小半刻ほども経っていただろうか。
水を飲んでいた馬が小さく鼻を鳴らす音で、アーヴェイルは我に返った。
──感傷に浸るような贅沢はあとでいい。
今は、託されたものだけを考えておけ。
そう己に言い聞かせて顔を上げる。
指輪と紙片、それにハンカチを、ベルトに通した小物入れに別々に入れ、懐剣はそのまま、路傍の草の上に置いた。
置いたままだった携帯糧食を取り上げて包みを開く。
厚手の布と蠟紙で二重に包まれたそれは、押し麦とナッツやドライフルーツをシロップと合わせて焼き固めたものだった。
手で割ってひとかけらを口に入れる。香ばしいナッツの味とシロップの甘味が口に広がった。
公用使の宿駅でも携帯糧食を手に入れられないわけではない。硬く焼きしめたビスケットであったり重いパンであったり、腹持ちのよさだけを優先させ、味など考慮の外、という品だというだけだ。
だからこれは、少しでも食べやすく味のよいものを、というお嬢様の心遣いなのだ、と思った。
相変わらず食欲はない。それでも1食分をすべて食べることはできた。
水筒から水を含んで飲み下し、ひとつ息をつき、懐剣を拾って立ち上がる。
「お前も休めたか?」
水を飲み終えて身体を休めていた馬に声をかけると、馬は小さく身体を振るわせて鼻を鳴らした。
そうか、と応じて首のあたりを軽く叩く。
「悪いがもうしばらく、一緒に頼むよ」
声をかけて鐙に足をかけ、一息に鞍に乗る。
もう一度首のあたりを軽く叩くと、馬が速足で歩き出した。
ほどなく入った湿地帯で、アーヴェイルは手綱とともに握っていた懐剣を、道の左手へ思い切り投げた。少し離れた場所から、小さく水音が聞こえてくる。
馬の歩みを止めないまま、小物入れから指輪を取り出し、月の明かりにかざしてから、右手へと投げる。放物線の途中で、きらりと指輪が月の光を反射し、そして見えなくなった。
指輪も懐剣も、どこで捨てられたか知っているのはアーヴェイルだけだ。
アリアレインと王太子の婚約の証は泥の下に埋もれ、誰にも知られないまま、そこにあり続けるだろう。
アーヴェイルは振り返らずに馬を進める。
深い疲労が身体の底の方に残っていた。だがそれも、耐えられないものではない。
心は少しだけ、軽くなっている。ずっと刺さっていた小さな棘が抜けたような気分だった。

エズリン伯爵レナルト・リアルディは、忠節の人である。
マレス街道の要衝エズリンを代々治める伯爵家の当主としての役割を自覚し、その役割に相応しかれと己を律してきた。
──要衝であるこの街とその一帯をよく治め、もってこの地を我らの封土と定めた王室への返礼とせよ。
それがリアルディ家の家訓であり、代々の当主は家訓を守って王室への忠誠を貫いてきた。
当代のレナルトも、父祖が歩んだ道を、今日に至るまで違えることなく歩み続けている。

レナルトは、公用使から渡された文書を一読して顔をしかめた。
「これは──まことなのか?」
言ってしまってからレナルトは、それが愚問であると気付いた。
「はっ」
目の前で片膝をついてかしこまる公用使が、顔を伏せたまま答える。
「自分はお渡しした文書の内容を知らされておりません。ですが、伯爵閣下に必ず直接手渡しするよう、厳命されました」
「──そうか。いや、そうであろうな」
同じ執政府の公用使であっても、やり取りされる文書の重要度や機密性がすべて同じ、というわけでは無論ない。
法の布告と国の安全に関わる情報が同じようにやり取りされるわけではないのだ。前者は公用使が内容を知っていて何ら問題はないが、後者は知るべき者だけに知らされねばならない。
だからこそ公用使を出す側は、ときに受取人を指定する。
渡された文書に書かれていることはレナルトにとって、そして王国にとっての重大事だった。だが、対処もまた、同じ文書の中で示されている。
文書の筆跡も署名も、マレス侯爵令嬢のそれだった。いかにもあの令嬢らしいと思わせる、単純にして的確な対応ではあった。
「ご苦労であった。部屋を用意させるゆえ休まれよ」
「ありがとうございます、閣下。しかし自分はマレス侯爵領まで下るよう、命を受けております。それに、この街の商館にも出向かねばなりません」
