少女と釣り竿
話には聞いていたが、ガーダン伯爵の顔色は随分と悪かった。それでも、一時期に比べれば体調は良くなったのだろう。少なくとも、会話が成立する状態まで回復していた。
伯爵は大仰に手を広げ、私を歓迎する。
「出立前にお邪魔して申し訳ございません」
「いやいや、こちらこそクロゥレン家にはご迷惑をおかけしました。本来なら私からお詫びに行かなければならないところでしたが、当家も少々立て込んでおりましてな。ミルカ様に来ていただいて、正直なところ助かりました。さあ、こちらへどうぞ」
勧められた椅子に腰かけ、私達は向かい合う。家令が淹れた茶で唇を湿らせ、どちらからともなく疲れた笑みを浮かべた。
私は怪我人で、相手は病人。
お互い万全ではないし、用件は簡潔に済ますべきだろう。
「ゆっくり親交を深めたいところですが、今日のところは本題を進めましょうか」
「ええ。……フェリスから話は聞きました。伯爵家では、当家に対し賠償の意思があるとか」
「そうですな。我々はフェリス殿に救われました。恩もあれば借りもあります。貴族である以前に一人の人間として、私は彼に報いたい」
そう語る伯爵の目に濁りは無かった。
上位貴族がここにいない子爵家の次男に対し、心から頭を下げている。傍から見ればかなり歪な光景だが──それだけ彼の中で、フェリスの存在は大きいということなのだろう。
ならば、私が要求するものは一つしかない。
「では、こちらから一点お願いがございます」
「お伺いしましょう」
「近いうちに、私はフェリスを留学させようかと考えております。良い仕事のためには知見が必要です。弟に報いたいと言うのであれば、その費用を提供していただけませんか?」
領地のために、資材を融通してもらうことも考えた。しかし今回の一件は、フェリスが独自に解決したことだ。
私が手柄を奪うような真似は出来ないし、使い道の解らぬ石材よりも、現金の方がフェリスにとっては役に立つ。
大したこともしていないのに、我侭を通してまで欲しいものなど何も思いつかなかった。
「……それはまた、随分と遠慮をなさいますな。本当にそれでよろしいのですか?」
「構いません。……白状しますと、中央に長期滞在する予定ではなかったので、あまり持ち合わせが無いのですよ」
これは誤魔化しではなく、本当のことだ。
笑って返すと、それをどう受け取ったのか、伯爵は酷く感じ入ったように頷いた。そのまま家令に指示を出すと、数分後には一千万が机に積み上げられる。
「ひとまずは手付として、こちらをお持ち帰りください。明日には追加をお持ちします。では──次に、賠償のお話に入りましょう」
「え?」
「それはそれ、ということですよ。物事は順番通りに進めましょう」
なるほど。
まず最初にフェリスの分、そして次は私の分、と。
酒に溺れていたとは思えない、気風の良い男だ。当初は面倒に巻き込むなと思ったものだが、伯爵の本質はこちらにあるのだろう。
ならばお言葉に甘えよう。私は茶を飲み干し、本気の交渉に入ることとした。
◇
物資や資金を調達しているうちに、数日が経過した。
……いつになっても、別れには慣れないものだ。とはいえ、いつまでも後ろを振り返るような、そんな旅立ちは似合わない。
各々と軽い挨拶を交わし、すぐさま中央を出発した。
カイゼン工国までは大河を渡る必要があるとのことだったので、まずは船の出る王国東部のミージャン特区へと足を向けた。
「……割と栄えてるな」
交易の玄関口ということもあり、ザヌバ特区と違ってこちらは結構な数の人間が
なるほど、今まで行ったことのあるどの土地とも趣が違っている。
さて、取り敢えず船の日程を確認しなければならないが……まるで知らない場所であるため、その辺を歩いていた男の一人にまずは声をかけた。
「お仕事中すみません、船着き場の場所を知りませんか?」
「あん? 船着き場は幾つかあるぞ? 漁船と旅船とじゃ場所が違う」
それもそうか、全てを一か所にまとめる理由も無い。
改めて旅船の場所を聞き出し、男に小銭を握らせる。気を良くした彼は、船着き場近くの美味い食堂の情報を追加してくれた。
