ふたつ年下の弟は、もう目線が小柄な姉よりも随分と上になっている。

「──ありがとう、クルツ」

 自分を気遣ってくれたのであろう弟の、自分より高い位置にある目を見て、アリアレインはそう応じた。

 いくら謝っても足りることはないけれど、今この場で口にするのは、謝罪より謝礼の言葉が相応しいと思ったのだった。



 規則的で静かな波音。

 風を捉えた帆の立てる音。

 軋む船体が発するかすかな音。

 陸であれば一切の音が消えるような夜更けであっても、海をゆく船の中では様々な音が聞こえてくる。揺れる寝台の上で眠れないまま、アリアレインはぼんやりと船室の天井を眺めていた。

 船に酔っていたわけではない。

 海の夜の物音や、潮の匂いに悩まされているわけでもない。

 正体の知れない不安にさいなまれながら、この船に乗っていない配下のことを考えていた。

 13の歳、4つ年上だったアーヴェイルを、護衛兼補佐役に指名してから4年。

 マレスでも王都でも、これほど長く離れたことはなかった。

 常に自分の意を汲み、忠実に尽くしてくれるアーヴェイルを、自分は最も信頼していた。

 だからこそ危険で困難な仕事を任せて送り出した。

 アーヴェイルにできないならば、ほかの誰にもできないだろう、と考えて。

 それも汲んでくれていたのだと思う。

 笑顔で一礼して書斎を出ていった、その姿が思い出された。

 同時に、そのときの言いようのない不安と罪悪感も、心の中に蘇ってきた。

 そうだったのね、とアリアレインは思う。

 自分にとってアーヴェイルは、替えようのない──かけがえのない存在だったのだ。

 だから、彼しかいないし、彼にならばできると頭では納得できていても、自分の中の我儘な部分が、離れることを不安に思っていたのだ。

 かけがえがない相手を、切り札として──強力ではあっても、替えの利きうる存在として使うことに、罪悪感を覚えていたのだ。

 不安も罪悪感も、アーヴェイルその人に関わるものだから、アーヴェイルには知られたくなかった。

 自分にとってかけがえのない相手だから、アーヴェイルだけには知っておいてほしかった。

 ひどく矛盾するようでいて、実は同じところに根を発するいくつもの感情を、アリアレインは覗き込んでいた。理屈に合わない話だとは思ったけれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 もぞもぞと起き出して薄掛けを肩から羽織り、舷窓の掛け金を外して薄く開ける。

 下弦を過ぎ、三日月に近づきつつある月の光が、白く静かに、海面を照らしていた。

 舷窓から吹き込んだ風が、艶やかで長い黒髪と、肩から羽織った薄掛けをなびかせる。

 ──ねえアーヴェイル。

 離れてから毎夜そうしてきたように、アリアレインは心の中で、忠実で優しい従士に呼びかけた。

 我儘を言ってごめんなさい。

 あなたにしか頼りたくなかったから。

 自分の弱いところも脆いところも見せられるのは、あなただけだと思ったから。

 あなたはこんなわたしを、許してくれる?

「待っているから」

 あなたがすべてを為し遂げて戻ってくるのを。

 わたしの願いのとおり、無事に戻ってきてくれるのを。

 我儘を責めてくれていいから。

 もうこんなことをするなと叱ってくれていいから。

 だからどうか、

「──どうか無事で」

 アリアレイン自身のほかに、海風に流されたその言葉を聞いた者はいなかった。