「それは……」
鼻を明かす? そんなことは今まで考えたこともなかった。
「ところで……セブランとは一体どうなっているんだ?」
「え? どうなっているって……」
思わず俯いてしまった。すると、すかさず謝ってくるイザーク。
「ごめん、悪かった。俺には関係ない話なのに……」
「……本当に、どうなっているのかしら……」
セブランは私よりもフィオナと一緒にいる時間が多い。セブランは何も言わないけれど、時々夫人も交えて3人で外出していることも知っている。けれど、夫人が怖くて何も言えなかった。
「どうした? レティシア」
イザークが声をかけてきた、その時。
「どうもお待たせいたしました」
ポールさんが小さな紙袋を持って、こちらへやってきた。
「ありがとうございます」
礼を述べ、私とイザークはポールさんの笑顔に見送られて店をあとにした。
「辻馬車乗り場はこのすぐ先だ。気をつけて帰れよ」
店を出ると、イザークは自転車にまたがる。そんな彼が少しだけ羨ましかった。
「いいわね、イザークは自転車に乗れて」
「レティシアは乗れないのか?」
「ええ。だって男の人だって、まだまだ乗れない人が大勢いるじゃない?」
周囲を見渡しても、イザークのように自転車に乗る人は見ない。私も自転車に乗ることができれば……どこへでも好きなところへ行けるのに。
「……俺でよければ……」
「え? 何か言った?」
「いや、なんでもない。それじゃ、またな」
イザークはそれだけ告げると自転車にまたがり、走り去っていった。
「私も帰りましょう」
明日は父の誕生日。ディナーの席でプレゼントを渡すことになっている。
「お父様……喜んでくださるかしら」
手にしていた紙袋をギュッと握りしめた。
翌日は学校が休みの日だった。
朝食後、私は部屋で家政科の課題の刺繍をしていた。静かな部屋で一人、刺繍をしていると、昨日のヴィオラの話が蘇ってくる。
『私にもレティみたいに刺繍の才能があれば、女一人でも生きていけるのに』
「本当に、一人でも生きていけるのかしら……」
フィオナとイメルダ夫人がこの屋敷にやってきてからというもの……ただでさえ居心地の悪かった場所が、今では針のむしろ状態になっていた。
それにいずれ婚約者になるセブランは、今ではすっかりフィオナと親密になっていた。おそらくこの屋敷の人たちは全員が、私よりもフィオナの方がセブランとお似合いだと思っているに違いない。父もそのことについて何か言うことはない。そして肝心のセブランは……。
「セブラン……なぜ、フィオナと一緒にカフスボタンを買ったの……?」
もう、私には彼の気持ちがさっぱり分からなかった。フィオナたちがカルディナ家へ来てからというもの、互いの家を行き来する関係もなくなり、セブランの両親ともほとんど顔を合わせていない。
「おじ様……おば様……どうしているのかしら……」
刺繍の手を止めると、立ち上がった。
「駄目ね。部屋にこもりがちだと気分が落ち込んでしまうわ。一人でセブランのお宅に行ってみようかしら」
そこで私は外出の準備を始めた。
「え……? 馬車が出払っている?」
「はい、大変申し訳ございません。旦那様で1台、奥様とフィオナ様で1台馬車を使われております」
「……そうだったのね」
この屋敷では、誰も私に行き先を告げずに出かけていく。これでも家族だというのに……私は完全に孤独だった。
「あの、レティシア様……」
「分かったわ。それでは外出はとりやめることにします」
「大変申し訳ございません!」
男性厩務員は自分に非がないのに、一生懸命謝ってくる。
「いいのよ、そんなに気にしなくても。それじゃあね」
私は手を振ると、その場をあとにした。
……なぜ、その時に彼がそんなに謝罪しているのか知りもせずに──
その日の17時過ぎのことだった。
「ふぅ……やっと完成したわ」
出来上がった刺繍を広げて、仕上がりを確認してみた。真っ白いハンカチに刺繍された黄金色に輝く小麦畑の田園風景。それは自分で言うのもなんだが、素晴らしい出来だった。
その時。
──コンコン。
部屋にノック音が響き渡り、遠慮がちに扉が開けられてフィオナが姿を現した。
「レティ、少しいいかしら?」
一体何しにここへ来たのだろう? 嫌な予感を覚えつつ、笑みを浮かべて応対する。
