六章 こわれてしまえ



 いつだっていつしよだった。

 なにをするのも、どこに行くのも。

 楽しい時も悲しい時も、つらい時もうれしい時も──いつだってとなりにはのんちゃんがいてくれた。

 笑いかけてくれて、はげましてくれて、なぐさめてくれて、しかってくれた。

 自分がアイドルとしてがんってこれたのも、すべて花音ちゃんのおかげだ。

 人見知りで内向きだった私に、歌う楽しさを教えてくれた。

 自信が持てなくて一度は断った私を、見捨てずに背中を押してくれた。

 の歌をたくさんの人に聞いてもらうのが私の夢だから──そう言ってくれた。

 その言葉に私は救われた。頑張ることができた。

 自分が頑張ることが、花音ちゃんの夢をかなえることになるのだから。

 花音ちゃんがいてくれたから私は──


『なんてかわいそうなのかしら。どれだけ強く願ってもむくわれない運命なんて』


「あなたは……だれ……?」

 気づけば目の前に見知らぬ女性がいた。

 黒いヴェールで顔が見えない。声もくぐもっていてよく聞こえない。

 だれだか分からない──けれど、よく知っている身近な存在のような気もする。

『最初は、そう……初めて小鳥を飼った時だった。両親にけんめいにお願いして、やっとのことで許しを得た。本当に……嬉しかった』

「なにを……言っているの……」

 違う、そうではない。

 なにを、ではない。なぜ、だ。

 なぜこの人は私の過去を知っているのだ。

『一生懸命に世話をして、可愛かわいがって……。でも、すべてはに終わった。一瞬だけ油断したすきに、あの子は鳥かごをけ出して飛び去っていってしまった……』

 そう──呆気あつけない終わりだった。

 あれほど愛情を注いだのに、あの子はためらうことなく自分のもとを去っていった。

 しよせん、自分の愛情は一方通行でしかなかった。

 自分のおもいに、こたえてはくれなかった。

 こんなに悲しい想いをするならば、願わなければよかった。望まなければよかった。

 なにかを失って傷つくのであれば、最初からなにも手にしなければいい──幼心に、そう思った。

「なにが、言いたいの……?」

 人の苦い思い出をり起こしてなにが楽しいのだろうか。

『だから、それからはもう多くを望むことはめた。望みが強ければ強いほど、失った時の悲しさが大きくなると分かったから。だから……アイドルにだってなるつもりはなかった』

「それは……っ!?

 真実だった。

 花音ちゃんから、一緒に頑張ろうってさそわれても、初めは首を縦には振らなかった。

 なにかを手に入れようとして、失うのがこわかったから。

「で、でも私はいま、アイドルになってる……! 花音ちゃんと一緒に、アイドルとして輝いてる!」

 詩穂の歌が好き──そう背中を押してくれたから。

 だから私はいま、花音ちゃんの隣にいられる。

「昔の私とは違うの! 怖がりで一歩み出すことのできない私はもういない! 今の私は目標に向かって頑張ることができる! 花音ちゃんが一緒にいてくれるから……どんなかべだって、乗りえて……」

『強い自分を演じても、心まではウソをつけないものよ』

 彼女はいつしゆうした。

『なにも変わっていない。あのころの弱いあなたと、なにも……』

「だから私は……!」

『想って、想い続けて、想い抜いて……そうしていれば引き留められると信じているだけ。どこにも行かずに近くにいてくれると、自分をだましているだけ。本当は、心のどこかで気づいているんでしょう?』

 わずかに見える彼女の口元が、怪しくゆがんだ。

 私のところからはなにもかもが消えてなくなる、小鳥も、大切なあの人も──そうあざけっているように見えた。

「なにが言いたいの? 私は、これまで花音ちゃんと一緒に頑張ってきた。これからも、一緒に頑張ろうって、いつも……」

 花音ちゃんと一緒にいられれば、それだけで幸せなのだから。

『その幸せ……いつまで続くのかしら? それがくずれ始めている音は、あなたの耳にもう届いているはず……』

 意味深な言葉を残して、その女性は背を向け、歩き出した。


 ズキッ!


