第二部 第二話
◆◇◆◇◆ ティフディリア帝国 ◆◇◆◇◆
ティフディリア帝国帝宮……。
綺麗な白亜の城は、その白い姿から別名『天馬宮』と称され、身分問わず国民に親しまれてきた。
五本の尖塔に、高い城壁。何十トンという重く分厚い城門に守られた城は、美しい姿とは裏腹にどこか戦闘的なスタイルをもつ。城の奥から聞こえるのは、皇妃皇女の美しい笑い声ではなく、軍靴の音だ。歩哨があちこちに立ち、鋭い目を光らせている。その物々しい雰囲気はもはや要塞に近かった。
その帝宮の地下に、いくつもの水路が走っていることは、あまり知られていない。
万が一のときに皇族方を逃がすルートとなっていて、その存在を知る者はごくわずかだ。だが、この水路には他にも使い道がある。ざっくばらんに話せば、国民には見せたくない荷を帝宮に持ち込むためである。
今日も、その地下水路沿いにある訓練場に大型の荷物が運び込まれていく。
その訓練場に立つのは、一人の男だ。
諸肌を脱ぎ、さらした筋肉は見事というよりはどこか凶器めいていた。
無数の古傷や抜糸の痕が生々しく残り、左脇から胸にかけては抉れたような火傷の痕まである。
筋肉は一言でいえば、引き締まっているのだが、現代における最適化された筋肉でも、ジオラントにおいて魔獣相手に自然と身についた筋肉ともどこか違う。
ひたすら人を傷付けるために生まれたような体つきをしていた。
彼の名前はミツムネ・サナダ。クロノと一緒に召喚されてきた異世界人の一人だ。
そのミツムネの前に、大きな虎が真っ二つになって絶命している。
危険度ランク〝A〟のレッドサーベルという凶暴な魔獣だ。
単純な膂力で言うならば、〝A〟ランク最強。炎の属性を持ち、燃え上がる尻尾を鞭のようにしならせ攻撃することも可能だ。大型の魔獣だが、敏捷性が高く、己の間合いに入れば確実に獲物の喉元を食いちぎる瞬発力を持つ。
別名『炎の執行人』。
その毛皮は炎を吸収し、斬撃や打撃を軽減する。攻防ともに優れた魔獣である。
だが、そんな猛獣の牙にも爪にも、血の痕がない。つまりそれは〝A〟ランクの魔獣に何もさせなかったことを意味していた。
ミツムネはレッドサーベルの腹の肉に手を突っ込む。無理矢理、魔結晶をもぎ取ると、即砕いた。
『スキルポイントを獲得しました。スキルレベルを1上げることができます』
『スキルツリー[暗黒剣技]がレベル35になりました』
『幻窓』がレベルアップしたことを告げる。
ミツムネのクラスレベルは既に〝Ⅳ〟に達していた。そこまでレベルが上がると、かなり成長が鈍ってくるのだが、ミツムネの顔に達成感はない。持っていた剣を地面に刺すと、きつく靴紐を結んだ。
そこに皇帝ともう一人の勇者ショウがやってきた。
皇帝は物の見事に真っ二つになったレッドサーベルを見て、鼻息を荒くする。
「素晴らしい! 素晴らしいですぞ、勇者ミツムネ。〝A〟ランクの魔獣をこうも見事に……。素晴らしい。勇者の力とはなんと強大な……」
皇帝は興奮を抑えることなく、目を血走らせながらミツムネを讃える。
隣のショウもパチパチと拍手を送った。
既に彼らがジオラントに召喚されて、一ヶ月経とうとしているが、いまだにショウの姿は現代の衣装のままだった。スカジャンに、野球帽。一昔前の野球小僧みたいに見える。
「すごいや、ミツムネくん。今、何レベル? この前、クラスレベルが〝Ⅳ〟になったんだよね。じゃあ、スキルツリーの合計レベルは90を超えてるってことでしょ? もしかして、100を超えたとか? すっげ! マジすごいじゃん! 一番乗りだ。あーあ、僕なんてまだクラスレベルは〝Ⅲ〟で、スキルツリーの合計レベルは78なのに。差が開く一方だよ」
子ども故の純粋さからか。ショウが胸に浮かんだ嫉妬心を包み隠さず吐露すると、ミツムネは地面に刺していた剣を握り、間髪容れず振るう。暴力的な剣閃は、そばにいたショウの首の付近を容赦なく通り抜けていった。
だが、既にショウの姿はない。
気配に気づいたときには、ミツムネの後ろに立っていた。
「やだなあ、ミツムネくん。僕たち勇者で、ともに敵と戦う仲間じゃんか。そんな風に剣を向けるなんて…………えっと、シンガイだっけ? まあ、つまりはそういうことだよ。もっと仲良くやろう、同じ勇者同士さ」
「黙れよ、クソガキ。どっかの誰かさんみたいに病院送りにされたいのか?」
ミツムネは振り返り、再び剣をショウに向ける。
しかし、構えた瞬間にはもう──ショウはミツムネの背後に再び立っていた。
「だめだよ。君でもボクは捉えられない」
さらにミツムネは剣を繰り出す。
まさに神速とも言える剣筋は、確実にショウの急所に届いているのだが、ことごとく空を切る。
やがてショウの姿は、ミツムネの背後──二十歩分離れた場所に
「その誰かさんなんだけど、死んじゃったんだって。異世界は怖いね。ボクたちも気を付けないと」
「興味ねぇよ。……おっさん! 俺たちをいつまでこんなかび臭い所に閉じ込めておくつもりだ」
「もうしばしお待ちを、ミツムネ殿。舞台が整い次第、盛大にお披露目をさせ……」
ドンッ!
