侯爵令嬢アリアレインの出立
その日の午後。
侯爵家王都邸は喧騒を極めていた。
屋敷を引き払うとは言っても、ただ出てゆけばよいというものではない。
持ち出さねばならないもの、残してゆけないものは多々あるし、出てゆく者たちの支度もある。
書斎のある階をはじめ、アリアレインがいる場所では大きな物音を立てることが禁じられていたこの屋敷でも、今はその禁を守ることなどできない状況だった。
「最後の始末はスチュアート、あなたに任せることになってしまいそうね」
その書斎も、祐筆たちが書類仕事を終えた今はがらんとしている。
「お任せください、書類の整理などは普段からやっておりますから」
老いた顔に笑みを浮かべて答えた執事に、アリアレインもつられて笑う。
「姉さ──姉上、使用人用の荷馬車の支度ができました」
扉を開けて顔を出したクルツフリートが執事を見て取り、慌てて言いなおした。
「いつものままで構わないわよ、クルツ、ここはわたしたちだけだから。支度ができたのなら、荷物をまとめた者から順に積んでいくよう伝えて」
はい、と答えたクルツフリートが、廊下を急ぎ足で歩く使用人のひとりを捕まえて指示を出す。
「──聞こえてると思うけど姉様、えらい騒ぎだよ」
「仕方ないわよ、1日半で屋敷を引き払おうとしてるんだもの」
部屋に入って扉を閉めたクルツフリートの言葉に、どこか投げやりとも取れる態度でアリアレインが応じた。
「それよりクルツ、マレス騎士館の準備はどうなの?」
「あっちはあっちで大変だけれども」
問い返したアリアレインに、肩をすくめたクルツフリートが答える。
「戦支度で慣れてるからね。何かあれば1日と言わず、1刻2刻で出られるようにはなってるから。ただ、今回は総員ってとこと、戻らないのが前提だからさ。勝手が違う様子だったよ」
頷いたアリアレインが、それで、と先を促す。
「朝の時点ですべて順調。予定どおり退去して合流できる、って」
「それなら、こちらも予定どおり、ね」
「お嬢様の荷の準備はできております。あとは合流を待って出立するのみかと」
控えていた老執事が告げ、アリアレインはもう一度頷いた。
「それなら、わたしもそろそろここを離れる頃合いね」
小さくため息をついて部屋の中を見回す。
書棚にはあちこちに空きができている。侯爵領に持参するために持ち出した、その跡だった。
書類の綴りを入れていた棚はほぼ空、昨夜まで祐筆たちが忙しく働いていた大きなテーブルの上も片付けられ、アリアレインの執務机には塵ひとつ乗っておらず、いくつもある引き出しの中身も空になっている。
──本当は、もっときちんと選ぶべきだったのだろうけれども。
書物も書類も、半日でまともな選別などできるわけもない。どうしても持っていきたいものとどうしても残しておけないものだけを選び、使用人たちに言って持ち出す荷として準備をさせた。
アリアレイン自身の持ち物、たとえば衣装や小物はもっとずっとおざなりだった。
「この長持に入るだけ衣装と小物を選んで入れておいて、あちらで使う分にするから」
と言って、屋敷に残る侍女に丸投げしてしまった。
「入らない分は残していくから、スチュアートと相談してお金に換えて」
はい、と頷いた侍女にそう付け加えたら目を剝かれたけれど、見なかったふりをした。
持っていけないものはどうしようもない、というアリアレイン自身の割り切りを、屋敷の全員が共有できているわけではない。結局、アリアレインが自分で選んだのは執務に使う文房具と、常日頃から身に着けている装身具くらいのものだった。
ばたばたと屋敷を引き払うというのはそういうことだ、と理解してはいる。しかし、そうであっても身勝手な自分は、たぶんどこかで「あれを持ってくればよかった」とか「これを持ち出しておけばよかった」とか、そういう後悔をすることになるのだろう。
「ここで執務をしたのは2年ほどかしら? 気に入っていたのだけれど」
「さようでございますな。──わたくしも、ここで仕事をするのは心地がようございました」
アリアレインの言葉に、いつもと変わらない調子で老執事が応じる。
「スチュアート、あなたともお別れね。今までよく仕えてくれました」
「至らぬ老人でございましたが」
あっさりとした別れの言葉に、かしこまった態度で老執事が礼をする。アリアレインはいいえ、と首を振った。
「あなただからこそできたことはたくさんあるわ。たくさん。そしてこれからもね、スチュアート。面倒だけを残していくようで悪いけれど」
老執事は生真面目な顔のまま、片眉を上げた。