 また、あの痛みだった。

 でも私は、その痛みから必死に目をらそうとした。

「……そんなことない! あなたに、私と花音ちゃんのなにが分かるの!?

『あなたが想い続けるいとしの人は……いつまであなたのそばにいてくれるかしら?』

 私の言葉も聞こえないように彼女は立ち去ろうとする。

「待って!」

 このまま行かせちゃ、ダメだ。このままでは、なにか取り返しのつかないことが起こる──なぜだかそう、直感が告げていた。

 彼女の背中を追いかけて、そのかたに手をかける。

 すると、そのひようにそれまで彼女の顔を覆っていたヴェールがはらりとすべり落ちた。


 ヴェールの下から姿を現したのは──花音ちゃんだった。


      


っ────!?

 声にならない悲鳴で詩穂は目を覚ました。

 目に入るのは見慣れたてんじよう、そして窓から差し込むまぶしい光。

 ここが自分の部屋だと思い出すのに数秒を要した。

「ゆ……め……」

 なぜか声がかすれていた。

 まるでさけびすぎた後のように。

「そっか……夢、か……」

 あせれたかみをかき上げ、確かめるように詩穂がつぶやいた。

いやな夢、見ちゃったな……」

 花音が自分からはなれていってしまう──そんなことは絶対にありえない。

 そう自分に言い聞かせようとする詩穂であったが、あんな夢を見てしまった後では、そう確信を持って言うことができなかった。

つかれてるのかな……。あんな夢を見ちゃうなんて……」

 気分は最悪だったが、それでも詩穂は身体からだを起こした。

 学校に行けば花音ちゃんが、星守のみんなが待っている──そう思うと少しだけ気が安らいだ。

「花音ちゃん、みんなの顔を見れば、きっとイヤなことも忘れられる……うん、きっとそう」

 詩穂はあせでぐっしょりと濡れたパジャマをぎ捨てた。


「おはようございます……って、誰もいない……」

 詩穂がしんじゆみね女学園に登校すると、教室はがらんとしていた。

「早く来すぎちゃったかな……」

 花音の顔を、みんなの顔を見て、早く安心したい、その一心だった詩穂が、今さらながら時計に目をやる。

 始業時間よりも一時間も早かった。

「これじゃ誰もいないのも当たり前、か……」

 花音ちゃんに会いたかったな──と、しょんぼりしたところで思い出す。

 花音は、学園内でまりしているのだということを。

「そうだ、起こしにいっちゃおうかな! 花音ちゃん、朝弱いから……ふふっ、寝顔見ちゃおうっと」

 きっとまだ夢の中をたゆたう花音を想像し、自然とみがこぼれた。

 花音がいるはずの、校舎の最上階のはしの教室へと向かう。

 そしてとうちやくとびらに手をかける。

 ひょっとしてかぎがかかっていたり──という詩穂の心配をよそに、扉はわずかなていこうだけで開いてくれた。

「わぁ……教室じゃないみたい……」

 ワンルームマンションの一室のような内装に目を丸くしつつ、詩穂は花音の姿を探す。

 やがて、部屋の奥に置かれたベッドの上で、小さく寝息を立てる花音を見つけた。

 その隣では、同じくうららも無防備な寝顔をさらしていた。

「ふふ……見つけちゃった」

 どんなふうに起こしてあげようか。

 いや、もうしばらく二人の寝顔をたんのうするのも悪くない。

 とりあえず寝顔を写真に保存して──

「あら……?」

 そこで、気がつく。

 まくらもとのテーブルに、大量の雑誌が山積みになっていた。

「これって……アイドル雑誌?」

 さまざまな少女たちが色あざやかなよそおいで表紙をかざっている。

 流行を常に追えているわけではない詩穂にとって、その中には見覚えのない顔も少なくなかった。

「んにゃ……うららぁ~……」

 ふと、花音の口から寝言がもれた。

「そのアイドルはぁ~……違うんだってぇ~……」

 夢の中でうららとアイドル談義をしているのか、花音は小さくまゆを寄せてうなっていた。

 その顔に詩穂は、かすかなさびしさをいだいた。

「花音ちゃん……はすさんと寝るまでアイドルについて話してたのかな……」

 ベッドのわきまでアイドル雑誌を持ち込むくらいだ。

 きっと話が盛り上がったのだろうと容易に想像できる。

「私もアイドル……もっと勉強した方がいいのかな……」

 せっかく明るくなりかけていた詩穂の気持ちは、再び暗くしずんでいき、そのまま二人に声をかけることなく、そっとその場を後にした。


      


