奏任書記官ラドミールの選択


 奏任書記官ラドミール・ハシェックは、母が暮らす小さな家の寝室で目を覚ました。

 王都で指示された公用は昨日、どうということもなく済ませた。

 代官所に封書を届け、そのまま空いている机を借りて、道中見てきたあれこれを取りまとめた。

 見た限りでの大まかな収穫の予測、通り過ぎた農村の状況、同宿した旅商人から聞き出した噂話。

 状況はおおむね馬車の窓から見たとおりで、取り立てて変わったところはなかった。作況は平年並みかやや良い程度、特に問題を抱えているような様子は見当たらない。

 もっとも、王都の近辺、3日行程のここマノールのあたりまでで問題が生じているようであれば、そのことはもうラドミール自身の耳にも入ってきていておかしくはなかった。だからラドミールは、何事もないという事実を確かめただけ、とも言える。

 それでも、ラドミールは、事実を自分の目で確かめられたことに、それなりの満足を覚えていた。

 直轄領の代官たちや貴族の所領からの報告を、ラドミールは普段、執政府は農部省の執務室で受け取っている。

 よほどのことがなければ──たとえば大規模な天災や凶作といった、王国そのものに重大な影響が出るような事態がなければ、執務室から外に出て、自分の目で現場を確かめるような必要はない、と考えられているからだった。

 無論、それで執務に大きな問題はない。だが、領単位の大摑みで作成される報告書には、村のひとつひとつで何が起き、どこの村がどのような問題を抱えているか、といったことはけっして書かれない。

 実地に見なければわからないことは多々あるし、己の仕事がどこにどのような影響を与えているものか、あるいは逆に、己の仕事に影響を与えそうなことがどこでどのように起きているか、実感することもできはしないのだ。

 何事も仕事に引き付けて考える癖は、ある種の職業病と言えるのかもしれない。

 だが、自分のそういった部分を誇りに思う自分もいる。執政府に、ひいては王国に、奉職するということはそういうことなのだ。

 酒を飲んだ翌朝に特有の強い喉の渇きと、そして薄く布をかけられたようなぼんやりとした頭のまま、ラドミールは取りとめもなく、そんなことを思っていた。

 高等文官試験に合格して故郷を発ったそのときのままに母が整えてくれていた部屋で、おそらく3年間誰も寝ないまま手入れだけはされていたベッドに横たわり、ラドミールは懐かしい天井を見上げている。

