侯爵令嬢アリアレインの煩慮


 その日も夜遅くまで、侯爵家王都邸の慌ただしさは続いた。

 苦労の甲斐あってと言うべきか、アリアレインが王都を発つに当たって、やっておくべきと考えていたことの大半は見込みがついている。

 付き合いのあった商会との取引はほぼ穏当に清算し、事情を含められる相手には含め、最低限必要な物資や金銭のやり取りを続けられるだけの準備を整えた。

 使用人たちの給金や紹介状は、必要な相手には配り終えている。あとはアリアレインと連れ立ってマレスへ下るか、屋敷に残るかだ──マレスへ向かうものはアリアレイン自身が、屋敷に残る者はスチュアートが面倒を見ればよい。

 王都に残る者たちの保護は教会に依頼し、受け入れられた。

 持ってゆけないものの始末はおおよそ目処が立っている。

 無論、代償もある。

 朝からほぼ丸一日、数多くのことを考え、判断してきたアリアレインは、身体よりも頭が疲れ切っていた。ようやく休めるようになった今も、今日一日に考えたことと決断したことがぐるぐると頭の中を回っている。

 明日に備えて休まねばならない──むしろ今日までは明日からの準備に過ぎず、明日からこそが正念場なのだと、そのように理解はしていても、簡単に頭を切り替えて眠ることなどできはしなかった。

 王都に上り、父侯爵の名代を任されて2年。今日よりも慌ただしい日は幾度もあった。

 休む時間もなく、遠く離れたマレスにいる侯爵の判断を仰ぐこともできないまま、様々なことを決め、必要なだけの人と資金を投じて難題を解決したことも一度や二度ではない。

 しかしそういった日の夜でさえ、昨日今日の夜ほどの疲労感はなかったし、眠れなかったこともない。

 昨夜あまり眠れなかったせいもあってか、今日は幾度も今そこにいないはずのアーヴェイルを呼びそうになった。王都に上ってから毎日顔を合わせていた補佐役なのだから、無理からぬところではある。

 口を開きかけて辛うじて声には出さず、不自然な半拍ほどの間を置いて、大概がスチュアートを、そうでなければその場にいる祐筆の名を、アリアレインは呼んだ。

 そのたびに言いようのない心細さを覚え、自分が嫌になり、心の中で自分自身を叱りながら、アリアレインは今日の執務をこなしたのだった。

 ──今頃どうしているかしら?

 寝台の天蓋を眺めながらアリアレインが思い浮かべたのは、送り出したアーヴェイルのことだ。

 街道をマレスまで下るには最低4日。その途上で様々なことをこなすとすれば、休める時間はほとんどない。かならず行うべきことと余裕があればしてほしいことに分けて伝えはしたけれど、あの忠実で有能な従士は、及ぶ限りすべてをやり遂げようとするだろう。

 思えばアーヴェイルは、あの理不尽な処断に本気で腹を立ててはいたけれど、アリアレイン自身の無茶とも言える決断には──王太子に抗うという決断には、一切の異を唱えなかった。アリアレインが可能と判断したならば問題ないと考えているに違いなかった。

 アーヴェイルにもスチュアートにも、そしてその他の祐筆たちを含めた王都邸の執務陣の全員に──つまりは書斎の面々のすべてに、アリアレインは、自分と異なる意見を持つのであればそれは必ず聞かせるように、と伝えていた。主が誤っていると考えたなら、それを諫めないのは仕える者として任を全うしたことにならない、とまで言って。

 書斎の面々の中では、その点で、アーヴェイルが最も遠慮と無縁だった。祐筆たちとアリアレインが少なくとも10歳近くは離れる中、アーヴェイルは歳も近く、気心が知れているという部分もあったのだろう。疑問や異論を口に出すという形だけでなく、態度や仕草でそれとなく再考を促されたことも度々のことだ。

 そうでありながら、ひとたびアリアレインが決断してしまえば、疑問や異論など最初からなかったかのように忠実に、アリアレインの判断と指示に従う。

 無論、いつもアリアレインと意見を異にするわけではない。意を汲んで先回りして準備を整えることもあれば、異論を唱えるほかの面々の説得に回ることも、そしてアリアレインとほかの面々の間に立って落としどころを見つけることもある。だからこそアリアレインはそんなアーヴェイルに、誰よりも積極的に意見を求めてもいた。

 そこまで考えて、ああそうなのね、とアリアレインは思い至った。

 誰よりも自分を理解して、意を汲んでくれるアーヴェイルに、自分はずっと甘えていたのだ。

 ──昨夜だってそうじゃない。

 あのとき、アーヴェイルを送り出したとき、正体のわからない不安に震えた自分に、アーヴェイルが気付かなかったはずはない。ほんのわずかな間だけだったけれど、差し出された鞄を黙ったまま見つめるアーヴェイルの姿が思い出された。

 不安で、でもそれをアーヴェイルには知られたくないと思った。

 きっといつものように、汲んでくれたのだろうと思う。アーヴェイルはそのことには一切触れずに鞄を受け取り、笑顔さえ浮かべて、真夜中の街道へと出ていった。

 ──今頃どうしているかしら?

 つい先刻と同じことをもう一度考えて、アリアレインは寝台から起き上がった。

 夜着の上から薄衣を肩掛けに羽織り、窓の掛け金を外して開ける。

 東側に開いた窓の先に、無論、街道をゆく従士の姿など見えはしない。

 ただ、地平線から上ったばかりの下弦の月が、冷たく王都を照らしている。

 ──ねえアーヴェイル。