 始業の時刻も近づき、登校してきた少女たちで星守クラスがにぎやかになる。

 他愛たわいない会話をわしながら、詩穂の頭の中は花音とうららのことでいっぱいだった。

「おっはよー!」

「おはよ……ふぁ~」

 そんな折、うららと花音が教室に入ってきた。

 朝から元気いっぱいのうららと、どこか寝ぼけまなこの花音である。

「ん、おはよ、詩穂」

 花音がいつもと変わらない調子で声をかける。

 詩穂もだん通りに返そうとして──失敗した。

「おは……よ……」

 あんな夢を見てしまった後では、いつも通りえというのも無理のある話だった。

「どうしたの、詩穂?」

「う、うん……ちょっと、ね……」

 顔をそむける詩穂を案じた花音が心配そうにのぞき込む。

だいじよう? 保健室行く?」

「ありがとう……でも、なんでもないから……」

 詩穂はこう言うしかなかった。

 だが──本当は聞きたいことがたくさんあった。

 この間のせんとうでケガをしたりしなかったか。

 うららとの共同生活はどうなのか。

 ともに戦う仲間として、アイドルの頂点を目指すパートナーとして、自分のことを──本当はどう思っているのか。

 言葉はいくつものどもとまでのぼってくるのに、それを形にすることができなかった。

 踏み込んでしまったら、もうあともどりできないような気がしていた。

 自分と花音の関係が決定的に変化してしまいそうだったから。

 今朝の夢のせいで、そんなことばかり考えてしまった。

「そう……でも、無理だけはしちゃダメだからね」

 花音も詩穂のことを案じつつも、それ以上はついきゆうすることはなかった。

「そうそう、詩穂、今度の日曜日ってひまでしょ? もちろん空けてあるわよね?」

 詩穂の暗い胸中とは対照的に、花音が一転して笑顔で話しかける。

「今度の、日曜日……?」

「ちょっとっ! まさか忘れてないでしょうね!? 今度の日曜日は、その……私たちの大切な記念日でしょ……?

「えっ……」

「ほらっ! 私が詩穂をアイドルにさそった日! 私たちがf*fフオルテシモを結成した大切な……」

「あっ……! そう、だった……」

 こんな大切な日を忘れていたなんて──今日の私は本当にダメだと詩穂が肩を落とす。

「もうっ! 毎年いつしよにお祝いしてるのに……楽しみにしてたの、私だけ!? このところバタバタしてたし……大事な話もあるから、久しぶりに二人っきりですごしたいなって……ダメ、かな」

 寂しそうな目をする花音に、詩穂が少し食い気味に答える。

「ダメじゃない! どこに行く!? あ、この前行きそびれちゃったから、今度こそパンケーキ、リベンジしに行く?」

「きゅ、急に張り切りだしたわね……ま、でも……詩穂が元気になってくれてよかったわ。さっきまで、本当に元気がなさそうに見えたから……」

「ううん。ごめんね、心配かけちゃって……でも、もう大丈夫! 花音ちゃん、ありがとう」

「ふふっ、やっぱり詩穂は笑顔でいるのが一番ね……あ、もう授業始まっちゃう。じゃ、また後でメールするから、その時にお店を決めましょ」

「うんっ!」

 ここ最近、胸の奥をあつぱくしていたモヤモヤが、うそみたいに晴れていくのを詩穂は感じた。

(やっぱり、私の気にしすぎだったんだ……夢なんかで、どうしてあんなに不安になっちゃってたんだろう。ふふっ、花音ちゃんとの久しぶりのお出かけ、楽しみだな♪)


      


「私だけ呼び出されるだなんて、いったいなんの話かしら……?」

 f*fフオルテシモの結成記念日がせまってきたある日、花音は所属するプロダクションのオフィスに呼び出されていた。

 なぜか、自分ひとりだけ。

 自分にだけなんの用事があるのだろう──首をかしげながら花音は、授業が終わった後に独りでオフィスをおとずれていた。

 そこで告げられたのは──


「ソロ活動ってどういうことですか!?

