王都大司教ヴァレリアの提案


 昼過ぎのマレス侯爵家王都邸は静まり返っていた。

 つい1日前まで、30人以上の使用人を抱えていた王都邸だが、いま残っているのは10人に満たない。残された人数で最低限の仕事をこなし、王都邸を維持する、というのが残った使用人たちを取りまとめる執事、スチュアート・スティーブンスの方針だった。

「とはいえ、今日の午後にも新たな御主人の使いの方がこちらにお見えになるということですから」

 今日の朝、スチュアートはそう言って、ひとまず屋敷を磨き上げるように、と指示を出した。

 何も目標が──やるべきことがなくなってしまっては、新たに何かをする気もなくなってしまうし、自分がひどく無力に感じられてしまうから、というのがその理由だった。

 半日かけて掃除が終わったあとは、身支度を整えておくよう、と伝えてある。

 新しい主の使いを出迎えるのだから、掃除で汚れたままの恰好では締まらない。

「スティーブンス様」

 自室で事務仕事をしていたスチュアートに、従僕が声をかけた。

「お客様が、馬車で」

「教会の?」

「はい」

 ふむ、と頷いてスチュアートが立ち上がる。

「では、玄関へご案内しなさい。皆も玄関ホールへ。お出迎えせねばなりません」

 はい、と応じて従僕は立ち去った。

 スチュアート自身も書類を棚に戻し、ペンとインクを片付ける。

 作り付けの棚に置いた鏡で、髪とタイとを整えた。

 玄関ホールへ向かうと、屋敷の使用人たちは既に揃っていた。

 使用人たちの列の前に進み出たスチュアートは、従僕に頷いてドアを開けさせる。

 白髪の小柄な老女が立っていた。身に着けているのは司教服。スチュアートの知る限り、王都で司教服を身に着けられる聖職者はひとりしかいない。

「猊下、ようこそおいでくださいました」

 腰を折って丁寧な所作で礼をする。

 使用人たちがそれに倣った。動揺や驚きはあれど、それを表に出さないのが使用人としてのたしなみのひとつだった。

「お出迎えありがとうございます。わたくしはヴァレリア。ハーゼン様からこのお屋敷を譲り受けた、教会の司教です。あなたが執事のスティーブンス様?」

 柔らかな笑顔で大司教が応じる。

「スチュアート・スティーブンスでございます、猊下。どうかお見知りおきを」

 スチュアートはもう一度、腰を折る礼をした。

「スティーブンス様、あなたとお話ししたいことがあって、こうしてお邪魔しました。皆様にはお仕事に戻っていただいて、それから、落ち着いてお話のできるお部屋にご案内してくださいますか?」

