「ハシェック書記官」
出仕して仕事の支度を始めたラドミールに、声がかかった。
振り返ると、ハーゼン家──マレス侯爵家から出向いて仕事をしている祐筆だった。
「当家の名代が、本日の午後、こちらを訪問したい、と。差支えはありましょうか?」
ああ、とラドミールは頷く。
「無論、差支えなどございません。歓迎いたします」
午後に急ぎの仕事はないし、来客の予定もなければ大臣や勅任書記官に呼び出されているわけでもない。当の祐筆も、それを知っていての言葉だろう、とラドミールは思っている。
訪問したいと言っているハーゼン家の名代──マレス侯爵令嬢アリアレインはラドミールにとって、ひとかたならぬ恩のある相手でもあった。
「であれば、書記官」
小さく笑みを浮かべた祐筆が、ラドミールに視線を向ける。
「ええ、少し急いで仕事を片付けてしまいましょう。午後の早いうちまでに」
農部省のこの部署では、そういう慣例になっている。
そうやってわざわざ時間を空けてでも待つだけの価値が、アリアレインの訪問にはある、と、ラドミールも部下の事務官たちも、考えているのだった。

ラドミールがそのように考えるに至った原因は、1年以上も前に遡る。
当時、激務が祟って人が倒れ、その空いた穴を埋めるために更に激務の度が増す、という悪循環に巻き込まれたラドミールは、まさに限界を迎えようとしていたところで、アリアレインに救われた。
誇張なく、文字通りの意味で、救われた、と言ってよい、とラドミールは思っている。
当時の惨状を見たアリアレインは、どうにかしてくれるよう王太子に掛け合うと言い、それが叶わぬと知るや、自らの部下を執政府に送り込んでラドミールたちの急場を救ったのだった。
その後も何かと理由をつけて官吏の増員を拒む式部省とは対照的に、アリアレインは、今もマレス侯爵家の持ち出しで、執政府のあちこちの部署に祐筆やら雑役夫やらを送り込んでいる。彼女は月に数回、ラドミールが働く部署を訪れ、四半刻ばかり書記官や事務官と話をしては帰ってゆくのだった。
かつて世話になり、今もなお世話になっているから、というのが、アリアレインの訪問を歓迎する大きな理由ではあったが、わざわざ時間を空ける理由はそれだけではない。
アリアレインは訪れる際、必ず焼き菓子と茶を携えている。
初めの何回かこそ仕事をしながらそれらを口にしていたラドミールたちも、それはそれで礼を失する行いかもしれないと思うようになり、そしてまたくつろぎながら食べるのでなければ勿体無いのではないか、と思うようになったのだった。
そのような理由で、アリアレインの訪問が告げられた日は、部署の全員がどこか浮き立ったような気分になりながら仕事をこなしている。午後の早いうちにその日のおおよその仕事を片付けてしまい、時間の余裕を作ってアリアレインの訪問を待つ、というのが通例になっていた。
つまり自分も部下たちも、変化のない執政府の日常にもたらされる、ちょっとしたアクセントと楽しみを、そしてそれをもたらしてくれるマレス侯爵令嬢の来訪を、心待ちにしているのだ。
そう気付いて、ラドミールは声を出さずに笑った。
執政府の官僚としてどうなのか、という部分がないではないが、けっして悪い気分ではなかった。

そのようなわけでその日の午後、ちょうどお茶の時間の頃合いに訪れたアリアレインを、ラドミールたちはいつものように歓迎した。
アリアレインが座るための椅子と、いつも持参する菓子を載せるための小さなテーブルまでが用意されている。
「歓迎していただけるのは嬉しいのだけれど」
小さく笑いながらアリアレインが言う。
お付きの護衛役──たしかアーヴェイルと呼ばれていた護衛役も、精悍な表情を心なしか和らげているようだった。
「皆様、お仕事は大丈夫なのかしら?」
「いらっしゃるということなので、普段よりも早めに」
まだ若い事務官の返答に、アリアレインがくすりと笑う。
「あまり上司の方の前で仰るようなことではないのでは?」
「ハシェック書記官からしてそうなのですから」
「──そうなの?」
「ええ、まあ。──はい」
何かと言葉を飾り、あるいは濁すことが得手の官僚であるのに、この年若い侯爵家の名代の前では、どうしても率直な反応をさせられてしまう。
そう思いながら、ラドミールは、むしろ快い気分でいる。
「そういうことならば、手土産を持って訪ねた甲斐があったというものね」
笑みを含んだ口調でアリアレインが言い、振り返ってアーヴェイルに頷いてみせる。
はい、と応じたアーヴェイルが、小ぶりの布の鞄から、持参した手土産を取り出してテーブルに並べた。