 通されたオフィスの一室、そこで待っていた社長の言葉に花音は声をあららげた。

「君たちが、さらなる高みを目指すことを思っての判断だ」

「そんなの必要ありません! それに……その件は、以前にもお断りしたはずです!」

「君と詩穂とでは得意とする分野がちがう。この厳しい世界で勝負していくためには、おたがいの長所をばしていくべきだ。そのために、ソロ活動にちようせんすることが最適であると判断した」

 社長の考えは、間違ってはいない──そのことは花音も頭では理解できた。

 だが──

「確かに、社長のおっしゃる通りアイドルの世界は厳しいものです。ちゆうはんな気持ちでは、勝負することができないことも分かっています。ですが……私たちは二人でf*fフオルテシモなんです。詩穂と別々に活動するなんて、そんなこと……考えられません」

f*fフオルテシモは世界を変える……」

……っ!

「それが君のくちぐせだったね」

「……はい」

「今のままでも、ある程度のレベルには達するだろう。だが、本気で世界にいどんでいくつもりなら、お互いがそれぞれの武器をみがいていかなければならない。これは、君たちにとってチャンスなんだ」

「ですがっ……!

「話は以上だ。詩穂にはまた後日、私から伝えておこう。それじゃあ」


 オフィスから解放された花音は、ひとり家路についていた。

(ソロ……か……)

 頭の中で社長の言葉をはんすうし、かみくだき、ぎんする。

 決して悪意からf*fフオルテシモを引きこうとしているのではない。

 自分と詩穂、そしてf*fフオルテシモのこれからのことを考えてくれての判断だ。

 そんなことは、百も承知だった。

 だが──

f*fフオルテシモがバラバラになるなんて……私は絶対に……」

 アイドルとして高みを目指す。その目標が変わることは、決してない。

 だがそれも、詩穂と一緒でなければなんの意味もないはずだ。

「だって、あの日、ちかったじゃない。私たちは、なにがあっても二人でf*fフオルテシモ……そうだよね、詩穂」


      