 はい、と頷いたスチュアートが使用人たちに目配せをすると、使用人たちは一礼して、それぞれの持ち場へと戻っていった。

 こちらへ、と大司教に声をかけ、先に立って歩き出す。

 通す先は、つい昨日までのこの屋敷の主が執務室として使っていた書斎だった。

「よい書斎ですね」

 ソファに案内されて腰を下ろした大司教が、書斎を見回して言う。

「当家の名代が先日まで、執務室として使っておりました」

「こういう場所には、使う方のお人柄が出るものだと思います」

 スチュアートの返答に、大司教は笑って頷いた。

「ハーゼン様が使われ、あなたが整えておられた。そうですね?」

 恐縮です、とスチュアートが応じる。

「ハーゼン様には、お屋敷のことはすべてあなたに尋ねればよい、と教えていただきました」

「当家名代からは、困ったことがあれば猊下を頼るよう、と」

 老執事と老大司教は顔を見合わせて笑った。

「高く評価されたものですね、スティーブンス様」

「ええ、お互いに、猊下」

 控え目なノックの音とともに侍女が顔を見せ、茶を淹れて静かに出ていった。

「さて、スティーブンス様、今後のことを少々お話しせねばなりません」

 カップから一口飲んで口を潤した老大司教が切り出す。

「この王都邸と、それから我々使用人のことでしょうか」

「はい。ハーゼン様は、教会へお屋敷を寄進されました。こちらのほか、いくつかの別邸も。引き換えに、王都に残る皆様への身元の保証と、それから保護を、と承っています」

 スチュアートは黙って頷く。たしかにアリアレインから、そのような手筈を整える、と聞かされていた。

「皆様を庇護する具体の方法は、特に定められておりません。今日はそのことと、それからもうひとつふたつ、お話ししておくべきことがあるかと思いまして」

「お聞かせください」

「身元の保証と保護、ということであれば、聖堂で皆様をお引き受けすることもできます。ただ、お屋敷を離れがたい方もいらっしゃいましょう」

「仰るとおりです、猊下。それに、全員が全員、僧籍に入る、というわけにも」

「ええ、そうでしょう。教会は、このお屋敷を修道院とすることを提案いたします」

「──修道院?」

「一口に修道院と言っても、いろいろあるのですよ」

 いぶかしげに応じた老執事を正面から見返して、大司教は答えた。

「教会は市井の方々と神を繫ぐ場所で、修道院は教会の者と神を繫ぐ場所なのです。大まかに言えば。ですから、教会としてしまうと、ここを市井に向けて開かねばなりません」

「修道院ならばそうとは限らない、と?」

「ええ。教会の者が何かを学んだり、作ったり。学ぶことも作るものも場所によって様々ですが。

 そして皆様は、在家のまま、修道院を管理するためにこちらに住んでいただくことに」

「教会の関係者、という形にしてくださる?」

 屋敷を修道院に──教会の施設にしてしまうことで場所を守り、使用人たちは教会の関係者とすることで人を守る。悪くない案のように思われた。

「そのとおりです、スティーブンス様」

「わたくしどもに異論はございませんが、教会はそれでよろしいのでしょうか」

 執事の言葉に、大司教がにこりと笑う。

「もちろん、それだけではございません」

「仰っておられた『もうひとつふたつ』の方でございますな。伺いましょう」

 大司教は、どこから話したものか、という風情で、数瞬視線を宙に漂わせた。

「教会がいくつかの孤児院を運営していることは、お聞き及びかと存じますが」

「存じております」

 老執事が頷く。マレス侯爵家が続けている寄進の中には、そういった孤児院の運営のための経費も含まれているのだ。

「侯爵閣下からも御令嬢からも、少なからぬ寄進をいただいておりますから、おかげさまで、運営そのものに支障はございません。問題は、孤児院からの出口なのです」

「出口、でございますか」

 応じながら、執事には、おぼろげながら大司教の言わんとするところが見えてきていた。

「孤児たちはいつまでも孤児のままではございません」

 大司教の言葉に、執事は頷く。やはりそうか、と思っている。

「いつか孤児院を離れ、自立をせねばならない。ですが──」

「それが出口の問題、ということですか」

「はい。全員に僧籍を与えられるわけではございませんし、また、それを望まぬ者もおります。となれば、何がしか、手に職を付けさせねばなりませんが、教会にも孤児院にも、その点について十分な力があるわけではないのです」

「ここで、その手助けが?」

「ええ、たとえばこういったお屋敷の使用人です。孤児は出自ゆえになかなか信用を得難く、また行儀作法を習う場も、教会そのものしかありません。このお屋敷においてそのような教育と準備ができれば──」

「出口が拡がる、ということでございますね」

 なるほど、と執事が頷く。

 使用人としての仕事と作法を教育し、技能を身に付けさせ、経験を積ませ、紹介状を持たせて送り出す。次に勤める先は、それなりのところにできるはずだ。

 それはたしかに、孤児院からの『出口を拡げる』ということになる。

「はい。そしてもうひとつ、スティーブンス様、あなたにお願いしたいことが」

「わたくしに、ですか」

 侯爵家王都邸の執事という立場でなく、己個人になのか、という意を込めて、スチュアートは問う。

「ええ、スティーブンス様、あなたに──あなた個人に、です」

 どうやら意図は正確に伝わったようだった。

 察しがよく、話の早い相手との会話は面白い。そしてこの大司教はそういう相手であるようだった。

 自分も相手にとってそうであらねば、と気を引き締めながら、先を促すようにスチュアートは頷く。

「このお屋敷──いいえ、この修道院の、掌記を、お引き受けいただきたいのです」

 文書と財産の管理責任者。言うまでもなく重職だ。

「理由をお聞かせいただいても、猊下?」

「教会にも、財産や文書を管理する者はおります。ですが、それはあくまでもそれぞれの教会や修道院が個別に行うこと、とされておりますので──」

 複数の教会や修道院を統括した立場で文書や財産を管理する役回りの者はいない、ということだった。

「それらを取りまとめる役割を、ということでしょうか?」

「仰るとおりです、スティーブンス様。それにもうひとつ。次の掌記を、あなたに育てていただきたいのです」

 どうやら楽隠居というわけにはいかないらしい、と思いながら、スチュアートは頷いた。

「承りました、猊下」

 次の執事に、とスチュアートが目をかけていた副執事は、アリアレインに従って侯爵領へと下った。

 自分の仕事を引き継ぐ者はいなくなり、自分の仕事はここまでで、使用人たちの身元が確かなものとなったならばあとは去るだけ、と思っていた。

 だが、まだ自分にも為すべきことが残っていて、期待されていることがあるのだ、という事実が、スチュアートには嬉しかった。

「頼らせていただきますよ、スティーブンス様」

 にこりと笑った大司教が席を立つ。

 ふと気になったことを、スチュアートは尋ねた。

「このお屋敷は、修道院になるというお話ですが、猊下、もう名はお決まりなのですか?」

 決まっています、と応じた老大司教が告げた修道院の名に、スチュアートは目を見開いた。

「──よろしいのですか?」

「通例どおり、なのですよ」

 念を押したスチュアートに、笑顔を崩さぬまま、老大司教は答えた。

「……他意はございませんのよ?」

 殊更に丁寧な口調で大司教が言う。

 スチュアートは謹厳な表情のまま、片眉だけを上げた。

 己が冗談を口にするときと同じように、出来のいい冗談を聞いたときの、それが癖だった。

 この年老いた大司教は、案外率直で、そして諍いを厭わない性格なのかもしれない、とスチュアートは思うようになっている。

 扉のところまで歩いた大司教が振り返った。

「今日、日暮れまでに、教会の神官戦士団をこちらへ出向かせます。彼らの食事と寝る場所を、まずはご用意くださいませ、スティーブンス様。念のため、わたくしもこちらへ」

 教会には教会の、大司教には大司教の、思惑があるのだろう。

 だが、その背後にあるものが何であれ、今のところ、この年老いてなおしたたかな大司教は、マレス侯爵家と自分たちの味方になってくれている。

 スチュアートにとってはそれが何よりも必要で、そして大司教の態度は、スチュアートにとって十分なものだった。

「使用人一同、屋敷を整えて猊下をお待ち申し上げます。どのようなことでも、お申し付けください」

 スチュアートはそう言って腰を折り、丁寧に一礼した。

 以前の主と同じように、己が仕えるに足る主人に対する、それが老執事の礼儀だった。