爆発音が響き、地下が揺れる。
ミツムネが持つギフト『あんこく』は、既にレベルⅢに達している。
その威力は以前、クロノに向けたときの比ではない。
そばで見ていた皇帝が
「お披露目なんていらねぇ。聞こえなかったか? オレはここから出たいって言ってるんだよ」
「も、申し訳ありません。すぐに手配させていただきます」
「急げよ。じゃないとお前らの企みの前に、この帝宮をぺしゃんこにしてやるからな」
ミツムネの睨みは、その強さにぞっこんの皇帝を興奮させる餌にしかならない。
それでも頭を下げたティフディリア帝国の君主は地下から出ていく。
「ボクは別に外とかどうでもいいかな? ここの暮らしは割と気に入って────」
再び剣閃が走る。今度こそショウを捉えたかと思ったが、やはりいつの間にかミツムネの背後に立っていた。それも四十メートルほど離れた場所にである。
その驚異の移動方法にミツムネは眉を
「だったら、ガキはガキで大人しく留守番でもしてろ」
「そうさせてもらうよ。じゃあね、ミツムネくん」
息を飲むような攻防を繰り広げたにもかかわらず、ショウはまるで夕方のチャイムを聞いた子どもみたいに気さくに手を振る。直後ミツムネの視界から消えてしまった。
ついにミツムネが一人になるかと思われたが、地下の闇の奥から叫び声が聞こえてくる。
今度は、二体……。それも魔獣ではない。人だ。何か薬物でも打っているのだろう。半分正気を失い、
「へぇ。今度の相手は退屈しなさそうだな」
剣を握り直すと、ミツムネは半分魔獣と化した人間に向かって、走り出すのだった。
◆◇◆◇◆
さて、当面の目的はティフディリア帝国から出ていくこととして、俺自身のことだ。
さすがに【大賢者】のクラスレベルを〝Ⅰ〟のままにしておくわけにはいかない。
クラスレベル〝Ⅱ〟になれば、スキルや魔法を覚えられ、戦術の幅が広がる。
【大賢者】のクラスレベルを上げるためには、『悟道の書』という魔導書が必要だ。
魔導書とは『賢神の書』とも言われ、神がしたためたと言われている。読むだけで書かれていることの全てを理解でき、クラスアップに必要な身体に作り替えられる。魔導書はクラスによって違い、例えば【剣士】ならば『
前にも言ったが、昔は道具屋に売っていたのだが、今は国が一括管理しているらしい。民間でも一部のマニアが所持していて、そのほとんどが貴族とされている。どうやら例の五十年前の反乱が関係しているようだ。
クラスレベルが上がらないのも心配の種だが、俺としては千年前にはなかった『ギフト』というスキルも気になっていた。
ギフト『おもいだす』で俺は賢者としての自分をまさしく思い出すことができたわけだが、このギフトはただ単純に千年前の記憶を呼び起こすだけのものなのだろうか。それに『おもいだす』といっても、記憶が完全に戻ったわけじゃない。あくまで予想だが、ギフトのレベルが上がれば、封印されている記憶が開示されるのではなかろうか。つまりこの旅は俺自身を取り戻すためでもあるのだ。
「けれど、このギフトのレベルを上げる方法がさっぱりわからん!」
一旦ギフトのことは脇に置いて、俺はクラスアップに狙いを定めることにした。そのためには魔導書が必要だが、帝国で見つけるのは難しいだろう。なら隣国ルーラタリアに渡って探すのも悪くない。
前にも言ったが、向こうには巨大な図書館があるらしいからな。
そうと決まれば、早速国境通過書を発行してもらうことにしよう。
「は? 三ヶ月待ち??」
俺はメルエスの中にある国境通過書の発給所に来ていた。
帝都よりもメルエスならば申請が通りやすいと馬車の中で聞いたのだが、三ヶ月待ちと聞いて、耳を疑った。ショックを受ける俺を見て、猫の亜人族の受付は「ごめんなさいねぇ」と肉球のついた手を合わせて謝罪する。
