ノール伯爵ルドヴィーコの信頼


 日が傾き始めた午後の王都を、馬車が走っている。

 石畳を踏んで細かく揺れる馬車の座席で、ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは、己の娘であるノール伯爵令嬢、クラウディア・フォスカールと向き合っていた。

 窓の外へ視線を向けたまま、クラウディアは動かない。口を開きもしない。

 黙ったままの己の娘を前に、ルドヴィーコは、どう言葉をかけてよいのかわからなかった。

 褒めるべきか叱るべきか、喜ぶべきか憂うべきか、それすらもよくわからない。

 己の娘が王太子の婚約者、将来の王妃という地位を射止めたのだから、普通ならば喜び、よくぞやったと娘を褒めるところなのだろうとは思う。

 問題は、その地位が最初から定められたものではなく、別の令嬢を追い落として手に入れたもの、というところだった。しかもその相手は王国の柱石とも評されるマレス侯爵の娘にして希代の才媛。王太子はその元婚約者を追放刑に処している。

 王族の婚姻や婚約をきっかけに生じた内紛など、そう珍しいものではない。王国の歴史を少々紐解けば片手で足りないくらいの数は出てくるし、王国の建国前や他国にまで目を向ければ、それこそ掃いて捨てるほどの数になるだろう。

 だがその事実は、今まさにその内紛に巻き込まれようとしているルドヴィーコ自身の慰めになるものではない。

 娘と同じ馬車に乗っているのでなければ、頭を抱えるか、そうでなければ座席にもたれて虚ろな目をしているかだっただろう。

 昨日ほぼ丸一日、そして今日も半日の間、ルドヴィーコは悶々と考え続けていた。

 マレス侯爵にどう詫びたものか、ということである。

 手紙を書こうとしては止め、書きかけては破り、ということを幾度か繰り返し、結局何を書いても嫌味か当てつけとしか読めないことに気付いて絶望的な気分になった。

 妻に話してみても、なぜそんなことで悩むのか、と返され、絶望感を共有してくれる人間が己の周りにいないとわかっただけだった。

「お父様」

 クラウディアの声に、ルドヴィーコははっと視線を上げる。

 その動作で、己がいつの間にか俯いていたということに気付いた。表情も険しくなっていたかもしれない。

 どうしたのだ、と返そうとしたルドヴィーコに、クラウディアがにこりと笑った。

「眉間に皺が寄っていますわよ」

 自身の眉間を形のよい指でさして言うクラウディアに、ルドヴィーコの表情がまた渋くなる。

「皺が寄りもする」

 ため息とともに、ルドヴィーコは吐き出した。

「マレス侯爵家を敵に回そうなどと」

 その言葉を聞いても、クラウディアは表情を変えなかった。

 むしろうっすらと笑みすら浮かべている。

「そのかわり、殿下が後ろ盾になってくださいますわ」

 ルドヴィーコは思わず、窓の外へ視線を逸らした。

 娘が──美しくはあっても、この国の正妃たりうるかと心配していた娘が、この状況であのような笑顔を見せるとは思っていなかった。

「そうは言うがな」

「お父様」

 なおも懸念を口にしようとしたルドヴィーコを、笑顔を浮かべたままの表情でクラウディアが遮る。

「もう少し喜んでくださると思っていたのですけれど」

 無論、ルドヴィーコにも、喜ばしいと思う気分がないわけではない。

 あの令嬢がいなければ、諸手を挙げて喜んでいただろう。

「クラウディア、わしもまたとない良縁だと思ってはいる。そう思ってはいるのだ。だがな──」

 視線を娘に戻したルドヴィーコが答える。

 またとない良縁。それは間違いない。何しろ、相手は王太子なのだ。だが、そのかわりに何を失うことになるのか、想像するだに恐ろしかった。

 王太子の婚約者となるクラウディアは勿論のこと、自分もまた宮中の権力争いに巻き込まれることになる。否応なしに。

 何しろ、娘の相手は王太子なのだ──誰もかれもが自分とクラウディアを抱き込み、己の味方につけようとするに違いない。誰かに味方すればその誰かの相手からは恨みを買い、旗幟を鮮明にしなければ誰もかれもからの恨みを買う。

 なんの後ろ盾もなくマレス侯爵家と敵対するのは恐ろしいが、後ろ盾があればあったで面倒なことになる。どこかでひとつ対応を間違えれば、次は自分たちが排除される側になるかもしれないのだ。

 たとえば諸卿全員から敵視されたならば、王太子の婚約者と言えどその地位は安泰のものではない。そこまで極端な話ではなくとも、どこでどう敵を作るかわからない立場と状況は、ルドヴィーコにとって不安以外の何かではなかった。

