秋の夜気に身を晒して月を見つめ、アリアレインは心の中で呼びかけた。
今も街道を駆けているの?
それとも少しは身体を休められているの?
どこかでこの同じ月を、あなたも眺めているの?
答えなど、帰ってくるはずもない。それでも、
「──どうか無事で。頼んだわよ」
送り出すそのときに伝えた言葉をもう一度小さく口に出して、アリアレインは窓を閉じた。

目を覚ましたアーヴェイルの視界に、見慣れない天井がぼんやりと映る。
マレス街道を東へと下る途上、小さな街にしつらえられた宿駅の仮眠室だった。
「公用使様」
宿駅で直についていた衛士が低い声で呼んでいる。
「ちょうど四半刻でございます。替え馬の支度が整いました」
「──ああ。ありがとう」
四半刻で睡眠が足りるはずもなかった。
──せめて1刻、いや半刻でも眠らなければ、遠からず疲労で潰れてしまう。
そう思いながら、今ひとつはっきりしない頭を振り、簡素な寝台の上で身体を起こす。
意識が明瞭になるにつれ、勝手なものだ、とアーヴェイルは小さく苦笑した。
先を急ぐゆえ四半刻で必ず起こすよう、と衛士に言ったのはアーヴェイル自身だったからだ。
通例、公用の急使であっても、1日を越える行程を駆け通すことはない。
街道の中途にあるそれなりの大きさの街であればどこでも、宿駅には公用使が待機している。そこへたどり着いたならば、あとは中身ごと鞄を渡し、必要であれば発出元からの書状を見せて、どこそこへ、と伝えればそれでよい。その先は、その宿駅の公用使が半日なり1日なりの行程を進んで更に次の公用使に渡す。その連鎖でもって公用の信書を運ぶのが公用使という制度の仕組みなのだ。
王都からマレスまでは、公用使を使っておおよそ4日。
無論、馬と公用使を「継いでゆく」のが前提だ。ひとりが通しで駆けて4日、という話ではない。
そのような例がないわけではなく、機密に属するような内容を送るとき、あるいは公用使本人が口づてで何かを伝えねばならないときは、ひとりが全行程を担当することになる。
たとえば、今回のように。
アーヴェイルがアリアレインから言いつかった役目は、伝達であると同時に
目的外のところで内容を漏らすわけにはいかないし、王太子たちが気付いて対応する前に仕掛けきらなければ意味がない。
そして、アーヴェイルの失敗は謀の失敗を、つまりアーヴェイル自身のほぼ確実な死と、アリアレインの計画の破綻を意味している。
何がどうあっても失敗するわけにはいかず、さりとてゆっくりと時間を使うことができるわけでもない。
条件としては無茶な話ではあったが、アーヴェイルはそのことに不平を鳴らす気などなかった。王都邸を出立する折の言葉は──頼られることが嬉しいと言ったその台詞は偽りでも誤魔化しでもなく、アーヴェイル自身の心から出たものだ。
──そうであれば。
ゆっくり休むなどという贅沢は、すべての片が付いてからでよい。
「すまないが、水を1杯いただけないか?」
「軽いものでよろしければ、食事もご用意できますが」
衛士の申し出に、アーヴェイルは首を振った。
食事を摂れる時間があるのなら、今はその分眠っていたい、というのが本音だった。
「ありがたい話だが、今は時間が惜しい。次の宿駅ででも摂らせていただこう」
では水を取ってまいります、と衛士は退出し、束の間、アーヴェイルは部屋に残された。
念のため、と鞄を開けて、もう一度中身を確認する。
封筒の数を確かめ、白い布包み──携帯糧食を確かめる。
ふと、この場には──宿駅の仮眠室にはいささか場違いな香りが、ふわりと漂った気がした。
柑橘系と針葉樹の入り混じった香りは、あの書斎で常に感じていた、アリアレインが普段から使っている香水のそれだ。封筒や書状についた残り香ででもあるのだろう、とアーヴェイルは思う。