丁重に礼を述べて、再び歩き出す。
単なる旅人と地元民との交流──余計な裏読みをしなくて良い他人というのが、心を軽くしてくれた。実際、最近の俺は荒んでいたのだろう。
上位貴族と張り合う必要も無いのに、分を弁えず振舞っていた。職人としての腕と、狩猟者としての強度。俺が人より優れているのはそれくらいのものだ。権力者に噛みついたって、良いことは何も無い。
内心で反省する。
ひっそりと、当たり前の人間として暮らしていこう。何よりも今は、自分のモノ作りを基礎から見直したい。
そうして今後の人生について思いを馳せていると、話にあった船着き場を発見した。ただ近くには小屋が点在しており、何処かで乗船料を払うのだと思うが、よく解らなかった。
誰に聞こうか迷った挙句、桟橋で河を眺めている少女を選ぶことにする。
「ねえ君、ちょっと良いかな」
「なあに。あたし今忙しいの」
振り向いた顔が明らかに不機嫌そうだ。外れを引いたかと思いつつ、首を傾げて問う。
「ごめんね。俺、船に乗りたいんだけど、何処に行けば乗せてもらえるかな?」
「あそこ」
眉根を寄せたまま、素っ気なく少女は小屋の一つを指差した。青い壁の小屋で、神経質そうな男が何やら木箱を積み上げている。
なるほどアレか。
「そっか、ありがとうね」
「ん」
礼を言って小屋に向かうと、男が作業の手を止めて顔を上げた。近くで見ると、やけに二の腕が逞しい。ただの一般人の筈なのに、殴り合ったらこっちが負けそうな体格をしている。
男は額の汗を掌で拭うと、呼吸を整えつつ俺に向き直った。
「お客さんかい?」
「ええ。カイゼン工国まで行きたいんです」
「一番早いのだと、明後日の朝便だ。夜が明けたらすぐにここを出るんで、遅れないように来てくれ。支払いはその時になる」
ついでに市場や宿の位置などをつらつらと述べ、男は再び作業に戻った。対応に慣れているのか、頗る話が早い。
「あー、すみません。幾つか教えてください。食事は自分で用意するってことで良いですか?」
「基本的にはそうなるな。まあ一日に一度は陸に上がるし、その時に飯を済ませたって良いぞ」
聞けば河沿いには宿場町が幾つかあり、その都度休憩を取るとのことだった。船そのものがあまり大きくないため、積み荷は選べとの注意を併せて受ける。
俺の場合は金と使い慣れた道具さえあれば、大体のことはどうにかなりそうだ。
準備する物を考えていると、男は思い出したように付け加える。
「ああ、もう一つ。最低限飲み水は確保しておいてくれ。たまに河の水で済まそうとする奴がいるんだが……腹を壊しても船に医者はいない。病気が怖いんでな、狭い船内で漏らすような奴は、そこですぐに降りてもらう」
「……なるほど、よく解りました」
男の目は本気だった。すぐに降りてもらうとは、船から叩き落すという意味だろう。
まあ、河の水なんてどんな寄生虫がいてもおかしくはない。衛生環境が悪くなった所為で、船内に伝染病が広がったら大事だ。酷に思えても、そこは厳格にせざるを得ないのだろう。
しかし、水か……ふとした閃きが口をつく。
「俺は水術を使えるんですが、船賃は安くなりますか?」
「樽一ついっぱいにしてくれるなら、安くしてやるよ。ただ、船旅でわざわざ疲れる真似をせん方が良いとは思うぞ」
男が小屋の戸を開けると、中には空の樽が幾つか並んでいた。そこそこの容量はありそうだが、極端に大きな物ではない。慣れていない人間ならさておき、これくらいなら楽勝だろう。俺は樽の栓を抜き、試しに一つを満たしてやった。
「こんなもんでどうでしょう」
男は掌で樽の水を受け、
「……やるじゃねえか。因みに、どれくらいの数いける?」
「ここにある分くらいなら、全部やれますよ」
「カイゼンまでの金は要らん。樽を幾つか持ち込んだとして、一つ空になる度に満杯に出来るか?」
「お安い御用ですとも」
男は大きく頷くと、分厚い手をこちらに差し伸べた。
「お前を歓迎しよう。是非俺達の船に乗ってほしい」
差し出された手を強く握り返す。商談成立だ。