「ご心配くださるのは嬉しゅうございますわ、お父様。でもこれは、殿下が望み、私が望んだことなのです」

 これがたとえば側室の話であったならば、もう少し気が楽だったに違いない。そして自分もすんなりとそれを受け入れることができたに違いない。

 ルドヴィーコはそう思う。

 妃になることが問題なのではない。

 あの令嬢を──あのマレス侯爵の娘を追い落としたことこそが、そして座るのがただひとつしかない正妃の椅子ということこそが、問題なのだ。

「あの令嬢を追い落としてでもか」

「それこそが、殿下のお望みなのですから」

 クラウディアの返答に、今度はルドヴィーコが沈黙する番だった。

 側室でなく正妃。王太子の正式な婚約者。王太子が何を望んでいるのかを知り、結果として何が起きるのかを知った上で、クラウディアはその渦中に自ら身を投じたことになる。

 ルドヴィーコにしてみれば、およそ正気とは思えない行動だった。

 王族の婚姻や婚約に端を発する内紛など、掃いて捨てるほどの数がある。だがそのような内紛で、一切の血を見ない結末は、数えるほどしかないはずだ。特に婚約者の排除を伴うならば結末はいつも血みどろで、内乱に至ることも珍しくはない。少なくともルドヴィーコは、王族の婚約者がしりぞけられて流血なしにことが収まった話など、歴史書で読んだことはなかった。

「お側にいたのならばクラウディア、まずもってお前がお止めせねばならんだろう」

「殿下が心の底でそのようにお望みならば、お止めしたでしょう」

 危うい、とルドヴィーコは思う。

 王太子には引き返す気も止まる気もない。

 婚約の解消だけならばともかく、追放刑でもって排除したのだから、曖昧な、あるいは穏便な決着がありうるとは思えなかった。あの侯爵令嬢が折れるか王太子が折れるか、いずれにせよ行きつくところまで行きつくほかはない。

 それ自体は王太子の意図であるからどうしようもないにしても、その先頭に己の娘と己がいるなど、ルドヴィーコにしてみれば避けたい災難の筆頭のようなものだった。

「お父様」

 今日幾度めになるか、己の娘が呼ぶ声は、淡々として慌てたところがない。

「もう、矢は放たれたのです」

 そんなことはわかっている、ルドヴィーコはそう返そうとして口をつぐんだ。

 矢は放たれている。

 行きつくところまで行きつくほかはない。

 ルドヴィーコは心の中で祈った。

 行きついた先で娘が無事であることを祈り、己と妻が無事であることを祈り、王太子が無事であることを祈り、なるべく血を見ずにことが済むことをついでに祈った。

 今のルドヴィーコには、そのくらいしかできることがなかったのだ。



 ルドヴィーコがその報せを聞いたのは、その日の夕刻、王城の一室でのことだった。

 婚約の発表と、新たな婚約者のお披露目の日取りを決めたい、と王太子に呼び出されていた。

 娘とともに馬車で登城したルドヴィーコは、待たされることもなく応接の間に通され、上機嫌な王太子に出迎えられていた。

 喜ばしい席だというのに気は浮かない。身体と心の奥に、疲労が染みついている。

 昨日一日悶々として夜もよく眠れず、馬車の中でようやく当の娘と会話を交わせたと思ったら先々の災難が見えてしまった。何事も平穏無事が一番と考えているルドヴィーコにとって、ここ数日のあれこれは想像の埒外にあるものだった。

 王太子とマレス侯爵やその令嬢、双方とうまくやる方法はないものだろうか、とそればかりを考えてしまう。

 あの令嬢がこのまま王都にいられるとも思えないから、いずれ侯爵自身が王都へ上るか、あるいはいくつか下と聞く令息を新たな名代にするか、常識的に考えればそのどちらかだろう。

 そうであれば、侯爵本人なり令息なりに直接詫びるしかない。今朝までのルドヴィーコは、そう思っていた。

 だが、先刻の馬車の中でのやり取り──クラウディアとのやり取りを考えれば、それですら現実的ではない。王太子はマレス侯爵をはじめ、有力貴族たちの影響力を排除したいと考えている。そしてクラウディアは、それを知った上で、そんな王太子を支えたいと望んでいる。