 昨日ラドミールは、旅の途上で買った土産と、そして少々いい酒を手に、母のもとを訪れていた。

 唐突に帰ってきた息子に母は驚き、来るなら事前に報せておけと言い、なんの準備もないとぼやきながら、それでもできる限りの歓待をしてくれた。

 いささか飲みすぎたかもしれない、と思いながらベッドから起き上がる。

 普段、翌日に残るような酒の飲み方をすることはない。久々に会う母との食事で気が緩んだのだろう。

 とはいえ、今日明日にはここマノールを発って王都に戻らねばならない。

 当たり前のことだが、3年会わない間に、母は3年分歳をとっている。

 この調子ではあとどれだけ会いに来られるか、と想像してしまい、朝から少々気が塞いだ。

 まあ、休暇も以前よりは取れるようになってはいるからな、とラドミールは自分を納得させた。

 現にこうして、どうということのない公用のために、半ば休暇、半ば視察旅行のような里帰りをしているのだ。

 そう言えば、とラドミールは思い出した。

 ──王都でひとつ荷を渡されていたな。公用を済ませてから開けろ、とか。

 思い返して、己の荷物の中から件の荷を取り出す。

 荷を開けると、封筒と小箱が出てきた。まず封筒の封を丁寧に切って中の文書を手に取った。

「──は?」

 冒頭の一文を見たラドミールの口から、思わず声が漏れる。


『王太子殿下の勘気を被り、わたし、アリアレイン・ハーゼンは王国を追放されることとなりました。』


 眠気も、残っていた酒も、すべてを消し飛ばすような衝撃だった。

 たしかにあの令嬢の筆跡で、そしてあの令嬢らしい書きぶりで、しかしその内容はラドミールの頭を殴りつけるようだった。

 婚約を解消されたこと。

 王国貴族に相応しからぬという理由でもって追放刑に処されたこと。

 処分の発効は昨日の夕刻であること。

 自分は王都を引き払い、それを望む者とともにマレスへ向かうこと。

 そこにどのような事情があるか説明するでもなく、淡々と、これまで起きたことと、そしてあの令嬢がこれから行うことが記されている。

 なにがあったのかは憶測に頼るほかないが、彼女がそのように書くのであれば、起きたこと自体は事実なのだろう。

 どういった罪で追放刑に処されたかはわからない。だが、『勘気を被った』という書き方からすればおそらく、確たる罪があるというよりも王太子の気を損ねる何かがあった、ということだ。

 追放された者は親兄弟からでさえ一切の援助を受けることができない。

 それと知って手助けすれば、あるいは何らかの関わりを持てば、そのようにした者も同罪、というのが王国における追放刑の決まりごとだ。

 ゆえに歴史上、追放刑の宣告を受けて国境までたどり着けた者は、実はそう多くない。

 過半は追放刑の布告がなされた直後からあらゆる相手に追われ、奪えるものすべてを奪われて悲惨な最期を迎えている。

 マレス侯爵令嬢の場合は、追放の発効までに猶予があったようだから、それを使ってマレスへたどり着くことはできるだろう。

 その先はどうなるだろうか。

 王都を引き払ってマレスへ向かうということは、少なくともすぐに詫びを入れて済ませる気はない、ということだ。

 父であるマレス侯爵と相談した上で対応を決める、ということなのかもしれない。

 考えながら文書を目で追っていったラドミールは、短い手紙の最後近くになって現れた一連の文章に、もう一度驚かされた。


『わたしはあなたの能力を高く評価しています。

 ともに侯爵領に来ていただけるのならば、現状に増す待遇を約束しましょう。

 路銀を同封しましたので、お受けいただけるのであれば、マノールから船に乗ってください。

 お母上の分も含めて、十分な額と思います。』


 慌てて小箱を開けると、宝石がいくつか収められていた。宝石に詳しくないラドミールには、金貨にして何枚分になるのか、定かにはわからない。

 だが、街の商館で金に換えれば、相当な額になるであろうことは間違いがなかった。母とふたり分の船賃と、そして当面の生活費を賄って余りあることだろう。

 ──問題は。

 ラドミールは考える。

 形はどうあれ、明らかな叛逆の誘いだった。

 この誘いに乗ったならば、もう引き返す術はない。

 あの侯爵令嬢と、そしておそらくはマレス侯爵とも、言うなれば『同じ船に乗る』ことになる。どこの港に着くかもわからない船に乗って、沈むときは一緒に沈まねばならない。

 王国の官僚として取るべき道とは思えなかった。

 しかし、とラドミールは更に考える。

 この船は、自分が乗るようにと誘われた船は、本当にそうやすやすと沈むのだろうか?

 マレス騎士隊は精強をもって鳴るとはいえ、近衛騎士団の方が戦力としては各段に大きいだろう。

 まともに当たれば、たとえば平原地帯での野戦でぶつかれば、近衛騎士団が圧勝するに違いない。侯爵領軍と王国軍の比較であっても同様だ。

 では、まともに当たらないとしたら?

 そしてそもそも、即座に、まともに当たることができるのだろうか?

