り口を固める兵達が、押し寄せる船員達の群れに困惑している。その脇を駆け抜け、まずは路地裏へと入った。
兵長は俺達を見逃してくれたが、他の連中までは解らない。まずは人目につかない経路で、なるべく基地から距離を取る。
ゴーマとマカーナは……途中で逸れたようだな。まあ、アイツ等には細かいことを説明していなかった。時間が惜しいし、探している暇も無い。
街中の飲み屋を探せば、夜には見つかるだろう。
「今後の段取りを決めよう。アイザン、家族の説得は任せる。デニスはいつもの店から台車を借りて来てくれ。俺は荷物の運び出しをする」
「そんな、お二人を巻き込む訳にはいかないっすよ!」
「もう今更だよ、ここまで来たらやるしかねえんだ。そんなことより、お前はこれからどうするんだ? 誰か頼れる親族は?」
船便にしろ陸路にしろ、アイザンは王国へは戻れない。かといってこの街にも残れないとなれば、何処へ逃げるかが問題になる。
この街を出たけれど、何処ぞで野垂れ死にました、では話にならない。
「南にある集落で、叔父が生活してるっす。軍が駐留するような規模じゃないんで、まずはそこを目指そうかと」
「お前に命令していた兵はあの二人だけか?」
「直接の遣り取りはそうっすね。他にいたとしても、ちょっと解りません」
兵のうち一人は、まあ顎を砕かれていたし再起不能だろう。もう一人も、あの兵長の下では好き勝手出来ない筈だ。早めに動けば逃げ切れる可能性が高まる。
……となると、フェリスが兵長を引き付けている今が好機だ。アイツには無事でいてほしいが、アイツが残る時間が長いほど、俺達には余裕が出来る。
あまりの儘ならなさに拳を握った。
同じ結論に至ったか、デニスは早速店へと出発する。俺もぐずるアイザンを引き摺って、家の方へと走り出した。
◇
倉庫に並べられた木箱に腰掛けて、半裸の男と向かい合う。取り敢えず招かれてはみたものの、別に俺から話題がある訳ではない。ただ、誘いをかけてきた以上、相手には何か用があるのだろう。
黙って言葉を待っていると、ジャークは木箱の一つを抉じ開け、見覚えのある壺を引っ張り出した。封を破り、手をそのまま中に突っ込んで、醤漬けを掴み出す。
「ふぅん……何処で作ったヤツだろ? 漬かり具合がいつもと違うねェ。どれどれ」
大口を開けて顔を上げ、ジャークは醤漬けを頬張った。黒く濁った汁が唇から垂れ落ちるのも気にせず、目を細めてじっくりと魚を堪能している。
……なるほど、アイザンさんが彼を恐れるのも解る気がする。
本人の強さや圧もさることながら、とにかく行動が異様で、次に何をしてくるか読めないのだ。
胸焼けしそうな光景に吐き気を堪えていると、その読めない男は首を急に傾け、俺に醤漬けを差し出してきた。
「君も食べる?」
「……いや、結構」
「それは残念。ちょっとしょっぱいけど、美味しいのに」
絶対に嫌だ。
仕込んだのが自分だからよく解る。塩加減はさておき、醤漬けは発酵ではなく腐敗に傾いている筈だ。普通の人間が食えば、間違いなく腹を壊す代物になっているだろう。
臭いも相当増しているのに、ジャークは本心で美味いと言っているようだ。『健康』を使えば食えるとしても、俺は全くその気になれなかった。
「気を遣ってもらって悪いが、腹は減ってないし、味が濃いのは苦手でね。……で、何か用があるから呼んだんじゃないのか? それとも単なる暇潰しか?」
「いやいや、まさかァ。ちゃんとした歓迎が出来ないのは申し訳ないけど、暇つぶしじゃあないんだ。
御使い様?
俺が何の使いだと?
急な話を巧く飲み込めず、返答に迷っていると、ジャークは苦笑いを浮かべる。
「ゴメンゴメン、王国だと呼び名が違うんだったね。そっちだと受託者って言うんだっけ?」
思わず体が硬直した。
俺が受託者だと知る者は、死んだラ・レイ師とブライだけだ。コイツは何を知っている?
