王太子エイリークの憤激


「どういうことなのだ?」

 王太子エイリーク・ナダールは苛立ちを隠そうともしなかった。

 もとより己の気分を表に出して咎められる立場でもない。

「ですから教会が──大司教猊下も臨席しておられる、とのことで」

「それはもう聞いた。なぜそのようなことになったのか、と尋ねておる」

 それはその、と報告に来ていた法務卿が口ごもる。

「なぜ教会が我が物顔でマレスの屋敷に陣取っておるのだ。公布と時を同じくして接収に出向いたはずではないか。──式部卿? なにか手違いでもあったのか?」

 は、と応じた式部卿の顔色は冴えない。

 2日前に王太子と方針をすり合わせ、手抜かりのないよう部下たちを叱咤して必要な事務を片付けさせた。布告の内容は、これも部下の書記官たちに命じて二度、確認させた。

 内容にも手順にも、そして布告の先にも手違いはないはずだった。だが、何が起きたのか把握できていない点では、式部卿も法務卿と同様だった。

 ひとまず何か言わねば、と式部卿は口を開いた。

 侯爵家王都邸の接収が失敗に終わったこと自体はやむを得ないとして、その失敗を己の責任とされることだけは避けなければならない。

「さようなことはございませぬ。王都の各市門、王城の城門、商館、それに聖レイニア聖堂ほか主だった教会と広場──通例のとおり、日の出から各所への掲示をもって正式に布告を行っております。また、各所領への布告についても早馬を出しております」

 己と己の部下が担当する部分について、手違いがなかったことを並べ立て、これは自分の責任ではないのだ、と強調する。

「わ、わが部下どもも日の出と同時に侯爵家王都邸へ踏み込もうといたしましたところ──」

 法務卿も、考えているのは似たようなことであったらしい。

 事前の取り決めどおりにやっていたのだ、と法務卿が言い募ろうとしたところを、王太子がうるさそうに手を振って遮った。

「教会が既に入っておった、ということか。連中は一体、何と言っておるのだ?」

「は、それが──わけのわからぬことを。ここは『アリアレイン記念王都修道院』であるゆえ許可なき立ち入りは許されぬ、とかなんとか」

 法務卿が発した言葉に王太子の顔が歪む。

「──どういうことなのだ?」

 更に苛立った声音と表情。

 この状況で、己が追放した令嬢の名を聞くとは思っていなかったのだろう。

 もっとも、集まった重臣一同にしても、意外、という点では王太子と同様だった。

 お互いに顔を見合わせ、首を傾げるばかりだ。

「──あ」

 同席していたノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールには、思い当たるところがあった。

「どうした、ノール伯」

「殿下、かの追放者は、教会に屋敷を寄進したのではございますまいか」

 追放された者は人としての権利すべてを剝奪される。物の所有や取引から生命身体の自由に至るまで、すべてを。追放を境に、物の売り買いはできなくなり、売掛や買掛は『なかったこと』になり、追放者から何を奪っても罪に問われない。追放者が傷付こうが殺されようが法は追放者を保護せず、加害者を罰しない。

 追放を境に、であるから、当然のことながら、追放以前であれば取引は可能だ。

 そして寄進は一種の取引と言える。

「3日前、当家の者が、聖レイニア聖堂でかの追放者を見かけております。わたくしめはそれを、遁世の準備と考えましたが──」

 そうでなかったとしたら。

 ──話が合わない。あの令嬢が理由もなくそんなことをするはずがない。

 あのとき自分は、そう考えたのではなかったか。

 今のこの状況こそが、あの令嬢がわざわざ聖堂に出向いた理由、ということだったのではないか。

「わざわざ寄進の談判に出向いたとでも言うのか。馬鹿な。そんなことをして侯爵家とあれに何の利があるというのだ」

「……我らの手に渡さぬため、としか」

「単なる嫌がらせではないか、それでは」

 いまいましい、と王太子が吐き捨てる。

 それ自体が相当の財産である王都の屋敷を、ただ王室に接収させないためだけに教会へ寄進するなど、想定の外にあるやり口だった。

「強いて挙げるならば、教会への貸し、というところかと」

 ルドヴィーコが付け加える。

 値を付ければ相当なものになるであろう家屋敷も、数日で売れるようなものではない。

 代金にしてもぽんと出せるものではないから、普通ならば年賦になる。追放される侯爵令嬢には、それでは意味がない。

 であれば、教会へ渡してしまい、何らかの見返りを受け取るか貸しを作るか。

 理屈で言えばそうなる。

「待て待て、ノール伯、そなたの家臣が聖堂であれを見かけたというのは3日前であろう?」

「はい、殿下、さようでございます」

「追放を言い渡した翌日の昼だぞ。たかだか17の小娘が、1日も経たずにそこまでできるものか?」

「実行するとなれば胆力も決断力も行動力も、よほどのものが必要ではございましょう。しかし、事実を見る限りはそのようにしか」

 ぐぬう、と呻くような声を上げて王太子が腕を組む。

 目的や経緯がどれだけ信仰とかけ離れていようとも、ひとたび教会に寄進されてしまった財産を、王太子が取り上げることはできない。

 いかに王太子と言えど、教会と正面切って事を構えるのは容易なことではないからだった。

 王太子が教会と事を構えてしまえば、それはもはや王太子個人だけの話でなく、王室そのものが教会の権威に背いたと見なされる。そして、そのことへの報復は王国全体に波及する。戴冠式や婚儀、葬儀などの式典をはじめとして、教会が関わる儀式は枚挙に暇がない。

