「だめだ!」

 ミュシャは立ち上がる。

 大してダメージを受けていないはずなのに顔色が悪い。青いというよりは紫色に近かった。

 それでもミュシャは愛剣を掲げるが、その切っ先は明らかにぶれている。瞼を開いたり閉じたりしているところを見ると、対戦者の位置すら満足に把握できていないのだろう。

「ここを勝てば、次は君だ──ブラック。私は君と戦い────」

 ぐちゃっ!

 嫌な音がした。フルスイングしたゼビルドの拳が、ミュシャの顔面を捉えたのだ。

 完璧なクリーンヒットだった。再び闘技場の壁に叩きつけられた彼女はピクリとも動かない。

「くぅううううう! 女を殴る感触はやっぱいい。今ので鼻の骨が折れたろ。まだ意識を失うんじゃねぇぞ。あと二、三発殴って、俺好みに整形してやっからよ」

「ゼビルド……。勝負ありだ」

 審判のロードルが忠告する。

 だが、それを遮ったのはミュシャだった。

 半分意識がないのに、その状態から立ち上がったのである。

「私はまだ戦える!」

 その言葉に強い戦意が込められていた。おかげでロードルの判断は一歩遅れてしまう。

 待ってましたと、ゼビルドは笑った。

「ひゃっっっっはあああああああ! 立ち上がると信じてたぜ!!

 大きく振りかぶり、ゼビルドは渾身の一撃を容赦なく手負いの重騎士に見舞う。

 ミュシャが動く気配はない。目の焦点すら合っていなかった。それでもミュシャは立っている。

 本物の覇気を放ったまま。

 ゴンッ!

 巨大な鐘を打ち鳴らしたような音が響く。熱狂的な歓声は一転して悲鳴に変わった。

 闘技場全体が凍り付き、静まり返る。

 ゼビルドの拳は完全に木の壁と、その向こうにある土壁にめり込んでいた。

 膂力とスキルの威力には驚きを禁じ得ないが、肝心の獲物の姿がない。

「おいおい。これはどういうことだ、ブラックさんよ」

 ゼビルドの表情が歪む。その拳の先にミュシャがいない。

 代わりに真っ黒な仮面を着けた俺が、立っていた。その胸元にはミュシャをいだいている。

 突然のブラックの登場に、闘技場内はざわつき始めた。

 一方、ミュシャを抱えた俺は、ふっと息を吐く。

 あらかじめ調合しておいた毒消し薬を取り出した。ただの毒消し薬ではない。一般的な毒消し草を乾燥させ、粒状にし、それをゼラチンの膜で覆って作ったカプセル剤だ。

 それを水とともに手早くミュシャの喉に流し込む。

 しばらくすると、顔色が良くなってきた。

「これで安心だな……」

「ふふふ。あはははははははははははは!」

 突然、笑い声が響き渡る。ゲームならボスキャラみたいな雰囲気だが、立っていたのは、魔王はおろか幹部にすら名を連ねられないような三下モブ顔のゼビルドだった。

 出る番組を間違えたんじゃないかと思うほど、ヒャッハーと声を上げて興奮している。

「バカだぜ、お前?」

 短く罵った後、ゼビルドは審判であるロードルに振り返った。

「しんぱ~ん。これって反則だよなあ。オレ様の対戦相手はともかくとして、このブラックって奴は次のオレ様の対戦相手だ。仲間を庇ったとしか思えないぜ」

「……その通りだ。第三者による援助があった場合、援助を受けた者は失格。またその第三者が大会参加者であり、かつトーナメントにて生き残っている場合、その者も併せて失格となる」

「つまり、てめぇはここで失格。……自動的にオレ様が決勝に行くってことだ。ゲハハハハ!」

 ゼビルドの笑い声が響き渡る。

 ロードルは軽く頭を振ったが、言葉では否定しなかった。

「それでいい」

「あん? なんか言ったか?」

「俺はここでリタイア。それでいいと言ったんだ」

「はあ? なんだ? やせ我慢って奴か? いいね。オレ様は知ってるんだぜ。お前とそいつ、そして通路に立ってる犬耳娘とイチャついているのをな。仲間なんだろ? それでもいいってか? 随分と冷たいじゃねぇか?」

