侯爵令嬢アリアレインの出帆


 マレスの騎士たちに付き添われた馬車と人の列がコルジアに着いたのは、日暮れを過ぎてからだった。

 空は濃い紺色から夜空の黒へと移り変わり、西の空に浮かぶ雲がわずかな残照に染められている。

 通例ならば閉ざされている市門は、マレス侯爵名代の一行のために開けられている。アリアレインがあらかじめ使者を送り、そのような手筈を整えてあった。

 行列の中ほどに位置する馬車の中で、当のアリアレインは目を覚ました。

「──わたし、寝てた?」

「うん」

 向かい合う座席で、弟のクルツフリートが簡潔に答える。

「着いたの?」

 馬車のカーテンを少しだけ開けて窓の外へちらりと視線を向け、外の様子を確かめたアリアレインが尋ねる。

「ちょうど今ね」

 ふたたび簡潔な答え。

「あなたは休めた?」

「姉様が寝ていたもの」

 言外に、警護役でもある自分が寝るわけにいかない、と含ませて、クルツフリートが応じる。

「ごめんなさいね」

「俺は屋敷で、交代で休んだからさ。だいたい姉様、夜もきちんと寝てないでしょ?」

「……そうね」

 昨夜のことを思い出しながら、今度はアリアレインが簡潔に応じた。

 眠れないままに従士のことを考えていたなどということは、たとえ弟にであっても、というよりも弟にであればこそ、言えるはずがなかった。

「どのくらい寝てた?」

「半刻ってとこ。起こした方がよかった?」

 クルツフリートの問いに、アリアレインはゆるゆると首を振って小さく笑った。

「ううん、少し気分がいいわ。疲れも取れたし。ありがとう、寝かせておいてくれて」

 ああ、と曖昧に頷きながら、クルツフリートは、起こせるわけがないだろ、と思っている。

 王都邸での普段の執務も激務だと聞いてはいたが、昨日の朝呼ばれて以来の姉の働きぶりは常軌を逸していると言ってよい有様だった。

 朝早くから夜半を過ぎるまで、無数にある決めるべきことを次々に決断し、指示を出し、方々に手紙を書き、あるいは人を遣り、そしてときには自分で出向きもする。己の身がふたつみっつと欲しくなりそうな多忙さでありながら姉は、使用人たちを気遣うこともけっして忘れてはいなかった。

 そんな姉が疲れて眠っているところを、自分が起こせるわけがない。

 クルツフリートにできたのは、そっとカーテンを閉めることと、なるべく揺らさないでくれ、と御者に伝えることだけだった。

「うちの用船のほかに中型船を一隻、港に確保してあることは伝えてあったわね?」

「うん、来る途中で」

「荷扱いのための人手は手配してあるから、あとは積み込みの作業だけ。水と食料その他諸々、航海中の消耗品はもう積み込んでもらってるから、あとはこちらの荷物ね」

「急な話なのに、よく人手を集められたよね。どのくらい上乗せして払ったの?」

「王都邸から持ってきた荷馬車を全部。船が港を出たらあとは売るなり使うなり、好きにしていいから、って言って」

「よくそういうことを考えつくよね、姉様」

「どうせ捨てるか取られるか、という話なら、ね」

 アリアレインの返答を聞いたクルツフリートが肩をすくめた。

 たしかに荷馬車を船に積んでは行けないし、王都に戻したところで接収されるだけだ。

 だから駄賃のかわりに口入屋と雇われた者たちに渡してしまおうという姉のその発想は、言われてみればたしかに、と理解できる。だが、自分が同じ立場にあったとして、同じ発想に至れるかどうか。そこが姉と自分との埋めがたい差異なのだ、とクルツフリートは考えている。

「……どの荷をどこに積むとか、そういう話はできてるの?」

「屋敷の使用人の荷は中型船、騎士隊とわたしたちの荷はうちの用船。騎士隊の方は馬を連れていかないといけないから。それ以上のことは決めてないわ」

 決めていない理由は、クルツフリートもよく知っている。

 最低限のことを決めて実行に移すだけで手一杯。そうであってさえ、普段他人に疲れて弱ったところなど絶対に見せないであろう姉が、馬車の座席でうたた寝するほど疲労している。細かな部分まで詰める余裕など、どこを探してもあったはずがない。

「それだけ決まってるなら十分じゃない? あとは荷運びの連中がうまくやってくれるでしょ」

 クルツフリートが明るい口調で断じる。

 窓の外の視界が開け、周囲が急に明るくなった。

 そう長くもない会話の間に、車列は市街地を抜けて港の近くまで進んで来ていたらしい。船が横付けされた岸壁とその周辺が、かがり火で煌々と照らされている。

 馬車の扉が控え目にノックされ、細く開けられた。

「お嬢様」

 マレスへと同行する祐筆のひとりだった。

「船積みの準備は整っております」

「ありがとう。すぐに始めさせて。積み込みが終わり次第、皆も乗り込んで休むように。騎士隊は最低限の人数で2隻を警護。わたしたちは皆の乗り込みが終わったあと、最後に船に移ります。月明りだけで港を出るのは難しいでしょうから、出航は明日の朝、明るくなり始めてからね」

