第4章 足の怪我


 イザークと話をして、少しだけ私は、フィオナとセブランのことを割り切れるようになった。

 そう、セブランがフィオナに親切にしているのは責任感から。だから親身にフィオナに接しているに違いないと、自分を納得させることにしたのだった。そう思わなければ、2人の前で平静でいられなかったからだ。

 フィオナとセブランの距離はますます近くなる半面、私は彼との距離が離れていくのを実感せざるを得なかった。屋敷の中では私一人が家族の輪にいまだに入ることができず、登下校ではフィオナとセブランの仲の良さを見せつけられるというつらい日々を送っていた。

 唯一、私が息をつけるのは学校で過ごす時間だった。けれどその時間ですら、セブランとフィオナの仲が良さそうな姿を見かけるたびに、私は胸を痛めていた。


◆◇◆◇◆


 それはフィオナとイメルダ夫人が現れてから、半月ほど経過したある日のことだった。この日は朝から体調が悪く、朝食も半分近く食べることができなかった。

「……ねぇ、大丈夫? レティ」

 登校してきた私に朝一番、ヴィオラが声をかけてきた。

「おはよう、ヴィオラ。朝から突然どうしたの?」

 カバンを置いて着席すると、ヴィオラは私の顔をのぞき込んできた。

「なんだか調子が悪そうに見えるわ。目の下にクマもあるし」

 言われてみると、なんだか今朝はフラフラする。最近、夜もあまり眠れなくなっていた。そのせいかもしれない。

「え、ええ。昨夜遅くまで本を読んでいたからかもしれないわ。つい、夢中になってやめられなくなってしまったのよ」

 大切な親友を心配させたくなかったので、私は咄嗟とっさに嘘をついた。

「本当にそうなの?」

「もちろん本当よ」

「レティがそう言うなら信じるけど……夜はちゃんと寝た方がいいわよ?」

「そうね。これから気をつけるわ」

 私は笑みを浮かべて返事をした。


 4時限目は美術だった。今日は外で自分の好きな景色を写生するということで、私たちは校舎の外へ向かって歩いていた。

「はぁ~美術の時間は本当に憂鬱だわ。大体私は絵を描くのが苦手なのよ。絵なんか描けなくたって勉強には関係ないのに」

 隣を歩くヴィオラがため息をつく。

「確かにそうかもしれないけど……私は美術の時間は好きよ」

「レティは手先が器用で、絵を描くのも上手よね。もう何を描くかは決まっているの?」

「花壇の絵を描こうと思っているわ。やっぱり自分で手入れした花壇の絵を描いてみたくて」

「そうなの? それじゃ私も同じ場所で絵を描こうかしら」

「ええ、一緒に描きましょう」

 階段を降りながら話をしている時、ハンカチを落としてしまった。

「あ、いけない」

 拾い上げて、立ち上がろうとした時。

「……え?」

 突然周りの音が遠くに聞こえ、気が遠くなってくる。

 最後に見た光景は、驚いたように私を見つめて手を伸ばすヴィオラの姿と、そして……。

 暗い……私は暗い闇の中にいた。

『ここはどこなの‥…? 暗くて何も見えないわ……』

 辺りを見渡してみると、遥か前方にぼんやり明るい光が見える。もしかして、あれは出口なのかも……!