問い詰める前に、ジャークは指についた汁を丁寧に舐め取り、勿体ぶって話を続けた。
「この地域には
殴られた俺は何とも思わなかったが、ジャークには響くものがあったらしい。
余人が知る筈のないことを知っている以上、相手の言葉に嘘は無いのだろう。不本意ではあるにせよ、上位存在が絡むのなら話を聞かざるを得ない。
まずは事実を認めるところからか。
「……お前の想像通りだ、俺が受託者であることは否定しない。まだ任を帯びて、日が浅いけどな」
「アッハッハ、そこは経験を積むしかないねェ。……それで、君を呼んだのはさ、実はお願いがあるからなんだ」
「叶えられるかはさておき、聞くだけ聞こうか?」
その前に、醤漬けで汚れたジャークの所為で気が散ってしまう。
俺は大き目の水球を一つ作り、宙に浮かべる。するとジャークは嬉しそうに手を洗い、口を濯いだ。
「うん、ありがとう。お願いってのはね……儀式の場を教えるから、ボクに託宣の内容を教えてほしい、ってことなんだ。残念だけど、関係者ってだけじゃ託宣は見れないからさァ」
確かに、あの空間は有資格者でなければ使えないという感覚はある。与えられる利益が大き過ぎるため、むしろ制限されて当たり前とも言えるだろう。
しかし関係者であるとはいえ、ジャークが託宣を知る意味が何処にある? 受託者以外が使命を果たしたとして、報酬は与えられるのか?
「王国が不利になるような内容じゃなければ、託宣を教えることは出来ると思う。ただ、それを知ってどうする? 何か気がかりなことでもあるのか?」
「あるんだよねェ、これが。河守の一族は、お役目に従事する代わりに異能を強化されてるんだ。でも最近、その感覚に翳りがあってねェ……。心当たりもあるにはあるんだけど、それが正しいか確認出来ないかな、って思ってたんだよ」
……なるほどな。
恐らく、ジャークの感覚は正しい。上位存在が手をかけた異能は、一般的な人間が持つそれとは違い強力なものとなる。その機能に衰えがあるということは……、
「その物言いだと、河守が使命を果たせていない可能性が高いのか」
「周りを見る限り、ボクはそう感じてるね。で、時間があるなら今からどう? ここから式場は結構近いんだ」
今後カイゼンの祭壇を利用するかはさておき、場所は把握しておきたいところだ。そうしないと定期的にザヌバ特区まで戻って、託宣を確認しなければならなくなる。
手間を考えれば、取引としては悪くない。
「託宣に、お前が知りたいことが書いてあるかは解らないぞ?」
「まあその時はその時かなァ。御使い様を案内することだって、仕事の一つだろうしねェ」
「そうか、アンタが納得してるならそれで良い。なら早速行こうか」
俺が頷くと、ジャークは心底嬉しそうに笑う。いそいそと醤漬けを片付けると、壁に向かって歩き出した。
「式場までの入り口は幾つかあるんだけど、一つはここにあるんだ」
ジャークは自然体で立ち、細く息を吐く。吐き切ったところで止め、左右の連打を壁目掛けて思い切り放った。
数秒続けると、壁の一部がゆっくりと奥に倒れて行く。壁と同じ一枚物の石材で、入り口を塞いでいたようだ。
中を覗き込めば、装飾の無い真っ直ぐな道が続いている。
「じゃあ行こっか。ちょっと走るよォ」
小さな光球を幾つか生み出し、ジャークがすぐさま先を行く。その二歩後ろを、離されないよう付き従う。
……やはり出来るな。
平坦な道を軽く走っているだけだが、見ているだけでジャークの武力はよく解った。肉食獣に似たしなやかな筋肉と、足音がほぼ聞こえない静かな足取り。武術強度はあちらが上で、武器有りならどうにか渡り合えるといったところか。
いる所にはいるものだ。
割と平穏な日々が続いていたため、少し緩んでいたかもしれない。争いを好まないことと、自らを鈍らせることは違う。やり合うかどうかは別として、対抗するだけの力を維持することは必要だ。
「速くない? 大丈夫?」
「これくらいなら大丈夫だ」
領地で走り込みをしている時と、感覚的にそう大きな差は無い。とはいえ俺もそこまで足の速い人間ではないため、本気を出されたら、すぐに追いつけなくなるだろう。
まあ置いていかれる筈もないし、今の内に疑問を解消しておくか。
「さっき河守の能力が失われることについて、心当たりがあると言ったが……それは訊いて良いのか?」
「う~ん……正直身内の恥だから言いたくはないねェ。でも、いずれ解ることかァ……」
