第8章 婚約の申し出


 父の誕生日から少しの時が流れ、季節は3月になっていた。

「レティ、進路はどうするの?」

 昼休みの時間にヴィオラが、進路希望の用紙を手に尋ねてきた。

「え? そうね。どうしようかしら」

「もしかして、まだ決めていなかったの? 私たち、7月には卒業するのに。もっとも、この学園に通っている学生のほとんどは付属の大学へ進学するから、わざわざ進路希望の用紙を提出する学生はいないけどね」

「確かにそうね」

 現にセブランもフィオナも、このまま上の大学部に進学するようだ。本来なら私もそのまま進学するつもりではあったけど……。

「そういえば、レティ。来月は誕生日じゃない。いよいよ成人年齢になるのね」

「ええ、私もヴィオラのように成人の仲間入りをするわ」

「セブランはレティが18歳になったら、婚約の申し入れを正式にするのよね?」

「そういう約束だけど……」

「だったら、もっと自覚すればいいのに……」

 ヴィオラは憎々しげに窓の外を見る。視線の先には、ベンチに座り、親しげに話をしているセブランとフィオナの姿がある。

「仕方ないわ。彼が好きなのはフィオナなのだから」

 もう2人の姿を見ても、胸を痛めることはなくなっていた。あるのは代わりに罪悪感。私がいるために、セブランとフィオナは互いを思い合っているのに婚約できないのだから。

 けれど、そのことはヴィオラに告げられない。

「仕方なくないわよ! 私から文句を言ってきてもいいのよ?」

「いいの。婚約すれば、きっとセブランもフィオナも分かってくれると思うから。だから、それまでは……」

「レティ。本当にそう思っているの?」

「ええ」

 嘘をついて頷く。

「まったく、本当にフィオナったら! どこか遠くへ行ってしまえばいいのに」

「ねぇ、ヴィオラ。もしもだけど、あなたが遠くへ行くのだったらどこへ行きたい?」

 ヴィオラの考えを聞きたくなった。

「そうね、私だったら親戚が住んでいるところへ行くかしら? もしくは、自分が住んでみたい国へ行くのもいいかもしれないわ」

「親戚……」

 そういえば私には、まだ一度も会ったことのない母方の祖父母がいる。祖父母たちはこの国に属する島に住んでいる。人口約1万人ほどのその島は、美しいエメラルドグリーンの海に囲まれた観光地で、青い屋根に白い建造物が立ち並ぶことで有名だった。

『アネモネ島』

 アネモネが美しく咲き乱れることから、この名がついたと言われている。祖父母がその島に住んでいることを知った時から、一度でもいいから行ってみたいと思っていた。

 もし、仮にここを去るなら……私の行くべき場所は……。

 そう思うと、急に心が楽になってきた。

「どうしたの? なんだか突然スッキリした表情になったけど?」

 ヴィオラが首を傾げて私を見る。

「いいえ、なんでもないの。私、自分の進むべき道を見つけた気がするの。でも、もう少し考えてから結論を出すわ」

「そう? 力になれたようでよかったわ。まだ時間はあるのだから、じっくり考えてみて?」

 ヴィオラが笑った。

「ええ。そうするわ」

 そう、本当に去るのならセブランの気持を確認してからでも遅くない。来月、きっと彼は私に婚約を申し出てくるだろう。その後、セブランがフィオナよりも私を優先してくれるならここに残る。