「問題ない。ミュシャの仇はミィミが取ってくれる」

 ミィミやミュシャとは戦いたかったというのは、本当のことだ。

 けれど、ブラックはあまりに目立ち過ぎた。優勝なんてしたら、今度は仮面どころか顔まで整形する必要がある。そこまでして、俺も逃げたくはないし、目立ちたくもない。

 準決勝ぐらいで退場するのが、ちょうど良かったのだ。

 幸い、この中にミィミより強い奴はいないしな。

 ただ一つ心残りがあるとすれば、目の前のクズに一発入れることができなかったことだ。

「フフ……。仇ねぇ。討てたらいいねぇ」

 ゼビルドは去っていく俺を見ながら、鼻で笑った。


 ミュシャを抱えたまま、俺は通路口に戻ってくる。

 そこには担架が用意されていた。どうやらミィミが呼んでくれたようだ。

 ミュシャはそのまま担架に乗せられ、処置室へと向かう。親友であるアンジェがそれに付き添った。

「ミュシャは大丈夫だ。毒消しは飲ませた。じきに……ミィミ?」

 ミィミの身体は震えていた。毒に怯えているのかと言えばそうではない。

 浅黄色の瞳を燃やし、眉間に皺を寄せて怒っていた。

「ミィミ、あいつ許せない! 絶対ミィミが倒す! ミュシャの仇とる!」

「ああ。頼む」

「そして、あるじの代わりに絶対絶対ぜ~~~~っっっったい! 優勝する!」

 一緒に決勝に行けなくなって、残念がると思ったが、取り越し苦労だったらしい。

 俺はミィミの頭を撫でる。それまでピンと立っていた尻尾が、機嫌良さげにユラユラと揺れた。

 すると、ミュシャに付き添ったアンジェが帰ってくる。

「クロノさん! ミィミさん! ミュシャさんが大変なのです!」

 悲鳴じみた声を聞いて、俺はミィミとともに飛び出していった。


 ◆◇◆◇◆


 ブラック、失格によりトーナメント脱落。

 その報告を聞いて、デーブレエス伯爵はご満悦だった。

 仲間に毒を盛れと命じたのは伯爵だが、まさかブラックまで失格になるとは思わなかった。棚からぼた餅である。おいしい報告を聞いて、デーブレエス伯爵は丸々とした腹を揺らして、軽くステップを踏む。

 さぞかし、皇帝陛下も喜んでくれることだろうと思っていたが、反応は真逆だった。

「愚か者が!!

「ひぃ! ひぃいいいいいいいい!!

「余はあの男を殺せ、と命じたはずだぞ」

「そ、それは場合によると」

「馬鹿者! だからといって、ただ失格にする奴がいるか。余に恥を掻かせたあやつは、ゆうしやくしやくとこの先も暮らすことになるのだぞ。余の気が収まらぬわ!」

「し、失礼しましたであーる!」

「デーブレエス!!

「は、はひぃ!」

「今度は、あいつの首級くびを持って来い。良いな?」

「は? ははあ!」

 デーブレエス伯爵は、またも深々と頭を下げるのだった。


「で? 親父……。どうするんだ? 闇討ちでもすんのかよ?」

 執務室に戻ってくると、一仕事終えたゼビルドがソファに股を開いて座っていた。

 その前には、カブラザカもいて、爪の手入れをして、暇を持て余している。

 デーブレエス伯爵はというと、どっかりと執務椅子に座り、頭を抱えていた。

「そうであーるな。まずはゼビルド、お前の舎弟どもを集めて……」

「そんなことをしなくとも、向こうからやってこさせればいいんですよ、伯爵閣下」

「は? どういうことですかな、カブラザカ先生」

「わたくしの薬は特別製なんですよ。毒消しも、一時は効いても症状の進行を遅らせるだけでほとんど役に立たない。わたくしが作った薬以外で完治はほぼ不可能です」

「じゃあ、ミュシャって女はどうなるんだ?」

 ゼビルドは腕を組む。

「放っておけば、そのまま死亡するでしょうな。だから取引を持ちかけてやるんです。薬をやる代わりに、決勝でわざと負けろとかね」

「奴らが取引に応じるであーるか?」

 デーブレエス伯爵は机を指で叩きながら、首を傾げた。

「五分五分といったところですかな。ただ向こうにどうしても賞金を手に入れたい理由があるなら、取引に応じる振りをして、屋敷にある薬を奪いに来るかもしれません」

「なるほど。そこをバシッとやっつけるわけだな。腕が鳴るぜ」

「ああ。坊ちゃまは大会に集中していてください。坊ちゃまには優勝してもらわないと」

「お、おう。そうだったな」

 ゼビルドは落ち着きを取り戻すと、ソファに座り直す。

 カブラザカの進言を聞いて、デーブレエス伯爵は首を捻った。

「しかし、先生。それでは誰が屋敷にやってくるブラックに対応をするのであーる?」

「わたくしがやりますよ」

「先生が!? それは心強いのであーる!!