「お帰りなさい。何か用かしら?」
「まぁ。私が留守なの知っていたの?」
「え、ええ。そうね」
「ところでレティ。お願いがあるのだけど」
フィオナはどこへ出かけたのか答えることもなく、頼みごとをしてきた。
「何かしら?」
「ええ、ディナーの席でお父様に渡すプレゼント……先に私からでもいい?」
フィオナは予想通りのことを尋ねてきた。きっと私よりも先にカフスボタンを渡したいのだろう。
「いいわよ」
「本当? ありがとう。夕食の席が楽しみだわ」
フィオナは、私がなぜ先にプレゼントを渡したいのか尋ねないことに安堵した様子で、嬉しそうに部屋に戻っていった。
「フィオナ……」
思わず彼女の名を口にし、悲しい気持ちで私は扉を締めた。
その日の夕食は父の誕生日ディナーというだけあって、とても豪華だった。テーブルの上には並べきれないほどの料理が並んでいる。それどころかフィオナも夫人も、見たことのない洋服を着ていた。
「あなた、お誕生日おめでとうございます」
夫人はテーブルの脇に置いた箱の蓋を開けると、中からワインを取り出した。
「これは私たちが出会った時に作られたワインなの。どうぞ受け取ってくださいな」
そして一瞬、私をちらりと見る。完全に私への当てつけであることがすぐに分かった。
「……上質なワインだな。ありがとう」
父はワインを受け取ると目を細める。
「お父様、次は私からのプレゼントです。どうぞ受け取ってください」
フィオナは箱の蓋を開けると、悪びれる様子もなく笑みを浮かべた。
「カフスボタンです。セブラン様と選びました」
もちろん、私をチラリと見たのは言うまでもない。
「セブランと? ……そうか。うむ、よい品だな。ありがとう、フィオナ」
「あなた、聞いてください。私とフィオナの服も本日、セブラン様が選んでくださったの。あの方は本当によい人ね。将来の義理の母になる私と義妹になるフィオナにも親切にしてくれるのだから。レティは幸せね。セブラン様の婚約者になれるのだから」
「……は、はい」
もう私にはこれ以上の言葉は口にできなかった。どうしてここまで残酷な話を平気で言えるのだろう? 夫人はそこまで私が憎いのだろうか?
目頭が熱くなりそうになるのを必死で堪えながら父に視線を移すと、なぜか
お父様……?
「レティ、今度はあなたの番よ。早くお父様に見せてあげたら?」
フィオナがワクワクした様子で私に声をかけてきた。私の反応が見たいのだろう。
『これでフィオナの鼻を明かせるだろう?』
耳元でイザークの声が聞こえた気がした。
鼻を明かすつもりはないけれど、フィオナの反応が知りたかった。
「お父様、私は紫色のネクタイピンを用意しました。受け取っていただけますか?」
そっと箱を開いて中を見せた。
「そんな!」
その瞬間にフィオナが
一方の父も驚いた様子で私に声をかけてきた。
「何? 紫色のネクタイピンだと? 見せてくれ!」
「はい、お父様」
箱を持って父の側へ行くと手渡した。
「これは……」
じっとネクタイピンを見つめる父。そして私に顔を向ける。
「ありがとう。レティ、素晴らしいプレゼントだ」
「い、いえ……」
父の言葉が照れくさく、俯くとフィオナが大きな声を上げた。
「レティ! どうしてなの? カフスボタンじゃなかったの?」
「ええ。カフスボタンもあるわ」
「カフスボタン? それもあるのか?」
父が尋ねる。
「はい、今回はどちらか選びきれず……2種類用意しました」
嘘をついた罪悪感に胸がチクリと痛みながらも、ポケットに入れておいたカフスボタンの箱を取り出して蓋を開けた。
「ほう……ネクタイピンの色と同じだな。気に入ったよ」
偶然にも、カフスボタンも紫だったのだ。
「どういうこと? なぜネクタイピンも用意していたことを教えてくれなかったの?」
「そうよ。フィオナの言う通りよ。嘘をつくのはよくないわ。謝りなさい」
夫人まで私に文句を言ってくる。
「よさないか、2人とも!」
その時、父が強めの口調で言った。
「あなた……」
「なぜレティシアが謝らなくてはならない? 第一、セブランはレティシアの婚約者になる予定だ。それなのに、レティシア抜きで3人だけで出かけるのはどうかと思うぞ? もう少し節度のある態度を取るように」