 けれど、そうでなければ……私は静かにここから消え去ろう。人知れず、学園を卒業したそのあとに──


◆◇◆◇◆


 婚約後もセブランの心が変わらずにフィオナにあるのなら、アネモネ島へ行こうと決心した私は、少しずつ身辺整理を始めていた。

 いくら祖父母の住む島で暮らすとしても、私は2人のお世話になるつもりはなかった。

 なぜなら祖父母は、母を蔑ろにした父に激怒していたからだ。娘の葬儀の席にも参列しなかったほどなのだから、その怒りは相当なものに違いない。

 そして当然、父の血を引く私のことも、よく思っていないに決まっている。

 とりあえず、アネモネ島に到着したら挨拶だけ済ませて、住む場所が決まるまではホテルに滞在することにしよう。

「お金なら……貯金があるから当面大丈夫よね」

 おそらく、これだけあれば、数年は働かなくても食べていけそうだ。それどころか節約すれば、銀行の利子だけでも生活できるかもしれない。

 あまり物欲もなかった私に、父は私が7歳の誕生日に「ここに毎月お金を振り込むので、買いたいものがあれば自由に買いなさい」と言って通帳を渡してきた。

 さらに、父の仕事を手伝うようになってからは、「給料」としてお金を上乗せしてくれるようになっていた。そのおかげで金銭感覚も身についたし、本当に欲しいものだけを買う生活が身についている。

「大丈夫……きっとなんとかなるはず」

 それにアネモネ島は観光地として有名で、観光業が栄えている。経済学の授業で、この島は働き手不足に悩まされていると学んだ。私にも働き口が見つかるかもしれない。

「あとは一人で生きていく生活力を身につけることよね」

 そして私は厨房に足を運び、副料理長に頼み込んで、空き時間に少しずつ料理も習い始めたのだった──


「レティ、今日も自分でランチを用意したの?」

 学生食堂で3人掛けのテーブル席を確保すると、ヴィオラが尋ねてきた。

「ええ、今日はバゲットサンドイッチを作ってきたの」

「すごいわね~。私なんか野菜の皮むきも経験ないのに。でも最近、急にどうしたの?」

「ちょっとね。なんとなく料理に目覚めたのよ」

 まさか家を出て、自活するためとは言えない。

「そうなのね。私もレティを見習って料理の勉強でも始めようかしら。それじゃ、お昼を買ってくるわね」

「ええ。いってらっしゃい」

 手を振ると、ヴィオラはカウンターへと向かっていった。

 一人になり、バスケットの蓋を開けた時、背後から声をかけられた。

「レティ」

 振り向くと、セブランが笑顔で立っていた。しかも珍しくフィオナの姿がない。

「驚いた……どうしたの? フィオナは?」

「フィオナは日直で職員室に行っているから、席を取るために先に食堂へ来たんだよ」

 一緒にいるのが当然のように尋ねる私自身も情けないけれども、自然に質問に答える彼を悲しい気持ちで見つめる。

「ところで、レティ。いよいよ明日、君が18歳の誕生日を迎える日だね」

「ええ。そうね」

 すると、セブランがにっこり笑った。

「明日はちょうど学校が休みだから、会いに行くね。とびきりの言葉を用意して、君に婚約を申し入れるから」

「え……? 本当に……?」

 まさかの言葉に嬉しくて耳を疑ってしまった。

「もちろん本当だよ。だって約束したじゃないか」

「ええ。そうね」

「それじゃ、また放課後にね」

 セブランはそれだけ言うと、手を振って去っていった。

「セブラン……」

 私はその言葉で、すっかり舞い上がってしまっていたのだ。

 人が誰かを思う心は、そう簡単には変われないということに気付きもせずに──


 その日は、帰宅するまでは幸せな気持ちでいられた。

 それがたとえ、私の目の前でいつものようにセブランとフィオナが親しげに話をしている姿を見ても平気なほどに。なぜなら最終的にセブランは私を選んでくれるから。明日、私に婚約の申し入れをする話を、フィオナがいない時を見計らって伝えに来てくれたから。

 セブランは、明日の来訪をフィオナには秘密にしてくれている。フィオナが現れてから初めて私の方を向いてくれたのだから、これほど嬉しいことはなかった。

 よかった……この分なら、私はここを去らなくても済む。

 この時までの私は、愚かにもセブランとの幸せな未来を思い描いていた──


 屋敷に到着し、私とフィオナが馬車から降りると、フィオナがセブランに声をかけた。

「それではセブラン様。明日、お待ちしていますね」

 え? その言葉に全身から血の気が引く。

「うん、また明日。さよなら、フィオナ、レティ」

「ええ、さよなら」

「さよなら……」

 笑顔で手を振るフィオナとは対照的に、私は引きつった笑みを浮かべて手を振る。

 やがて馬車はガラガラと音を立てて走り去っていった。すると、すぐにフィオナが私の方を振り向くと話しかけてきた。

「レティ。明日、セブラン様から婚約の申し入れを受けるのでしょう?」

 その言葉に耳を疑う。

「え、ええ……そうだけど……ど、どうして?」

 どうして、そのことをフィオナが知っているの?

