侯爵家従士アーヴェイルの誓約


 侯爵家王都邸を出立してから丸2日。

 アーヴェイルはひどく疲労していた。

 時刻は夜半を過ぎている。

 ここ1日の間に摂った食事は、明け方と午後遅くの2回だけ。それも十分に摂れたわけではなく、行動に支障が出ない最低限の量を腹に入れただけだった。

 睡眠時間は数えるのをやめた。あちらで四半刻、こちらでもう四半刻と細切れにされた眠りでは十分な回復など望めるはずもなかった。そんな休息には、とりあえず倒れない程度の体調の維持という以上の意味などない。手綱を握りながら眠って落馬、などという醜態を晒しさえしなければそれでよい、とアーヴェイルは考えていた。

 ──この先の道の状況はどうだったか。

 秋も半ばを過ぎた夜中、馬上で冷たい夜風に身を晒しながら、アーヴェイルはあの書斎で見た地図の内容を思い出している。

 このすぐ先でちょっとした湿地帯を縫うように通り抜ける街道は、湿地帯を越えた更に先で川を渡り、しばらく平原地帯を進んだあとで、エズリンの街に達する。そこがマレス街道の中間点だ。行程としては、騎乗ならば半日もかからない。おそらく朝、遅くとも昼前にはエズリンに到着できることだろう。

 アリアレインから渡された書状の第一の宛て先は、エズリンの領主だった。

 王室への忠節篤い伯爵家の当主。正直に事情を話して協力を求めたところで、応じてもらえるなどとは到底思えない。だからこそアリアレインは、書状の最初の宛て先にエズリンの領主を──エズリン伯爵を選んだ。

 出立の夜、あの書斎でアリアレインに聞かされた謀の全容は、アリアレインをよく知るアーヴェイルにとってさえ想像の埒外にあるものだった。堅い人物と評判のエズリン伯爵にとっては尚更のことだろう。成功する可能性は高いと言えるが、だからこそ失敗など許されるものではなかった。

 と言うよりも、このあとすべての片が付くまで、許されている失敗などない。アリアレインがアーヴェイルに期待しているものは、そういう役割だったはずだ。

 ふと気が付くと、小さな川のほとりだった。もうこのすぐ先は湿地帯なのだろう。丈の高い草が茂るその向こうに、上ってきたばかりの月が見えていた。

 湿地帯に入れば、盛土と小さな橋が連続する道になるはずだった。そこへ入る前に、少しでも休んでおくべきだ、とアーヴェイルは考えている。

 時刻は夜半を過ぎている。

 最後に食事を摂ってから、もう半日に近かった。

 空腹ではあるはずだったが、食欲はない。

 疲労しすぎた身体が、食事を拒んでいるのかもしれなかった。

 そうは言っても、何も食べずに先を急ぐ、というわけにはいかない。

 何が起きないとも限らないし、現状で何かあったときに頼りにできるのはアーヴェイル自身だけなのだ。

 何か口に入れられるものを持ってきていれば、と考えて、アーヴェイルは小さく笑った。

 ──お嬢様に持たせていただいていたではないか。

 手ずから鞄に入れてくださったのだった、と思い返す。食事をする時間のないときに、と言って。

 それを憶えていられないくらいなのだから、やはり自分は疲れているのだろう。

 馬から降り、手綱を引いて小川のほとりに馬を誘導する。馬にも適度に休みを与え、水を飲ませておかなければならない。

 四半刻は必要だろうか、と当たりをつけて、外套の襟元を緩めた。

 夜風が身体に籠もっていた熱を取り去ってゆく。

 肩に掛けていた小ぶりの水筒の蓋を外し、一口二口と水を飲み下してひとつ息をつく。

 四半刻の大休止ならば、と道端の木に寄りかかるように腰を下ろし、ランプを傍らの地面に置いた。

 腰を下ろした途端、ずしりと身体の重みを感じた。忘れていた疲労を、身体が思い出したようだった。

 正直なところ動きたくはなかったし、食欲もない。それでも動かねば目的を果たすことはできないし、食べなければいずれ動けなくなる。

 たしか布で包んでくださっていたな、と、鞄に手を入れて中を探る。厚手の布の手触りがあった。

 ふたつの包みを手で確かめ、ひとつを取り出す。はっきりと、移り香や残り香ではありえないほどはっきりと、柑橘系と針葉樹の入り混じった香りが広がった。

 こんな場所で広がるはずのない香りだった。

 不審に思ってベルトに固定している留め金を外し、肩に掛けていた鞄を下ろし、ランプで鞄の中を照らす。

 懐剣の柄と、その下に畳んだレースつきのハンカチが見えた。アーヴェイルは、慌ててふたつの品を取り出す。

 畳まれたままのハンカチを手にしたとき、柔らかい絹の布越しに、硬いものがかすかに指に触れた。

 控え目に周囲を照らすランプの明かりの中で、アーヴェイルは、懐剣とハンカチを持った自分の手が、小さく震えていることに気付いた。

 王家とマレス侯爵家の紋章が入った懐剣は、アリアレイン自身のものに違いなかった。貴族の女性は懐剣を肌身離さず持ち歩くのが習わしだ。それは、いざというときに己の身を守るというだけでなく、敵手に己を渡さないための手段でもある。