通例で考えるならば、この若い公用使の役目はここまで。マレスへ下るにせよ王都へ戻るにせよ、休息は必要なはず。そう考えたレナルトの気遣いだったが、公用使はそれを謝絶した。
「商館」
マレスまで下るのはよいとして、商館というのはどういった意味なのか。まさか商売の話でもあるまいが、と思いながら、鸚鵡返しにレナルトが問う。
「それもわが主の命にございます。荷馬車と馬を集めておくよう伝えよ、伯爵閣下にお渡しした文書の内容にも関わることゆえ必ず、と」
レナルトは手にした文書をもう一度開き、文面に目を落とした。
たしかにそこに書かれていることを実行するならば、荷馬車や馬といった運搬の手段は必須と言えた。
大型の荷馬車やそれを曳く荷馬は、代価さえ支払えばいつでも望むだけ使える、というようなものではない。たとえ代価を用意できたとしても、空いている荷馬車や荷馬がなければ使いようがないからだった。
数台数頭ならばまだしも、それが大量になってしまえば、先回りして押さえておかねば必要なだけは手に入らない。
急な話であるにもかかわらず、マレス侯爵令嬢はそこまで考慮に入れている、ということだった。
何かにつけて周到で効率的に仕事をこなすと評判の侯爵令嬢らしい目配りだった。
「そなた、マレス侯爵の御家中か」
「は、侯爵家の従士にございます」
そして、この従士もまた然り。マレス騎士隊の精強さはよく知られるところだが、従士の質も同様に高いという評判だった。マレス侯爵は、己が抱える従士の中から選抜して騎士叙任を受けさせているのだとも、逆に最も能力の高い者は子飼いとして家中に留め置くとも言われている。いずれにしても目の前の従士は、評判に違わない能力と忠誠心を持っている、ということなのだろう。
「その様子では、ろくに休息も取ってはおるまいが」
言外に、休まずに行くのか、とレナルトが問う。従士はかしこまった姿勢のまま答えない。
もう己への命令のことは告げているのだから、繰り返すようなことではない、という意味だろう。
従士の態度を、レナルトはそのように解釈した。
「──しかし、あくまでも命は命、か。侯爵閣下はよい従士を抱えておられる」
話を打ち切るように、レナルトは椅子から立ち上がった。
「立たれよ。替え馬を用意させよう。伝えられたことは必ず実行する。そなたは安心してマレスへ向かわれるがよい」
「ありがとうございます、閣下」
そう応じて、公用使が立ち上がる。
中背の均整が取れた身体つき。焦茶の短髪に深い緑の瞳。
整った顔立ちをしているが、表情には隠しきれない疲労の色が浮いている。
渡された文書に記された日付は2日前。
王都とマレスのおおよそ中間点にあるここエズリンまで、普通に旅をすれば1週間はかかる。
早馬であっても最低1日半。マレス侯爵家の従士だというこの公用使は、その最低限の日数で駆けてきたに違いなかった。
そしてこれからおそらく同じだけの時間を、またマレスまで駆けるのだろう。
命令だからといって、誰にでもできることではない。
己の部下たちのうちの何人がそのようなことをできるだろうか、とレナルトは考え、それを当然だとでも言うようにこなしてしまう従士を抱えているマレス侯爵に、小さからぬ羨ましさを覚えた。
そのような相手であれば、レナルトとしても、できる限りのことはしてやらねばならない。
執務室から公用使を送り出したレナルトは従僕を呼び、公用使に食事を用意するよう命令したのだった。

その朝、商館を取り仕切っている壮年の商人は、手渡された文書を見るなり唸り声を上げた。
「これは……公用使様、どうしても、ということであれば手前どももご協力差し上げますが」
「すまないが、どうしても、だ。そこにも書いてあるだろう」
「しかし、公用使様、せめて事情なりと仰っていただかねば」
文書に記された指示は、荷馬車と荷馬を集められるだけ集めよ、と言っているに等しいものだった。
だが、商館そのもので確保している荷馬車や荷馬の数は、そう多いわけではない。
大きな荷を扱う商人たちは、基本的に自前で運搬手段を用意しており、商館で持つそれらはあくまでも補助的なものに過ぎないからだった。
そして指示された荷馬車や荷馬の数は、商館を利用する商人たちが使う分まで押さえなければ満たせないほどのものだ。