「それはね、以前からセブラン様に聞いていたからよ。レティが18歳の誕生日を迎えた日に、婚約の申し入れをすることが決まっているって。レティのためにとっておきの言葉も用意したって教えてくれたわ」

「!」

 ショックで言葉を失う。そして私は思わず、聞いてはいけないことを尋ねてしまった。

「フィオナは……それでも……いいの? セブランが私に婚約の申し入れをしても……」

 言った瞬間、私は激しく後悔した。今の台詞はきっとフィオナを深く傷つけてしまったに違いない。

「ご、ごめんなさい! フィオナ! 私……」

 けれどフィオナは、意外な言葉を口にする。

「ええ、私はいいの。だって、何があっても互いの気持ちは変わらないから」

「!」

 それは思いもしない台詞だった。

「フィ、フィオナ……?」

「だって、私のお母様もそうだったのだから。私は全然平気よ?」

 そしてフィオナは天使のような笑みを浮かべると、屋敷の中へと入っていった。

「そ、そんな……」

 駄目だ、もうこれ以上ここにはいられない。いいえ、いたくなかった。

「もう……限界だわ……」

 私の目から一筋の涙が流れ落ちる。この瞬間……私はここを去る決意を固めた──


 重たい足取りで自室へ向かって長い廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。

「お帰りなさいませ、レティシア様」

 振り向くと、執事のチャールズさんが立っている。

「あ……ただいま戻りました」

「どうかしましたか? 顔色がよくないようですが?」

「い、いえ。そんなことはありません」

「そうですか? 旦那様が書斎でお呼びです」

「分かりました。すぐに行きます」

 返事をすると、暗い気持ちで私は父の書斎へ足を向けた。

「お父様、お呼びですか?」

 書斎に入ると、すぐさま尋ねた。

「明日はお前の誕生日だろう? もし欲しいものがないなら、今回もまた通帳にお金を振り込んでおこう」

 けれど、私は首を振った。

「いいえ、あります。自転車が欲しいです」

「何? 自転車だと? 本気で言ってるのか? 第一乗れるのか?」

「はい、本気で自転車が欲しいです。乗り方はこれから覚えます」

 これから一人、アネモネ島で生きていくには、きっと自転車が重宝するはず。

「そうか……分かった。思えば、お前が何か物を欲しがるのは初めてだったな。すぐに婦人用の自転車を手配しよう。……他には何かあるか?」

「いいえ、ありません。それではお父様、失礼いたします」

 一刻も早く一人になりたかった。私のどこか切羽詰まった様子に父は気付いたのだろう、ためらいながらも頷いてくれた。

「あ、ああ。分かった。もう行ってもいいぞ」

「はい、失礼いたします」

 挨拶すると、私は足早に書斎をあとにした。

 ──バンッ!

