異臭騒ぎ

船に乗り込み、お代としてまずは樽を二つ水で満たす。積み荷を運ぶ手間が多少減って、船員は嬉しそうにしていた。

とはいえ人を数えてみれば、甲板には俺を含め十名──樽二つで補える人数ではない。当然ながら、他にも水の入った樽は確保されていた。

俺が最初から最後まで水を補給出来るかも解らないし、賭けには出なかったのだろう。正しい判断だと思う。

あっさりと仕事を終え、船の手すりに背を預けた。

頭の中がまとまらない──あれからずっと、少女のことについて考えている。

どれだけ考えたところで、解ることなど何も無い。そうと知りつつも、思考を止められない。あの出来事が俺に与えた衝撃は、自分で思う以上に大きいものだった。

人に味方して土地を切り開いた精霊や、貴族に恨みを抱き仇をなす亡霊といった話は、各地に点在している。ただそれは、あくまで伝承や御伽噺としてのもので、まさか本物に出会うなんて想像もしなかった。

陰術で死者を操作したことだってあるのに、何故意識していなかったのだろう? いや、あの子からは死者特有の気配や思念を感じなかった。あくまで普通の人間としてそこにいた筈で……筈だよな?

もうはっきりと思い出せなくなっている。

別に被害にあった訳でもないし、切り替えるべきなのだろうが……、

「浮かない顔だな。水汲みで疲れたか?」

声に顔を向ければ、小屋の前にいた船員の男が、俺の傍で縄を抱えていた。ぼんやりしていた所為で、体調を心配されたらしい。

「ああ、えーっと」

「ザナキア・ゴランドだ。まあ適当に呼んでくれ」

「フェリス・クロゥレンです。水はどうってことはありませんよ。ちょっと考え事をしていまして」

旅の恥は搔き捨てと言う。不審がられることは覚悟で、消えた子供の件を話してみる。

ザナキアさんは興味深そうに内容を聞きつつ、縄を帆柱の影に置いた。

「久々に聞いたな。俺が生まれる前からあるぞ、その話」

「この土地の怪談みたいなもんですか?」

「怪談……になってることもあるか。河沿いの少女の話は、色々な種類があるんだよ」

聞けば先程想像した通り、土着の精霊説や河で溺れた少女の亡霊説といった、様々な噂があるらしい。ただ大筋で決まっているのは、少女に成したことはやがて己に返って来る、ということだ。

邪魔なガキがいたから蹴りを入れてやったと吹聴していた男は、翌日河に浮かんでいたという。また、お菓子をあげた女は、河近くの路地でご馳走にありついたという。

ありがちな訓話だ。ただ、そういった真偽が曖昧なものと違って、俺の場合ははっきりとした報酬が与えられている。あの存在は確かなもので、だからこそ混乱している。

ザナキアさんは肩を解しながら、日差しに顔を顰めた。

「まあここ数日はこんな天気だし、河も穏やかなもんだったよ。少なくとも人が落ちたとか、そういった報せは入っていない。死んだ子供はいないってこった」

「なら……取り敢えず良しとすべきなんでしょうね」

「そうだな。まあ、清く正しくとまでは言わんが、悪いことをせずに生きていきましょうってことだ」

悪いことをせずに、か。

そう言われても、もう手遅れな感がある。

自分の都合で様々な人間を害してきた。正しさは俺の手から零れて久しく、きっと戻ることはない。

「若えのに、随分としんどそうな顔をするな?」

「……そうでしょうか?」

「ああ。折角の旅なんだから、ちょっとは気分転換でもしたらどうだ? それこそあの子を見たんなら、釣りとかな」

釣りか……クロゥレン領にも小さいとはいえ川はあったし、何度か経験はしている。ただ、俺はどちらかというと罠を利用した漁の方が好きだった。罠は仕掛ければ終わりだが、釣りは時間がかかる割に成果が上がらないため、性に合わなかったということもある。

どうしたものかと考えていると、遠くで別の船員が大声を上げた。

「おーい、ザナキア、ちょっと来てくれ!」

「どうしたぁ!」

「積み荷の箱にひびが入ってるみてえだ! 何か汁が漏れてるぞ!」

内容を聞いて、ザナキアさんが慌てて駆け出す。暇だったので、何となく後を追った。

船室の一つに飛び込んでみると、声の通り木箱の一つから何か異臭のする物が溢れ、床を汚していた。空気が籠っている所為で、臭いがなかなか逃げていかない。

俺はすぐさま布で鼻から下を覆った。そのまま呼吸するよりは幾らかマシになる。

「ザナキアさん、口元を塞いだ方が」

「う、オェッ、すまん」

部屋にいるザナキアさんともう一人に手拭いを渡し、真似をしてもらう。少しでも臭いを誤魔化さないと、状況の確認すら出来ない。

出航前であることがせめてもの救いだった。

「ひとまず、外に出す必要がありますよね?」

「そうだな……しかし、ウッ、すまねえ。これは無理だ」

男達は二人揃って涙を滲ませ、吐き気を堪えている。

埒が明かないため、鼻に軽い『麻痺』をかける。箱に近寄り確かめてみると、何処にも罅は入っていなかった。

「これ、密閉されてないだけですね。箱の出来がそもそも悪くて、最初から隙間があるんですよ」

「……よく近づけるな、お前。ああデニス、ここで吐くな。気分が悪いなら部屋から出ろ」

「おぁ、ウェッ、す、すまん」

余程この部屋が嫌だったのだろう、デニスさんとやらはすぐさま走って出て行った。ザナキアさんは目一杯離れて、俺の様子を窺っている。

「中身を確かめられるか?」

「開けても問題になりませんか?」

「俺が許可する、やってくれ」

壁に立てかけられていた釘抜を使い、箱を抉じ開ける。中には蓋をした壺が並んでおり、その中の幾つかが横倒しになっていた。壺全体を紐で括っているだけなので、当然封は緩んでいる。

