ノール伯爵ルドヴィーコの処世


「出張?」

 ノール伯爵家の王都邸、1階の一隅に整えられた執務室で、ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは尋ね返した。

「はい、閣下、オルディア書記官は2日前から出張に出ておられると」

 尋ねられた祐筆が応じる。

「どこへだね?」

「オーフスと伺っております」

 祐筆が答えた。

 王都からは南東に位置する、それなりの規模の港湾都市。旅程としては片道で2日か3日はかかるはずだった。

「あー……いつ戻るかは、わかるかね? 週明けになるかな」

「はい、閣下、商部省でもおそらくその頃だろう、と」

 書記官が、それも部署のひとつを取りまとめる立場の奏任書記官が、出張というのは珍しいとは思ったが、いないということであれば仕方がない。

「ではご苦労だが、週が明けたらもう一度商部省に」

「その場でご用件を書き付けたものを、備忘として事務官にお渡ししてあります」

「おお、それはよいな。よく気を利かせてくれた。では週明けすぐにでなくてもよい、なにか時間の空いたときなりついでの用事があるときなり」

「はい、閣下」

「うん、少し休んでいてよい。半刻もしたら戻ってくれ」

 そう言ってルドヴィーコは机上に置いた呼び鈴を鳴らした。すぐに顔を見せた侍女に、談話室を開けて、それから茶と菓子でも、と指示を出す。本来そこはルドヴィーコとルドヴィーコが招いた客人用の部屋ではあるのだが、ルドヴィーコはそのあたりに頓着していない。当の祐筆をはじめ使用人たちも、主人がそういう態度であったから、あまり気にすることもなく従っている。

 祐筆が出ていってしまうと、ルドヴィーコは未決の書類の山を見てため息をついた。

 3日前の夜、王太子に王城へ呼び出されてから、ルドヴィーコは己の本来の仕事に──つまりノール伯爵としての仕事に、ほとんど手を付けられていない。王太子に招かれたその翌日、ルドヴィーコは王太子との会談で受けた衝撃をたっぷり半日引きずり、マレス侯爵にどう詫びるかと考えあぐねて丸一日を浪費した。仕事など手に付くはずもなかった。言いようのない不安を抱え、そして王太子その人にも更に一度招かれ、精神的にも時間的にも、まともに職務をこなすことができる状態ではなかったのだ。

 それでなくても、伯爵となれば顔を出さねばならぬ席も少なくはない。ルドヴィーコはそのような場をけっして嫌ってはいなかったが、だからと言って本業を──領地を治め、領民たちに平穏無事な生活を与えることを、おろそかにするわけにはいかなかった。

 そして、ルドヴィーコは今日もとある席へと招かれている。断ることなどできなかった。招いてきた相手は、娘の婚約者となった王太子なのだ。

 諸卿とともに、マレス侯爵令嬢への処断を確定する場。王太子はルドヴィーコに、そのように説明していた。追放の処断に与えられた猶予は今日の日没まで。あの侯爵令嬢は既に王都を出たという。そのあとで詫びの使者でも送ったのでなければ、追放刑はそのまま発効するはずだ。

 そうなれば本当に、矢が放たれてしまう。王太子もあの侯爵令嬢も引き返すすべがなくなる。

 あとはマレス侯爵その人の判断に期待するほかない。穏やかで有能で領民思いという評判のマレス侯爵だが、同時に自分と同じく、娘を持つ父でもある。娘が蔑ろに扱われたと知ったとき、王国有数の大貴族がどのように変貌するのか、ルドヴィーコは知りたいとも思わなかった。

 ──まさか王都まで攻め込んで来たりはするまいが。

 伝え聞く先代マレス侯爵の烈しさならばそこまでもやりかねない、とは思ったが、それを想像するにはあまりに当代の性格が穏やかでありすぎた。

 悪い方にばかり向いてしまう想像を努力して振り払い、ルドヴィーコは積み重ねられた書類からもう1枚を手に取った。ひとつ息をついて読み始める。

 仕事そのものを殊更に好む性質のルドヴィーコではなかったが、今はそのくらいしか心を逃がす先がないのだった。



 休んでこいと送り出した祐筆は、きっかり四半刻で戻ってきた。ルドヴィーコが机の隅に重ねた書類と、その1枚ずつに付けた走り書きのメモを手に取り、己の机へと持ち帰る。

 自身の仕事道具を取り出して机の定位置に並べながら、祐筆が口を開いた。

「そう言えば、閣下」

「なんだね」

 ルドヴィーコが顔を上げて応じる。集中しているときであれば、あとにしてくれ、と言うところではあったが、幸か不幸か今はそうではない。己の心を占拠して立ち退こうとしない悩み事が原因だった。