 部屋に戻ると、鍵を掛けて私はベッドに飛び込む。

「う……ううっ……ううう………っ……」

 ピロウに顔を押し付け、鳴き声が漏れないように、私はいつまでもいつまでも泣き続けた。

 この日は夕食も断り、一歩も部屋から出なかった。けれど、そんな私を気にかけてくれる人は誰もいない。

 それが余計に悲しくて、涙はとどまるところを知らなかった……。


 ──翌日。

「愛しのレティ、どうか僕と婚約してください」

 ガゼボの中でセブランが私の前に片膝をつき、紫のバラの花束を差し出しながら婚約の申し出をしてきた。

 私は泣きたい気持ちを抑え込み、無理に作り笑いを浮かべる。

「ありがとう、セブラン。……謹んでお受けいたします」

 そして上辺だけのセブランからの婚約申し入れを受けたのだった──


 翌日も学校は休みだった。

 朝食後、父の仕事の手伝いをするために書斎ヘ向かった。

 ──コンコン。

『入りなさい』

 扉をノックすると、父の声が聞こえる。

「失礼します」

 部屋に入ると父は書類から目を上げ、立ち上がった。

「出かけるぞ」

「え? 出かける……? どちらへですか?」

「町に自転車を買いに行こう」

「え! 今からですか?」

「そうだ、早い方がいいだろう」

「ですが、お仕事は……」

「たまにはいいだろう。では早速行くぞ」

「は、はい」

 こうして私は父と2人で外出することになった。それは学校の入学式に父と2人で出席した時以来の出来事だった。

 戸惑いながら父とエントランスに向かって歩いていると、背後からイメルダ夫人に声をかけられる。

「あら? あなた。レティシアとどこかへ出かけるのですか?」

「ああ、町に買い物にな」

 立ち止まり、振り返ると父は返事をした。

「それなら少し、待ってくださらない? 私とフィオナも準備をしてまいりますから」

 え? 夫人とフィオナも一緒に……?