 日曜日。

 花音は予定の時間よりもだいぶ早く、待ち合わせ場所にとうちやくしていた。

 いつぞやのケーキ屋さんはイロウスにじやされたし、この前はうららとの先約があった。

 久々に詩穂と二人ですごせる時間であった。

「今日はどこから回ろうかしら……行きたいお店がたくさんありすぎるわ……あ、でも詩穂の好みもあるわよね……」

 そわそわしながら待つことしばらく。

 ツンツン──花音の背中をっつくだれかがいた。

「早かったわね、詩穂……」

「やっほ~、なにしてるの?」

…………おかけになった電話番号は現在、おつなぎできませ……」

「正面! すぐ目の前にいるんですけど!」

「はぁ……どうしたの、あおいちゃん」

 この人は、本当にいつもしんしゆつぼつだ──ご立腹な様子のななしま葵を前に、花音がため息をもらす。

「ちょっとこれから神樹ヶ峰に行くところだったの。そうしたら花音が見えたから、なにしてるのかな~って」

「先生って大変なのね、日曜日なのに」

「まあ、仕事だからね~。それで花音は?」

「詩穂と待ち合わせよ。今日は、f*fフオルテシモの結成記念日なの」

「おぉ! そっかそっか~!」

 子供みたいにはしゃぐ葵は、しかしふとげんな顔つきになって、

「そんなお祝いの日なのに……なんかかない顔してない?」

「……そう?」

「なんかなやみをかかえてる感じ。記念日を楽しもうって、がんろうとしてる感じ」

 何気なくてきしてくる葵に、変なところでするどいなぁと花音は観念する。

「実は……」

 花音はソロデビューの話があることを伝えた。

 もちろん断るつもりであること。

 自分たちはなにがあっても二人でf*fフオルテシモである。そのことは絶対に変わりはないということ。

 そんな自分の気持ちを、なおに洗いざらい打ち明けた。

「ホント、困っちゃうわ……」

 うんざりしたような花音をながめていた葵がポツリとつぶやいた。

「……花音は本当にそれでいいの?」

「えっ」

 思わぬ一言だった。

「だってお互いの強みをかす絶好のチャンスじゃない? 最初から断るなんて花音らしくないと思うな~」

「らしくないって……」

 詩穂と一緒じゃないとなんの意味もないのだ──そう言おうとした矢先、葵の言葉が突きさった。

「ひょっとして……一人でやっていくのがこわい?」

「こわ……って、なんでよ!」

「花音ってゆいどくそんって感じてツンツンしてるけど、実はさびしがり屋なのかな~って」

「そ、そんなこと……」

 絶対に違うかといえば──ウソになる。

 詩穂が一緒にいてくれるという安心感のおかげで、ここまでアイドルの道を突っ走ってこられた。

 いつも自分のそばにいてくれる、いつも自分をはげましてくれる、そんな詩穂が心の支えになったことは、一度や二度ではない。

 でも、そうしたおもいをストレートに表に出したことは、あまりなかった。

 自分が堂々としていないと詩穂を不安にさせてしまいそうだから。

「……怖くなんてないわよ!」

 そんな自分の心の弱さを葵にズバリかされたみたいで、花音はつい強がってしまった。

 だから、こう言ってしまった。

「私、一人だってアイドルできるんだから!」


      


『私、一人だってアイドルできるんだから!』


 ズキッ!


 詩穂は、聞いてしまった。

 待ち合わせの場所に、少し早く着いて花音を見つけ、け寄ろうとした、その時だった。

 花音が葵に向かって断言した、その言葉を聞いてしまった。

 これまでずっと心の中に押さえ込んできた不安が、一気にき出した。


(花音ちゃんは……やっぱり、ひとりでアイドルをやりたかったの……?)


 ずっと、怖かった。

 花音にとって自分はお荷物なのではないかと。足を引っ張っているのではないかと。

 でも花音が向けてくれるがおに、花音があたえてくれるやさしさに希望をたくした。

 花音のとなりに立てるように頑張ってきた。

 それなのに──花音はひとりで進みたがっていたというのか。

「そっか……大事な話って、そういうことだったんだね。でも、どうして……。なにも、こんな大切な日に言わなくたって……」

 せっかくの記念日なのに。せっかく二人でお祝いできると思ってたのに。

 そんな日にどうして──どうしてっ!?

「あ、詩穂……」

 その時、花音が詩穂に気がついた。

「ちょっと聞いてよ、葵ちゃんがね……」

 花音が詩穂に近寄ってその手を取ろうとして──からりした。

「詩穂……?」

 詩穂がうつむきながら一歩、また一歩と後ずさる。

「……ごめんね、花音ちゃん」

「え……?」

「……やっぱり私じゃダメだったんだね」

「ちょっと詩穂、なにを言って……」

 花音が詩穂のかたに手をかける。

「詩穂、どうしたの? なにが……」

「放してっ!」

 しゆんかん、花音の手に鋭い痛みが走った。

 詩穂に手を打ちはらわれたのだと気づくのに数秒を要した。

「し……ほ……?」

「花音ちゃん……今までありがとう。こんな私といつしよにいてくれて、ありがとう……」

「ちょ、詩穂!?

 ばす花音の手をのがれ、詩穂が走り出す。

 事態がまったくみ込めない花音は、とっさに追いかけることができなかった。

 その一瞬の間に、詩穂の姿はひとみの中へと消えていってしまった。

「詩穂……?」


      