小魚に黒い漬け汁、きつい臭い……発酵食品か? 正体はさておき、管理が甘過ぎる。これが薬品だったら終わっていた。

片付けたいが、俺も手で直接触るのは躊躇われる。中身を告げると、ザナキアさんは思い当たる節があるらしく、盛大に舌打ちをした。

「ゲンゲンの醤漬けは、ウチでは持ち込み禁止だ。臭いが酷いし、日持ちしないからな。それももう駄目になってると思うぞ」

釣ったらすぐ作ってすぐ食べる、という鮮度命の料理らしい。幾ら漬け汁があるとはいえ、常温で放置されてどれくらい経つのだろう。

「これはやっぱり捨てるしかないですよね。荷を積む時、中身の確認はしないんですか?」

「することに決まってる。持ち込んだ奴と確認した奴、後で両方とも調べなきゃならん。しかし……これ、掃除をどうするかね」

ザナキアさんが歯を食い縛って我慢していることは、こちらも察している。ただ責任感はあっても、この臭気に耐える気力は無いのだろう。

……已むを得まい。暇だからと首を突っ込んだのは俺だ。

覚悟を決めて、零れている魚を摘まみ上げる。粘ついた液体が掌を汚し、強烈な不快感が募った。この滑るようなまとわりつくような感じは、絶対に腐っている。

そしてひとまず魚を戻そうと壺を持ち上げた時──違和感に襲われた。

「ん……?」

「どうした?」

「いや……」

壺を手に持った感じがおかしい。何が原因だ? 試しに外側を指で叩いていくと、底で明らかに音が変わる。

しまったな、この手では魔核が取れない。

諦めて氷で箱を作り、一度中身を空ける。内側を水洗いして探ってみると、底が接着されて二重になっているようだった。

……密輸か?

考えてみれば、船員が理由も無く積み荷を見逃す筈がない。何らかの取引がある方が自然だろう。

釘抜を壺に突っ込んで、底板を引っ掻く。強引に仕掛けを外すと、紫色の平たい鉱石が姿を現した。多少くすみがあるものの、職人が手をかければ美しい物に仕上がりそうだ。

水で綺麗にした鉱石を、ザナキアさんに放り投げる。

「……どう見ます?」

「何の石か解らんが、隠してるってことは価値があるんだろうな」

「因みに、こういう密輸品の取り扱いってどうなってるんですか?」

思わぬ代物が出て来た所為で、ザナキアさんの眉間には深い皺が刻まれている。

「持ち込みを禁止している物は発見次第、船員が処分して良いことになってる。航行中かどうかと、河に流せるかどうかで対応は変わって来るけどな。しかし今回の場合は……醤漬けはさておき、石はどういうつもりだ? 宝飾品はそもそも密輸の対象にしていない」

宝石の類は重量による拒否はあっても、品そのものを問題視することはない、とのことだった。

とはいえこんなやり方を選んだなら、石ごと持って行かれても文句を言えない気はする。異臭がしたので壺ごと処分した、と言われればそれまでだ。隠さないで堂々としていた方が、まだ目的地へ届けてもらえただろう。

ただ、これの価値が高かった場合、更なる面倒な事態を引き起こしかねない。

「取り敢えず、荷主を見つけて箱ごと処分するかどうか聞くか。液漏れしてる壺は幾つある?」

「ええと……四つありますね」

積み荷を調べられたとしても、これだけ臭いがするなら壺をあれこれ探ろうとはしない、という魂胆だったのだろうか。或いは船員ではなく、送り先に気取られないための配慮だったか。

巻き込まれた人間にとっては、ただ迷惑なだけだ。

「取り敢えず、石の有無に拘らず、それは捨てよう。……巧いことやれるか?」

「もう倒れたのも含め、全部返却したらどうです? 臭いさえ収まれば良いんですよね」

「そりゃあそうだが」

なら、やりようはある。

臭いのする箱に水を纏わせ、すぐさま凍結させる。きっちり隙間を塞ぐよう注意したため、液漏れはしない筈だ。ついでに台車も作り、押して動かせるようにする。

「これで少しはマシでしょう。汚水は後で拭くとして、コイツは船から降ろしますか?」

「ああ。すまん、助かる。しかし……凄まじい練度だな。その腕の魔術師なら、こっちが金を出さなきゃならんよ」

「魔術師としてより、掃除夫としての金が欲しいところですね。流石にこれは酷い」

俺だって嗅覚を誤魔化しているだけで、臭いのは嫌だ。逃げ場の無い船内で異臭騒ぎは御免被る。

さて、とにかく箱を移動させるか。

持ち主が名乗り出なければ積み荷を捨てると言えば、密輸を企んだ人間はある程度解るだろう。引き取らなければ石は失われるし、このまま船に載せようとするなら、どの船員が許可したかの話になる筈だ。

現状はまだ、犯罪が起きた訳ではない。素直に石を諦めるか、醤漬けを捨ててくれればそれで良い。

このまま穏便に話が終わるようにと、内心で強く期待した。