ぎん、と鈍い音を残して手から飛んだ長剣が、くるくると回転しながら練兵場の地面に落ちた。
武器を失った従士の胸元に剣が突き付けられる。
「それまで!」
審判役の声が響く。
剣を飛ばされて負けた従士が大きく息を吸って吐き、無手のまま相手に一礼した。
短く刈り揃えられた焦茶の髪から汗が滴る。
「アーヴェイル、また腕を上げたか? 私から1本取るとはな」
一歩近寄った勝者が、右手を差し出しながら声をかけた。
「アストール様、まだまだです」
アーヴェイルと呼ばれた従士が、差し出された右手を両手で握りながら答える。
「結局今回も勝てませんでした」
「──俺がお前の上にいられるのも、そう長くはなかろう」
笑顔で応じた勝者が、空いた左手で親しげに肩を叩く。
背丈も身体の厚みも、敗者は勝者に及ばない。
それでも3本勝負のうちの1本をもぎ取っていった若い敗者を、勝者は称えているようだった。
勝者と別れた敗者──アーヴェイルは、地面に落ちたままの剣を拾い、土埃を丁寧に払って鞘に戻す。
ふと目線を上げたその先に、長い黒髪の少女がいた。
アリアレイン・ハーゼン。
アーヴェイルと、そして彼に勝った従士アストールの主君、マレス侯爵ランドルフの一人娘。
侍女に付き添われて立つ小柄な少女の灰色の瞳が、アーヴェイルを見つめていた。
アーヴェイルが姿勢を正して一礼する。
アリアレインは会釈を返し、何事か侍女に言って、そのまま立ち去った。
侯爵家の従士たちは、いつも先刻のような試合形式の訓練をしているわけではない。
アリアレインの護衛役を決める必要から設けられた場、とアーヴェイルは聞かされていた。
普段ならば教官を務めるアストールほか数人が、やはり幾人か選ばれた護衛役の候補者たちと3本勝負で立ち合い、それをアリアレイン自身が閲する。
つまりは選抜試験のようなもの、ということを、参加する全員が承知していた。
護衛役への抜擢は、無論、若い従士たちにとってこの上ない名誉であり立身の足掛かりでもある。だからアーヴェイルを含めた全員が全力を尽くして立ち合った。
手もなく捻られた者もいれば、アーヴェイルのように1本取る者も幾人かはいる。アストールよりも腕が立つと評判の従士と接戦を繰り広げた者もいた。
自分はどんなものだったのだろう、主家の令嬢の目にはどう映ったのだろう、と、小柄な後姿を見送りながら、アーヴェイルは思う。
──彼女はまだ十代の半ばにも至っていなかったはず。
自分の護衛役を決めるための立ち合いを、ずっとあの静かな目で見ていたのだろう。
あの目に自分がどう映っていたのか、尋ねる機会はないのだろうな、と考えて、アーヴェイルは小さく息をついた。
※ ※ ※ ※ ※
アーヴェイルがアリアレインに呼び出されたのは、その日の午後のことだった。
侯爵公邸の広い庭に面した、明るい談話室だった。
「アーヴェイル・メイロスと申します、お嬢様」
いささか緊張して挨拶したアーヴェイルに、アリアレインは頷いて、どうぞ、と椅子を勧める。
「アリアレインです。どうかよろしく、アーヴェイル」
自分で椅子を引いたアーヴェイルが、腰から短剣を外して机の上に置こうとするのを、そのままでいいわ、とアリアレインが止めた。
「あなたはわたしの護衛──まだ、候補とはいえ、護衛なのです。わたしの前で武器を外す必要はありません」
はい、と一礼したアーヴェイルが腰に短剣を付けなおし、改めて腰を下ろす。
「午前中の3本勝負について教えて。1本目で負けて、2本目を取りましたね? わたしには、戦い方を変えたように見えたのだけれども」
「1本目は、正面から先手を取ることを意識して仕掛けました。アストール様の実力は私を大きく上回ります。先手を取られてしまっては勝てません。追い込まれて、そのまま押し切られることになる、と考えていました」
何かを思い出すように、半瞬だけ目を閉じたアーヴェイルが言葉を続ける。
「負けに繫がったのは、7手目の突き──いえ、その前の5手目ですね。アストール様に訊かなければわかりませんが、その先で突きを使うように誘導されていた、と思います。体勢を崩して防戦に回り、押し切られました」
「一手一手、全部憶えているのですか?」
「おおよそは。細かいところまで全て思い出せるわけではありませんが」
「──続けて」
「2本目は、目先を変えなければいけない、と考えていました。同じように先手で踏み込んで、次の手でフェイントを入れて。正面から当たって勝てなかったので、どこかで奇襲するしかない、するならば早い方がいい、と」
「見事に逆を取っていましたね」
「ありがとうございます。アストール様も、どこかで目先を変えてくる、という意識はあったかと。ただ、初手で1本目と同じような動きをしていたので、身体が反応してしまった、ということだと思います」
「3本目は?」
「徹底して受けに回られました。正面から仕掛けてもフェイントを入れても、アストール様にしっかり構えられると攻め切れません。根競べでしたが、そうなるとなかなか──」