 いつの間にか降り始めた雨は、またたく間に激しさを増していた。

 空はどす黒い雲におおわれ、冷たい風がきすさぶ。

 詩穂は全身を雨にらしたまませんしきを歩いていた。

 目の前がぐちゃぐちゃになって、我を忘れて走り続けて、気がつけばこの場所にたどり着いていた。

「ここは……」

 忘れもしない、そこは、花音が自分をアイドルにさそってくれた、思い出の場所だった。

 この場所で、自分はアイドルとして一歩をみ出した。

 花音に背中を押してもらって踏み出した。

「花音ちゃんはひとりでアイドルをやりたかったんだ……。私は……邪魔だったんだ……」

 そのほおを濡らすのは雨かなみだか。

 光を失ったひとみで詩穂がさまよう。

「私、このまま捨てられちゃうのかな……」

 ズキンッ──胸の奥をどんつうつらぬく。

 空っぽになった心がさぶられる。

 花音の顔を思い出そうとして、失敗した。

「詩穂? だいじよう?」

 不意に、声が聞こえた。

 顔を上げた視線の先に、かさをさした葵が不思議そうな顔で立っていた。

「葵先生……」

 詩穂は反射的に顔をそむけた。

 今の、みじめな自分の顔を見られたくなかった。

(なんて、言い訳しよう……)

 雨に打たれてこんなところをひとりで歩いて──なにかあったと心配されるのは当然だ。

 でも本当のことは言えない。

 花音に捨てられてしまうかもしれない、そのことがたまらなく怖いだなんて──


「おめでとう詩穂! 花音のソロデビューが決まったんだって!」


 あまりに、とつぜんのことだった。

 ついさっきまで心配したような顔で詩穂を案じていた葵は、満面の笑みで彼女の顔をのぞき込んでいた。

「だから言ったでしょ? あの子はひとりでどこへでも行っちゃうんだって」

 がくぜんとする詩穂に、葵はその手をにぎってニッコリ微笑ほほえんだ。

「詩穂、今まで花音のサポートおつかれ様。あなたが支えていたからこそ、花音は大空に羽ばたくことができたのよ!」

「そんなっ!? 私そんなつもりじゃ……!

「ゆっくり休むといいわ、詩穂。あなたの大好きな花音は……これからひとりで羽ばたくの。あなたが隣にいた時よりも、高く、高く……ね」

 詩穂の耳元で葵がささやく。

 ねっとりと、頭の奥にみこませるように。


 ズキンッ──ズキンッ──!!


「痛い……痛い……」

 胸の奥をめ付けるような、締め上げるような鈍痛が止まらない。

 短いかんかくで何度も何度も心臓を握りつぶされているような。

 深い海の底にき落とされたような息苦しさに、思わずひざからくずおれた。

「あ……あぁ……」

 やがて鈍痛は熱さに変わっていった。

 身をがすような、身体からだの内側から焼きくされるような熱さだった。


「本当は、分かっていたんでしょう?」

 冷たい声が詩穂へと降りかかる。

 もうろうとする意識の中、詩穂が見上げた先にいたのは葵ではなかった。

 それは──詩穂自身だった。

「あ……なた、は……」

 もう一人の自分とのかいこうはこれが二度目だ。

 一度目はいつかのサイドブリッジ──エヴィーナに不思議な空間にほうり込まれた時だった。

「本当は、分かっていたんでしょう? 私には花音ちゃんの隣にいる資格はないんだって」

 もう一人の自分がうすらわらう。

「最初から無理だったの。私と花音ちゃんとじゃ、住んでる世界がちがう……結局、花音ちゃんに誘われてい上がっていただけ」

「そんなことっ……!

「本当はずっとこわかったの。トップアイドルじゃなきゃ……花音ちゃんと同じレベルを目指さなきゃ、私の方を見向きもしてくれないんじゃないかって」

 もう一人の詩穂の声は、突き放すようななぐさめるような、不思議なひびきがこもっていた。

 それが詩穂には気持ち悪くて、なのにどこか心地ここちよかった。

 だれにも知られたくない本当の気持ちを知られてしまった──でも理解してくれた。

 不快感と安心感が入り混じって、心の中にまだら模様をえがく。

 光とやみが織りなす、ぐちゃぐちゃの絵を。

「必死にがんった……。花音ちゃんの隣にいたいって頑張って頑張って頑張って……それなのに花音ちゃんは、ひとりで進む道を選んだ……それが真実なの」

「……っ!?