 何かの間違いで鞄の中に入るような品ではない。

 アリアレインが忍ばせたに違いなかった。

 懐剣を見たことでおおよそ想像がついてしまったハンカチの中身も、しかし確かめずにおくわけにはいかない。

 畳まれた布を慎重に開くと、そこにはアーヴェイルが想像したとおりのものがあった。繊細な細工を施された細い金の指輪が、ランプの光を反射している。

 指輪とともに畳み込まれていた紙片の文字を読んだアーヴェイルは、目を閉じて長いため息をついた。

 そこには見慣れたアリアレインの筆跡で、ただ3行だけが記されている。


『どこかで捨ててきて。

 わたしにはもう必要のないものだから。


 でも、ハンカチだけは持って帰って。気に入っているの』


 王太子から──己を切り捨てた男から贈られた婚約の証を捨ててきてほしい、というアリアレインの願いそのものは、アーヴェイルにも十二分に理解できた。

 だがそもそも、アリアレイン自身が、コルジアから船に乗る手筈になっている。

 海路のどこかで海に捨ててしまえばそれで済む話だった。誰に見咎められる心配もなく、ふたたびどこかで出てくる気遣いもない。捨てる方法としてはこれ以上ない条件が揃っている。そのことに、アリアレインが気付かないはずがない。

 一刻も早く手許からなくしたかった、という理由はあったのかもしれない。だが、あのときの王都邸であれば、祐筆の誰かなり翌日来る予定になっていたクルツフリートなり、手渡して預かってもらえる相手には事欠かなかったはずなのだ。

 ──だからこれには、この二品を自分に持たせたことには、意志と意味とがあるはずだ。

 アーヴェイルは考える。

 完璧な淑女として、あるいは有能な為政者として振る舞うアリアレインが、ごくたまに、おそらく自分にだけ見せる甘えや我儘を、自分はむしろ好ましいものとして受け止めてきた。

 アリアレインはそのような、欠点のようでありながらある意味で人間らしい部分を、普段は心の中にしまい込んで、周囲に求められる姿を演じている。貴族であり、人の上に立つ者であるからには、たしかにそれはやむを得ないことであるのかもしれない。

 だがそれでも、人としての部分を一切表に出さないままでいては、いつか心が壊れてしまう。王太子妃となり、いずれ王妃となるのであれば、周囲からの要求はより大きく、厳しいものになっていくだろう。だからせめて今だけは、と思いながら、自分は年下の女主人の甘えや我儘を受け入れてきた。

 ──だから、なのですか?

 誰にも知られたくはなく、それでも自分には理解してほしかったから。

 そういうことなのですか。だから私を選んだのですか。

 アーヴェイルは思う。

 あのとき、ふたりだけの書斎で、これを捨ててきて、と命じられていたならば。

 自分は、では私しか知らない場所に捨てます、とでも答えたはずだ。

 それでは嫌だ、というのが、アリアレインの我儘なのだろう。

 芯が強く、聡明で、しかし年相応の弱さ脆さを抱えてもいる。

 己が抱える弱さや脆さを自分の目の前では見せたがらず、それなのに己の心の内を知っておいてほしいとばかりに鞄に忍ばせた。

 応えないわけにはいかない。

 捨ててきてと託されたものを捨て、持って帰ってと頼まれたものを持ち帰って、手渡さねばならない。

 また少し吹いた夜風が空気を揺らし、手のひらに広げたハンカチから、香水の香りが漂う。

 ──思い出しなさい、ということなのですか。

 当たり前に傍にありすぎて意識したことのなかった香りが、今では自分とアリアレインを繫ぐ、ただひとつのよすがのように思われる。

 どうか無事で、と懇願するように告げた声までが、耳に蘇るようだった。

「必ず」

 あなたに頼まれたすべてを成し遂げて、無事にあなたのもとへ。

 お預かりしたものをお返しするのだから。

 きつく目をつむり、指輪を包んだままのハンカチを握りしめて、アーヴェイルは握ったその拳を額に押し当てる。

「──必ず」

 その姿勢のまま、はっきりとした発音で、アーヴェイルはもう一度誓った。

 目を開けた視線の先に、下弦を過ぎた月が、夜空から見下ろしていた。