侯爵令嬢アリアレインの祈念


 夜半過ぎの空に、月がかかっている。

 ──3日で案外細くなるものだな。

 速歩で馬を進めながら月を見上げて、アーヴェイルは思った。

 王都を出て丸3日。下弦の手前だった月は、もう下弦を過ぎて、三日月に近づいていっている。

 アーヴェイル自身は、明日には竜翼山脈を越えることになるだろう。

 そして明後日の、遅くとも日が落ちる前までには、マレスにたどり着いているはずだ。

 お嬢様の追放の一件はどうなっているだろうか、とアーヴェイルは考える。

 あのとき王太子は3日後の夕刻をもって追放、と言っていた。

 アリアレインが言うように前言を翻せないのだとすれば、追放刑そのものはもう発効しているはずだった。

 だが、刑の布告や執行を日が出ている間に限る、とする慣習もある。

 王太子がわざわざ慣習を外してくる理由はなさそうだ。だとすれば布告は明日の朝。

 そこから早馬を出したとして。

 最速で移動している自分は、既に3日半を先行していることになる。

 初動で先んじて、既に確保している時間の差を拡げ、拡げた時間の差を使って更に時間を稼ぐ。

 そうして冬までの時間をしのぎ、次の春までの時間を使って、竜翼山脈の向こう側の地固めをする。

 それがアリアレインの計画だった。

 つまるところ、すべての鍵は時間が握っている、ということだ。

 時間を稼ぐための種は蒔いた。

 エズリンでもそのあとで立ち寄った街でも、それらはおおむね成功したはずだ。

 領主と商館への書状、そして噂話。

 アーヴェイルが通り過ぎてきた一帯に撒いたそれらは、互いが互いを補い合って効果を増す毒薬のようなものだった。

 そして、勝利を確実にするためのさらにもう一手を、アリアレインはアーヴェイルに託している。

 まずは一刻も早くマレスへたどり着き、侯爵閣下に起きたことを伝えねばならない。

 次の手は──レダン子爵を抱き込むための一手は、事の成否を決める一手であるはずだった。

 だから絶対に失敗などできないし許されない、とアーヴェイルは考えている。

 失敗すればマレス侯爵領は王太子が発した軍に蹂躙されて終わる。

 成功したとしても、自分が無事でいられるとは限らない。

 ──もしそのような事態に至ったならば、お嬢様がどれほど後悔されるか。

 失望よりも先に後悔をして、おそらくアリアレイン自身を責めるだろうと、アーヴェイルは確信している。

 家と己を守るためであれ、そこで失われるものに思いを致し、それが失われたことに心を痛める主であればこそ、アーヴェイルは全力で支えようと思うのだ。

 その中に──失われるかもしれないものの中に、自分も含まれているのだろうか、とふと思い、出立の直前のアリアレインの様子が、アーヴェイルの頭に浮かんだ。

 ──そうだったのですか。

 お嬢様が手を震わせていたのは。恐れていたのは。

 王太子や叛逆そのものではない。そうだとすれば。

 危険で困難な役目に、自分を──信頼する部下を、送り出すことを。

 最も近くにいて、最も親しく言葉を交わした自分を送り出すことを。

 ──それを恐れておられたのですか。

 本当は不安で、それでもそれを隠そうとしたのは。

 私にもそれを知られたくないと思ったのは。

 ──私だから、なのですか。

 送り出す側が不安を見せれば、送り出される側は自信を失う。

 ただでさえ危険で困難な役目に当たるのに、自信まで失わせればどうなるか。

 そう考えていたに違いなかった。

「違うのですお嬢様」

 自分以外の誰にも聞こえないような小さな声で、アーヴェイルは呟いた。

 それを不安に思ってくださるあなただからこそ。

 私は信頼と敬意と、そして決して許されることのないものを、あなたに抱くことができた。

 あの夜口にした言葉は──あなたに頼られることが嬉しいのだと言ったその言葉は、自分の心からのものだった。

 自分を常に頼りにしてくれて、ささやかな甘えや我儘を、ほんの時たま自分にだけ見せると知っているからこそ、自分はそれらを好ましいものとして受け止めてきた。

 だからあなたの不安も恐れも、きっと受け止めることができたはずなのだと伝えたかった。

 ──伝えなければ。

 あなたが不安に思うことはなかったのだと。

 たとえ不安であっても、自分はそれを受け止めることができるのだと。

 あなたの判断は正しかったのだと。

 だから後悔したり、自分を責めたりしなくてもよいのだと。

 あなたが願ったとおり、自分は無事であなたのもとに戻ったのだと。

 任された仕事をすべて果たしたのだと。

 伝えなければいけない、そして伝えたいと、心の底から思った。

 ほとんど無意識のうちに、手が腰の小物入れに触れていた。

 そこにアリアレインが忍ばせた、あのハンカチが入っている。

