「マレス侯爵令嬢、ハーゼン様。殿下がお会いになられます」

 案内役の侍従の声が控えの間に響いた。

 アリアレインがちらりとアーヴェイルと視線を交わし、立ち上がって一礼する。

 こちらへ、と先導する案内役に従って控えの間を出た。

 長い廊下を案内されながら、アリアレインはちょっとした安堵感を覚えている。

 婚約者との──王太子とのふたりでの会合ははじめてのことだったが、会合に出向いたのは、実は今回がはじめてではない。

 半月前に一度、先ほどまでいた控えの間で、急遽会えなくなったと侍従に告げられた。1週間前には当日の朝、やはり急遽会うことができなくなった、という使いが王都邸に来た。

 王太子は王太子であると同時に、この国の摂政でもある。王の代行者なのだから、王太子は多忙だった。予定にない用件が入ることがあったとしても、それはもうやむを得ないのだ、とアリアレインは自分に言い聞かせていた。

 とはいえ、初回からそれが二度も続いてしまえば不安を感じてしまうところではある。三度目はさすがになかった、というのが、アリアレインの安堵の理由だった。

 廊下で行き合う王室の使用人たちは、いちいち道を開けてアリアレインに丁寧な礼をしてくれる。

 婚約者としてのお披露目は半月と少々前に済んでいる。だから使用人たちの態度は、当然と言えば当然ではあった。それでも、改めて王城でそのような扱いをされると、自分の立場というものが実感できる。

 多くの人にかしずかれるということは、多くの人に見られ、そして期待されるということだ。

 マレス侯爵の令嬢としてならば見過ごされ、忘れられるようなちょっとした過誤やつまずきも、王太子の婚約者であれば見過ごされるはずもなく、あちこちで尾ひれが付くに違いない。

 お披露目と前後するように、王都邸への訪問客は急増している。

 訪問客たちはもちろん味方ではあるのだが、要は侯爵家を通じて王室との接触を図りたい、もう少し遠慮を取り払った表現で言えばおこぼれにあずかりたいというところが本音なのだろう。

 そのような者たちは、彼らが侯爵家と自分を利用できるうちは味方であっても、立場が変われば容易に敵に変わりうる。

 接近してくる訪問客たちを、アリアレインはそのように見ていた。

 であるからこそ期待を裏切るようなことがあってはならないと、アリアレインは考えていた。

 そして、自分であればそれが可能だ、とも思っている。

 そのためにこそ、父侯爵は自分に十分な教育を施し、自分もそれに応えるべく様々なことを学んできたのだから。



 長い廊下を通り過ぎた先、王族のための一画に設けられた、王族の私的な客人を招くための応接室の前で案内役の侍従は立ち止まった。

 ノックした侍従が声を張る。

「マレス侯爵令嬢、アリアレイン・ハーゼン様をご案内いたしました」

「よい、入れ」

 厚い扉の向こうから、王太子の声が応じた。

 振り返ってアリアレインに目礼した侍従が扉に手を掛ける。

 音もなく開いた扉の手前で、アリアレインは室内に向けて一礼した。

「お招きいただきありがとうございます、殿下」

「ああ」

 出迎えた王太子が言葉少なに応じ、こちらへ、とソファを手で示した。

「二度もすまなかった、ハーゼン嬢」

「いいえ、殿下、お忙しいことはわたしも存じております」

 答えたアリアレインに、王太子が小さく苦笑した。

 まあ座ってくれ、とソファを勧めた王太子が侍従のひとりに頷く。

 会釈して腰を下ろすと、すぐに侍女が紅茶と焼き菓子を運んできた。

 テーブルに置かれた彩磁の茶器から、湯気とともに新鮮な果物のような香気が立ちのぼる。

「遠慮は無用だ、ハーゼン嬢」

 そう言ってアリアレインに促し、自分でもカップを持ち上げて口をつける。

「ありがとうございます、殿下」

 紅茶や菓子よりも気になるところはあったが、婚約者の勧めとあればそう答えないわけにいかない。

 一口だけ口をつけると、鮮烈な香りと特徴的な渋みが感じられた。

「南方ものでございますか」

「わかるか。春摘みだ」

「父が幾度か飲ませてくれました。殿下とお会いする折にはこういったものも必要だから、と」

 そうか、と答えて、王太子が小さく笑った。

 その表情に、濃い疲労の影がある。

「僭越ながら、殿下」

 焼き菓子に伸ばした手を止めて、王太子が視線を上げた。

「お疲れなのではございませんか」

「──そなたにも、わかってしまうのだな」

 ため息とともに、王太子が吐き出した。

 誰がどう見てもわかる状況ではあった。

 王が倒れてからおおよそひと月。

 急な病と言われてはいるが、王の病状を詳しく知る者はいない。

 毒なのでは、あるいは呪いなのではと言う者もおり、街では、誰がなぜ毒や呪いをもって大逆を働いたのか、という噂があちこちで囁かれているという。笑止かつ迷惑なことに、ハーゼン家の娘が──つまりはアリアレイン自身が一服盛ったのだ、という噂まで流れていた。