 昨日のガゼボでの件もあるのに、一緒に出かけるのは気乗りしなかった。

「いや、今日はレティシアと2人だけで出かける。遠慮してくれ」

「お父様……」

 驚いたことに父は、予想に反して夫人からの申し出を断った。

「な、なんですって? 私たちは一緒に行ってはいけないのですか?」

 夫人は目を見開き、一瞬、強い視線で私を見る。

「ああ、今日はレティシアと2人で出かけると決めているからな。行くぞ、レティシア」

 父はそれだけ言うと、再び歩き始めた。

「は、はい!」

 慌てて父のあとを追い、背後を振り向くと……婦人はスカートを握りしめて私を睨みつけていた。


「あの……お父様。本当によろしかったのですか?」

 ガラガラと走り続ける馬車の中、向かいの席に座る父にためらいがちに尋ねた。

「ああ、もちろんだ」

「ですが……気を悪くさせてしまったのではないでしょうか?」

「別にお前が気にすることはない。それとも一緒に出かけたかったのか?」

「い、いえ……別に……」

 なんと答えればよいか分からず、曖昧あいまいに返事をした。

「なら構うことはない」

「はい」

 でも、あの時、夫人は私を睨んでいた。私が父と2人だけで外出したことは、フィオナの耳に入るに違いない。

 きっとあとで何か言われてしまうだろう……けれど、その話は流石に父には言えなかった。思わずスカートをギュッと握りしめた時──

「昨日、セブランから婚約の申し入れがあっただろう?」

「はい、紫のバラと一緒に申し込まれました」

「紫のバラか……」

 父はなぜか私をじっと見つめる。

「だんだんお前も、初めて出会った頃のルクレチアに似てきたな」

「え……?」

 まさか父の口から母の話が出るとは思わなかった。

「レティシア、それで卒業後の進路はどうするのだ?」

 ついに父から話が出た。そこで私は、以前から考えていた台詞を口にする。

「はい、上の大学に進学します。私ももう成人年齢に達したので、手続きは全て自分で行うので大丈夫です」

 嘘をつくのは心苦しいが、私は進学届を提出するつもりはない。

「そうか、自分でやるのだな。それもいいだろう」

 そこまで話をした時、馬車が停車した。

「旦那様、お店に到着いたしました」

 男性御者が扉を開けると、父はすぐに馬車を降りて右手を差し出してきた。

「あの……?」

 戸惑っていると父が言う。

「降りないのか?」

「い、いえ。降ります」

 まさか父にエスコートしてもらえるとは思いもしなかった。父の手を借りて馬車を降りると、店先にずらりと自転車が並べられている。

「この店なら、お前の気に入った自転車があるだろう。好きなのを選ぶといい」

「はい」

 そして私は一台の自転車を選んだ。その自転車はとう製の前カゴのついた、赤い色の婦人用自転車だった。

「この自転車がいいのか?」

「はい、とても気に入りました」

 この赤い自転車は、アネモネ島の白い町並みにとてもよく映えそうだった。

 私は今から、この自転車に乗って町を走る自分の姿を想像し、希望に胸を高鳴らせた。


◆◇◆◇◆


 人知れず、この地を去る決意を固めてから、出ていく準備は着実に進んでいた。少しでも今持っている貯金を増やすために、不要になった衣服やアクセサリーの類をこっそり買い取りをしてもらう生活を続けていた。もともと私には専属メイドはいなかったので、誰にも知られることなく手持ちの品を減らしていくことが容易にできたのだ。

 けれども一向に上達しないのが、自転車に乗ることだった──


「はぁ~……難しいわ……」

 昼休み、学食で食事をしながら私はため息をついた。

「難しいって……ああ、自転車のことね?」

 ヴィオラには誕生日に自転車を買ってもらったことは話していた。あれから1カ月になるが、いまだに私は自転車を乗りこなせずにいた。

「そうなの、家の中庭で練習しているのだけど、上手くげなくて」

「レティでも難しいことがあるのね。やっぱり自転車に乗れる人に教えてもらうのが一番じゃないかしら?」

「確かにそうね……」

 けれど私は、自転車に乗れる人物をイザークしか知らない。

「誰か自転車に乗れる人いないかしらね……あ! いたじゃない!」

 ヴィオラがポンと手を叩いた。

「イザークがいたじゃない。彼に頼めばいいじゃないの!」

 するとその時──

「俺がどうしたんだ?」

 すぐ側で声が聞こえ、振り向くと、食事の載ったトレーを手にするイザークの姿があった。

「あら、ちょうどよかった。イザーク、話があるの。ここ、空いているから座ってくれる?」

 ヴィオラが自分の空いている隣の席に手招きした。

「話ってなんだよ」

 イザークはヴィオラの隣に座ると尋ねてきた。

「あのね、レティに自転車の乗り方を教えてくれないかしら?」

「ヴィオラ! ま、待ってよ! いきなり何を言い出すの?」

 そんなことを頼めば迷惑に思われるに違いない。

「レティシア。自転車に乗れるようになりたいのか?」

 イザークは目を見開く。

「ええ……そうなの。実は1カ月ほど前に自転車を買ったのだけど……いまだに乗れなくて」

「ね、だからイザーク、教えてあげてよ」

「待って、ヴィオラ。イザークに迷惑よ」

「いいぞ。教えてやるよ」

 けれど、彼の返事は予想を覆すものだった。

「え? ……いいの?」

「ああ。それじゃ今日から始めよう」

「ええ!? 今日から? だって私の自転車はここにないのよ?」

「自転車なら俺のを使えばいい。大きさに違いはあるかもしれないが、形は同じなんだから。サドルの高さだって、調整すれば足も届くだろう」

「だ、だけど……」

 イザークの指導はなぜかとても厳しそうに感じる。まだ心の準備もできていないのに。

「あら、よかったじゃない。イザーク、私はこのあと委員会の仕事があるから手伝えないけど、レティに自転車の乗り方を教えてあげてね?」

「もちろん、教えるからには乗れるようになるまで、しっかり教えるさ」

 真面目まじめな顔で頷くイザーク。

「よし、そうこなくちゃ!」

 ヴィオラはイザークの肩をポンポンと叩いている。

「おい、人の肩を叩くな」

 迷惑そうにしているイザーク。けれど、そんな2人が私にはなんだかお似合いに思えた。


 ──昼食後。

 私とイザークは学園の裏庭にやってきていた。そして目の前にはイザークの自転車。

「あ、あの……本当にここで練習するの……?」

「ああ、自転車のサドル部分は調整してあるし、ここは裏庭だから滅多に人が来ることもない。練習しやすいだろう?」

「確かにそうかもしれないけれど……でも、やるしかないわね。どうしても自転車には乗れるようになりたいから」

「そうか。それじゃ早速始めるぞ。まずは俺が後ろから自転車を支えているから乗ってみろ」

「わ、分かったわ……」

 イザークに言われるまま自転車にまたがると、背後からイザークが支えてきた。その距離は思った以上に近く、彼の息づかいまで感じるので、なんとなく気恥ずかしくて落ち着かない。