「前はそんなことはなかったのよぉ。でも最近、領主様が替わってねぇ。申請には領主様の判子が必要なのだけど、怠惰なのか仕事が嫌いなのか、とにかく気分屋で申請作業が滞っているのよ。まあ、前科持ちでもなければ通ると思うから、観光がてら待っててちょうだい。田舎だけどメルエスはいいところよん」
こうしてティフディリア帝国を脱出する算段がパーになってしまった。
まさか異世界に来てまで、お役所仕事とは……。魔法社会でも紙の前では無力なのだな。
仕方ない。ギルドの依頼を受けて路銀を稼ぎつつ、時間を潰すか。
「ごほん!」
ギルドを出て、トボトボと通りを歩いていると、エラそうな咳払いが聞こえた。
大通りに人だかりができている。その中心には演台に乗った男が集まった民衆に向かって、演説を始めようと準備していた。
体型が似ているからか。ついつい皇帝のことを思い出してしまった。
「我が輩は先頃、メルエスの領主となったレプレー・ル・デーブレエス伯爵であーる」
あいつが領主か! 仕事もせずにこんなところで何をやってるんだ?
「下々の者よ。我が輩はそなたらに娯楽を提供しにきた。うんうん。くるしゅうない。くるしゅうないぞ。さて娯楽とは何か。ふふふ……。聞いて驚くがいい下民よ。それは剣闘試合であーる」
俺だけではなく、他の民たちも『剣闘試合』という言葉を聞いて首を傾げていた。
どちらかと言えば、メルエスは田舎だ。そういう派手な興行は珍しいのだろう。
「腕に覚えのある者たちを集め、一対一で戦ってもらう。武器は剣に限らぬ。槍、
最初は貴族の
さらに次の言葉を聞いて、一気に熱が広がっていく。
「気になるのは賞金であろう。当然、優勝者には豪華な褒賞を下賜するものとする。賞金は金貨三百枚。むろんティフディリア金貨であーる」
なかなか破格の賞金だ。
現代でいうところの、三百万円といったところか。現代の感覚で言うなら、三百万で命を賭ける人間は少ないだろう。でも、ここはジオラントだ。命の値段なんて、現代の日本に比べればずっと安い。三百万といえど、命を張るには十分な額なのだ。
実際、野次馬の中から「のった!」「俺も参加するぜ!」と威勢のいい声が聞こえる。
だが、俺にとって本題はここからだった。
「加えて副賞を与えよう。我が輩はとても本が好きだ。愛していると言っても良い。我が家には三千冊の蔵書があって、どれも我が輩の宝物だ。その本を一冊、どれでも良い。優勝者に進呈しよう。本に興味のない下々も少なくなかろうが、我が輩のコレクションの中には、導きの星4以上にクラスアップさせる貴重な魔導書もあーるぞ」
「その中に『悟道の書』はあるか?」
俺は人垣を縫って、デーブレエス伯爵の前に出る。
「ほう。下々の者にしては、珍しい魔導書の名前を知っているのう。あれはもうここ千年生まれていないクラスのクラスアップに必要なものだというのに。だから我が輩も集めるのには苦労したのであーる。それを知るお主はもしや……」
しまった! つい魔導書と聞いて、熱くなってしまった。
探している魔導書の名前を出すということは、俺のクラスを言っているようなものじゃないか。
「もしや、お主も我が輩と同じ、魔導書のマニアでは?」
「え? あ、ああ……。そ、そうなんだ。珍しい魔導書を集めていてな」
「かっかっかっ。なるほど。そういうことか。だが、あれは我がコレクションの中でも珍品中の珍品だ。おいそれと人に見せるわけにはいかないのであーる。欲しければ勝ち上がるのであーる」
目を細めて、不気味な笑みを浮かべる。
「そして剣闘試合といえば、やはり気になるのは賭け事であろう。もちろん、あるぞ。胴元は我が伯爵家が責任を持って執り行うのであーる。公平にズルなし。もちろん、我が輩も参加するぞ。振るって参加してくれ」
賞金に賭け事と聞けば、刺激に飢えているメルエスの民が盛り上がらないはずがない。