 噂は措くとしても、王が倒れたのだから、国政は王に代わって誰かが切り回さねばならない。

 成人してまだ数年の若い王太子以外に、その資格を持つ者はいなかった。

「陛下のお加減は、いかがなのでしょう」

 尋ねたアリアレインに、王太子は硬い表情で首を振った。

「すまぬがハーゼン嬢、そなたにも教えられないことはある」

「気の利かぬことを申しました」

 頭を下げてアリアレインが詫びる。

 病状がけっして軽くはない、ということは嫌でも察せられてしまった。

「よい。だが、いろいろとあるのだ。いろいろと」

 王が、すなわちこの国の最高権力者が倒れたとあれば、それはもういろいろなことがあるに違いない。

 そのことが王太子を憔悴させているのだ、ということはアリアレインにも理解できる。

「殿下もお休みくださらなければ、お身体に障ります」

「廷臣たちにも言われるがな」

 渋面になった王太子が応じる。

 立場が立場でもあるから、王太子でなければならない役目、というのも多いのだろう。

「差し出がましいことながら、殿下、わたしにできることがあれば、何なりとお申し付けくださいませ。父からも、殿下をしかとお支えせよと言われております」

 アリアレインはそう言って頭を下げた。

 だからアリアレインは、そのときの王太子の表情の変化を見ることができなかった。

 今まで見せていた疲労と苦悩がすとんと抜け落ち、表情が消える瞬間を、見ることができなかった。

「よい」

 平板で冷たい発音に、アリアレインはわずかな違和感を抱く。

 顔を上げたアリアレインに、王太子は表情の削げ落ちた顔のまま、口許だけで笑った。

「婚約者であるそなたに、心配をさせるようなことはないのだ、何も」

 出過ぎたことを申しました、と詫びてもう一度頭を下げながら、あの違和感は何だったのか、そしてあの表情はなぜなのか、とアリアレインは考えていた。



「侯爵令嬢は、お帰りになられましたか、殿下?」

 柔和な笑顔で、内務卿が言った。

 先ほどまでアリアレインが招かれていた応接室にほど近い、小さな談話室。

 王太子と内務卿のほかに、財務卿と式部卿が席に座っている。

「ああ、つい先ほどな」

「いかがでございましたか?」

 余裕のある笑みを浮かべながら、財務卿が尋ねる。

「そなたたちの言うとおりであった。陛下の病状、余への心配、そして援助の申し出。すべて──すべてを口にした」

 王太子の表情は硬いままだ。

「さようでございましょう」

 笑顔で頷いたのは内務卿だ。

 内務卿と財務卿は、隠然と、しかし事あるごとに、宮廷で角を突き合わせている。

 諸卿と呼ばれる各省の長たちは、どの権益を誰がどのように確保するか、という綱引きを、もう幾年も続けているのだと父王は言っていた。

「先代マレス侯爵の忠節は混じりけのないものでございましたが、当代侯爵は随分なやり手とか」

「まさか陛下の御病気に関わってはおられますまいが」

 式部卿と財務卿が口々に言う。

「滅多なことを申されるものではございませんぞ、方々」

 かすかな笑いを含んだ声で、内務卿が窘める。

「もうよい」

 苛立ちの籠もった発音で、王太子が重臣たちの会話を遮った。

「マレス侯の思惑は見えた。あの娘がこの先何を言い出すかは知らぬが、額面どおりに受け取るわけにはいかぬ、ということだ」

 3人の重臣たちが、揃って頭を下げる。

「まさしく仰せのとおりにございます、殿下」

 顔を上げた式部卿が答えた。

 式部卿も無論、宮廷内の権勢争いと無縁ではない。内務卿と財務卿、どちらにどのような貸しを作るか、ということを考えているに違いなかった。

「今でさえマレス侯爵家は東方の要として揺るぎなく地歩を固めております。そして陛下のお決めになられたご婚約。この上、宮廷のあれこれにまで口を差し挟む、となれば」

「さよう、マレス侯爵が有能であられることは誰もが認めましょうが」

 内務卿と財務卿が口々に言う。

「均衡を崩す振る舞い、か」

 重い息をついて、王太子が呟いた。

「利発な娘であると聞く。マレス侯自慢の娘だと」

「さようでございましょう。わたくしどもも、かの令嬢の資質を疑うところではございませぬ」

 財務卿が応じる。

「されど──いや、さればこそ、でございます。マレス侯爵が」

 言葉を切った内務卿が、笑わない目で、王太子と視線を合わせた。

「足掛かり、か」

「心中、お察しいたします。されど──」

 呟くように口にした王太子の言葉に、式部卿が頷いて畳みかけた。

「わかっておる。陛下もいまだ政務を執ることがかなわぬ以上」

「かの令嬢を、うかうかと信用されてはなりませぬぞ」

 財務卿が重々しく告げ、内務卿と式部卿がそれに頷く。

「──わかっておる」

 目を閉じて、王太子は繰り返した。

 灰色の瞳を持つ、切れ長の目が思い出される。

 利発そうな、しかし感情の読み取れない目ではあった。

 ──あの声音までが、演技だったというのか?

 疲れているのではないかと言い、身体に障ると気遣った声までが、自分に取り入るための偽りだとは思いたくなかった。

 ──だが、いずれにしても同じことなのだ。

 あの令嬢がマレス侯の娘であり、手先でありうる以上は。

 個人として信を置くことができようとできまいと、王太子として全面的に信じることはできない。

 下がってよい、と手振りで3人の重臣に伝え、王太子はもう一度、深いため息をついた。



 アリアレインは王太子の婚約者だが、同時にマレス侯爵家の王都における名代でもある。

 それはつまり、王都での他家との付き合いも自分でこなさねばならない、ということでもあった。

 そのようなわけで、アリアレインはその日、十数人の貴族を王都邸に招いて昼食会を開いていた。

 特別な目的があるわけでもなく、王国東部に領地を持ち、王都に出てきている貴族の顔合わせ、という程度の食事会だ。客はおおむね子爵か男爵、ほかに騎士や教会関係者が幾人か。当主本人でなく王都に送った名代が出席している、という家もある。

 おおよそどの家の領地もマレス侯爵領の周辺に位置していたから、マレスでも同じような社交の場は定期的に設けられていた。アリアレインは、幼い頃から父侯爵によってそのような場への陪席を許されていて、今日の出席者の大半と面識があった。

 アリアレインにとってのささやかな問題は、彼らがおおむねアリアレインの少女時代を、あるいは幼女時代を知っていることだった。相好を崩して「おお、あのお嬢様がご立派になられましたな」とでも言われてしまえば、曖昧に笑って、おかげさまで、と頷くくらいしかできることはない。