わかりました、とアリアレインが頷く。
「負けたのは何故だと思いますか?」
「基本的な力の差です」
アリアレインの質問に、アーヴェイルは即答した。
「受けに回っては力で押し切られるから、自分から仕掛けざるを得ませんでした。アストール様は、私の剣を受け切ればいずれ勝てるという確信があればこそ、3本目で受けに回ることができた、ということだと思います」
「どうすれば、彼に勝てるようになると?」
「身体を鍛えて力をつけること、あるいは、鍛錬を重ねてより速く動くこと、かと」
「それはなぜ?」
「力で押し切れる確信がなければ、受けに回り続けることができません。そうであれば、3本目の展開が変わります。逆に、アストール様が受けに回ったとしても、それを搔い潜れるだけの速さがあれば」
アーヴェイルの返答に、アリアレインがにこりと笑って頷いた。
そのときだけは、年相応の──十代前半の顔になったように、アーヴェイルには思えた。
「よくわかりました。いろいろ聞かせてくれてありがとう、アーヴェイル。下がっていいわ」
はい、と応じたアーヴェイルが立ち上がる。
「最後にひとつだけ教えて。彼に勝てるようになるまでに、どれだけかかるかしら?」
数瞬の間、天井に視線を向けて考えたアーヴェイルが、アリアレインの顔に視線を戻す。
灰色の瞳と深い緑の瞳の、視線が交錯した。
「1年半」
短く応じたアーヴェイルに、もう一度にこりと笑ったアリアレインが頷く。
一礼したアーヴェイルが退出した。
※ ※ ※ ※ ※
「これと思う者はいたか、アリア?」
翌日、侯爵公邸の執務室。
マレス侯爵ランドルフ・ハーゼンは、娘にそう尋ねた。
「ひとり挙げるなら、アーヴェイル・メイロス」
アリアレインが簡潔に応じる。
「理由は」
「全員と話しましたが、頭の良さは彼が飛び抜けている、と見ました。それに、彼は、考えることをけっして放棄しません。アストール殿との立ち合いの折も、実力で劣る自分がどうすれば勝ちうるかを常に考えていた、と」
「あれ自身がそう言ったのか」
「いいえ。でも、打って打たれての一手一手を、彼は全て覚えていて、わたしを娘扱いせず、わたしに理解できるように説明してくれました。なぜ勝てたのか、なぜ負けたのか、も含めて」
一瞬でも気を抜けば負けるであろうあの立ち合いで、自分と相手の手を全て頭に入れながら、考えて戦う。それは確かに、常に考え続けなければ為しえないことではあった。
「剣技のほどはどうなのだ」
アーヴェイルよりも腕の立つ従士はいる。それこそ、今回挙げられた候補者たちの中にも。
それを指摘する父侯爵の言いようにも、アリアレインは引き下がろうとしない。
「今は随一、というわけではありませんが」
「アリア、そなたには、この先が見える、というのか?」
父侯爵の問いかけに、アリアレインはゆるゆると首を振った。
「いいえ、お父様。
でも、彼はまだ17です」
己の年齢を棚に上げて、アリアレインは言い切った。
「まだ身体は育つでしょうし、鍛えるならば伸びしろも大きい。何よりも──」
「なんだ?」
まだ何かあるのか、という風情で視線を向けた父侯爵に、アリアレインは微笑んで言葉を返す。
「彼自身が言ったのです。あと1年半で、アストール殿を追い越す、と」
ランドルフがため息をついた。
勝てないとわかっていた相手にやはり勝てなかった、という風情だった。
「あれは──ここに置いて影にするか、王都へやって騎士にするか、と思っていたのだが」
汚れ仕事を含む何もかもを任せられる直属か、王の直臣として国と国王に仕えさせるか。
いずれにしても、相応の武技と頭脳がなければこなしえないところではある。
そして、ランドルフの言いようは、もうそのようにはできない、ということを認めたものでもあった。
「ならば決まりですね、お父様」
「ああ、決まりだ。アリア、そなた自身で伝えてやるがよい」
※ ※ ※ ※ ※
「アーヴェイル、わたしの護衛兼補佐役は、あなたに決めました」
翌日の午前、2日前と同じ談話室。
アーヴェイルを呼び出したアリアレインは、単刀直入に切り出した。
「──はい」
訝るような半瞬の間のあとで、アーヴェイルはそう答えて一礼した。
「ありがとうございます、お嬢様」
「あなたの実力と資質の為すところです、アーヴェイル。でも、あなた自身が疑問に思っているようだから言っておくわ。わたしが期待するのは、今のあなたに、ではありません。2年後のあなたの実力を買うのです」
「はい」
その言葉だけですべてを理解した表情になって、アーヴェイルは頷いた。
「2年後、わたしは王都に上ります。そのときまでに、護衛としても補佐役としても、あなた自身が恥じないあなたに、」
言葉を切ったアリアレインの灰色の瞳が、アーヴェイルの目をまっすぐに見つめた。
「アーヴェイル、なってくれますか?」
自分がどのような人物に見出されたのか、アーヴェイルははっきりと理解した。
そして、そうであるならば、答えはひとつしかあり得なかった。
「──はい、必ず、お嬢様」