 デーブレエス伯爵は顎に付いた脂肪をぷるぷる動かして飛び跳ねる。

「あいつらが取引に素直に応じてきたらどうするんだ、先生?」

「そのときは別の手段を考えますよ」

 さらりと返すカブラザカにはどこか頼もしさがあった。

 そんな姿を見て、ゼビルドは笑う。

「しかし、先生が自ら手を下すとはな。決勝よりそっちのほうが楽しみだ」

「あのブラックを正面から相手するのは気が引けますが、致し方ないでしょう。ただちょっと興味があるんですよ。あの仮面の下、いったい誰なんでしょうね?」

 最後にカブラザカは口角を上げるのだった。


 ◆◇◆◇◆


 一度回復したミュシャだが、快方に向かうことはなかった。

 どんな薬を試しても、毒の症状が治らない。魔法やスキルを試しても無駄だった。

 俺とミィミ、そしてアンジェは毒に苦しむミュシャをただ見ていることしかできなかった。

「これは人工毒だな」

 ジオラントで使われている毒のほとんどが、自然の中で採取できる天然毒だ。その毒に対しては、魔法や毒消しが有用であることはもはや常識といってもいい。だが、それが治らないとなると、天然毒とは違う毒──人工毒である可能性が高い。

「ジオラントで人工毒を精製するのはほぼ不可能だ。だが、俺はその精製不可能な人工毒を作る人間に心当たりがある」

「あるじ、誰? ミュシャ、こんな風にしたの誰!?

 ミィミはさっきから憤っていた。モフモフの髪の毛と耳を逆立てている。

 そんなミィミをなだめながら、俺は仮面をしたまま慎重に言葉を口にした。

「俺やミツムネと同じ、異世界から来た勇者だ」

「ゆう…………しゃ…………?」

「おそらく毒を扱うことに長けたクラス【薬師】の仕業だろう。けれど、【薬師】に人工毒を作るスキルなんてものはない。元々毒の知識に精通しているか、あるいはギフトの力なのかはわからないが、そいつがミュシャに毒を盛った可能性は高い」

「じゃあ、その【薬師】ならミュシャさんを治せるのですか?」

 ミュシャが毒に倒れてから終始涙目のアンジェが顔を上げた。

「ああ。そいつなら解毒薬を持っているはずだ」

「よーし! その【薬師】を見つけて、ミュシャを助ける!」

「ミィミ、お前はまだ試合があるだろ。それに【薬師】がどこにいるのかわかっているのか?」

「う……。そうだった」

 ミィミはペタリと尻尾を垂らす。肩を落とした少女に、大きな影が被さった。

 漂ってきた体臭を嗅いだだけで、ミィミの顔色が変わる。

「よう。お前ら。相変わらず、仲良しこよしだな」

 ゼビルドだ。ミュシャに対し非道の限りを尽くしたにもかかわらず、悪びれることもなく医務室に入ってくる。苦しむミュシャの声をヒーリングミュージックにして、耳を傾けていた。ついにはミュシャに手を伸ばしかけたが、寸前のところでミィミが割って入る。

 眼光の鋭さは、まさに獲物を睨む赤い狼のようだ。

「ミュシャに触るな」

「怖い怖い。そんな目で睨むなよ。折角、オレ様自らビッグプレゼントを持ってきてやったのに」

 黄ばんだ歯を見せて笑うゼビルドを、俺は睨んだ。

「プレゼント?」

「解毒薬さ」

「お前が【薬師】か……?」

「たまたま、たまたまだ。そこで落ちていたのを拾っただけさ。とても貴重な薬だからな。だが、残念なことに隣の屋敷の者に預けちまった」

「ヘタな嘘だな。どうせ条件があるんだろ。その解毒薬をいただける条件が……」

「話が早くて助かるねぇ、ブラックさんよ。でも、負け犬のお前に興味はねぇ」

 すると、ゼビルドはミィミに顔を寄せた。

「お前、オレ様のサンドバッグになれ」

「さんどばっぐ?」

「公開処刑だよ。……そこのブラックもそうだが、お前たちは全員目立ちすぎた。本当なら、この剣闘試合がメルエスでの華々しいオレ様のデビュー戦になる予定だったんだ。なのにお前らと来たら……」

「親父? もしかして、お前の親って。あのデブ伯爵の? ミュシャに毒を盛ったのって」

「オレ様は何も知らねぇよ。やったとしても、親父が勝手にやったってだけだ。で? どうなんだ? はいか? いいえか?」

 随分と堂々とした脅しだ。人に毒を盛っておいて、反省するどころか取引を持ちかけてくるとは……。しかし、俺たちに証拠がないことも事実だった。ここでゼビルドを殴ったところで、解毒薬がすんなりと貰えるとも思えない。