 なにしろ、彼らの大半が父侯爵と同年代とあっては、娘扱いもやむを得ないところなのだった。

「そういえば」

 会も終わり近くなり、全員に紅茶が供されたあたりで、末席近くに座っていた男爵がふと、新たな話題を口にした。

「このところ、執政府では何が起きておるのですかな。例年ならば届くはずの指示や照会が遅れて届くことが多いのですよ」

「陛下の御不例のためでは、ないのですか」

 病で倒れた王と、急遽摂政に就任した王太子。執政府への影響も小さくはないだろう、と思いながら、アリアレインが問い返す。

「あなたのところもですか。いや、ここ半月ひと月のことではないのです。たしかにここ最近は甚だしいものがありますが」

「そのくせ、期限は例年と変わらぬときている」

 別の男爵が代わって答え、アリアレインに近い場所に座る子爵家の名代が肩をすくめながら付け加えた。

「父もそのようにこぼしてはおりましたが」

 たしかにマレスで父もそのような話をしてはいた。

 その気になればマレスと王都の間に早馬を飛ばさせることもできるから、そこまで大きな影響が出てはいなかったのだろう。

 だが、ここに集まる小領主たちにも、父侯爵と同じような手が打てるわけではない。

 ──誰かが、あるいは何かが執政府の職務を滞らせているとして。

 アリアレインは考える。

 今の殿下に、それに気付いて対処するだけの余裕はあるだろうか。

 わたしにも伝えられない陛下の御病状を抱え、唐突に両肩に乗ってしまった国を支える殿下が、執政府で起きている何かに、気付いて対処する余地があるだろうか。

 ──ありはしないし、あったとしても求めてはならない。

 王城で顔を合わせたときの、憔悴した王太子の表情が思い出された。

 あれだけお疲れの殿下のところに、正体も知れないままの新たな問題など持ち込むべきではない。

 だが、なにか問題が起きていることもまた事実ではあった。

 今できることは何もありません、と突き放してしまえば、それは父侯爵が築いてきた声望を傷付けることになる。

 小さく息をついて、アリアレインは笑みの形に口角を上げた。

「──わかりました。少々調べてみましょう。殿下のところへお話をしに上がるのはそのあとになりますが」

 おお、と同席者たちから声が上がる。

 持ち上がっている問題について、ともかく早く動いてもらうに越したことはない、ということなのだろう。

 実際問題として、執政府の職務が滞っているのならば、誰かがその皺寄せを受けているはずなのだ。

 今回はたまたま貴族たちのところでそれが出たからアリアレインの耳に入った、という話で、これを放置すれば、遠からず領民たちがその煽りを受けることになる。

 いずれ殿下の妻となり、この国の妃となるからには、そういったものを無視するわけにはいかない。

 アリアレインはそのように考えたのだった。



「ひどいものでした」

 あの昼食会から1週間ほど経ったある日の夕刻。王都邸で働く祐筆のひとりは、アリアレインが執務室として使っている書斎で、ため息とともに吐き出した。

「あなたがそう言うのなら、相当のものなのでしょうね」

 座って、と手で椅子を示しながら、アリアレインが応じる。

 では失礼を、と答えて、祐筆が腰を下ろした。

 傍らでその様子を見ていたアーヴェイルが、控えていた侍女に、ふたり分の紅茶を持ってくるように伝える。

「ありがとう、アーヴェイル。でもひとり分足りないわ。あなたも座って一緒に聞いて」

 にこりと笑ったアリアレインが口を挟む。

 ではそのように、と答えたアーヴェイルが、アリアレインの近くの席を選んで腰を落ち着けた。

「実際のところ、執政府はどうなの?」

 侍女が出ていくのを待って、アリアレインが改めて尋ねる。

 執政府にちょっとした用事を作り、それを口実にして、祐筆に訪ねさせたのだった。

「ひどいものです」

 問われた祐筆がもう一度繰り返す。

「本来、もうとうに破綻していておかしくはない。それを書記官たちの尽力でどうにか保たせている。そういう状況でした。ここふた月以上、そういった状態だ、と」

 なるほどね、とアリアレインは頷いた。

 先日の昼食会で聞いた話は、あながち誇張とも言えないようだ。

「それは──手を打つ必要がありそうね。諸卿は何をしているの?」

「何も。おそらく興味がないのです」

「どういうこと?」

「省として最低限の職務が果たされないようであれば、それは諸卿の責任になります。そうなればさすがに、というところでしょうが」

「破綻しないうちは、それを誰がどういうふうに維持しているか、というところを気にしないのね」

「はい。おおむね省にかかわらず、そういった評判でした」

 祐筆の言葉に、アリアレインはため息で答えた。

 およそ人の上に立つ者の態度ではない、とアリアレインは考えている。

 控え目なノックとともに、退出していた侍女が戻ってきた。

 席についている3人に茶を供し、一礼して書斎を出てゆく。

 話し合いが行われているときの、それが暗黙のルールだった。

「いちばん状況がひどいのはどこの省?」

 カップから一口を飲んだアリアレインが尋ねる。

「農部省、商部省、工部省の順でしょうか。あくまでも、見たところと噂話の範囲で、ですが」

 祐筆の返答に、それで十分よ、とアリアレインが頷く。

「何とかしたいわね」

 諸卿は興味がない。

 王太子はおそらく、気付くだけの余裕がない。

 そしてアリアレイン自身には、問題を直接何とかするだけの権限がない。

「アーヴェイル、何かある?」

 補佐役の視線が自分に向けられていることに気付いて、アリアレインが尋ねた。

「はい。まずは執政府の視察を──いえ、視察をしたい旨をお伝えなさってはいかがかと」

「──悪くなさそうね。わたしが執政府の状況に興味を持っていると伝えれば、ということ?」

「はい。それが諸卿に伝われば、彼らとて執政府の現況に興味を持たぬわけにはいきますまい」

 えんにも思えるが、王太子の婚約者としての立場をうまく使える方法でもある。

「いちばん状況が悪いのが農部省だったかしら? では、農部卿ね。他は、農部卿の反応を見てからにしましょう。視察の申し入れをお願い。日取りは1週間以内であちらに任せる、特段の準備は必要ない、と」