デーブレエス伯爵の巨体が馬車に押し込められるまで、民衆の賛美の声は途絶えることはなかった。
「こんな形で『悟道の書』の所在がわかるとはな」
どうする。クラスアップはルーラタリア王国を訪れてからと考えていたが、デーブレエス伯爵の話を聞く限り、『悟道の書』は相当なレアな魔導書という位置づけらしい。となれば、この先のルーラタリア王国で見つかる保証はない。
この機を逃す手はないと思うが、クラスとして圧倒的に不利だ。
剣闘試合が開かれるのは一ヶ月後とのことだが、その期間を利用して付け焼き刃の剣術を習ったところで、優勝は難しいだろう。
「クロノ殿」
声をかけてきたのはミュシャだった。
買い物帰りらしく、紙袋には食料がいっぱい入っていた。さらに鎧姿ではなく、私服だ。鎧姿も
「クロノ殿、あまりジロジロ見ないでほしいのだが」
「すまん。……ところでミュシャ、今の話聞いていたか?」
「ああ。もちろん参加するぞ。クラスアップの魔導書は貴重だからな。特にクラス〝Ⅳ〟になるための魔導書はかなり稀少だ。普通の市場では出回っていないからな。強くなるための好機だ」
【重戦士】はクラス〝Ⅲ〟ぐらいまでなら、道具屋などで取り扱っている魔導書でクラスアップできる。だが、クラス〝Ⅳ〟以上となると、市場にはなかなか出回らない上級魔導書が必要となるため、どうしても成長が止まってしまう。だからミュシャにとっても、今回の剣闘試合は上級魔導書を獲得する最大のチャンスなのだ。
ミュシャに大金を渡して、優勝した折に『悟道の道』を譲ってもらおうかとも考えたが、さすがに無理そうだ。
「クロノ殿は出場しないのか?」
「クラス的に難しいんだ。あまり剣術は得意じゃないし」
「そうだろうか? 私にはそうは思えないのだが……」
「お世辞はいいって。でも、俺も魔導書は欲しいんだよなあ」
「ならば、剣技を得意とする奴隷を雇ってはいかがかな?」
奴隷……。なるほど。その手があったか!
現代世界で奴隷と聞くと、ネガティブな意味合いで使われるが、ジオラントでは立派な労働力としてごく一般的に認知されている。奴隷に対する不当な扱いや、本人の意思を無視した取引などを禁止する法律があって、一応の人権が保たれていた。
とはいえ、グレーゾーンもあって、奴隷を不当に従え、悪い商売をする奴隷商も少なくない。
たとえば奴隷商に管理されている間は人権を守られるが、顧客の手に渡った瞬間からその限りではなくなる。奴隷をどう扱うかはその顧客が決めることで、奴隷商は顧客のニーズに応えた商品を勧めるだけだからだ。一応の人権があっても、搾取されていることには変わりはない。
その最たる例が『服従の血判』と言われる魔導刻印である。これによって奴隷は主人の言うことを絶対に聞かなければならなくなる。
『服従の血判』はあくまで顧客を守るためなのだ。
「ここか……」
俺はメルエスの郊外にある奴隷商のテントの前に立っていた。
テントの中の空気はお世辞にも良くはない。
あれから五日ほど経ったが、目当ての人材は探し出せていない。刻々と剣闘試合の日時が近づいてきており、さすがに俺の表情にも焦りの色が浮かび始めていた。
「何かお探しですか、旦那様?」
振り返ると、小柄な男が立っていた。
黒眼鏡に、黒のシリンダーハットと黒のタキシード。これでパイプでも吹かしていようものなら、まるで産業革命時の英国紳士そのものだ。
男はピエロみたいに笑うと、気前良くステッキを回しながら、俺に近づいてくる。
最後に帽子を取って、深々と頭を下げた。
「わたくし、ゾンデ・マンデーと申します。ここの店長をやっております」
「あんたが店長か?」
「はい。それで、旦那様? 今日はどのような奴隷をお探しでしょうか? 今なら、あちらの娘がお買い得ですぞ。お若く、精力に溢れた旦那様にはピッタリかと」
ゾンデが示したのは、若い女の奴隷だった。