 それらから手を引かれてしまえば、戴冠した王も結婚した新たな夫婦も、神からの祝福を得ることができない。そもそも司式は儀式を主催する者の身分に見合った地位の聖職者というのが通例だから、滞りなく儀式を進めること自体が不可能になってしまう。

 教会にとって、世俗のものとして行われた判断にはそうたやすく口を挟めないのと同様に、王室の側からも、教会に手出しをできない理由があるのだった。

 王太子がひとつ息をつき、組んでいた腕をほどいてさっと振る。

「──もうよい、屋敷の件はやむを得ぬ。所詮、追い詰められたあれの悪あがきに過ぎん。法務卿、確認しておけ。寄進の証拠がなければ、そこから覆す」

「は、そのようにいたします」

 王太子と法務卿のやり取りを傍で聞きながら、ルドヴィーコは、あの令嬢ならば、と考えていた。

 書面まできっちりと作り上げているだろう。簡単に調べただけでわかる隙などあるはずがない。

 一通りの話が済み、気まずい沈黙が落ちた部屋に、侍従が入ってきた。

 ルドヴィーコのそばに寄り、二言三言と耳打ちをする。

 なぜ自分に、と口に出しかけて、ルドヴィーコは理解した。

 内大臣就任は公表こそされていないものの、宮中では既定の事実として共有されている。つまり、ルドヴィーコは既に、王太子の側近として扱われているのだった。

 気が付くと、室内の全員が──王太子を含めた全員が、自分に注目していた。

 何とも言えない居心地の悪さを感じながら、ルドヴィーコは王太子のもとへ歩み寄る。

「殿下、近衛騎士団長がお目通りを、と。マレス騎士館の件とのことでございます」

「また何か──まあよい」

 低い声で告げたルドヴィーコに、一瞬顔をしかめた王太子が頷く。

「通せ」

 ルドヴィーコが侍従に命じると、侍従は一礼して引き下がった。

 ややあって、近衛騎士団長の入室を告げる声が響いた。

 扉が開かれ、略装の近衛騎士団長が姿を現し、王太子の前まで進み出るとうやうやしくひざまずいた。

「殿下におかれましては──」

「仰々しい挨拶はよい。そなたはマレス騎士館の接収に出向いたのであったな」

「はい、殿下、仰せのとおりでございます」

「また人手にでも渡っていたか、それともマレスの騎士どもが立て籠もってでもいたか?」

「いいえ、殿下、騎士館はもぬけの殻でございました。扉を破ったほかは、滞りなく接収してございます」

 ふむ、と王太子が頷く。

「さすがに騎士館までは手が回らなかったと見えるな。──して、騎士団長、そなたの報告はそれだけか?」

 接収に出向き、それが首尾よく済んだというだけの話であれば、近衛騎士団長のような重職にある者が報告に来る必要はない。何らかの不首尾があったからこそ、と考えるのが常識的な線ではあった。

「はい、殿下、騎士館の広間にこれが残されておりました」

 騎士団長が捧げ持つように、両手で一振りの短剣を差し出した。

 柄にも鞘にも、華美な装飾が施されている。

「──それは」

 短剣を目にした式部卿が、思わず、という態で声を上げた。

「陛下御下賜の短剣ではないか」

 騎士に叙任された者は、みな国王から短剣を受け取る。

 王都で最高の鍛冶師によって鍛えられ、王室お抱えの細工師によって装飾を施されたそれは、騎士たる身分の証であり、誇りそのものと言えた。

 であるから、騎士はいついかなるときでもその短剣を隅々まで磨き上げ、肌身離さず持ち歩く。

 死んだあとですら離すことはない──葬儀の際には棺に入れられ、遺体の胸の上に置かれるのが通例である。

 それが騎士館の広間に置かれていた、ということは。

「その一振りだけか?」

 険しい表情になった王太子が問う。

「いいえ、殿下、26ございました──マレス騎士館に滞在していた騎士の人数と同数でございます」

「──どういう、ことなのだ?」

 王太子の言葉は内に押し込めた怒りを示すかのようにくぐもっている。

「畏れながら、殿下、わたくしめには、ひとつの理由しか思い当たりませぬ」

 答えるルドヴィーコの声に震えが混じる。

「言ってみよ、ノール伯」

「マレス騎士の全員が騎士館を離れ、いまだ戻っておらぬこと、そして置き捨てられた短剣を考え合わせますれば──」

 このようなことを口に出したくはない。

 口にするのも恐ろしい。ルドヴィーコは心の底からそう思った。

 その意に反して、ルドヴィーコの舌は言葉を続ける。

「陛下との主従関係を解消したいとの意思表示──つまりこれは、マレス騎士たちの謀叛かと」

 王太子が、すさまじい形相で差し出された短剣を睨みつけていた。

 全員が固唾を飲んで見守る中、王太子は騎士団長の手から短剣を取り上げ、息を大きく吸い、そして吐いた。

 ひざまずいたままの騎士団長の肩を叩き、立ち上がらせる。

「ご苦労であった。そなたは下がってよい──ああ、騎士館に戻ったならば、いつでも出られるよう支度しておけ。そなたの部下たちもな」

 は、と答えた近衛騎士団長が、騎士の礼を取って退出した。

「軍務卿を呼べ。今すぐにだ」

 重臣たちと侍従が残った部屋に、王太子の声はむしろ平板に響いた。