 承りました、と祐筆が頷いた。

「内容の下案ができたらアーヴェイルに渡しておいて。アーヴェイル、下案の確認をお願い」

 はい、とアーヴェイルが簡潔に応じる。

「届けるのは明日の朝でいいから、そこまで急ぐ必要はないけれど」

「四半刻で下案をお出しします」

 応じた祐筆に、アリアレインは微笑んで頷いた。

「ありがとう、それなら夕食前に片が付きそうね」



 農部卿から訪問の話があったのは、翌日の昼頃だった。

 その日のうちに、どうしても王都邸を訪問したいのだという。

 アリアレインは夕方の予定を空けて待つ、と応じた。

 ありがとうございます、と一礼した使者──おそらく書記官であろう使者は、早々に王都邸を立ち去った。

 その日の夕刻、農部卿は予告のとおり王都邸を訪れた。

「さようなことは前例がございませぬが」

 書斎に案内してお互いソファに腰を落ち着け、アリアレインから改めて説明を受けると、農部卿の表情が不満に満ちたものに変わった。

「難しく考えるようなお話でもないと思うのですけれども。殿下や陛下が御視察なさることもおありでしょう?」

「それはもう、無論。しかし──」

「出した手紙にも書きましたが、特段の準備は不要です。皆様、お忙しいのでしょう?」

「そうは仰いますがな」

「農部卿閣下、わたしはあなたやあなたの部下の方々の仕事ぶりを云々したいわけではないのです。あなたがたがそうであるように、殿下をお支えしたいだけ」

「そうは仰いますが、いらっしゃるとなれば準備をせぬわけにも」

「無用です。お忙しいのは存じていますから」

「……しかし」

 煮え切らない態度の農部卿に、アリアレインはひとつ息をついた。

「ご内聞に願いたいのですが、東部のいくつかの領主から、疑義が出ているのです。例年ならば届くはずのものが届かない、届いても遅れている、と」

「そ、そのようなことは」

「ええ、仰ることはわかります。領地に問題があるのかもしれませんし、公用使になにかあるのかもしれません。ただ、それを明らかにするには、わたしが見なければ。そうでなければ、彼らにも答えようがないのです」

 わかっていただけますね、とアリアレインは小首を傾げた。

「しかし、1週間以内とはあまりに急な」

「ですから、用意は要らない、と申し上げています。わたしとしても、周辺の諸領の領主たちに何がしか説明をしないわけにはいきません。どうしても、と仰るのであれば、父の名代として、マレス侯爵の名で殿下に申し入れをせざるを得ませんが」

 すこしあからさまに過ぎるかしら、と考えながら、アリアレインは告げる。

 マレス侯爵の名代であるからには、父侯爵の名で王室への取り次ぎを請い、意見や要望を述べることもできる。

 法と慣習に則っているだけに、簡単に断ることもできないはずだった。

「……承りました」

 ぎりり、と歯ぎしりする音が聞こえるような表情で農部卿が頷く。

「視察の申し入れについては、後ほど書面で閣下のもとへお届けいたします。重ねて申し上げますが、特段の準備は必要ありません──むしろ、現況ありのままを拝見したいと考えておりますので、そのような気遣いは禁じる旨、皆様によろしくお伝えください」

 言いながらアリアレインが立ち上がる。

 一拍遅れて農部卿も立ち上がり、一礼して退出した。

 手を付けられないままテーブルの上に残された茶が、農部卿の不満を表しているようだった。



「……あの小娘が」

 軋るような声で農部卿は言った。

「まあまあ、農部卿殿、そう憤慨されることもありますまい」

 余裕のある笑みとともに応じたのは内務卿だ。

 マレス侯爵家の王都邸を訪ねたあと、農部卿は内務卿の私邸に足を向けていた。

 応接室に通され、茶菓を供されて、農部卿はその不満を──自分がいかに不当な要求をされたのかを、ひとしきりぶちまけている。

「いや閣下、これはまさしく閣下の仰ったとおりの流れでございますぞ」

 王太子の婚約者であるマレス侯爵令嬢は、マレス侯爵が己の中央進出の足掛かりとして送り込んだものに違いない。そうであれば、令嬢の動きは宮中のみで済むはずもなく、放っておけば何に口を挟んでくるかわからない。

 それは内務卿が、そして内務卿と事あるごとに対立している財務卿が、こればかりは一致して諸卿に警告しつづけてきたことだ。

 まさしく今、内務卿たちが警告していた事態が起きている。それも自分の膝元で。

 農部卿はそのように考えたのだった。

「無論、油断するわけにはまいりません。しかし我々の想定の範囲を出たわけでもない。違いますか」

 茶の香りをゆっくりと楽しみながら、内務卿が確かめるように問う。

「まあ、それは、たしかに」

 悠然とした態度に勢いを削がれたかのように、農部卿は頷いた。

「要は、あの令嬢の思いどおりに──つまりはマレス侯爵の思いどおりにせねばよい、ということです。何を見たがっているのか、あるいは何をしたがっているのかはわかりませぬが、肝要なのは、執政府のいかなることであれ、最後に御裁可なさるのは殿下、ということですよ」

 内務卿の口が、笑みの形に曲がる。

「我々は、ひとつしかない出口を押さえておきさえすればよい。そこさえ守れていれば、あとはどこで何を見ようと、自由に遊ばせておけばよいのです。あなたも言ったではないですか」

「は」

 普段、いくら笑顔を浮かべてもそこだけは笑わない目が、今はむしろ上機嫌に笑っているようにさえ見える。

 自分が言ったなにを指しての言葉だろう、と訝りながら、農部卿は首を傾げた。

「所詮、小娘の考えることです」

 半拍の間を置いて、農部卿の顔に笑みが広がる。

 それを確かめた内務卿の笑みが大きくなった。

「たしかに、閣下、まさしく」

 くく、と喉の奥で鳴った笑い声は徐々に大きくなり、ふたりは遠慮なく笑い合った。

 その後四半刻ばかり、たっぷりと件の小娘をこき下ろした農部卿は、すっかり機嫌を直して内務卿の私邸を後にしたのだった。



 アリアレインが執政府を訪れたのは、農部卿の来訪から4日後のことだった。

 来訪の翌々日、農部卿から、視察を受け入れる旨の書状が届いた。

 アリアレインの名で正式な要請文を出したのがその更に翌日。

 そして今日、アリアレインはアーヴェイルを伴って、農部省の廊下を歩いている。

 案内する事務官の歩く速さは、どうにも自分のことを意識しているとは思えない早足だ。

 時折行き合う者たちも会釈をしてくれればよい方で、大概は急ぎ足ですれ違うだけ。

 そのような態度ではあったが、アリアレインはそれを、自分が蔑ろにされているとは受け取らなかった。

 ところどころ扉を開けたままで立ち話をしている書記官や事務官がいたが、その内容も口調も、活気があるというよりは殺気立っているといった風情で、つまりは周囲に目を配る余裕が、省全体から失われているのだろう、と思ったのだった。

