第9章 旅立ち


 ──7月某日。

 いつものように6時に起床した私は、カーテンを開けた。

「いいお天気ね」

 雲一つない青い空は、新しい門出の第一歩を踏み出すには、いい日だ。なぜなら今日は卒業式であり、この家を去る日でもあるからだ。いつものように真っ白な制服に着替えて、姿見で確認する。

「制服を着るのも、今日で終わりね」

 私は部屋を見渡した。まだ誰にも気付かれてはいないけれども、この部屋のクローゼットには衣類はおろか、アクセサリーの類もほとんど残されていない。

「クローゼットに鍵がついていて、本当によかったわ」

 もし鍵がかかっていなければ、誰かに見られて不審に思われてしまうかもしれない。

「そろそろ最後の食事の時間ね」

 名ばかりの家族と最後の食事をするために、私はダイニングルームへ向かった。


「いよいよ、今日で卒業ね。あっという間だったわ」

 イメルダ夫人が嬉しそうにフィオナに話しかけている。

「はい、お母様。今日の卒業記念パーティーがとても楽しみだわ」

 そしてフィオナはチラリと私を見る。

「今日のパーティーのためにドレスも新調したのだから、楽しんできなさい」

 私もドレスを買ってもらったが、パーティーに参加するつもりは全くなかった。なぜなら、パーティーではダンスが行われるが、セブランの相手は私ではなくフィオナになるのが分かり切っていたから。

 だから、私はあえて町の洋品店で、既製品のドレスを買ってもらった。けれどそのドレスも既に売ってしまい、手元にはもう残っていない。いつもならここで父も2人の会話に入ってくるのに、今朝に限っては何も言わない。その代わり、なぜか私に時折視線を向けているのが気になった。

 すると、夫人はそのことに気付いたのか、父に声をかけた。

「あなた、聞いているのですか?」

「ああ、聞いている。セブランの相手は当然レティシアなのだろう? 2人は婚約者同士なのだから」

「え?」

 突然話を振られた私は驚いて顔を上げた。するとフィオナと夫人の顔色がサッと青ざめる様子が目に入った。

「どうなんだ? レティシア」

 父がじっと見つめてくる。

「え、ええ……そうでしょうね」

 もとよりパーティーに参加するつもりはなかったが、曖昧に返事をした。

「そ、そうよね。レティシアはセブラン様の婚約者だから一緒に踊って当然よね?」

「きっと2人はお似合いだわ」

 その後も夫人とフィオナの白々しい会話を聞きながら、私にとって最後の一家団らんの朝食は終わった──


「それでは失礼します」

 朝食を終えた私は席を立つと、不意に父に呼び止められた。

「レティシア」

「はい?」

 すると父はじっと私を見つめる。その様子をフィオナも夫人も不思議そうに見ている。

「あの……?」

 首を傾げると、父が話しかけてきた。

「卒業、おめでとう」

「は、はい。ありがとうございます」

 戸惑いながらお礼を述べると、私は足早にダイニングルームをあとにした。

 なぜだろう? 今朝の父にはどこか違和感を覚える。まさか、何か気付かれた……?

