第一部 プロローグ


 雷鳴が迫ってくる──そんな音だった。

 それが無数の足音だと気づいたとき、俺の視界にぎようの集団が映っていた。

 たけびを上げ、粗末なこんぼうを振りかざし、長い舌の先からよだれを垂らして、虹彩のない暴力的な瞳を俺に向けている。大きく出っ張った腹はただ野生動物を捕食しただけとは思えないほど大きく、ついた皮下脂肪が太鼓のように震えていた。

「トロルだ……」

 初めて見た異形の魔獣を前にして、自然と言葉が湧き上がってくる。暗い部屋でディスプレイ越しにしか見たことがなかった異世界の魔獣の集団が、一斉に俺に向かって襲いかかろうとしていた。

 一回りも二回りも大きな魔獣たちの進軍に対して、俺の装備は十分とは言えない。

 刃引きもされていない棒きれ同然の剣に、革の胸当ては使い込まれすぎて、海外製の段ボールよりも薄っぺらくなっている。気休め程度に装備しているが、本当に気休めでしかない。猛スピードで突っ込んでくるダンプカーを段ボールだけで受け止めろと言っているようなものだ。

「助けて! 助けてくれぇええ!!

 やみくもに叫んだが、周りに人の気配はない。

 仲間もなく、手には倒した魔獣の魔石。を打つのは、絶望の足音だ。

 獣臭が濃くなってくる。数秒もしないうちに、俺はトロルたちに取り囲まれ、肉を裂かれ、内臓を食われ、骨までしゃぶり尽くされる。そんな未来が容易に想像できるほど、トロルたちの気勢は凄まじかった。よっぽど人間に恨みでもあるのだろう。

「やめろ! 来るな! 来るなよ!!

 情け容赦なく迫る魔獣の大群の前にして俺は泣き叫ぶ。

 涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにしながら、俺は「終わった」とつぶやいた。

「ふざけるなよ……」

 医者の両親に半ば脅迫されながら勉強漬けにされた人生だった。友人からの遊びの誘いも断って、ひたすら勉強にまいしんした。結果両親が勧める医大に二回失敗し、そして三度目も落ちた。

 今まで「絶対国立!」「勉強しろ!」と言ってきた両親の言葉は、「クズ!」「恥さらし」という罵倒に変わった。近所でも後ろ指を差され、俺は部屋に引きこもるようになった。

 そんな俺が、異世界でなら人生をやり直せると知ったとき、どんなに嬉しかったか。

 けど、現実はどうだ?

 俺は今トロルたちの群れを前にして、死の淵にある。

 ふざけんなよ……。折角、やり直しができると思ったのに。親が敷いたレールの上を走るんじゃなくて、異世界に来たら自分の人生は自分が決めると、そう誓ったばかりなのに。

「…………結局、俺はハズレ勇者、いや俺の人生そのものがハズレだったのか」

 次の瞬間、俺はトロルに跳ね飛ばされた。視界に空と地面を交互に映り、骨が内臓を突き破って、金属を舐めたような味が口内いっぱいに広がっていく。

 終わった。今度こそ終わった……。

 くろけんの人生はそこで終わりを告げた────そう思っていた。