 ルドヴィーコはそんな王太子の、新たな婚約者の父。

 和解の糸口など最初からなかった、ということだ。平穏無事とは最も遠い結論しか出てこない。

「ノール伯、どうであろうな?」

 上機嫌な王太子の声が耳に入り、ルドヴィーコは思案の淵から現実に引き戻された。

 お披露目の宴の趣向について話を聞いていたのだった、と思い出す。

「──御意のままに、殿下。たいへんよい趣向かと存じます」

 無理やりに笑みを浮かべて答える。

 勿論、ここまでの話はなにも頭に入っていなかった。

「わかってくれるか、さすがクラウディア、そなたの父だ。これはな──なんだ?」

 ますます機嫌をよくした王太子の長広舌が始まる、そう思ってまた思案の淵に沈みかけた意識を、急速に不機嫌そうになった王太子の声が現実の側へと引き戻す。

 侍従のひとりが王太子に何やら耳打ちをしていた。

 耳打ちを聞いた王太子の顔に怪訝そうな表情が浮かび、次いで舌打ちでもしそうな顔になった。

 あの侯爵令嬢のことで何かあったのか、というのは、ルドヴィーコならずとも察せるところだ。

「いかがされましたか、殿下?」

「あれのことでな。王都の屋敷を引き払った、と」

「侯爵家のお屋敷を、でございますか」

「うむ。それと近衛のマレス騎士館」

「マレス騎士館がなにか」

「総員がどこかへ出た、と」

 ルドヴィーコの背中を、嫌な汗が伝う。

 まさか王都で戦でも始めようというのか、と最悪の想像が頭をよぎった。

 そうであれば真っ先に狙われるのはこの王城であり、王太子とクラウディアの首になる。

 だが、騒ぎが起きた様子はない。

「──どういうことでございましょうか?」

「知らぬ」

 素気なく王太子が答える。

「あれは王都の市門を出たのちレーナ街道を下ったそうだ。騎士たちも同道したと聞く。見送りというところか?」

 レーナ街道を下った先は、海に面していない王都にとって最も近い港町、コルジア。実質的に王都の港として機能している。つまり、あの侯爵令嬢は船に乗るつもり、ということだ。

「レーナ街道であれば、行き先はコルジアの港で間違いございますまい」

「うむ。船で侯爵領を目指す、というところだろう」

「たしかに、船の上では追放の布告も届きはいたしますまいが……」

 追手をかけることも難しければ、追放者であることを悟られて囲まれる、ということもない。

 マレス侯爵領へ向けて帆を上げてしまえば、ひとまずの危険はなくなる。頭を下げずに逃げるということを前提とするのであれば、悪くない選択肢と言えた。

 だが本当にそれだけか、とルドヴィーコの小心な部分が、心の中で警告を発している。

 王都を引き払って郷里へ戻るだけであれば、そしてその見送りというだけであれば、騎士館の総員が出てしまうことなどなくてよいはずなのだ。

「さすがにそういうところでは頭が回る。たしかに、マレスへは着けよう。だが、マレス侯のもととて王国に違いはない。逃げて逃げきれるものではない」

 ルドヴィーコが密かに弄んでいた最悪の想像は、自暴自棄になったあの令嬢がマレス騎士に王都で一戦させる、ということだった。

 あの侯爵令嬢は自暴自棄とは最も縁遠い類の人物と思えたが、そういう者こそ本当に自暴自棄になったときには何をしでかすかわからない。

 だが、どんな形であれ、騎士隊を伴って王都を出てくれたのならば、最悪の想像が実現することはなくなった、ということだ。

「そういえば」

 ルドヴィーコは、ふと思い出したことを口に上らせた。

「昨日はあの令嬢、聖レイニア聖堂へ出向いておられたようですな。当家の使用人が、聖堂で見かけた、と話しておりました」

「聖堂?」

「意図は、わたくしめにはわかりかねますが」

「打つ手がなくなって今更頭も下げられず、では教会を頼ろうというところか」

 王太子の口調は、侯爵令嬢を嘲笑うようだった。

「そのあたりは、わたくしめには何とも。しかし、俗世で法の庇護を得られなくなった者が教会を頼るのは、定石ではございます」

 言いながらルドヴィーコは、あの侯爵令嬢がそんなわかりやすい人物だっただろうか、とも思う。

「手垢の付いたやり口だ。だが、まあ、修道院にでも入って俗世に出てこぬのであれば、それはそれでよい」

 落飾して隠棲するのであれば、赦免せずとも問題はない。

 この先二度とあの忌々しい侯爵令嬢の顔を見ずに済む、ということだ、と王太子は思っている。

 王太子の言葉に、ルドヴィーコは、腑に落ちないものを感じていた。

 ──遁世するのだとすれば王都の、それこそ聖レイニア聖堂で事足りるはずだし、そもそも屋敷を引き払う必要もない。

 普通に解釈すれば、どうにもならなくなったからこそ教会を頼るということなのだろうし、最後の手段としての落飾、ということになるのだろう。

 しかしそうであるならば、逃げるように屋敷を引き払って王都を発つ理由がなくなるはずなのだ。無論、騎士たちを引き連れてゆく必要もない。

 ──あの令嬢が理由もなくそんなことをするはずがない。

 そこまで考えて、ルドヴィーコは思い至った。

 自分はどこかで、あの侯爵令嬢を深く信頼しているのだ。

 理屈に合わないことをしない、理由のない行動がない、そういうことを前提にすればこそ、腑に落ちないと思っている。

 つまりそれはあの令嬢を信頼しているということだ──たぶん、目の前の王太子よりもよほど。

 ぱん、と手を打つ音が、ルドヴィーコの思考を遮った。

 王太子だった。

「さて、とんだ邪魔が入ったものだが、クラウディア、そなたのお披露目の話だ。衣装のことだがな、ノール伯──」

 どうやら機嫌を直したらしい王太子の長広舌が始まり、ルドヴィーコは曖昧に相槌を打ちながら、意識をどこかへ沈めていった。