「ううん、きっと気のせいよ」

 そう。私の今日の計画は完璧なはず。セブランに婚約を申し込まれた日から、ここを去る計画を立ててきたのだから……。

 ──パタン。

 部屋の扉を閉じると、ライティングデスクの鍵を開けた。引き出しの中には、今まで貯めてきた私の通帳が入っている。それをカバンにしまった。

「今日でこの部屋ともお別れね……」

 物心がついた時から使用していた自分の部屋をグルリと見渡した。

「……今までお世話になりました」

 ポツリと言葉を口にすると、迎えにくるセブランを出迎えるために部屋をあとにした。


 セブランと顔を合わせるのも、今日でおそらく最後になるだろう。いつもならフィオナとセブランに遠慮して、2人が揃ったあとに出てきていたけれども、今朝は違う。

 まだフィオナがこの屋敷にやってくる前、セブランと私の2人だけで登校していた時のように、早めにエントランスで待つことにした。

 誰もいないエントランスに到着した私は扉を開けた。すると偶然にも、セブランが眼の前に立っていた。突然扉が開いて驚いたのか、セブランは目を見開いている。

「まぁ、おはよう。セブラン」

「び、びっくりした……おはよう、レティ。今朝は早いんだね」

「ええ。今日は学園に通う最後の日だから、早めに出てきたのよ」

 するとセブランは笑う。

「最後だなんて大げさだね。僕たちは大学だって行くのだから、あと4年は通うじゃないか」

「ええ、そうね。ただ、この制服を着て登校するのは最後だという意味で言ったのよ」

 動揺を隠しながら笑顔で答える。

「ふ~ん……そうなんだ。ところでレティ」

「何?」

「う、うん。こんな言い方は変だけど……今日はなんだかいつもと雰囲気が違うね。その……とても綺麗だよ」

 少し頬を赤らめて私を見つめるセブラン。

「セブラン……」

 今日は学園に通う最後の日であり、私がここを去る特別な日。だから、今まで一度もしたことのない薄化粧をしてみたのだ。今まで聞いたことのない言葉を意外に感じた。

 でもまさか、私になんの関心も寄せないセブランがそのことに気付くなんて……。

「ありがとう、セブラン」

 にっこり微笑む。

「あ、あの。レティ、今日の卒業記念パーティーのダンスだけど、僕と……」

 セブランがそこまで言いかけた時。

「セブラン様!」

 エントランスにフィオナの声が響き渡る。

「あ、フィオナ。おはよう」

「おはようございます、セブラン様。レティ、どうしたの? いつもならもっと遅く来ていたじゃない」

 フィオナは駆けつけてくると、尋ねてきた。

「ええ。今日は卒業式だから、早めに出てきただけよ」

「ふ~ん……それで? 2人でなんの話をしていたの?」

 どこか疑うような視線で私を見るフィオナ。

「特に何も。卒業式について話していただけよ」

「うん、そうだよ。それじゃ行こうか?」

 セブランに促され、私たちは馬車に乗り込んだ。

 馬車が走り始めると、2人は早速いつものように話を始めた。それはいつもの見慣れた光景。私は2人から視線を外し、代わりに窓から遠ざかっていく屋敷を見つめた。18年間生まれ育った家が小さくなっていく。

 さよなら……。

 私は心の中で屋敷にそっと別れを告げた──


「それじゃ、レティ。卒業パーティーでまた会おうね」

 学園の講堂に着くと、セブランは私に手を振った。卒業式ではクラスごとに整列するからセブランとはここでお別れだ。

「ええ、セブラン」

 またね、とは言わない。笑顔で手を振ると、フィオナがセブランの腕を引っ張る。

「セブラン様、早く行きましょうよ」

「う、うん。そうだね」

 そして2人は私に背を向けると、講堂の中へと入っていく。

「セブラン……フィオナをよろしくね……」

 ポツリと口にすると、私も講堂へ足を向けた。


 学園の講堂では、粛々しゅくしゅくと卒業式が行われていた。隣の席では、目をうるませたヴィオラがハンカチを片手に先生の話を聞いていた。私たちの斜め前の席に座るイザークは、いつものように真面目な顔で話を聞いている。

 ここにいるみんなは一体、何を思ってこの場にいるのだろう? ふと、なぜかそんなことを考えている自分がいた。式のあとは卒業記念パーティーが始まる。学生たちはこのあと各自でパーティー準備の衣装替えで騒然となる。私はその喧騒けんそうに乗じて、ここから去る計画を立てていた。

 もうすぐ計画を実行に移す時がやってくる。

 緊張しながら、その時をじっと待つのだった──


 講堂での卒業式が終わり、私たちは出口に向かって歩いていた。

「本当に素敵な卒業式だったわ……」

 涙もろいヴィオラが赤い目をしながら話しかけてきた。

「ええ、そうね」

「それじゃ、早くパーティードレスに着替えるために更衣室へ行きましょう」

 笑顔のヴィオラに、私の胸はズキリと痛んだ。私は今からここを去る。けれど別れを親友に告げるわけにはいかないからだ。

「ごめんなさい。私、少し用事があるからあとから行くわ。先に行っててくれる?」

「え? 用事って何?」

「ええ。花壇の様子を見ておきたいの」

 苦し紛れの嘘をつく。

「本当にレティは責任感が強いのね。もう後輩に譲る仕事なのに……でも、分かったわ。それじゃ、先に行ってるわね」

「ええ」

 ヴィオラは背を向けて歩き出す。ヴィオラ……私の一番の親友。

「ヴィオラ!」

 気付けば大きな声で彼女を呼び止めていた。

「何? レティ」

 振り向くヴィオラ。

「え、ええ……ごめんなさい、ちょっと名前を呼んでみたかっただけよ」

「何それ? おかしなレティね」

「そうね。それじゃ、私……行くわ」

「ええ。またあとでね」

 手を振るヴィオラの姿を見ていると、目頭が熱くなってきそうになる。彼女に背を向けると、私は足早に中庭へと向かった。中庭に行けば、門がある。そこをくぐり抜ければ、すぐに町へ出ることができる。


 中庭に辿り着いた私がまっすぐ門へ向かおうとした時──

「レティシア? どこへ行くんだ」

 背後から声をかけられた。

 そ、そんな……! どうして彼がここに……!?

「イ、イザーク……」

 振り向くと、いつもとは違うタキシード姿のイザークが、こちらをじっと見つめていた。

「レティシア。こんなところで何してるんだ? それにまだドレスに着替えてもいないじゃないか」

「そ、そういうイザークは、どうしてここに……?」

「どうしてって……」

 なぜか一瞬ためらう様子を見せるイザーク。

「レティシアが一人、こっちへ向かったから気になって……ついてきたんだ」

「なぜ?」

「え? なぜって……」

 困った表情を浮かべるイザークを見た途端、自分が強い口調になっていることに気付いた。

「あ……ごめんなさい。私、別にそんなつもりで言ったわけじゃないの。ただ卒業前に花壇の様子を見たかっただけなのよ」