「私の大切なものは……もう私の手には届かない」

 もう一人の詩穂が、膝をつく詩穂の手を優しく握った。

 つらかったね、痛かったね──そういたわるように。

「もう終わりにしよう? いくら望んでも願っても、なにもかもがおくれなの。だったらもう……」

 すべてあきらめてしまいましょうよ──その言葉を詩穂の耳へと注ぎ込む。

「わた……しは……」

「うん、うん……もう頑張らなくていいの。傷つかなくていいの」

 もう一人の詩穂が膝を折り、詩穂の身体をそっときしめる。

「もう……いいの? 私は……傷つかなくてもいいの……?」

「ええ、忘れましょう。なにもかも……」

 瞬間、二人の詩穂の身体がしつこくの闇に包まれた。

 闇の中で詩穂が感じたのは──解放感だった。

 もうなやまなくていい、苦しまなくていい。傷つかなくていい。

 すべてを捨ててすべてを忘れて、自由になればいい。

 そう思うだけで全身の熱さがすっと消えていった。

「ふふ……いい顔になったわね、詩穂」

 やがて闇が晴れた時、そこにいたのは、もう一人の詩穂ではなく、うれしそうに微笑む葵だった。

 そんな葵がいとおしそうに抱きしめていたのは──


      


「詩穂……いったいどうしちゃったっていうの……?」

 雨の中、花音は街中をけ回っていた。

 さっきの詩穂は、明らかに様子がおかしかった。

 せっかくの二人の記念日なのに、まるで自分のことをきよぜつするかのように見えた。

 思い返してみれば、今日だけでなく、ここ最近の詩穂の様子はどこかおかしかった気もする。

 自分が話しかけても、どこか上の空な時が何度もあった。

「私のせいだ……詩穂が悩んでいることに気がついていたのに、話を聞いてあげられなかった私のせいだ……」

 このどしゃぶりの雨の中、いくら電話をしてもつながらない。

 心配とあせりと不安と──いろいろな感情がごちゃまぜになりながら、詩穂を探す。

 その時だった。


 すれ違ったつうの主婦が──燃えた。


 悲鳴を上げながら真っ黒なほのおに包まれる。

 行きう人がぼうぜんながめる中、花音ののうに、あのライブ会場での悲劇がフラッシュバックした。

「イロウス化!? でも、どうして……?」

 あの時はエヴィーナの力により、人々のイロウス化が発生した。しかし、いま周囲にそうした力は感じられない。ならばどうして……目の前で起こった出来事を花音が必死に理解しようとしていたその時だった。


「きゃ────!


 背後から鋭い悲鳴が聞こえた。驚いた花音が振り返ると、そこにはさきほどと同じ光景が広がっていた。

 街行く人々の身体を漆黒の炎が包んでいた。

 花音が止める間もなく、黒い炎は次々と人々を吞み込んでいく。そしてその波はまたたくまに周囲に広がっていった。

 平穏な休日が一転して地獄と化した。

「どうして突然こんなことに……なにかが起こってるんだわ。みんなに、詩穂に知らせなくちゃ」

 花音は祈るような気持ちで詩穂へのコールを続けるも、しかし、呼び出し音がただ繰り返されるだけだった。

 そうこうしてる間に、周囲にしようが満ちていく。

「詩穂を……詩穂を探さなくちゃ。こんな大変なときに、いったいどこに行っちゃったの……」

 考えろ考えろ──花音が必死で考えをめぐらせる。

 詩穂が行きそうな場所はどこか。

 なにかに悩んだ詩穂が向かいそうな場所は、どこか。

「あっ……」

 自分と詩穂の思い出の場所──周囲のイロウスをなぎ倒しながら、そこを目指して花音は走った。


 目的の場所──自分が詩穂をアイドルにさそったせんしきへと急いでいた花音は、目指す先でイロウスのきよだいな瘴気がぼうちようするのを感じた。

「そんな……!?