 私は急いで光の方向へ向かって駆けた。徐々に光が大きくなっていき……。

『え……?』

 思わず足を止めてしまった。

 そこには、親しそうに腕を組んで歩くセブランとフィオナの姿があった。2人は私に気付く様子もなく、光の方角へ歩いていく。

『あ……待って! 私も一緒に行くわ!』

 大きな声を上げて追いかけようとすると、不意に2人が振り返った。

『ごめん、レティ。僕はもう君を婚約者にすることはできないよ。フィオナが好きなんだ』

『ごめんね、レティ。私、セブラン様と離れたくないの。だから譲ってもらうわね。お父様も私とセブラン様の婚約を望んでいるのよ』

 耳を疑うセブランとフィオナの言葉に愕然がくぜんとする。

『そ、そんな……嘘でしょう……? セブラン……フィオナ……』

 けれど2人はもう私を気にかけることもなく去っていく。それと同時に光も徐々に小さくなる。

『待って! お願い! 置いていかないで!』


「あ……」

 不意に目が覚めた。見覚えのない白い天井。周囲は白いカーテンで覆われている。

「え……? ここは……?」

 ベッドから起き上がろうとした時、右足首に痛みが走った。

「い、痛っ!」

 すると目の前のカーテンがシャッと開けられ、黒髪に白衣姿の女性が姿を見せた。この人は医務室の先生だ。

「よかった、目が覚めたのね。覚えている? あなたは立ちくらみを起こして気を失ってしまったのよ。あら……どうしたの? どこか痛むの?」

 先生が顔を覗き込んでくる。

「え……?」

 一体なんのことだろう? 目をこすろうとして、自分の頬が涙で濡れていることに気付いた。

「え? 私……泣いて……」

「あら? 泣いていたことに今気付いたの? でもよかったわ。もう少しで階段から転げ落ちるところだったのよ。助けてくれた人に感謝しないとね」

「助けてくれた人?」

 一体誰だろう?

「それよりもどう? 家に帰れそう? そろそろ授業が終わる時間だけど」

「今、何時ですか?」

15時半になるところよ」

15時半……?」

 確か美術の授業のために外に出たのが11時頃。私は3時間半も医務室で過ごしていたのだ。

「大丈夫? まだ頭がボンヤリしているみたいだけど……でも授業が終わったら迎えに来ると言っていたから、それまで休んでいるといいわ」

「迎え……ですか?」

 誰が迎えに来てくれるのだろう……?

「他にどこか具合が悪いところはないかしら?」

「あ、そう言えば、実は右足首が痛むのですけど」

「え? なんですって。ちょっと見せてちょうだい」

「はい」

 上掛けをめくって、右足の靴下を脱ぐと、足首がれている。

「これは……」

 先生は慎重に足首に触れると眉をひそめた。

「どうやら、足首を捻ってしまったみたいね。今手当てしてあげるわ」

 そして先生は腫れている部分に湿布を貼ると、包帯で固定してくれた。

「治るのに2週間くらいかかると思うわ。治るまでは安静にしているのよ? 医務室に松葉杖まつばづえがあるから貸してあげましょう」

「ありがとうございます」

 その時、音を立てて医務室の扉が突然開かれた。

「レティ!」

「え……?」

 部屋に飛び込んできたのは、息を切らせたセブランだった。

「セブラン……どうしてここに?」

 まさか迎えとは、セブランのことだったのだろうか?

 嬉しさのあまり、顔がほころびかけ……次の瞬間、再び私の顔は凍りつく。

「レティ! 大丈夫なの!?

 セブランのすぐ背後から、フィオナが顔を覗かせたのだ。

「レティ、大丈夫だったのかい? 美術の時間に階段から転げ落ちそうになって意識を失ったとイザークから聞かされて驚いたよ」

 セブランはベッドの側までやってきた。

「え? イザークが?」

 すると、フィオナが頷く。

「ええ、そうよ。放課後にイザークという人が私たちの教室にやってきたのよ」

「そうだったの?」

 私たちの教室……その言葉にチクリと胸を痛めながら返事をする。

「イザークがね、レティが貧血を起こしたので医務室まで運んだから、放課後、迎えに行ってあげてくれって知らせにきてくれたんだよ」

「あの人、レティのことずいぶん気にかけてくれているのね?」

 フィオナの言葉が妙に気になる。

「たぶんクラスメイトとして気にかけてくれたのよ。それにイザークとは同じ美化委員だし」

 けれど、イザークが助けてくれたのなら、明日にでもお礼を言わないと。

 その時──

「失礼します。友人のカバンを持ってきたのですけど」

 カーテン越しに声が聞こえてきた。その声はヴィオラだった。

「あら、持ってきてくれたのね。友達なら目が覚めたわよ」

「え! 本当ですか!」

 先生が声をかけると、ヴィオラが驚きの声を上げて駆け寄ってくる気配を感じた。

「レティ!」

 カーテン越しからヴィオラが顔を覗かせ、一瞬で表情がこわばる。

「セブラン……それに、あなたは……」

「はじめまして。私はレティの妹のフィオナです。セブランとは同じクラスなのよ。あなたの名前も教えてくれる?」

 フィオナはニコニコしながら、ヴィオラに挨拶する。

「……私はヴィオラよ。レティとは大の親友なの」

 そしてすぐに、ヴィオラは私に視線を移す。

「レティが無事でよかったわ。階段から落ちそうになった時は本当に驚いたわ。イザークが咄嗟に助けてくれなければ、どうなっていたか……あら? 足に包帯が巻かれているじゃない。もしかして怪我けがしたの?」