 国の重要事を決める執政府なのだから、そこでの職務には真剣に取り組んでもらわなければならない。

 だが、それはそれとして、執務に当たるのは人間だ。人間なのだから相応の余裕がなければよい仕事はできない、とアリアレインは考えている。

 たとえば、真剣な仕事の談義のさなかにもちょっとした冗談を言い合えて、それで一笑いして心をほぐすことができるような、そんな余裕だ。今の農部省にはそれがない。

 ──それを確かめられただけでも、来てよかったけれど。

 それだけで満足して帰る、というわけにもいかない。農部卿との間に角を立ててまでここへ足を向けたのだから、なぜそうなっているのか、までを確かめなければ。

 そうアリアレインが考えるうちに、案内役の事務官は、ある部屋の前で足を止めた。

「こちらです」

 アリアレインに告げてから扉に向き直り、ノックする。開いてるよ、とぞんざいな調子で返事があった。

 思わず顔をしかめた事務官に、アリアレインは小さく首を振った。構わないから開けてください、と小声で付け加える。

 恐縮しながら事務官が扉を開けると、中はさして広くもない部屋だった。10ほどの机がふたつに分けて並べられている。それとは別に、部屋の奥まったところに大きな机と、打合せ用ということなのか、その側にいくつかのソファが置かれていた。3人ほどが並んで掛けられそうなソファの上には毛布が丸められている。机のうち3つは空席になっていた。

 空席も含めて、どの机の上にも書類が積まれ、事務官と書記官はそれに埋もれるようにして仕事をしている。入口の近くの席についていた事務官が立ち上がろうとするのを、アリアレインは手振りだけでそのまま、と制した。

 ほんの数瞬の間だけ居心地悪そうに腰を浮かせていた事務官も、奥にいた書記官の視線に気付いてそのまま仕事に戻る。

 アリアレインは、一歩二歩と部屋の隅へ寄り、そこから部屋全体を観察する。随行していたアーヴェイルは、案内の事務官とともに入口のあたりに立つ形になった。

「あの、すみませんが」

 アーヴェイルが廊下を振り返ると、書類の束を両手に抱えた事務官が立っている。この上まだ積むのか、と呆れるような気分で、アーヴェイルは場所を空けた。

「ハシェック書記官、今日届いた分の報告書です」

「……そこの、空いている机の、いちばんそっち側の山だ」

 奥の机に座った書記官が、ぶっきらぼうな調子で応じる。

「そうじゃない、下だ。上に積まないでくれ。順番がおかしくなる」

 言われたとおりの山の上に書類を積もうとした事務官に、書記官が注文する。

 失礼しました、と詫びた事務官が、書類の山を一旦持ち上げて、その下に新たな書類を置いた。

 では、と事務官が退出したのを見送って、アリアレインが口を開く。

「ほかにここで働いている方はおられないのですか」

 自分が話しかけられているのだ、と知った奥の席の書記官が、ひとつため息をついてペンを止めた。視線を上げてアリアレインを見たその目には生気がない。

「おりません。これで全員です」

 簡潔に過ぎる返答に、案内役の事務官がかすかに息を吞む気配がした。アーヴェイルも、傍目にわからない程度に顔をしかめる。貴族に、というよりも、王太子の婚約者に対する礼儀ではなかった。

 だが、ひとつ息をついたアリアレインは、腹を立てた様子もない。

「わかりました。忙しいところ、邪魔をしてしまいましたね。いくらかでも手を増やせぬものか、殿下にお願いしてみましょう」

 言われた書記官は、ちらりとアリアレインに視線を向け、ありがとうございます、と小さく礼を述べて、そのまま書類に視線を戻した。

「アーヴェイル、帰りましょう。いつまでもここで仕事の邪魔はできないわ」

 書記官の態度を気にする風もなく、アリアレインが小声で言う。

 はい、と応じてアーヴェイルが事務官に頷く。もう一度扉を開けた事務官が廊下に出て扉を押さえた。

 廊下に出たアリアレインは、室内を振り返って丁寧に一礼する。

「……書記官がとんだご無礼を」

 扉を閉めた案内の事務官が、言いづらそうに詫びた。

 いいえ、とアリアレインが首を振る。

「わたしが無理を言ってお邪魔したのです。あれほどお忙しいのですから」

 いやしかし、と戸惑う事務官に、わたしは気にしておりません、とアリアレインは重ねて言った。

「目が回るほど忙しいときの来客ほど邪魔なものも、そうそうありません。あの書記官──ハシェック書記官? 彼が職務に忠実であることはよくわかりました」

 ひとまず安堵したらしい事務官が、はあ、と気の抜けた返事をした。

「──ああいった部署は、農部省には多いのですか?」

 このまま帰ります、と告げて歩き出してから、アリアレインは事務官に尋ねた。

「先ほどの部屋が一番忙しいのは確かですが、ほかに似たような部署がいくつかは」

 少しだけ考えてから、事務官は応じた。

「もともと執政府の書記官や事務官は激務なのです。それがたたって身体を壊す者も少なくありません」

 説明が少なすぎると感じたのか、そう付け加える。

「あの部屋でも誰かが?」

「ふたりはそうだったかと。別の部署で書記官がひとり倒れまして。いろいろあって結果的に、あそこから穴埋めで引き抜かれました。元来が激務のところに、抜けた者の穴と時期的な繁忙が重なりまして──」

 事務官の説明を聞きながら、アーヴェイルはなるほど、と考えている。

 ぎりぎりの員数で支えている戦線のようなものだ。

 誰かひとりでも倒れれば、その分の負荷に周囲が耐えられなくなり、被害が連鎖する。そうなってしまえば加速度的に戦況が悪化し、致命的な事態を招くことになる。そうしないためには速やかな増援が必要になるが、今の農部省には増援を出せる余力がどこにもないか、あるいは省全体を見渡して戦力の再配分をする指揮官が欠けている、ということなのだろう。