「「はい……」」
フィオナと夫人は項垂れて返事をする。まさか、父が2人を叱責するなんて。
「よし、それではこの話はもう終わりだ。折角の料理が冷めないうちにいただこう」
父は何事もなかったかのように料理を口にした。私たちも父に
夫人は敵意のある目で私を見るし、フィオナもチラチラと私を見ている。けれど……こんな状況下でも、いつもの食事より美味しく感じることができた。
父のディナー終了後。
──コンコン。
不意に部屋の扉がノックされた。
「誰かしら?」
扉を開けると、執事のチャールズさんが立っていた。
「チャールズさん。どうしたのですか?」
「はい、旦那様が書斎でお待ちになっております」
「え? お父様が……? 分かりました。すぐに行きます」
私はチャールズさんと父の書斎へ向かった。
書斎に到着するとチャールズさんはノックをし、そのまま扉を開けてしまった。すると父が電話で誰かと話をしている。
「電話……?」
父は私に気付くと、電話越しに言った。
「セブラン、レティシアが来たので電話を代わる」
え? セブラン? その言葉にドキリとする。
「レティシア。セブランと電話が繋がっている。出なさい」
「は、はい……」
まさかセブランの電話で呼び出されるとは思いもしなかった。父から受話器を受け取り、耳に当てる。
「セブラン……?」
すると──
『こんばんは、レティ』
「セブラン、一体どうしたの? 電話なんて今まで一度もかけてきたことなかったのに」
『うん。実は伯爵から電話をもらったからなんだ』
「え?」
その言葉にドキリとして父の方を見るも、私のことなど気にかける素振りもなく仕事をしている。
『レティ、プレゼントのことで謝らせてもらえないかな? フィオナはプレゼントにカフスボタンを選んだけど、最初僕は止めたんだよ。レティもカフスボタンだから他の品にした方がいいよって言ったんだけどね』
「そう……だったの?」
『うん。だけど、別に同じ品物だって構わないでしょうって言われたんだ。毎日使うものだし、多いに越したことはないって言い切られて説得できなかったんだよ。だけど、レティのことを考えると、もっと強く反対して他の品物に変えさせるべきだったよ。ほんとにごめん』
「セブラン……」
その声は元気がない。
『伯爵に聞いたよ。レティはネクタイピンも用意していたんだね。それにカフスボタンもプレゼントしたんだろう?』
「え、ええ。そうよ」
『よかったね。伯爵、とても喜んでいたよ。それじゃ、また学校へ行く時に会おうね』
それだけ? 他に言うことはないの? 今日、夫人とフィオナと一緒に出かけて2人の服を選んだことは? けれど父の手前、尋ねることができない。
「ええ、またね」
『おやすみ、レティ』
「ええ。おやすみなさい」
そして電話は切られた。
「お父様。電話、ありがとうございました」
「なんだ? もう電話は終わったのか? セブランは何か言ってたか?」
父は書類から顔を上げると、私を見る。
「はい、プレゼントの件で謝ってきました」
「他には?」
「いえ、それだけですけど」
「そうか……セブランは、何か勘違いしているんじゃないか?」
「勘違いですか?」
「そうだ。婚約者はお前だというのに……でも謝ってきたのならいいだろう」
「はい」
私は返事をすることしかできなかった。確かに婚約者になるのは私だけど、セブランが好きなのはフィオナだ。たぶん本当は、彼が婚約したいのはフィオナに違いない。
「ところで、レティシア。進路の話だが、高等部を卒業後はどうする? 付属の大学部に進学するのか?」
父が突然話を変えてきた。
「え? 進路ですか?」
「ああ、そうだ」
もし大学へ行くことになれば、私はこの家にまだいなければならない。この窮屈な家に。
ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。
「少し考えさせてください」
「そうだな。今すぐ答えなど出せないだろうからな。だが、セブランと婚約するまでには答えを出しておいた方がいいだろう」
「はい、分かりました。それでは失礼します」
私は父の書斎をあとにした。たぶんこの時から、私は無意識に決意していたのかもしれない。
ここから密かに去ることを──