そう認識すると同時に、いくつものことが思い出された。
不安を押し殺した態度と表情。かすかに震えていた手。
頼られるのが嬉しいと言った自分に、小声で答えて目を伏せる仕草。
それらに、あるいはそういったものの根源にある不安に、触れられないことがアリアレインの望みだと思ったから、なにも気付かないふりをしてアーヴェイルは出立した。
──お嬢様は、なにを恐れておられたのだろうか。
叛逆そのものや王太子であるはずがなかった。
それらはあの広間から退出して屋敷に帰る前までに、様々な可能性を考慮した上で決めた話であるはずだ。決める前に悩むことはあったかもしれない。だが、決断のあとに後悔するなどアーヴェイルの知るアリアレインに最も似つかわしくないことだった。
では一体何を、と考えてみても、思い当たるところはない。
だが、勘違いとして済ませてしまうにはあまりにも明確に、アリアレインの様子は普段のそれと違っていた。
なかなか心の内側を表に出そうとしない年下の女主人の、本心を明かす数少ない相手が自分だと、アーヴェイルは思っていた。無論、王太子の婚約者にして侯爵家の名代ともなれば、アーヴェイルにすら見せない、見せられないものを抱えてはいるだろう。
それでもマレスを離れて2年間、護衛を兼ねた補佐役として仕えていれば、少々難しいところのある侯爵令嬢の考えていることは、何とはなしにという程度であっても、わかるようになってくる。
だがあのとき、アリアレインが何を思い、何を恐れてあんな態度を取っていたのか、アーヴェイルにはまったく推測もできなかった。
常に側にいる補佐役として、歳の近い部下として、アリアレインは自分を信頼してくれていたと、アーヴェイルは思っている。その証左がこの役目だ、とも。
そしてアーヴェイル自身もまた、アリアレインを、その能力と度量と気性とを、深く信頼している。若くして侯爵家の名代という重責を担い、そしてその立場に相応しい力量と態度を示し続ける己の主人に、敬意をもって接している。
だからこそ今回もアリアレインの判断を容れ、その計画の一端を担えることを誇りと喜びとして、自分は今ここにいるのだ。
──本当に、それだけか?
アーヴェイルの中で、もうひとりの自分が問う。
長く蓋をしてきた問いだった。
それは問うことも答えることも許されないものであったから。
──本当に、ただ信頼と敬意だけなのか?
今はそんなことを考えるときではない、と思いながら、それでも、一度問いかけてしまったものはもう頭から離れない。
迷う思考を断ち切るように響いたノックの音に、アーヴェイルは少なからず助けられた思いになった。
ひとつ息をついて、どうぞ、と応じると、水差しとマグを手にした衛士が顔を出す。
机に置かれた水差しからマグに水を注ぎ、それを一息で飲み干して、アーヴェイルはありがとう、と衛士に頷いた。
簡素な造りの机から鞄を取り上げて肩から斜めに掛け、鞄の下側に取り付けられた留め金をベルトに通して固定する。それは、騎乗した際の鞄の揺れを防ぎ、万が一肩紐が切れるようなことがあっても鞄そのものが落ちることのないように、という、公用使用の鞄の工夫だった。
そうやって身体に固定した鞄の上から外套を羽織れば、もうそれで身支度は整ってしまう。
「馬は?」
馬はこちらに、という衛士に先導されて厩舎へと向かう。
ランプの明かりが照らす中で、ここまで乗ってきた馬が馬房に繫がれ、飼葉桶から飼葉を食んでいた。
替え馬は馬房から引き出され、馬衣と鞍を着けられて騎手を待っている。
道中どうかお気をつけて、という衛士の声に送られて、アーヴェイルはふたたび馬上の人となった。
時刻は夜半を過ぎたところだった。
地平線から上ったばかりの、下弦の月が、さえざえと街道の石畳を照らしている。
月の浮かぶ東に向けて、アーヴェイルは早足で馬を進めた。