 考えるうちに、一行は農部省の玄関にたどり着いた。

「今日はお世話になりました。あの部屋の皆様には、お忙しいところ邪魔をした、とわたしが詫びていた旨、お伝えください」

 伝えます、と応じた事務官にもう一度丁寧に礼をして、アリアレインは馬車に乗り込んだ。

 アリアレインに手を貸したアーヴェイルが続いて乗り込み、馬車はゆっくりと走り出す。

 一礼して見送った事務官は、また早足で庁舎へと戻っていった。



「アーヴェイル、あなたどう思う?」

 走り出した馬車の中で、アリアレインが尋ねる。

「あれを、ですか」

 問われたアーヴェイルは、何かを思い出すように視線を天井に向けた。

「時間の問題でしょうね。あれでは遠からず、あの中の誰かが倒れます。そうなったらあの部署は間違いなく破綻する」

 視線を戻したアーヴェイルが断言した。

 小さくため息をついたアリアレインが頷く。

「残念ながら、わたしも同意見。彼らはよくやっていると思うけれど」

「はい。執政府の官吏として期待される以上のことはしていると思います。ですが、状況が悪すぎる。絶対的な員数の不足は、彼らの力量でどうにかできる範囲を超えています」

 そうね、とアリアレインがもう一度頷いた。

「書記官の補充はすぐにとはいかないでしょうが、事務官だけでも増員すべきかと」

 人手が足りないことが問題の原因なのだから、解決するのならば人手を増やすほかはない。

 アーヴェイルの案は手堅い正論と言えた。

「──殿下にお願いするのは心苦しいけれど」

 言いながらアリアレインは、王太子の、疲労の影の濃い表情を思い出していた。

 ──あの疲れ切った殿下のところへ、またひとつ問題を持ち込まねばならないとは。

 王太子が疲弊していたからこそ、アリアレインは執政府の状況を自分の目で確かめてから話を持ち込むことを選んだ。せめて解決策とともに持ち込まねば、婚約者としての務めを果たしたことにはならない、と考えている。

「致し方ありません。大臣に話して埒が明かなかったのです」

 アーヴェイルがきっぱりと断じた。

 そもそも王太子が執政府と大臣たちの舵取りを行えていれば、このような事態は防げたはずだ、とアーヴェイルは思っている。

「それはそうなのだけれども、ね」

 そう応じたアリアレイン自身も、原因の半ばは王太子にあるということを理解してはいる。

 だが、それはそれとして、今の王太子の状況を捨ててはおけない、とも思っていた。

「アーヴェイル、明日から3日ほど、あなたに執政府での用事を作るわ。人がどこでどう足りていないのか、視察を受けて諸卿がどう動いているのか、そのあたりを見てきてもらえる?」

「かしこまりました、お嬢様」

「そのあとで穴を埋める方法を考えます。一時的にうちの祐筆を貸すことになるかもしれないわね」

 アーヴェイルは黙って一礼した。

 口を差し挟むべきところではなかったし、解決策としても妥当なところと言える。

 そうであれば、アーヴェイルの取るべき行動は決まっている。

 全力でお嬢様を支えること。それが補佐役としてのアーヴェイルの役回りなのだ。



「──どういうことなのだ?」

 王城の談話室に、苛立ったような王太子の声が響いた。

 王太子エイリークは、不機嫌さを隠そうともしない。

 もとより己の気分を表に出して咎められる立場でもないからだった。

「はて」

 内務卿が柔和な笑顔のまま、首を傾げる。

「執政府の視察の一件でございますが──お聞き及びではございませんか、殿下?」

 知っていて当然ではないのか、とでも言いたげな口調だった。

「視察? 聞いておらぬ。なんだそれは」

 訝るように、王太子の眉根が寄る。

「ですから、ご婚約者様──マレス侯爵令嬢が、執政府の視察をなさったのでございます。大事でございますから、わたくしどもも当然、殿下へのお話はなさっているものと──」

「いや」

 顔をしかめた王太子が応じる。

「初耳だ」

「ご婚約者様にはご婚約者様のお考えあってのこととは存じますが」

 笑みを浮かべた内務卿が頷く。

 それを見た王太子の表情が、また一段険しくなった。

「いよいよ、そなたたちの言うとおりなのかもしれん」

 婚約者である娘を足掛かりに中央へ。

 やり手と評判のマレス侯爵であれば、考えていておかしくないところではあった。

「侯爵閣下同様、御令嬢も相当な才の持ち主とお聞きします」

 式部卿が口を挟む。

「残念ながら殿下、完璧な組織などというものはございません。あの御令嬢であれば、執政府の中から、ひとつふたつのきずは見つけ出せましょう。わたくしどもの想像が正しければ──」

「動きがあるはず、ということか?」

「まさに、殿下。たとえば責任者への叱責や処罰を殿下のところへ持ち込む、またたとえば組織なり人なりを動かして現状を変えようとするなど、いくつか想定はできましょう。無論、かの御令嬢の動きがどういったものか、事前にすべてを知ることはできかねますが」

 頷いて、財務卿が言った。

 それでも諸卿の想定の範疇を出るものではない、と、財務卿は暗に告げている。

「心づもりをしておけばよい、と?」

「ええ、殿下。かの御令嬢がなにを企んでいようとも、殿下を通さずにそれを進められるわけではございません。それに、何をするにせよ、予算と情報は必須のものでございますからな」

 財務卿の言葉に、王太子はわかった、と頷いた。

「叱責や処罰の話は一旦、余のところで止めればよかろう。金のかかる話であれば財務卿、そなたの意見を求めればよいのだな」

「まさしく、殿下」

 望む答えを引き出したということなのだろう、財務卿が笑顔を大きくして頷いた。

 王太子が立ち上がり、内務卿と財務卿、そして式部卿がそれに倣う。

「余は執務室へ戻る。そなたたちは執政府の中を引き締めておけ。あれに限らず、付け入られるような隙を作らぬようにしてもらわねばならん」

 3人の大臣が一礼して王太子を見送る。

 王太子が出ていった談話室で、3人の重臣は目配せを交わし合い、声を出さずに笑った。

 ──あの小娘が何を企んでいようとも、ひとつしかない出口を押さえておきさえすればよい。

 その方針を押し通し、自分たちの縄張りを守ることに、彼らは成功したのだった。



「執政府に動きはありません」

 淡々とした調子で、アーヴェイルが報告した。

 視察から丸3日、執政府に出入りしながら様子を窺っていた、その報告だった。

「そう。結局、わたしたちがどうにかするしかない、ということね」

 ため息をつくように、アリアレインが応じる。

 諸卿の領分である執政府の中のことについて、口を挟まずに済むのであればその方がよい、と考えていた。だからこそ視察の話を農部卿に持ち込み、現況を問題視していることを伝えるという、アーヴェイルの案を採り上げたのだ。

「それで、アーヴェイル、人数の当たりはついた?」

「部署によって人数は変わりますが、多いところで4人、というところです。恒常的に必要な人数となると半分以下に落ち着くとは思いますが、まずは溜まったものを片付けないことには」