「執政府の様子が、今日は何やら妙でして」

「どういうことだね?」

 ルドヴィーコはつい、と書類からペンを上げた。どうということのない話に聞こえても、それが重大な何事かの兆候ということはある。執政府は何しろ、国中の情報が集まる場所なのだ。

「普段よりも空席が目立っておりましたし、何と申しますか、少々ざわついた感が」

 ふうむ、とルドヴィーコは口の中で唸った。

「ああ、『このままでは人手が』というようなことを、事務官が言っておりましたな。廊下の立ち話を、通りざまに小耳に挟んだだけですが」

 そうか、と頷いてルドヴィーコは首を傾げる。

 何か妙だ、という以外のことを祐筆は言っていない。さしたる根拠もない。

 空席の目立つ執政府。

 普段はあまり出ない出張に出ているという書記官。

 人手が足りなくなるとぼやく事務官。

 どれも執政府にあって、取り立てて怪しむほどのものではない。だがそこに、その場で見なければわからないような違和感があったのだろう。どこにどのような引っ掛かりを感じたのか、当の祐筆自身も言葉にできない程度の、ささやかな違和感。

 口に出した祐筆も、もうそれを忘れたかのように己の仕事に戻っている。

 どこかで何かが起きている。あるいは、起きようとしている。伝え聞いただけのルドヴィーコにも、そのことは感じられた。

 ──だが一体どこで、何が?