それが冗談を言うときの彼の癖だと、アリアレインは知っている。
「後始末は使用人の仕事でございますからな。慣れたものです」
クルツフリートが小さく吹き出し、アリアレインも笑みを浮かべた。
「主家の令嬢の一世一代の不始末だものね。それなら、後始末はスチュアート、あなたに任せるわ。あなたが始末を付けてくれるのなら、わたしも安心して逐電できるというものね」
「喜んで、お嬢様。──侯爵閣下によろしくお伝えください」
「伝えるわ」
歩み寄ったアリアレインが、老執事の皺の刻まれた手を両手で包む。
「スチュアート、残る皆をよろしく。なにかあったら遠慮なく大司教猊下を頼りなさい。あの方なら、きっと力になってくれるから」
言葉を切ってほんのわずかな間を置き、続けた。
「──あなたも、元気で」
顔を上げないままそれだけを言い、手を離して、アリアレインは老執事に背を向けた。
なにか言おうと口を開きかけたアリアレインが、クルツフリートと目を合わせて、それを止めた。
かすかに視線を逸らしたのを見ていたのはクルツフリートだけだった。
「──クルツ、行きましょう」
クルツフリートが黙って扉を開け、アリアレインが書斎を後にする。
「それじゃ、スチュアート、元気で」
「若様もお嬢様も、どうか、つつがなく」
クルツフリートと老執事が短い別れの挨拶を交わす間に、アリアレインはもう廊下を歩きだしている。
書斎の扉を閉めたクルツフリートが、早足で後を追った。

同じ頃、王都郊外に位置する近衛騎士団の練兵場。
マレス騎士館は、静かな緊張に包まれていた。
「退去の準備が整いました。総員、いつでも出立できます、館長」
壮年の騎士が報告する。
館長と呼ばれた、髪に白いものの混じった騎士は無言で頷いた。
がらんとした広間を、ふたりの騎士は入口から眺めている。
そこだけはいつもどおりのテーブルと椅子が、かえって寒々しい。
テーブルの上には、二十を超える数の短剣が並べられていた。
「施錠は?」
「すべて。あとはここと、館の正面のみです。私と部下が二度確認しました」
「ご苦労だった」
短く労って、館長と呼ばれた騎士はテーブルに歩み寄った。
手にした短剣を、並べられた短剣の隣に、丁寧な所作で置く。
ゆっくりと広間の入口まで歩き、待っていた壮年の騎士の肩をとん、と叩く。
「ここも閉めろ。出立する。まずは王都邸だ」
「はっ」
短く答えた壮年の騎士に頷いて、騎士館長は玄関の扉へと向かう。
後ろで扉の閉められる音と、かちゃかちゃという鍵の音が聞こえた。
玄関の扉から外へ出ると、既に馬が引かれてきていた。
出立の準備を整えた騎士たちが待っている。
騎士たちはみな、侯爵家の旗を付け、穂先に覆いが掛けられた槍を手にしていた。
従卒の手を借り、慣れた身のこなしで騎乗した騎士館長は片手を挙げて、居並ぶ騎士たちに短く号令した。
「出立。王都邸へ向かい、名代様と合流する」
ゆるゆると馬を進め、居並ぶ騎士たちの間を抜けて先頭に立つ。
そのままの速度で進み、ほどなく練兵場の門へたどり着いた。
何事か、と出てきたふたりの門衛に、開門、と告げる。
「マレス騎士館長、これは一体」
ひとりが戸惑った様子で問う。
王命でもって出動するにせよひとつの騎士館からはせいぜいが数騎、というのが通例だ。
20を超える騎士とその従卒たちで100に近い、それだけの数が武装して門を通ろうとするなど前代未聞であった。
「主命により出立する。開門」
いやしかし、と口の中で言いかけた門衛が相棒と視線を交わす。
騎士館長も騎士たちも、それ以上の説明など不要とばかりに、黙ったまま馬上から門衛たちを見下ろしていた。
ほんのわずかな対峙ののち、門衛たちは結局、騎士館長と騎士たちの圧力に負けた。
軽装の兵2名と完全武装の騎兵を含む100名近くでは、そもそも何がどうなるものでもない。
門を開いた門衛たちは、悠々と去るマレス騎士隊を呆然と見送った。
「……なんだったんだ、ありゃ」
全員が出てしまったあとで、開かれた門もそのままに、門衛のひとりが呟いた。
「知るかよ。あんな数が一度に出るなんて聞いたこともねえ」
応じたもうひとりの言葉に、ふたりの門衛は顔を見合わせる。
それ以上の言葉がなくとも、お互いに何を考えているのかは理解できた。
──自分たちは今、大変なものを見たのではないか?
「おい、俺はここを閉めとくから、お前ちょっと本館へひとっ走り行ってこい」
慌てた様子で片方が言い、言われた方は返事もそこそこにばたばたと駆けだす。
マレス騎士館総員出立の報は、ほどなく近衛騎士団本部へ伝えられた。