まあ受託する案件の中に入っていれば、聞かずとも解る話ではある。ただ、上位存在が単純に河守を見限っただけの場合、何の依頼も出ていないということも有り得る。
祭壇が使えるかどうかに関わるので、事情は把握しておきたい。
「河守は結構歴史のある集団で、この街が出来る前から存在してたんだよ。で、式場を守ることと引き換えに得た力で、土地を開拓していった」
街の興りとしてはありふれている。俺は先を促す。
「そうして一族は繫栄し、この土地の有力者としての地位を確立しましたとさ。……それで終われば良かったんだけど、発言力が増しても、河守はずっと慎ましい生活を続けてたんだ。そりゃそうだよね、河守の仕事をしたって、誰からもお金貰えないんだから。なもんで、河についてのご意見番として働きながら、ボク等は周囲と足並みを揃えて生きてたんだ。そしたら、クッソしょうもない理由で先代の当主が死にやがってさァ」
笑みを絶やさなかったジャークが、初めて怒りを覗かせる。あまりに忌々しげに吐き捨てるので、何があったか訊いてみたところ、先代は酔っ払って河に転落し、そのまま溺死したとのことだった。
本当にしょうもない話だ。それはこんな態度にもなるな。
口調に怒りを残したまま、ジャークは振り返る。
「あまりに急な話だったから、使命について充分な引継ぎがされてないんじゃないか、ってボクは睨んでるんだ。或いはそうでなくても、今の当主には問題があるか、どっちかだろうねェ」
「難がある人物なのか?」
「うんにゃ、ボクは嫌いじゃない、アイツは優しい奴だよォ。ただ、実績の無い若造が人を引っ張るためには、成果を急がなきゃいけないでしょ? 手っ取り早い方法として、現当主は一族の資産を増やして見せたんだ」
「へえ? どうやって?」
「簡単簡単。河守の仕事の一部を止めて、普通の仕事に就かせたんだ。現金の力は偉大だよねェ、周りはすぐにアイツを認めた」
個々人の持つ優れた異能を活かすことで、当主は一族全体の所得を増やしたらしい。一般的な当主であればそれで充分秀でていると言えるのだが、上位存在に従う立場の人間が使命を投げ出すのは失態だろう。
いや、しかし……この口振りだと、河守は上位存在と接触する機会を持っていないのか? だとしたら、生まれた時から備わっている異能が失われるなんて、想像する方がおかしい気もする。いるかいないか解らない存在を、いつまでも崇めろなんて無理がある。
「そんな状況でアンタはどうしてたんだ?」
「ボク? ボクは式場の入り口を守るのが仕事だったんでねェ。止める訳にはいかないし、お金も欲しかったから……軍に入ったのは、仕事が両立出来るからなんだよ」
……思いの外器用に生きているな。ただ、そう出来る人間は少ないだろう。
「才覚があって良かったな」
「全くだねェ……でも、他の奴等はあっちもこっちも、という訳にはいかなかった。それも本当のことなんだ」
「もう少しどうにかならんかったものかね。一部の人間を出稼ぎに行かせるとか、方法はあったろうに」
一族の長が身内の生活を向上させたいと願い、そして実行すること自体は理解出来る。これに関しては、上位存在があまり人間のことを考えていない所為もあるだろう。ただ異能が弱体化すれば、結局はその稼ぎも減っていくのだから、もう少し考えるべきだった。
溜息を吐いた辺りで、視界の先に立ち並ぶ石柱が見えて来た。目的地が近いようだ。
そこで立ち込める空気に、思わず足が鈍った。
「これは拙いな」
強烈な不快感──かつて体感した、あの穏やかな雰囲気とはまるで違う。濁った気配が少しずつ漏れ出している。
「ん? 何かあった?」
「解らないのか? 恐らく、式場が正しく機能してないぞ。空気が穢れを帯びている」
一瞬止まったジャークの足が、力強く床を蹴る。俺もそれに倣い、石柱をすり抜けるように全力で祭壇へと飛び込む。
中央にある台座の上には、かつて見た物と同じ、一冊の本が置かれていた。俺がすぐさまそれを手に取ると、ジャークは訝しげな表情を浮かべる。
本そのものが見えていないようだ。やはり河守は、祭壇を利用出来ないらしい。
緊張しつつ開いた中身には、ただ一文のみが記載されている。
「アレンドラ・ズ・キセインを排除せよ。……誰だ?」
「……河守の現当主。魔術師の世界十位だねェ」
噂の水術師か!
順位表に載る人間を相手にする? 俺とジャークでやれるのか? いや、自分の一族の主を、同族がやれるとは限らない。しかし俺一人ではまず無理だ。
揃って天を仰ぐ。嘆きに満ちた言葉が、どちらからともなく零れた。
「どうするよ、コレ」