「──待っていてください」

 もう一度呟くように言って、アーヴェイルは手綱を握り直す。

 東へ続く街道の石畳を、白く細く、下弦を過ぎた月の明かりが照らしていた。



「姉様、よくそういうことを考えつくよね」

 クルツフリートが言った。呆れたような口調だった。

「効果的でしょう?」

「……どれもこれも、嫌になるほどね」

 にこりと笑って答えたアリアレインに、クルツフリートは肩をすくめた。

 狭い船室だった。アリアレインはベッドに腰かけ、部屋にひとつしかない小さな丸椅子にはクルツフリートが座っている。

 コルジアの港を出航しておよそ半日。ほどよい風と、そして沈もうとする日の光を船尾から受けて、2隻の船は南東へと向かっている。

「屋敷は教会に渡して、執政府に送り込んでた連中は引き上げて、書記官は引き抜いて?」

 指を折りながら、クルツフリートが数え上げる。

「その上、公用使を使ってこういう話だろ。やられる方はたまらないよな」

 港を出てしばらくの時間が経ち、船の状況も落ち着いて、昼食が供されたあとで、クルツフリートはアリアレインの部屋を訪れていた。

 帆を上げて陸を離れてしまった上は何を知ろうと問題がない。だからクルツフリートはようやくアリアレインの構想を聞き、そして感心すると同時に呆れ返っていたのだった。

「知ってたら、止めた?」

「止めないよ。姉様、怒ってたじゃない」

「──何よそれ」

 小さく笑いながら、抗議するようにアリアレインが言う。

 俺は思い知ってるからね、などという台詞を口には出さず、クルツフリートはもう一度肩をすくめて一緒に笑った。

 短く小さな笑いが途切れたあとで、アリアレインがひとつ息をつき、真剣な表情でクルツフリートに視線を向けた。

「クルツ、あなたに謝らなければならないことがあるの」

「俺に?」

 あらたまった口調で切り出した姉に、クルツフリートは意外な思いで応じた。

 今更なにを謝ることがあるのだろう、と考えている。

「あなたに侯爵位を継がせてあげられなくなってしまったわ」

 マレス侯爵家は、男女を問わない長子への相続が習わしだ。

 本来ならば姉が家を継ぐべきところ、王太子妃に、そして将来の王妃に、ということが決まっていたから、次位のクルツフリートが侯爵家の後継、という話になっていた。

 結婚の話が消えたならば、侯爵家の継承順位は本来のものに戻る。父侯爵がどう判断するか、というところではあるが、クルツフリートは己と姉との差を十分すぎるほどに認識していた。

「姉様が継ぐならその方がいいよ。侯爵家にとっても領民にとっても。──それから多分、俺にとってもね」

「ごめんなさい」

 頭を下げて詫びるアリアレインに、クルツフリートは奇妙な居心地の悪さを覚えている。

「やめてよ姉様。姉様が気にする話じゃないでしょ、婚約を取り消したのは姉様じゃないんだし」

「それでもね。わたしがクルツ、あなたから侯爵の継承権を奪っちゃうことにも、あなたを利用しようとしてることにも、変わりはないのよ」

 顔を上げたアリアレインが続けた。

「利用ねえ。お互い様じゃない? 俺が決めたわけじゃないけど父上は姉様の結婚を利用しようとしてたし、俺だってその侯爵家の一員だもの」

「──あなたの婿入り先が決まってる、って言っても?」

「婿入りってどこに──ああ、レダン?」

「そう。あそこの御令嬢の、上のほう」

「政略結婚で繫がりを作る先としては妥当なところだと思うよ。俺と姉様が逆の立場でも、同じ状況なら俺は多分そうする」

 何かを思い出すように視線をさまよわせたクルツフリートが、ああ、と独語してにこりと笑った。

「思い出した。マレスで2回、王都で1回会ったかな。可愛らしくて素直な、いいお嬢様だった。ふたつみっつ下だったと思う。──うん、俺には不満はないよ、あっちはどうだか知らないけど」

 その態度が弟なりの気遣いなのだろうと思いながら、アリアレインは小さく息をつく。

「あなたならその点は大丈夫。わたしは心配してないわ。立場は難しいところだと思うけれど」

「まあね。子爵閣下のこともそれほどよく知ってるわけじゃないし。でも、何とかなるとは思うよ」

 同盟のための政略結婚で、クルツフリートは半ば人質のような婿入りになる。

 そして、そこで反感を得てしまったなら、子爵家乗っ取りの手先と考えられても不思議ではない。

 だがアリアレインもクルツフリートも、その点についてさしたる心配はしていなかった。

 尖ったところのない、穏やかで人好きのする性格の持ち主。

 それでいて人を見る目は姉や父に劣らない。

 難しい立場ではあっても、決定的に関係を破綻させることはない、と踏んでいる。

「だからさ、姉様はあんまり気にしないで。俺はむしろ、侯爵家を継がずに済んで気が楽なくらいだから」