 己に問いかけてみてもわからない。

 もしかしたらあの侯爵令嬢の一件と繫がりが、とも疑ってはみたものの、ルドヴィーコには、例の一件といま執政府で起きていることの接点を見つけ出すことができなかった。

 頭を仕事に戻さねば、と息をついたルドヴィーコは、窓から手許を照らす光の加減で、陽が傾き始めていることを知った。

「ああいかん」

 口に出して言い、手早く印章や愛用のペンを片付けて立ち上がる。

 王太子の呼び出しのために、身支度を始めなければいけない時間になっていた。

「すまんがな、殿下に呼ばれておって、これから王城へ向かわねばならん。戻りは夜になるから、その書類を片付けたら今日は店じまいしてくれ。ここには鍵をかけてな」

 執務机から立ち上がり、心もち早口で祐筆に指示を出す。

 はい、と祐筆が頷くのも確かめず、ルドヴィーコは部屋を出た。祐筆の違和感の正体について考えていたあれこれは、それきりルドヴィーコの頭から消えた。

 眼前のより大きな悩みが、ルドヴィーコの心を占めたからだった。



 日没の鐘が王都に響いている。

「ただ今をもって、マレス侯爵令嬢アリアレイン・ハーゼンを追放刑に処す。この件の布告は明朝とする」

 王太子エイリーク・ナダールは、主だった宮廷貴族たちを前に宣告した。

 末席には、ルドヴィーコも座っている。

 王太子の宣告に、全員が黙って頭を下げた。

 誰の顔にも驚きの色はない。ルドヴィーコは既に聞いていたし、王太子と重臣たちとの間では昨日の昼、方針をすり合わせてある。

「これに伴い、余とアリアレイン・ハーゼンとの婚約は当然に解消される。新たな婚約者はノール伯爵令嬢クラウディア・フォスカール」

 座の全員が一斉にルドヴィーコに視線を向けた。

 ──『茨の安楽椅子』の方がまだしもましな座り心地かもしれない。

 いにしえの時代、教会の異端審問官が使ったという拷問具を、ルドヴィーコは思い出した。

「殿下、わが娘クラウディアにかような名誉をお与えくださり、感謝の言葉もございません」

 己に視線を向けている重臣たちとなるべく目を合わせないように言い、深々と頭を下げる。

「婚約の発表は追って行うこととしよう。ノール伯だが、いずれ王妃の父となるゆえ、一代侯爵ということになる。侯爵の地位に相応の職に就いてもらわねばならん」

 鷹揚に頷いた王太子が言う。

 おやめください、という言葉を、ルドヴィーコはすんでのところで飲み込んだ。

 娘の婚約一件で、要らぬ目立ちかたをしている。

 この上『相応の職』などに就かされたらどう見られるかわからない。

「──とはいえ、空いている席がないな」

 侯爵といえば居並ぶ諸卿と同格だが、諸卿の席は埋まっている。諸卿たちには無論、辞める理由も辞めさせる理由もない。

「されば──内大臣ではいかがでございましょうか」

 式部卿が進言した。

 内大臣。こくと宮中の文書の管理を行う王の側近。

 諸卿と異なり常設の官職ではなく、必要に応じて置くものとされており、今は空席だった。

 職務の実態ははっきりと決まっていない。その権能を利用して宮中の実権を握ることもあれば、名目だけの職でしかないこともある。

 すべては時の王と内大臣の力量や関係によるという、曖昧な官職であった。

「おお」

 意を得た、とばかりに王太子が頷く。

「内大臣か。それがよい。婚約の発表と併せて、ノール伯の昇爵と新たな官職についても公布するとしよう。皆、異存はあるか?」

 疑問や異論などあろうはずもなかった。

 ルドヴィーコとしても異存はない。曖昧な官職、というところが有難かった。

 名目だけの職という程度であれば、要らぬ嫉妬や注目を受けて、周囲とあつれきを生じることもない。

 あとは辞を低くしながら大過なくやりすごせばよい、とルドヴィーコは思っている。

「身に余る光栄、まこと感謝の念に堪えません。皆々様におかれましては、わたくしめに至らぬところあらばご教導をいただき、わが娘ともどもお引き回しくださいますよう」

 口上を述べて、ルドヴィーコはもう一度深く頭を下げた。

「まあまあ、ノール伯爵、そう気兼ねをなさいますな」

 柔和な笑顔で取りなしたのは内務卿だった。

「我々もノール伯爵令嬢のご婚約をめでたく思っておるのですから。──そうですな、方々?」

 恐縮でございます、とルドヴィーコは更に深く頭を下げる。

「いやまったくさよう、ノール伯爵令嬢こそが未来の王妃にふさわしい」

 含み笑いとともに響いた声は財務卿のそれだ。

「せんだってのご婚約者様は、いささか──」

「いやいや、陛下のお選びなすったご婚約者──いや、元ご婚約者様でございますからな」

「さようさよう、申し分のない資質をお持ちでいらっしゃった」

「しかし、過ぎたるはなんとやら、と申しますからな」

 顔を上げたルドヴィーコの前で諸卿一同が好きなようにあれこれと言い、一様に笑いを漏らす。

 礼を失した振る舞いではあるが、王太子はそれを咎めるでもなく、言うに任せたままだ。

「しかし殿下のご英断とあらば」

「残念なこととは申せ、致し方のない成り行きでございました」

「まさしく」

 もうどこかで話が出来上がっていたのだろう、とルドヴィーコは思った。