 承りました、という低い声とともに、馬車の扉がふたたび閉められる。

 ややあって、荷の積み込みが始まったのだろう、周囲の喧騒が大きくなった。



 3刻ほどの後。

 コルジアの港に着いて目を覚ましてから、アリアレインはほとんど言葉を発することなく物思いに沈んでいた。

 これから為すべきことをなぞり、頭の中で自分自身に質問させて、その質問に自分自身がまた答える。それを最初から最後まで、想定を変えながら三度、四度と繰り返した。

 考えつく限りの質問を並べてそれに答え、自分たちの叛乱について考えるべきことがなくなってしまってから、アリアレインはずっと、送り出した従士のことを考えている。

 どうか無事でいてほしいという願いは、危険と困難の中に送り出した自分の、虫がよすぎる願望ではあった。だからこそ、本心から出たものでもあったのだけれども。

 そしてそう願うと同時にアリアレインは、アーヴェイルが失敗するはずはない、と考えてもいる。

 成功を確信しているというのに正体のわからない不安に駆られ、それを打ち消すように無事でいてほしいと願っている。矛盾していて、身勝手で、だからそういう自分が嫌になるのに、自分はあの忠実で有能で優しい従士に、もうひとつ我儘を言ってしまった。

 甘えすぎる自分が嫌になっても、甘えること自体は嫌ではなかった。

 ──ねえアーヴェイル。

 昨夜そうしたのと同じように、アリアレインは心の中で呼びかける。

 今頃どうしているの?

 わたしが鞄に忍ばせた我儘は、もう見つけてくれた?

 あなたは呆れたかもしれないけれど、でも、それがわたしの本心なのよ。

 あなたにしか頼めないし、あなたにしか頼みたくないことだから。

 そこまでを口に出さずに心の中だけで呟いて、なぜかしら、とアリアレインは首を傾げた。

 アーヴェイルにしか頼めない。それは確かだ。でもなぜ、

 ──わたしは、アーヴェイルにしか頼みたくないと、そう思ったのかしら?

 それは、固く固く閉ざしてきた蓋に手をかけるような問いだった。

 なぜ、ともう一度自身に問う前に、馬車の扉がノックされた。

 先ほどまで周囲を包んでいた喧騒は今やない。夜半の静けさの中に、小さな波音と、水夫たちが呼び交わす声が響いている。

「荷の積み込みは終わりました。お言いつけのとおり、皆も船へ。──あとはお嬢様と若様だけです」

 細く開けられた扉の外から、祐筆の声がそう告げた。

「わかりました。御苦労様。わたしたちもすぐに船に移ります」

 ひとつ息をつき、落ち着いた声でアリアレインが応じる。

 扉を開けて先に降りたクルツフリートが、開かれた扉を塞ぐように立った。

「クルツ?」

「引き返すならここが最後の機会だよ、姉様。アーヴェイルに何をさせたかは知らないけど、今ならまだ多分、なかったことにできる」

 ふたつ年下の弟は、思いのほか真剣な表情でアリアレインに告げた。

 たしかにクルツフリートの言うとおり、引き返すならば最後の機会だった。

 今ならば別の使者を立てられる。明後日の朝にも王都を発つであろう公用使よりも早く、しかるべき相手に、先だっての情報は誤りだった、と伝えればよい。咎められる部分はあるかもしれないが、決定的な叛乱行為には至らずに済む。

「……あなたが止めようとするとは思わなかったわ」

「姉様、迷ってないの?」

 だが、アリアレインにとって、迷う余地などなかった。

 己と父と、そしてマレス侯爵家を侮ってみせた王太子に従うつもりなど最初からなく、それは丸2日が経った今でも変わらない。何よりも、事が動き出してから迷うなど、アリアレイン自身の流儀からは程遠いものだった。

「今更ここで迷うようならね、クルツ、」

 静かに笑い、腰を浮かせて、アリアレインはクルツフリートに手を差し出した。

 ひとつ息をつき、何かを諦めた、しかし納得の表情で、クルツフリートがその手を取る。

「わたしは、わたしの切り札を送り出したりしないわ」

 そう口にしたとき、言いようのない不安と罪悪感がアリアレインの胸に広がった。

 なぜかしら、と考えながら、アリアレインは馬車を降りる。

 その視線の先、港の静かな水面を挟んだ低い山の向こうから、下弦を過ぎた月が上ってきていた。

「矢はもう放たれたのよ」

 波止場に降り立ったアリアレインの足下から伸びる影を、かがり火の明かりが揺らす。

 弟に手を取られた侯爵令嬢は、迷うことも揺らぐこともない。アリアレインは振り返らないまま、岸壁から船へと架けられた渡し板を渡って船上の人となった。