 一つや二つではない。

 その中でもとりわけ、周囲を吞み込まんばかりの闇をかかえた個体が一つ。

 詩穂がいるかもしれないその場所に、イロウスのきようが差しせまっているのだ。

 近づくにつれて、膨らんだ闇がまるで心臓のように、トクントクンとどうするのが分かった。

「詩穂……詩穂っ! お願いだから無事でいて……!」

 それだけを祈りながら河川敷を目指す。

 とにかく、詩穂の顔を見たかった。

 ただただ安心したかった。

「よし、着いた!」

 河川敷までやってきた花音の眼前には、無数のイロウスがばつしていた。

 見るのもおぞましい光景だったが──その中に彼女の姿を見つけた。

「詩穂っ!」

 イロウスの群れの中心で、無防備な身体をさらしていた。

「詩穂! いま助けにいくからっ!」

 花音が武器をしようかんし、詩穂のところへと急いだ。

 立ちはだかるイロウスをらしながら突き進む。

 そして、やっとのことで詩穂のところにたどり着いた。

「詩穂!」

 その背中に声をかける。

 ようやく会えた──胸のつかえが取れた気がした。

 だが、詩穂はり向くことなく、静かに俯いたままだ。

「なんで、なんでこんなに苦しいの……?」

「詩穂……?」

「私はただ花音ちゃんといつしよにいられれば、それでよかったのに……」

「詩穂、とにかくここは危険だわ! それに……なにかおかしなことが起こってるの。街の人たちが次々にイロウスに変わっちゃって。だから早く二人で……!」

 花音は、詩穂を安全な場所へ避難させようと呼びかける。

 しかし、そんな彼女に気づいていないかのように詩穂が続ける。

「こんなことならなにも望まなければよかった……あの日、この場所で、勇気なんて出さなければよかった……。そうすれば傷つくことも苦しむこともなかったのに……」

「詩穂……?」

 イロウスに囲まれ、それでも無反応にたたずむ詩穂に、花音はようやく彼女の様子が明らかにおかしいことに気がつく。得体の知れない不気味なものを詩穂のなかに感じとった。

「もう……いいかな……。こんな気持ちになるのなら……もう、なにもいらない」

 詩穂が手を持ち上げた。

 その手が額を──まえがみのヘアピンをつかむ。

 f*fフオルテシモきずなあかしであるヘアピンを。

「特別な力も、あの日の約束も……。大切な友達も……」

「詩穂、なに言って……」


「いらない……もうなにもいらないっ!!


 ぜつきようした詩穂が、かみからヘアピンをむしり取って地面にたたきつけた。

 直後、激しい風がれ、花音から詩穂の姿をかくす。

「詩穂! 詩穂っ!」

 暴風に顔をおおいながら花音が必死で呼びかける。

 しかし返ってくる言葉はなく、みみざわりな風切り音だけがこだまする。

 そして風がんだ時──花音の目の前に広がっていた光景は……。

「し……ほ……?」

 花音は目を疑った。

 闇の中からうぶごえを上げたのは、漆黒のドレスに身を包み、妖しい笑みを浮かべる大切な親友の姿であった。

 しかもその背後には無数のイロウスが控えている。それはまるで、彼女が彼らを付き従えているようにもみえた。

「詩穂……その格好はどうしたの? それに、なんでイロウスが詩穂と……」

 詩穂がにごったひとみで花音の姿をとらえる。

 だがなにも答えない。

 うっすらみをかべたまま、ただ花音を見つめ続ける。

 その足がぐいと地面をえぐった。


 二人の大切な絆の証であるはずのヘアピンが、どろにまみれていた。


「詩穂っ!?

「どう、美しいと思わない?」

 その声の主に花音は視線を向けた。

「葵ちゃん!?

 なぜこんなところに──そんな疑問はすぐに吹き飛んだ。

 葵もまた詩穂と同じように、やみを形にしたような黒いドレスに身を包んでいたからだ。

 理解したくなかったが、直感的に、すぐに理解できてしまった。

「葵ちゃんが詩穂をこんな姿に……?」

「あぁ! 教え子の晴れ姿にこうして立ち会えるなんて、なんて幸せなのかしら!」

 おおぎように葵がりよううでを広げる。

 それだけで闇の波動が膨れ上がった。

「晴れ姿……? いったいなにを言ってるの……? 葵ちゃん……いいえ、あなたはいったい、だれなの……?」

 葵の姿をした別人か、それともこれが葵のほんしようなのか。

 いずれにせよ、自分の知っている七嶋葵ではないと花音がさとる。

「ふふっ……私は、私よ? 誰よりも星守を愛し、そして誰よりもにくむ……」

「なによそれ……詩穂だけじゃなくて、葵ちゃんまで……いったいどうしちゃったっていうの……」

 花音が葵の方へと歩を進める。