第1章 知らない家族


 それは今から2年前の寒い冬の出来事だった。

 その日は朝からチラチラと雪が降っていた。私の朝の日課は、学校へ登校する前に母に挨拶あいさつをすることだった。今朝けさも部屋に顔を出すと、母は窓から外をながめていた。

「お母様、今日は朝から雪が降っているわ。寒いから、私が学校から帰ってくるまでは絶対に外に出たりしないでね」

「ゆ……き…‥? これ、ゆ、き……?」

 母は私を振り返ることなく、空から降ってくる雪を指さしている。

「ええ、そうよ。お母様、あれは雪というの」

 背後からそっと母の両肩に手を置く。その体はまるで骨と皮のようにやせ細っている。

「どうしても雪が見たかったら、学校から帰ったら私が庭に連れていってあげる。だから、それまではお部屋でおとなしくしていてね?」

 まるで子供をあやすかのように、母の頭に手を置いてでてあげると、嬉しそうに笑みを浮かべる。その無邪気な笑顔は本当に子供のようだ。今日は薬が効いているのか、いつもよりも穏やかな母を見ることができてよかった。

「それではお母様、学校へ行ってきます。雪はあとで私と一緒に見ましょうね」

 そして私は母を残して学校へ行った。

 それが、生きている母との別れになるとも知らず──


 学校から帰宅すると、屋敷の中が騒がしかった。使用人たちはバタバタと走り回り、只事ただごとではない雰囲気だった。

「ただいま。一体何があったの?」

 ちょうど近くにいたメイドに声をかけると、彼女は真っ青になった。

「お嬢様! た、大変でございます! 奥様が……ルクレチア様が……!」

「お母様がどうしたの!」

 そして私は、青ざめたメイドからとんでもない言葉を聞かされた──

「お母様!」

 ノックもせずに扉を開けると、顔に白い布をかけてベッドに横たわる母の姿があった。

 母の側には父が、ベッドの傍らに椅子を寄せて座っていた。周りには他に白衣を着たドクターに10名ほどの使用人たちの姿もある。

「レティシア……ルクレチアが……亡くなった」

 淡々と告げる父の言葉は、まるで単なる連絡事項の報告をしているかのようだった。

「お母様……」

 震えながらベッドに近づき、顔をおおっている白い布を外すと、母はまるで眠っているかのような表情を浮かべていた。

「ルクレチアは、薄着のまま庭に出て……ずっと雪を眺めていたようだ。ベンチに座った状態で冷たくなっていたそうだ……」

 背後で父の押し殺すような声が聞こえてくる。

「そ、そんな……お母様……」

 私の手から、持っていた布がハラリと足元に落ちる。

 母が亡くなったのは私のせいだ。庭に出て一緒に雪を見ましょうと声をかけたから……だから、母は一人で外に……。

「お母様……お母様……」

 私は母にすがり付き、たくさん泣いた。いくら正気を失っていても、私にとってはたった一人の母だった。寄り添って献身的に尽くせば、いつかは私が娘だということを理解してくれて正気に戻ってくれると信じていたのに。結局、母は私を娘だと認識しないまま……この世を去ってしまったのだ。

 この日、本当の意味で私は母を失った。

 16歳の寒い1月の出来事だった──


◆◇◆◇◆


 母のお葬式は、親族だけを集めた密葬で行われた。母の両親はお葬式にも参列しなかった。おそらく狂気に囚われた娘のことなど、どうでもよかったのだろう。何しろ私は孫でありながら、一度も祖父母に会ったことがなかったのだから。