 ──自分が今ここにいて、しかもマレス侯爵家の家臣団が王都から消えているならば。

 騎士団や軍を動かすための手配は確実に遅れるはずだった。

 糧食やその移送手段の手配、酒保商人との交渉と契約、そういったものがあらかじめ整えてあって、はじめて軍は動くことができる。

 その実務の中心を担う自分が今ここにいるならば。

 そして、執政府のあちこちの部署で執務を補助してきたマレス侯爵の家臣たちがまとめて引き上げられているならば。

 戻るまで事態はほとんど動きようがない。

 あの令嬢は、それを知っていて自分に出張を命じたのだ。王太子の初動を遅らせるために。

 笑い出したい気分になった。

 公用も母のことも単なる口実、視察という目的は自分が勝手に見出したつもりだっただけ。

 あの令嬢は自分を職務から遠ざけるためだけに公用を作り出し、その上こうして叛逆への加担を誘っている。

 ──そもそも自分だけなのか?

 出張を命じられたのが自分だけでないとしたら。

 そして、このような手紙を受け取っているのが自分だけでないとしたら。

 執政府全体の動きを鈍らせるために最も効果的な、言ってみれば執務の結節点を、あの令嬢が狙っているのだとしたら。

 複数の奏任書記官に同じことをしているはずだった。

 たとえば10人の奏任書記官に声をかけて、その中の半分でもそれに応じたとしたら。

 奏任書記官の激務は執政府の誰もが知っている。

 だからこそ、耐えきれなくなったかつての同僚が倒れ、余波を受けたラドミール自身もその寸前まで追い詰められたのだ。

 ラドミールは顔をしかめた。

 あのとき自分を救ってくれた侯爵令嬢も、彼女が侯爵家の家臣団から差し向けてくれた祐筆や雑役夫も、もういない。

 そしてこれから始まるのは、おそらく戦だ。

 そうなるのならば、膨大な数の人と、そして莫大な量の物資と金が動き、やり取りされ、費消される。その繰り返しこそが、そしてそれによってもたらされる恐るべき量の事務こそが、結果として生み出される書類の山こそが、農部省の官僚──奏任書記官であるラドミールにとっての戦なのだ。

 日々の業務を切り回すことすらおぼつかなかった陣容で、自分はこれから途方もない量の事務をこなしていかねばならない。ラドミールの脳裏に多勢に無勢という言葉が浮かび、次いで、足りない手勢で強大な敵に立ち向かう指揮官が連想された。

 ──そんな無謀なことが通用するのは、軍記物の中だけだ。

 現実にはそんな甘いことはない。ないからこそ、自分たちがそのような立場に立たないように、執政府はその機能を高度化させ、分化させて、書記官や事務官を多数抱えるに至ったのだ。あの侯爵令嬢は、小勢の立場にありながら、圧倒的に大きな王国の抱える弱点を的確に突いてきた、ということになる。

 そして自分は、あの侯爵令嬢が突き付けてきたふたつの選択肢のどちらかを、今ここで選ばなければならない。

 王国の官僚たる地位を捨てて沈むかもしれない船に乗るか、王国への忠誠と官僚の地位を取って確実に地獄絵図が繰り広げられる職場へと戻るか。

 あの侯爵令嬢に感謝すべきなのか恨みを向けるべきなのか、ラドミールにはわからなくなっていた。

「ラドミール、食事の支度ができるわよ、そろそろ起きなさい」

 己を呼ぶ母の声で、ラドミールは心を決めた。

 本当の事情を伝えるわけにはいかないな、と口の端だけで笑い、手紙と小箱をしまう。

「ああ母さん、ありがとう、すぐ行くよ」



 前日に引き続いて代官所を訪れた奏任書記官は、代官に面会すると、丁寧な態度で幾通かの封書を手渡した。

 次の定期の公用使便で王都へ送ってほしい、と依頼する書記官に、代官は中身を尋ねた。

 視察の報告書です、執政府の農部省に宛てて、と書記官は答え、ではそのように、と代官は請け合った。

 同じ日の夕刻、港に停泊している快速船に、ふたりの客が乗り込んだ。

 旅慣れた風の若い男と、その母らしい老境に入った女性だった。

 ほどなく帆を上げた船は、滑るようにマノールの港から出航した。