粗末な麻布の服の横から、たわわに実った横ち……ごほん。これ以上はやめておこう。
これでも俺は紳士なんだ。
「悪いが、そういうのは間に合っているんだ」
「残念。お似合いと思いましたのに。彼女はなかなか尽くすタイプですよ」
しつこい。まあ、奴隷商なんてだいたい商魂たくましい奴らばかりだ。
いちいち気にしていたら、こんなところで買い物なんてできないだろう。
「【剣士】、あるいは【戦士】系のクラスを持つ奴隷を探している」
俺の場合、異世界召喚と一緒に付与されたクラスだが、一般人は職業神殿と呼ばれる神殿に出向くと、クラスが付与される。六歳から可能で、奴隷にも付与可能だ。変更する方法はあるにはあるが、基本的に一度付与されたクラスで生涯を終えることが多い。
「そうですな。こちらなんていかがでしょうか?」
いくつか体格のいい奴隷を紹介してもらったが、ピンとこない。
別に顔で選んでいるわけじゃないが、ミュシャのあの凄まじい剣技が頭によぎると、どんなに屈強な体格をしていても、勝てるイメージが浮かばなかった。奴隷ならば俺のために働いてくれると安易に考えたが、ミュシャに勝てる人材となると相当難しい。ちょっと虫が良すぎたかもしれない。
「まだ奥があるのか……」
「あっ。旦那様、そちらは」
気になった俺は奥へと進む。そしてある檻の前で立ち止まった。
ただの檻ではない。格子の太さも、屋根や床の厚みも他の奴隷が入っていた檻とは一線を画す。おそらく猛獣用の檻だろう。
ドラゴンでも入っているのか思いきや、中で丸まっていたのは小柄な少女だった。
他の奴隷同様に麻布の服を着た真っ白な肢体に、否でも応でも目を引く緋色の髪。頭にぴょこりとついた三角形の耳がピクピクと小刻みに動いていて、いかにも柔らかそうなモフモフの尻尾が寝返りを打つたびに翻っている。
「緋狼族か」
緋狼族は「獰猛なる孤狼」といわれる、伝説の獣人だ。
人が決して立ち入れないような山深い場所を住処とし、あらゆる種族と関係を断って、生活する孤高の一族である。一度その逆鱗に触れれば、風のように地の果てまで追いかけ、林のように静かに近づき、そして炎のように相手を圧倒するという。実際、ある国の王が緋狼族の子どもを見つけて連れ去った結果、一族の怒りを買い、一夜にして国を滅ぼされたという逸話まで存在する。
膂力に優れ、足に優れた彼らは、まさに戦うために生まれてきた戦闘種族なのだ。
「よくご存知で」
「あ、ああ……。昔ちょっとな」
一般的にはあまり知られていない幻の種族を、なぜ俺が知っているのか。
それは昔仲間に緋狼族がいたからだ。だから少女を見たとき、真っ先に仲間の顔が思い浮かんだ。
俺とゾンデが檻の前に立つと、耳をピクリと動かし、目を覚ます。
浅黄色の瞳がこちらを向く。悲愴感の漂う目に、はっと心が打たれたような気がした。
「旦那様、申し訳ありませんが、そちらは売り物ではございません」
「売却済みってことか?」
「いえいえ。そもそも売り物にならないのです。容姿こそ可愛げですが、こちらは緋狼族と申しまして、一夜にして国を滅ぼした伝説の……」
「それは知ってる。なら尚のことなぜ売り物にしない? 珍しいというなら買い手がすぐに付くだろう。もしかして、あんたのコレクションとか?」
「いいえ。……わかりました。それではこれをお見せしましょう」
ゾンデはポケットの中からハンカチを取り出す。それを緋狼族の少女の檻の前で広げてみせた。ハンカチには魔法陣が刺繍されている。『服従の血判』を刻印するための簡易的な魔導具のようだ。
ゾンデは緋狼族の少女に、この魔法陣の上に手をかざすように指示する。少女は何をされるのかわかっているのだろう。恐る恐る手をかざした。次の瞬間、血のように赤い魔力が少女の中に流れ込んでくる。
「ううう……。ああああああああ……」
緋狼族の少女は