商人はそのことを指摘して、せめて事情だけでも教えてもらわねば、商売仲間たちに話を通すこともできない、と言っている。
商人の言葉を聞いた公用使は、小さくため息をついて商人に顔を近づけた。
整った顔立ちが、疲労のためか、険を帯びている。言外の圧力と迫力とを感じ取った商人が、わずかに身を引いた。
公用使はそんな商人の目を見据えて声を落とす。
「お役目柄、俺も詳しいことは言えんのだ。これから口にするのは独り言だからそう思ってくれ」
「──は、さようで」
公用使の独り言というのは執政府の、それも相応の地位にある者の独り言と同じことだった。表立って伝えることはできないが、漏れ聞いた独り言から事情を汲んで動くのならば、それは当人の才覚というものだ。公用使はそう言っている。
荒い言葉のひとつも覚悟していた商人は、拍子抜けしたように頷いた。
「東部国境が、何やらきな臭いらしい。となればこの先、どういうことになるか……」
慌てたようにもう一度文書を開き、書面に目を走らせた商人が、ゆっくりと視線を上げる。
「渡した文書はあくまでも運搬手段の話だけだ。ここを仕切るような商人なら、あとは言わなくてもわかるだろ」
荷馬車や荷馬は徴用ということになるから、供出したとしても公定の値にしかならない。
だが、東部国境がきな臭いということ、そしてそれが荷馬車や荷馬をかき集めなければならないほどの状況であるということは、兵事に関わる何もかもが──様々な食料品、煮炊きのための薪や炭、そして人手に至るまでの何もかもが、これから不足する、ということでもある。
あらかじめ不足するものが──つまり高値で売れるものがわかっている商売に損はない。
状況とその意味を飲み込んだらしい商人が、二度三度と頷いた。
「まあ、そういうことだ。頼むよ」
「ええ、無論ご協力いたします。手前どもにお任せください。このようなお話であれば、皆も是非にとご協力を申し出ましょう」
にんまりと笑みを浮かべた商人が請け合った。
見事なまでの変わり身の速さと言えた。
公用使が口許だけでにやりと笑い、右手を差し出す。
商人が両手でその手を握った。
「どうぞよしなに、公用使様」
ああ、と鷹揚に頷いた公用使が、左手で親しげに商人の肩を叩く。
では早速、と頷く商人をあとに残して、公用使は商館を出た。
その背中を見送った商人が、大声で使用人を呼ぶ。呼び交わす声とばたばたとした足音が交錯し、商館はほんの短い時間で活気を増していった。

その朝、街の小さな広場に店を出す屋台の主は、いつものように肉を
街の中心からは少々離れた小さな広場には、いくつかの屋台が店を出しており、朝のこの時間でも食事を求める者がいる。
これから仕事にでも出るのであろう工人、どうやら夜番を終えたところであるらしい衛士、そういった客が並び、朝食を買ってゆく。
炭火で炙られる肉のいい匂いが漂っていた。
幾人かの常連を捌いたあとに顔を見せたのは、普段見ない顔だった。
短い焦茶色の髪、疲れた表情ではあるが整った顔立ち、均整の取れた身体つき。腰には剣を帯びている。
「なかなかの景気だね、親父さん」
肉を挟んだパンをひとつと茶を注文したその客が、銅貨を置きながら世間話を振る。
「ええ、おかげさまで──ああ、お代はそこじゃなくてこっちの木箱にお願いしやす。ま、ご覧のとおりの繁盛ぶりで。有難ぇことです。お客さんは?」
「俺ぁしがない傭兵だがね、東へ向かってるとこさ。何やらあっちが騒がしい気配、ってんでね」
なるほど傭兵か、と屋台の主は納得の思いで頷く。
たしかに銅貨を出したその手は、武器を扱う種類の人間の手だった。
「まぁた戦ですかい?」
他愛ない話に応じながら、屋台の主は慣れた手つきでパンに切り込みを入れ、串に刺して炙っている肉の塊からいくらかを、ナイフで削ぐように切り分けていく。
肉から滴る油が熾火に当たると、小気味いい音と同時に食欲をそそる匂いが広がった。
「ああ、どうやらね。そういや、さっき執政府の公用使が御領主んとこへ入ってくのを見たよ。随分と慌てた様子だった──ま、公用使の連中と言やあ、いつもそんなもんだが」
「商売繁盛を祈りてえとこですが、戦になると何もかも高くなっていけねえ」
複雑な表情で顔をしかめた屋台の主が、首を振りながらそうこぼした。