 アリアレインの問いかけに、アーヴェイルが応じた。

「新たに人を雇うにしても、執政府のやり方に慣れるには時間が必要だと思うけど」

「仰るとおりかと。しかし、書類の作成を肩代わりするだけでもそれなりに違いはありましょう」

「それで最大4人、ということ?」

「はい。申し上げたとおり、いま滞留している仕事をどうにかするための人数です」

「時間はどのくらい?」

「半月の想定です」

 アーヴェイルの返答に、アリアレインが頷く。

「ひとまずそれで計画を立てましょう。数は事務官と臨時雇いを合わせて20人以内。部署ごとの優先順位をつけて、人繰りの調整をします。祐筆たちは自由に使ってくれていいわ。出来上がったら、わたしに見せて。早い方がいいと思うから、3日以内に殿下のところへ持ち込むつもりで」

「かしこまりました、お嬢様」

 アーヴェイルが一礼して執事に頷き、ともに退出した。

 祐筆たちとともにアリアレインが示した条件に沿って、どれだけの人数を、いつどこに送るかの計画を、これから立てることになる。3日以内に王太子のところへ話を持ち込むのであれば、今日明日中には案を作り、アリアレインに確認してもらわねばならない。

 忙しくなりそうではあったが、アーヴェイルはそのことについて不満を感じてはいなかった。



 翌日に計画を取りまとめて王太子への使いを出し、アリアレインが王太子との面会を許されたのはその更に翌日だった。

 執政府の現状と対策についての相談、と伝えると、では諸卿もともに聞こう、という返事だった。農部卿の反応を思い出し、アリアレインは少々気が進まない思いになっている。

 とは言え、人払いをしなければならないような話ではないし、いずれ執政府の──つまりは諸卿の側にも、通さなければいけない話でもあった。

 そして、気が進まない話とはいえ、今後無数に生じるであろう軋轢の、最初のひとつと考えなければいけない、という意識もアリアレインにはある。

 そのような経緯で、アリアレインは、王太子の執務室に設えられた討議のためのテーブルの、その末席に着いていた。

「伝え聞くところによればここ最近、執政府において、一部の業務が滞っているとのことでございます。先日視察をしたところ、たしかにそくぶんのとおりであり、その影響は各所の領主へも及んでおりました。今のところ、民に直接悪影響が及んでいるものではございませんが、この先についてはどうなるか、判然としません」

 アーヴェイルにまとめさせ、祐筆たちに清書させた書面を王太子に渡して、アリアレインは前置きなく切り出した。細長いテーブルの両側に座った諸卿の幾人かが顔をしかめる。

「ハーゼン嬢、仰るところは理解いたしますが、これはいささか──」

「確実なことは」

 口を挟んだ式部卿にちらりと視線を向け、強い口調でアリアレインは言葉を続けた。

「現状をそのままにするのであれば、遠からずいくつかの部署の業務が破綻する、ということです。そのような事態に至ったならば、それは執政府にとっての傷となるのみならず、殿下にとってもきんとなりましょう」

 式部卿が顔を引き攣らせて押し黙った。

「──これを防ぐためには、早急な対応が必要と考える次第です。僭越ながら、当家で作成した案を持参いたしました。どうか御賢慮を賜りますよう」

 渡された書面に視線を落とし、黙ったまま聞いていた王太子が、小さく頷いた。

 そのまま、近くに座る財務卿の前へとテーブルの上を滑らせる。

「ハーゼン嬢、そなたの言いたいことはわかった。だがこれはそなたの言うとおり、執政府のやりように関わる話でもある。諸卿の言い分を聞かずして決めるわけにもいくまい──財務卿?」

 書面を渡され、紙面にちらりと目を走らせた財務卿が、にこやかな笑顔をアリアレインに向けた。

「ハーゼン嬢、ご趣旨については、我々とて反対するものではございません」

 言いながら、書面を対面に座る内務卿のもとに、ついと押す。

「しかしこれは、いささか性急ではございますまいか。ことは執政府のありようにも関わるお話、慎重にも慎重に検討をせねばなりますまい」

 いかがですかな、と財務卿は座を見渡した。

 重々しく頷く者、目を閉じて黙考する者、窺うように王太子と周囲に視線を送る者。

 反対の意を示す者はひとりもいない。

「わたくしはこの案自体に反対するものではありませんが、財務卿閣下」

 渡された書面に目を通した内務卿が、笑みを浮かべながら言う。

「実現するとなれば、相応の費えとなりましょうな?」

「いやいや、ハーゼン嬢はよくお調べでいらっしゃる。それ、そこにも記してございますが」

 水を向けられた財務卿が、書面を指さしながら笑って応じた。

 アリアレインたちが取りまとめた書面には、必要となる事務官や庸人の数、想定される期間と予算についても書き記してある。検討を重ねた妥当な数字のはずだった。

「──なにか間違いでもございましたか?」

 努めて平静であろうとしたアリアレインではあったが、声が硬くなることは避けようがなかった。

「よくできた数字でございますよ、ハーゼン嬢。しかし殿下のご婚約者様とはいえ、ここに書いてある数字は、あなた様の自由にしてよいものではございますまい」

 財務卿の口調と態度は、丁寧というよりもいんぎんれいと言ってよいものだった。

 世情を知らない小娘にものを教えてやろう、という意図が透けて見えている。

「執政府で働く者の俸給は国庫から、でございますからな。つまりもとをただせば、民が必死に働いて納めたものでございましょう」

 内務卿が、財務卿の言葉を引き取るようにして付け加える。

 ──それをうまく使えているのなら、わたしも口を挟んだりしないというのに。

 居並ぶ諸卿と自分との間の認識の差に愕然としながら、アリアレインは、どう反論すべきかと考える。

「ハーゼン嬢、あなたの御懸念はわかります。ご提案もしかと承りました。しかし執政府のことは執政府にお任せいただけませんか。さきに内務卿が申されたように、相応の費用がかかるものでもございます」

「それに元来、執政府の問題はそこに勤める書記官や事務官の問題でもございます。各々が全力を尽くせば、ハーゼン嬢がご心配されるようなことには及びますまい」

 ──ほんとうに彼らは、文字どおりの意味で、何も見ていないのか。

 式部卿と農部卿の言葉を、アリアレインは力が抜けてゆくような心境で聞いていた。

 だが、脱力していて済むような話でもない。彼らの言い分を黙って吞んでしまえば、書記官たちは現状のままに放置されることになるだろう。

「国庫の費えが──さようなことが問題であるのならば」

 意識して背筋を伸ばし、顔を上げ、アリアレインはその場に集まる廷臣たちに向けて、はっきりとした口調で切り出した。

「もうよい」

「──殿下?」

「もうよい、と言ったのだ」

 思わぬ場所からの横槍に、アリアレインの言葉が止まる。

 王太子はテーブルに肘をついたままの手を軽く振って続けた。

「この件は余が預かる。言ったであろう、婚約者であるそなたに、心配をさせるようなことはないのだ、何も。どうしても納得がいかぬのであれば、ハーゼン嬢、そなたの好きにするがいい」