 少なくとも、宮廷のこの空気を王太子が知らぬはずはないし、王太子とあの令嬢の間のあれこれを、諸卿の席に座るような宮廷貴族たちが摑んでいないはずもない。

「そのような次第で、我々も新たなご婚約者様──ノール伯爵の御令嬢を歓迎しておるのです」

「そこのところは是非、ノール伯爵、あなたにもお含みおきいただきたいのですよ」

「さすれば王室は安泰、宮中も安泰」

「いや、やはり無用の波風など立たぬに越したことはございません」

 ノール伯爵はいかがお考えですかな、と内務卿がルドヴィーコに笑顔を向ける。

 満面の笑みのなかで、目だけが笑わずにルドヴィーコを見ていた。

 領主貴族として見れば、近年とかく滞りがちであった国政のあり方を変えてゆく侯爵令嬢には、ある種痛快なものを感じる。

 だが、国政をこそ職域とする宮廷貴族たち、ことに重職にある諸卿にとってみればどうか。

 王太子の婚約者という立場を笠に着て自分たちの権益を侵す不埒者、と見られたのだろう。

 マレス侯爵にしても、己の娘を足掛かりに宮廷での権勢をも独占しようとしている、と取られたのかもしれない。

 クラウディアには──ルドヴィーコの愛娘には、国政を取り仕切るような意図も見識もない。

 王太子の寵愛を喜ぶだけの伯爵令嬢と、いささか直情径行な部分の目立つ王太子。

 宮廷貴族から見れば、そのように見えている、ということだ。それはつまり、彼らにとって御しやすい、ということに違いなかった。

 そして御しやすいということで言えばおそらく、ルドヴィーコ自身も同じ評価をされたはずだ。

 ルドヴィーコは己の世評をよく知っていた──『小心者の俗物』。

 己の立場を理解させ、未来の王妃の父として、幾ばくかの権益と名誉をあてがっておけば、と思われたのだろう。

「まったく皆様の仰るとおりで。──娘にもよくよく言い聞かせておきます」

 ともすれば引き攣りそうになる口許を笑みの形に曲げ、座の全員を見渡して、ルドヴィーコはまた頭を下げた。

 小心者の俗物。まったくそのとおりだ、と思う。

 だが、小心者には小心者の、俗物には俗物の、処世術がある。

 高邁な理想を掲げても、それで生き残れないならば意味はない。

 渡らねば先へゆけぬ橋であれ、落ちるかもしれぬ橋を渡らずに済ませられるならばその方がいい。

 ルドヴィーコには、この恐るべき機会主義者たちに抗ってまで貫きたい己などなかった。

 あるとすれば、せめて安寧に、そして叶うならば少々贅沢に、妻と娘との生活を守りたい、というくらいのものだ。

「いやいや、ですからそう気兼ねをなさいますな、ノール伯爵」

 隣の席に座った商部卿が親しげにルドヴィーコの肩に手を置く。

「なんと言っても殿下のご婚約者様、将来の王妃の父君、もうしばらくすれば内大臣でございますからな」

「さようさよう、もっと堂々としておられたがよろしいかと」

「ま、何事にも限度というものはございましょうが」

「まさしく。しかしノール伯爵はさすが、そのあたりをよくお解りでいらっしゃる」

「つまり皆々安泰、万事めでたし、ということでしょうな」

 めいめいが好き勝手に口にする話を財務卿がまとめ、一同がまた笑った。

 ルドヴィーコは、吹き出てきた汗を半ば無意識に拭っている。

「そのくらいにしておけ、ノール伯もお前たちの言いたいことはよく解っておろう」

 王太子が愉快そうに会話を締めくくった。

「ひとまずは明日の朝、追放の布告だ。併せてマレス侯家の王都邸及びマレス騎士館を接収する。別邸その他の財産も同様だ。布告は各方面へ早馬で届けよ。布告は式部省、接収は法務省の所管であったな」

 式部卿と法務卿が頭を下げて了承の意を示す。

「騎士館の接収のみは近衛騎士団に任せる。軍務卿、近衛騎士団長に話を通しておけ」

「承りました。──して、兵の招集はいかがなさいますか、殿下?」

 実務家の顔になった軍務卿が尋ねる。

「今はまだよい。焦ることはない──あれに打てる手など、もう残ってはいないのだ」

 余裕のある笑みとともにそう断じた王太子が、手振りだけで下がってよい、と命じる。

 ルドヴィーコを含めた全員が一斉に席を立ち、礼をして退出した。

 部屋を出て緊張から解放され、大きく息をついたルドヴィーコは、その瞬間に肩を叩かれて声を上げそうになった。

 危ういところで飲み込んだ声が、喉の奥で奇妙な音になる。

「ノール伯爵、いかがですかな、お近づきのしるしに場所を変えてもう少々」

 内務卿だった。

 先ほどと同じ笑みを──目だけが笑わない笑みを、浮かべている。

「いやいや内務卿、ここに来て抜け駆けというのはいかがなものですかな」

 似たような笑みを浮かべながら割って入ったのは財務卿だ。

 いやいや抜け駆けなどとは、と内務卿が返し、ふたりして声を合わせてまた笑う。

 ルドヴィーコは曖昧に笑いながら、話の成り行きをただ見守るほかなかった。

 ──獲物を巡って争う猫を見た鼠は、こういう気分になるのかもしれない。

 絶望的な気分でそう思う。

 結局、明日の布告に備えねばならないという式部卿と接収の実務を担当する法務卿を除いた全員が、新たな王太子の婚約者とその父のために祝杯を挙げることになった。