「え、ええ……そうなの。少し捻ってしまって」

「え? そうだったの!」

 その時に初めてセブランは、私が怪我をしていることに気付いたようで足首を見た。

「本当だ……大丈夫? レティ」

「まぁ、怪我をしていたのね?」

 フィオナも私の足を見る。

「そうよ。治るまでには2週間くらいかかるから、松葉杖を貸してあげましょうと話していたところなのよ」

 医務室の先生の言葉に、ヴィオラがとんでもないことを言ってきた。

「そうだったのね……だったら、セブラン。馬車のところまでレティをおんぶしてあげたら?」

「え? 僕が?」

「そ、そんな……いいわよ。松葉杖を借りるから」

 校内でセブランにおんぶしてもらうのは、なんだか気恥ずかしい。

「本人が松葉杖を借りると言ってるのだから、いいじゃない。荷物なら私が持ってあげるし」

 フィオナがセブランの袖をつかみながらヴィオラを見る。

「ちょっと待って。私はセブランに話しているのよ? あなたには何も聞いていないわ」

「レティ、学校内をセブラン様におんぶしてもらって歩くのって……恥ずかしくないの?」

 じっと私を見つめながら、フィオナが問いかけてくる。

「それは……」

「レティは足首を怪我しているのよ? 大事にした方がいいでしょう?」

 フィオナの言葉にヴィオラは目を釣り上げた。

「だけど恥ずかしい思いをするのはレティだけじゃないわ。セブラン様のことを考えてみたらどうなのかしら?」

 セブランのことを考えてみたら……? その言葉にドキリとする。

「セブラン……」

 セブランを見ると、彼は困ったように目を伏せている。そこへフィオナがセブランに訴えた。

「セブラン様、校舎内でレティをおんぶして歩くと、みんなから注目されてしまいますよ? そんなの恥ずかしいとは思いませんか?」

「そ、それは……」

 言葉に詰まるセブラン。

「ちょっと! あなた、さっきから何を言ってるのよ!」

「私は今、セブラン様に尋ねているのよ」

 フィオナが口を尖らせたその時。

「いい加減にしなさい、あなたたち」

 それまで黙ってことの成り行きを見守っていた医務室の先生が口を開いた。

「「……」」

 その言葉に黙るフィオナとヴィオラ。

「いいですか? もともと私は彼女に松葉杖を貸し出す予定でした。松葉杖をつけば、片側の足が不自由でも歩けますからね。でも……確かに誰かにおんぶしてもらうのが一番だと思いますが」

「分かりました……レティ、僕が君を馬車までおんぶしてあげるよ」

 するとセブランが笑顔で申し出てくれた。

「そんな! セブラン様……!」

 フィオナが縋るような視線をセブランに向ける。家に帰ったらイメルダ夫人に言いつけるかもしれない。私が無理やりセブランにおんぶしてもらったと。それだけは嫌だった。

「大丈夫よ。私、松葉杖をついて歩くから」

「レティ! 何を言ってるのよ!」

 ヴィオラが驚きの顔で私を見る。

「どうせ家に戻れば松葉杖をついて移動しなければならないでしょう? 一度も杖を使ったことがないから、練習のためにも松葉杖を使って歩いた方がいいと思うの」

「本当にそれでいいの?」

 心配そうな顔のヴィオラ。

「確かに、早く慣れるためには松葉杖を使った方がいいかもしれないけれど……」

 医務室の先生が私を見つめる。

「フフ、やっぱりレティならそう言うと思っていたわ。やっぱり早く慣れるためにも松葉杖を使うべきよ。セブラン様もそう思いますよね?」

「そ、そうだね」

 フィオナに促されて返事をするセブラン。……セブランは分かっていないだろう。私が今どれほど悲しい思いを抱えているかを。

「分かったわ。なら馬車乗り場まで見送らせてもらうわ。レティ、私がカバンを持つわよ」

「ありがとう、ヴィオラ」

 すると再び医務室の先生が声をかけてきた。

「話はまとまったようね? それではレティさん、松葉杖を貸してあげるわ」

 先生は壁に立てかけてあった松葉杖を持ってくると差し出してきた。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 私は慣れない手つきで松葉杖をついて立ち上がった。