戦となれば多数の兵が動く。動いた兵は道中でも動いた先でも、どうにかして養わねばならない。必然的に普段は消費されないはずのものが消費され、あらゆるものが不足し、結果として値が上がる。街の屋台など、そのような物価の高騰の影響をまともに受ける商売の最たるものだ。
値を上げなければ儲けが減り、値を上げればその分客が減って売り上げが落ちる。屋台の主にとっては、どちらにしても悩ましい二者択一になるのだった。
半ば愚痴のような言葉をこぼしながらも、主人の手は止まることがない。
手際よくパンに肉を挟み、別の火で温めていたポットから銅のマグに茶を注ぐ。
「マグは終わったらそこの桶に放り込んでおいてくだせえ」
「ん、そこだな」
傭兵が、空のマグがいくつか入った桶に視線をやって応じる。
「──まあ、戦にならずとも、戦が近いあたりってのは傭兵の食い扶持も増えるもんだからな。そっちを祈っておいてくれよ」
「そうしやしょうか、お互いのために──ほい、毎度ォ」
折衷案らしきものを持ち出した傭兵に、主人が応じて、注文の品を差し出す。
手渡された食事を受け取って場所を空けた傭兵に、別の客が声をかけた。
「さっきの話は、あれ本当なのか?」
そこそこに整った身なりをした、商人風の若い男だった。自分のパンはあらかた食べ終えている。
身綺麗にしているから商売が危ういという風ではないが、こんなところで食事をするのならそう大きな商いをしているということでもないのだろう。
大きな商売で稼いでいる商人ならば、街の中心部にある商館にいるはずだった。
「どっちがだい? 東の方が、ってのは王都で聞いた話だ。俺ぁ西から王都まで、隊商の護衛で雇われたんだが、どうにも渋い仕事でね。まあ、それでも、こうして東へ向かえる路銀くらいは稼げたんだが」
自分の顔と手にしたパンの間を、傭兵の視線が往復していることに気付いた若い商人が、ああ悪かった、と詫びる。声をかけて食事の邪魔をしてしまったことに気付いたのだった。
じゃあちょっと失礼して、と傭兵がパンにかぶりつく。
「ふぉいえ、ふぁ」
品のない傭兵らしく、口にパンを詰めたまま喋ろうとする。当然ながらまともな言葉にはならない。
銅のマグから茶を一口含んで一緒に飲み下し、傭兵が改めて口を開いた。
「それで、まあ、知り合いの傭兵から話を聞いてこっちへ足を向けたってわけさ。そいつは東から王都に来たところだったが、東がどうもきな臭い、ってね」
「小競り合いなら年がら年中、とも聞くが」
「そういう程度なら王都まで情報が来ないだろ」
会話の合間に、傭兵は器用にパンを口に運んでは食べている。
「そういうもんかね……公用使の方は?」
「いや、見たまんまよ。ここの御領主──伯爵様だよな? あそこのお屋敷に、公用使の馬衣を着けた早馬がな。さすがに街中で駆けやしなかったが、あの様子だと夜通し走って来たんじゃねえかな」
「それも東の?」
「そこまで俺ぁ知らねぇよ、運んでるモノを見られるわけでなし」
肩をすくめる傭兵に、まあそれもそうか、と商人が笑って頷く。
「だが、まあ、普通の公用使なら夜通しは走らねえ。なにか急な報せではあるんだろうな。ま、何かあるなら商館あたりでも動きはあるんだろうさ。でかい商人ほどそういうことには敏感だ」
なるほどね、と若い商人が頷き、よし、と呟いて広場に面した小さな宿に足を向ける。
「お出かけで?」
「ああ、荷物をまとめてから、商館の方へちょっとね」
何の気なしに尋ねた屋台の主に、若い商人はそう答えた。
「まだどういう商売になるのかはわからんが、こういうのは早めに手を付けないとな」
二人のやり取りを傍で聞いていた傭兵が、パンを食べながらうんうんと頷く。
「いいネタをありがとう、あんたの旅の無事を」
立ち去り際、声をかけた商人に、傭兵は小さく手を挙げて応じた。
「ああ、あんたも、いい商売を」
会話を畳んで商人を見送った傭兵は、程なくパンを食べ終えた。
ひとつ息をついてマグの茶を飲み干し、桶へとマグを放り込む。
「それじゃあな、親父さん、美味かったよ」
「へぇ、またのお越しをォ」
いつものように、そして他の客にもそうするように、愛想よく応じた屋台の主は、それきり傭兵のことを忘れた。
客はまだしばらく絶えそうにもなく、彼にとってその傭兵は、よくいる類の