 俺たちの選択肢は、残念ながら限られていた。

「いいよ、それで」

「ミィミ……」

「さんどばっぐって何かわからないけど、それでミュシャが助かるなら、ミィミはいいよ」

「よーし、決まりだ。いいか。一歩でも動いてみろ。そのミュシャって女の命はないぞ。まあ、それまでに生きていればいいけどなあ」

 ガハハハハハハハハ、と豪快に笑いながら、ゼビルドは去っていく。

「いいのか、ミィミ?」

「いいよ、あるじ。ミィミがさんどばっぐになったら、ミュシャが元気になるんでしょ?」

「サンドバッグってのは何もしないで立ってるって意味だ。わかるか?」

「よゆー、よゆー。あいつのパンチなんて全然痛くないもん」

 緋狼族の身体能力は俺もよく知っている。ミィミの言う通りゼビルドの打撃ぐらいなら耐えしのぐことはできるかもしれない。でも、平気で毒を使ってくる連中だ。たとえ衆人環視の闘技場でも何をしてくるかわからない。

 重い空気が病室に漂う中、アンジェが話題を変えた。

「どうして伯爵様の息子さんが参加しているのですか?」

「大方、優勝賞金と愛蔵の本とやらを取られたくないんだろ」

「それともう一つありますわ。賭け金です」

 不意に別の声が、医務室に響いた。

 それまで頭を抱えていた医療スタッフたちが立ち上がって。訪問者を歓迎する。ただいるだけで満ちてくる華やかな雰囲気に、俺だけじゃなくミィミや、アンジェの頬ですら赤く染まった。

「ラーラ!」

「おや? ブラック様、わたくしたち初対面だったはずですが?」

「あ。しまった。す、すみません、ラーラ姫。つい興奮して」

 俺は慌てて仮面を確認したが、どうやらラーラにはバレバレらしい。

「うふふふ……。ラーラでいいですよ、ブラック様、それにミィミ様と、えっと、そちらの方は?」

「あ、アンジェです。こんにちは、お姫様」

 アンジェは頬を赤くしながら、ペコリと頭を下げる。

「あるじの知り合い?」

「以前、お世話になった人だ。……ビックリしたよ、ラーラ。君が観覧席にいて。しかも、ルーラタリア王国のお姫様とは知らなかった」

「わたくしもびっくりしましたわ。あなたが仮面を着けて闘技場に現れたときは」

 ラーラは微笑む。ただそれだけのことなのに、華がある。王族なりの気品というのだろうか。女性としてのたおやかさみたいなのが、現代も含めて今まで出会った女性の中でも段違いだ。

 無意識に見つめ合っていると、ミィミが間に割って入ってきた。

「あるじ、耳が赤い」

「い、いや! ミィミ、これはだな」

「じー……」

 ミィミはジト目で睨む。なぜか後ろでアンジェも俺のことを睨んでいた。

 二人して、その視線はどういう意味なんだ。

 病室ではなんなので、俺はラーラとミィミを外に連れ出す。

 誰もいない選手控え室の中で、「賭け金」についての説明が始まった。

「こほん。ところで、ラーラ。賭け金っていったい?」

「デーブレエス伯爵の得意技です。筋書きありの剣闘試合を開き、最後は息子に勝たせて優勝賞金も賭け金も胴元である自分のもとへ、というのがお決まりのパターンのようです。ただ今回は少し違うようですが」

「思いの外、参加者が集まり、皇帝陛下までやってきた。おかげで八百長が仕掛けられなかった?」

「その通りです。それでも随分と強硬な手段に出たようですね。先ほどのお話、こっそり聞かせていただきました。本当に条件を呑むおつもりですか?」

「呑むつもりはないよ。時間稼ぎをする必要はあるけどね」

「なるほど。条件を呑む振りをして、屋敷にあるという解毒薬を奪うというわけですね」

「条件を呑んだとしても、解毒薬をもらえる保証はないからな。それにミュシャの体力が尽きれば、解毒薬は無意味になる」

「なるほど。ですが……」

「ああ。間違いなく罠だ」

 ゼビルドは最初から解毒薬を渡すつもりなんてない。そもそも本人が持っているかどうかも怪しい。じゃないとわざわざ屋敷にあるみたいなことは言わないはずだ。おそらく俺たちを屋敷に誘い出したいなんらかの理由があるのだろう。たとえば俺を暗殺したいとかな。実行犯はデーブレエス伯爵とその息子ゼビルドだろうが、命じたのは皇帝陛下に違いない。

 よっぽどブラックおれの振る舞いが気に食わなかったのだろう。

「良かった」

「良かった? どういうことだ、ラーラ」

「用意した甲斐かいがあった────ということです」

 そう言って、ラーラが広げたのは、デーブレエス邸の見取り図だった。

 かなりせいなものだ。家具の位置まで克明に書かれている。

「どうぞお使いになってください」

「他国の貴族の屋敷の見取り図なんてなんで持っているんだ? ラーラ、君はいったい?」

「ふふ……。通りすがりのお姫様ですわ」

 最後に、ラーラは「秘密」とばかりに唇に指を押し当て、微笑むのだった。