「それじゃ、レティ。帰ろう?」

 セブランがためらいがちに声をかけてきた。

「ええ、帰りましょう」

 そして私たちは医務室をあとにした。


 初めて使う松葉杖は扱うのが大変だった。

「大丈夫? レティ。それにしてもあの2人は冷たいわね。レティは松葉杖をついて歩くのに慣れていないっていうのに……」

 私たちの前方にはセブランとフィオナが歩いている。2人は何か話しているのか時折笑い合っている。

「いいのよ。保健室まで来てくれたのだから」

「だけど……!」

 その時……。

「レティシア!」

 背後で声が聞こえ、振り向くとイザークが立っていた。いつもの無表情の彼とは違い、その顔には驚きの表情が浮かんでいる。

「イザーク……」

 私を含め、その場にいる全員が彼を振り返った。

「レティシア、その足はどうしたんだ? まさかあの時、怪我をしたのか?」

 イザークは大股で近づいてきた。

「ええ、そうみたいなの。あ、そうだわ。イザーク、あなたが階段から落ちそうになった私を助けてくれたのでしょう? 保健室にも運んでくれたし、セブランにも知らせてくれたのよね? ありがとう」

 笑みを浮かべてお礼を述べるも、なぜかイザークの目つきは鋭い。

「そんなことはどうでもいい。ただ単に近くにいただけだから。誰だって目の前の人が突然倒れたら同じ行動をとっていただろう? それよりなぜ、松葉杖で歩いているんだ?」

 すると、ヴィオラがすかさず答える。

「レティは右足首を捻ってしまったのよ。松葉杖をついてしか歩けなくなってしまったので、私が荷物を持ってあげてるのよ」

 ヴィオラの話を無言で聞いていたイザークは、次にセブランに視線を移した。

「セブラン。俺がなぜお前にレティシアが保健室にいるのを教えたのか分かっているのか?」

「も、もちろんだよ」

 頷くセブラン。

「だったら、なぜ手を貸してやらない? それどころか、荷物すら持ってやらないなんて」

 明らかにイザークはセブランに怒っているようだった。……そんなに怒るほどのことなのだろうか?

「それは、ヴィオラさんがレティの荷物を持つと言ったからよ」

「俺は君になんか尋ねていない。セブランに聞いているんだ」

 フィオナの言葉に、イザークはますます不機嫌になる。フィオナは彼の迫力に押されたのか、セブランの陰にサッと隠れてしまった。

 不穏な空気になったので、私は慌ててイザークに声をかけた。

「待って。セブランは私を背負ってくれようとしたのよ? だけど、私が断ったの。ほら、当分松葉杖で歩かないといけないから練習のためにって。そうよね? セブラン」

「え? あ……う、うん。そうなんだ」

「何言ってるのよ! 医務室の先生に言われたからでしょう!」

 そこへ再びヴィオラがセブランを非難する。

「チッ!」

 イザークは舌打ちすると、私を見た。

「レティシア、松葉杖の練習なら家でやれ。転んだらどうする?」

 そして私の前に回ってくると、突然背中を向けてしゃがんだ。

「え? な、何?」

 あまりの行動に戸惑う私。

「何? じゃない。ほら、おぶされ」

「イザーク! 何を言うの!?

「いいから、早く乗れ。いつまで俺にこんな格好をさせるつもりだ?」

 イザークは私を振り返る。……なんだかその表情はひどく不機嫌だ。こんな不機嫌そうな人に背負ってもらうなんて……。セブランとフィオナは呆然ぼうぜんとしている。

「何してるのよ、ほら。おんぶしてもらいなさい。杖は預かるから」

 すると、ヴィオラが左手の松葉杖を取り、軽く私の背中を押した。

「キャッ」

 そのままイザークの背中に倒れ込むと、彼は私の両ひざを抱え上げて立ち上がる。

「はい、もう片方も預かるわ」

 ヴィオラは右手からも松葉杖を取ってしまった。

「ちょ、ちょっと! 降ろして! イザーク!」

「おい、暴れるな。落とされたいのか?」

 その言葉に思わずビクリとし、私は慌てて首を左右に振る。

「はい、セブラン。レティの松葉杖を持つのはあなたの仕事よ」

 ヴィオラは呆然としているセブランに松葉杖を手渡す。

「う、うん……」

 セブランが杖を受け取るのを見届けると、イザークが声をかけた。

「よし、馬車乗り場まで行くぞ」

 そうして奇妙な雰囲気の中、私は彼に背負われたまま馬車乗り場へ向かうことになった。

「ごめんなさい、イザーク。背負ってもらって……あ、あの……私……重い……でしょう?」

 恥ずかしさのあまり、最後の方は消え入りそうな声になってしまう。