「それで次はどうすればいいの?」

 振り向くと、イザークと至近距離で目が合ってしまった。

「な、なんだよ。前を向いていろ。後ろを向いていたら漕げないだろう?」

「あ、ごめんなさい!」

 慌てて、前を向きながら思った。イザークの赤い顔を見るのは初めてだと──


 その後、昼休みの時間を使い切って私は、イザークと自転車に乗る訓練をした。

「……よし、こんなものでいいだろう。だいぶ形になったんじゃないか?」

 イザークが自転車から降りた私に声をかけてきた。

「ありがとう、イザーク。あなたのおかげよ。感謝しているわ」

「自転車は一度乗り方を覚えると忘れることはない。家に帰っても練習した方がいいな」

「ええ、そうするわ」

「それじゃ、戻ろう」

「ええ」

 イザークに自転車を渡し、帰り支度を始めた。


「ところで、なんで突然自転車に乗ろうと思ったんだ? まだこの乗り物は世間に出回って間もないのに。まして女性で乗っている姿は見たことがないぞ?」

 歩きながらイザークが尋ねてきた。

「……自転車に乗れれば、どこへでも好きなところへ行けそうだったから……」

 つい、本音がポロリと口をついて出てしまう。

「え? 今なんて言ったんだ?」

「い、いいえ。なんでもないわ。ただ、風を切って思い切り走りたかったからよ」

「ヘ~意外だな。レティシアはもっとおとなしいタイプかと思ったのに。それでどんなところを走ってみたいんだ?」

「そうね。コバルトブルーの海がとても綺麗な島がいいわ。青い屋根に白い建物の町並みを風を切って走ってみたいの」

「ふ~ん。ずいぶん具体的だな。まるで実際にある場所のように聞こえる」

 イザークの言葉にドキリとした。

「そ、そうかしら。今のは空想の話だから気にしないで」

「そうか? でも確かにそんな場所を自転車で走れば気持ちがいいかもな」

「ええ。きっと気持ちがいいはずよ」

 そこまで話した頃には、校舎に辿たどり着いていた。

「それじゃ、俺は自転車を置いてくるから、先に行ってろよ」

 イザークが校舎とは反対側へ足を向ける。

「ありがとう、イザーク」

 するとイザークが足を止めて振り向いた。

「レティシア。……明日は自転車の練習、どうする?」

「明日はもう大丈夫よ。イザークのおかげで自転車の乗り方のコツを覚えたから。家に帰ったら一人で練習してみるわ」

「……そうか。分かった」

 イザークは再び背を向けると自転車を置きに行ったので、私も教室に戻ることにした。

「お帰りなさい、レティ。自転車の練習はどうだった?」

 教室に戻ると、既にヴィオラが席に座っていた。

「なんとか形にはなってきたわ。今日、帰宅したら早速、自転車の練習をするつもりよ」

「そうなのね? 明日もイザークに自転車に乗るのを教えてもらうの?」

「いいえ? 教えてもらわないわ。今日で終わりよ」

 するとヴィオラが驚きの表情を浮かべる。

「え? もういいの?」

「ええ。あとは一人で練習できるから」

「レティがそう言うなら構わないけど……怪我に気をつけてね」

 心配そうに私を見るヴィオラ。彼女はいつも私を気にかけてくれている。そんなヴィオラにも、もうすぐ行き先を告げずに私はここを去る。罪悪感に苛まれながら、私は笑顔で返事をした。

「ええ、絶対に怪我には気をつけるわ」

 そしてまた少しの時が流れ……ついに、私たちが卒業を迎える日が訪れた──