 その場の全員の視線が自身に集まったことを確かめるような間を置いて、王太子は付け加える。

「──ただし、国庫に手を付けることは許さぬ」

 廷臣たちが一斉に頭を下げ、王太子の言葉への賛意を示す。

 半拍遅れて、アリアレインも頭を下げた。

「ハーゼン嬢、そなたの提言はたしかに聞き届けた。ご苦労だった。下がってよい」

 それが、会見を終えるという合図の一言だった。



「──お嬢様」

 控えの間に戻ったときも、そしてそこから廊下を歩く間も一言も発することなく馬車に乗り込んだアリアレインに、アーヴェイルは低い声で呼びかけた。

 今までこのような態度を見たことはない。何か、それもお嬢様にとってよくない何かがあったのだろう、と察している。

 馬車の天井に視線を向けたアリアレインが、深くため息をついた。

「駄目だった。甘かったわ。諸卿も殿下も、執政府をあのままにしておく気になっていたなんて」

 アリアレインとしても、正論ならば必ず受け入れられる、などということを考えていたわけではない。

 だが、諸卿の全員が揃って抵抗し、王太子がそれに同調するとは思っていなかった。

 そこまでか、とアーヴェイルもあんたんたる気分になった。

「執政府に馬車を回して」

「執政府、ですか」

 この上執政府に何の用事が、と思いながら、アーヴェイルが問い返す。

「ええ。あの書記官──ハシェック書記官にお詫びをしなければ。力が及ばなかったのですから」

「お嬢様が責めを負うべきものでもないとは思いますが」

 必要な情報を集め、必要な提言をした。

 拒否した上は、その決断をした者こそが責めを負わねばならないはず。

 そういった意味のアーヴェイルの言葉に、アリアレインは、ふ、と息をついて応じた。

「それでもね。わたしが殿下にお願いすると言ったのよ。その結果が出たならば伝えるのはわたしの役目なの。そして望む結果が出せなかったのだから、伝えるのはお詫びの言葉以外にないでしょう」

 小さく笑って付け加える。

「それともアーヴェイル、あなた、わたしが『全部殿下のせいです』なんて台詞を口にするところを見たいの?」

 つられるように、アーヴェイルも小さく笑った。

 たしかにそんなところを見たくはない。そもそも、想像できない図ではあった。

「いいえ、お嬢様。そのようなことは──あなたには、相応しくありません」

 側についてからおよそ2年。

 アーヴェイルの見る限り、アリアレインは、己の及ばなかった部分の責任を、他人に負わせるようなことはなかった。失敗そのものが多くはなかったけれど、数少ない失敗も常になぜと自問し、自分の何が足りなかったのかを突き詰めて次に活かそうとするのが、アーヴェイルの知るアリアレインだった。

「『相応しくない』なんて、高く評価されたものね。嬉しいわ、アーヴェイル」

「何も出ませんよ、そんなことを仰っても」

 軽口を叩いてくれてよかった、と思いながら、アーヴェイルはアリアレインの言葉を受け流した。

 小さな窓越しに、御者に行先を告げる。

 石畳に車輪の音を響かせながら、馬車はゆっくりと走りだした。



 執政府で来意を告げると、すぐに農部省へと案内された。

 行先は無論、以前訪問した際に言葉を交わした書記官の部屋だった。

 扉が開けられるとアリアレインはまっすぐに部屋の奥の書記官のところへ歩く。

「申し訳ありません、殿下にあなたがたの窮状を伝えきれませんでした」

 開口一番、頭を下げてそう詫びる。

 書記官の顔に驚きが広がる。まさかいきなり謝罪されるとは思っていなかったのだろう。

 そもそも再度の来訪があることも、そして王太子に己の部署の状況が伝えられることも、期待していなかったに違いなかった。

「ああ、その、お顔を上げてください。お気持ちだけで。ええと──」

「アリアレイン・ハーゼンです、ハシェック書記官」

「失礼を、ハーゼン様」

 立ち上がろうとする書記官を、アリアレインは手振りで制した。

「どうかそのままで、書記官。幾度もお邪魔をしてしまいますが、次はもう少しよい話を持ってきます」

 そう言われた書記官は、次席と顔を見合わせた。

 信じてよいものかどうか迷っている、という表情だった。

 伝えるだけのことを伝えて、アリアレインはすぐに農部省を辞した。

 そのまま馬車に乗り込み、王都邸へと向かう。

 動きだした馬車の中で、アーヴェイルはアリアレインに問いかけた。

「お嬢様、あのようなことを仰ってよかったのですか?」

 そうね、とアリアレインが応じる。

「あの書記官たちには手助けが必要です。アーヴェイル、あなたも言っていたでしょう?」

「はい、お嬢様、たしかに申しました。時間の問題、と」

「だから今すぐ動かなければ。彼らも農部省そのものも、見捨てるわけにはいかないもの。それにね、今回は完全に失敗した、というわけでもないのよ」

「と申されますと?」

「好きにしてよい、と仰ったのよ。殿下が。国庫に手を付けぬ限りは、と」

「──それは」

 国庫に手を付けないということであれば、正規の事務官として新たな人員を配置することはできない。

 そして、雇った者たちが働く分は、すべて侯爵家の持ち出し、ということになる。

 だがそれでも、執政府が抱える問題を解決する糸口だけは、作ることができたと言ってよかった。

「まずはうちの祐筆をあそこへ送りましょう。その次に、わたしの裁量で動かせるお金で人を雇います。そのあとは、お父様とお話をしなければ。すぐに解決できる話でもないけれど、放り出すわけにもいかないから」

 自分の知るいつものお嬢様だ、と思いながら、アーヴェイルははい、と頷いた。

「そういうわけだから、悪いけれど、アーヴェイル」

「はい」

「しばらく、忙しくなるわよ」

「──はい」