「それで、ハシェック書記官」
椅子に腰かけ、自らも持参した手土産を食べながら、アリアレインが尋ねる。
「最近、お仕事はどうなのですか?」
「はい」
口に入っていた胡桃入りの焼き菓子を飲み込んで、ラドミールが応じた。
「今のところ、大きな滞りや問題はありません。もうしばらくしたら、今年の秋の収穫の状況がここへ集まってくる時期になりますので、そうなると少々忙しくはなりそうですが」
とはいえそれも例年通りの話であり、一時的なことでもある。
「人を増やした方がいいかしら?」
「いいえ、それには及びません。ほんの半月かそこらの間です。今、いらしていただいているお二方のみで十分かと」
「忙しい時期は、避けた方が?」
自身の訪問のことを言っているのだ、ということは、特に補足がなくとも察せられた。
「むしろいらしていただいた方が、張り合いがありますが」
笑みを含んだ口調で、ラドミールが応じる。
「そう? 待たれているのなら、来ないわけにいかないわね」
ふたりのやり取りに、部下たちの間に遠慮のない笑いが広がった。
実際のところ、無理な仕事を振るときくらいしか姿を見せようとしない上役たちよりも、アリアレインはよほど歓迎されている、と言ってよい。
忙しいからと言ってその訪問を断ろうものなら、ラドミールが恨まれるようなことにもなりかねなかった。
「ここ、多少なりと仕事が落ち着く時期、というのはあるのかしら」
アリアレインが聞くともなしに尋ねる。
「夏と冬はいくらか。まあ、何もないというわけではないのですが、やはり収穫の時期とその前後が忙しいので──」
ラドミールが答える。
「皆様、お国に帰ったりはできるの? もちろん、もともと王都の出、という方も多いのでしょうけれど」
ラドミールと部下たちが顔を見合わせた。
王都やその近郊、その気になれば週末でも行って帰ってができる者もいれば、陸路なら往復だけで一週間以上、という者もいる。
前者の方が当然、親元に帰る頻度は高く、後者は低い。ラドミールは後者の側だった。
「私はマノールの出ですが、たしかに、ここしばらく、帰っておりませんね。郷里には母がおりますが、最近2年ばかりは仕送りと手紙のやり取りだけです」
本当に忙しかった時期は、それこそ、一言二言を書くのが精いっぱいで、それは到底手紙のやり取りとは言えないものではあったけれど、1年少々前のあの時期を過ぎてからは、少なくとも近況を事細かに書き、母を安心させるだけの余裕が生まれている。
「それは」
アリアレインがかすかに顔を曇らせる。
「あまり良くはありませんね。お母上も、待っておいでなのでは?」
たしかにそれは、侯爵令嬢の言うとおりであるのかもしれなかった。
「余裕がある時期のうちに、少し長めに休んでしまう、というのも良いと思いますよ」
それは理屈ではそうだけれども、と言いたげなラドミールと部下たちの顔色を察したのか、アリアレインはもう一言を付け加える。
「東の方であれば、わたしが用事を作ってあげられますけれど。まあ、良かったら、憶えておいてくださいね」
その後もしばらく他愛のない話を交わして、いつものように、マレス侯爵令嬢はラドミールの職場を辞した。
ほどほどに忙しい日々の仕事の中で、ほとんど忘れかけていたこの日のやり取りをラドミールが思い出すのは、およそ1年ほどののち。
ラドミールにとっても、そしてアリアレインにとっても、大きな転機となる時期のことだった。