 ──ゴーンゴーンゴーン……。


 教会におごそかな鐘の音が響き渡っている。

 喪服に身を包み、項垂うなだれている私は背後から声をかけられた。

「レティ」

 その声に振り向くと、黒いスーツ姿のセブランが悲しげな顔で立っていた。

「セブラン……」

「ごめん、レティ。親族だけしか参加できないと言われていたのに……君のことが心配だから来てしまったんだ……」

 申し訳なさそうに私を見つめている。親族だけの密葬だったので、まさか来てくれるとは思わなかった。

「いいえ……そんなことないわ。……ありがとう、来てくれて……」

 セブランの顔を見たら、途端に涙があふれてきた。きっと張り詰めていた心の糸がプツリと切れてしまったのかもしれない。

「レティ……!」

 セブランが強く抱きしめてくれた。

「セブラン……お母様が……お母様が亡くなってしまったわ! 最後まで私を娘だとは認識してくれないまま……!」

「かわいそうなレティ……大丈夫だよ。僕がずっと側にいてあげるから……」

 私の髪を優しく撫でてくれるセブランの手が、彼の温もりが嬉しかった。そうだ、私にはまだセブランがいてくれる。だから、大丈夫。

 この時の私はセブランの愛を信じていた。あの人たちが現れるまでは──


 それは、母が亡くなって2カ月後のことだった。

 いつもの朝食の席で父と食事をしていると、不意に話しかけられた。

「レティシア、少しいいか?」

「はい、お父様」

 滅多めったに父が話しかけてくることはなかったので、驚きながらも返事をする。

「今日、我が家に新しく家族になる女性が2人訪ねてくる。一人はイメルダという名の女性で、もう一人はフィオナという少女だ。お前の……義理の母と異母妹になる」

「え……?」

 その話に耳を疑った。父からは一度も教えてもらったことはないけれど、使用人たちの噂話で、イメルダという女性とフィオナの話は既に知っていた。父とイメルダは恋人同士で、フィオナは私の腹違いの姉妹だということも。

「そ、そんな……お父様、嘘ですよね? まだお母様が亡くなって2カ月ですよ? 到底受け入れられるはずがありません!」

 父に逆らったことがない私でも、今回ばかりは流石さすがに黙っていられなかった。

 それなのに……。

我儘わがままを言うな、レティシア。お前はまだ母親が必要な年齢だろう? それにたぶん知っているだろうが、フィオナはお前の腹違いの妹なのだ。あまり意地の悪いことを言うな!」

 滅多に声を荒らげることのない父の態度に驚き、私は口を閉ざしてしまった。

「……もういい。食欲が落ちた。いいか、レティシア。2人は14時に屋敷に到着予定だ。新しい家族になるのだから、出迎えはするのだぞ」

 それだけ告げると、父は私を残してダイニングルームを出ていってしまった。


 ──14時。

 エントランスで私は父の隣に立ち、義理の母になるイメルダ夫人とフィオナが現れるのを待っていた。その背後には大勢の使用人たちも集まっている。

「お父様……」

 緊張する面持ちで私は父を見上げた。すると父は私を見ることもなく、語る。

「レティシア、同じ年齢だとしても、お前はフィオナよりも半月は姉だ。たとえ半分しか血がつながっていなくとも2人は姉妹。だから親切にしてあげなさい。イメルダのことも受け入れるのだ。カルディナ家の娘として恥じるような態度を取ってはならない。分かったな」

「はい……お父様……」

 私はできれば父の口から謝罪の言葉が欲しかった。

 母が亡くなったばかりなのに、すまない。突然このようなことになって悪かったと……。

 期待外れの言葉に、私の心はますます暗い気持ちになってくる。

 その時──

 目の前の大扉がゆっくり開かれ、フットマンが2人の女性を連れて現れた。それぞれ青い瞳に美しいホワイトブロンドの髪。最近流行はやりのドレスを着用していた。

「イメルダ、それにフィオナ。待っていたよ」

 父が今まで見たこともないような笑みを浮かべた。

「あなた! やっとここに来ることができたわ!」

「お父様、お久しぶりです!」

 2人は父の元に駆け寄り、私の見ている前で熱い抱擁ほうようを交わす。その姿が私にとってどれほどショックだったか、おそらく父は気付いていないだろう。私は生まれてから一度も父から笑いかけられたこともなければ、抱きしめてもらったこともない。それは決して望んではいけないことだと思っていたから。

 なのに、これは一体どういうことなのだろう?

 3人は私をそっちのけで、仲睦なかむつまじく話をしている。その姿は本当の家族のようで、私は一人蚊帳かやの外だ。きっとお母様は、今の私のような気持ちをずっとずっと持ち続けていたのだろう。悲しみとも苛立いらだちともつかない複雑な気持ちを押し込め、ギュッと両手を強く握りしめると、思い切って声をかけた。