王都邸執事スチュアートの饗応
「それが今日の?」
「ええ、夕食用です。お屋敷がどうでも、みな食事は必要ですからね。キッチンから言われればいつでも、ってやつですよ」
道を開けて何気なく声をかけたスチュアートに、足を止めてフェリクスが応じた。
その間も、渡り廊下を幾人かの使用人が通り過ぎた。無理のない話ではあったが、皆が皆、
スチュアートの目には、彼らが余裕を──屋敷を滞りなく切り回すために必要な余裕を、失っているように見えた。
「その籠、それはわたくしがキッチンへ届けましょう。かわりに、少々、ガーデンから取ってきていただきたいものがあるのですが」
普段あまり表情を変えることのないスチュアートが片眉を上げて言うのを、フェリクスは面白そうに聞いている。
「ミントをいくらか、それと──」
執事が挙げたいくつかの品を頷いて聞き、庭師は、それならば季節の花をいくらか添えましょう、と提案した。
「ああ、それは趣があってよいですな」
「そのあたりを、こう、ガーデン用の小さなテーブルに乗せて」
答えた執事に、庭師が手振りで伝える。
「ますます結構。では、お願いしましたよ」
笑顔で頷いて籠を受け取り、庭師と目礼を交わして、スチュアートはキッチンへと向かった。

籠を持ってキッチンへ出向いた執事を、ふわりとした甘い匂いが出迎えた。
王都邸のキッチンでは週に二度、決められた日の午後に焼き菓子を作っている。今日がちょうどその日なのだった。
「おお、やっていますな」
「一体なんのご用ですか、執事様?」
結構結構、と言いながら顔を見せた執事に、渋い顔で料理長が応じる。
キッチンはあくまでも料理人たちの領域で、料理に関しては家政を司る執事の権限の及ぶところではない。
「いやいや、なにもあなたの職場を荒らそうという話ではありませんよ、料理長」
キッチンガーデンの産物が入った籠を手渡しながら、執事が言った。
「いま屋敷の中を見て回って来たのですが、皆さんどうにも余裕を失っておいでだ。いつもどおりなのはここくらい、こういうときですから書斎が忙しいのはまあやむを得ないとして、皆が皆、
執事の言葉をひとまずは聞き、それで、という顔で、料理長はちらりと視線を執事に向けた。
その間も、型から焼き菓子を取り出してゆく手が止まることはない。
「そこでその焼き菓子です」
「『
ぶっきらぼうと言ってよい口調で訂正した料理長にも、老執事は動じない。
小麦粉と砂糖、バター、ミルクをちょうど同じ量──四分の一ずつ使って焼き上げる四分の一ケーキは、簡単なレシピでありながら生地に混ぜるもので見た目も味も様々に変わる、この屋敷では定番の焼き菓子だった。
「そのそれです。絶品ですな」
「絶品かどうかはまだ。味見もしておりませんから」
つまらなそうに応じた料理長に、いつも絶品ではないですか、とまぜ返して、執事が続けた。
「お嬢様も祐筆たちも、食べるような暇はそうはないでしょう。お客様の予定はすべて取り消し、約束のない方は無論お断り。──となると、その四分の一ケーキは余ってしまいますな」
「そうなるかもしれませんが、生地のままでは傷みます。焼いてしまわねばなりませんでした」
「では、せっかく焼き上げていただいたものでございますし、皆に振る舞ってしまいませんか。屋敷の皆に」
料理長の手が止まった。
焼き菓子はもう焼いてしまった。本来供されるべき人は食べることができない。
料理長とて、なにも捨てたくて作るわけではない。
「──お嬢様がなんと仰るか」
「名案だ、と仰いましょう。あのお嬢様ですぞ」
迷った料理長が出した主人の名前に、老執事は即答した。
料理長は小さく苦笑して、たしかに、と応じた。
老執事と料理長にとって、己が仕えるアリアレインはそのような人物だった。
仕事には厳しくとも配下の者たちには優しく、それぞれの仕事ぶりに報いることをけっして忘れない。
忙しく働く皆に振る舞いたい、と持ち掛ければ、そうしなさいと答えるに違いなかった。
「お嬢様がお戻りになられたあとで、書斎にはいくらかわたくしがお持ちしましょう。皆の分は、中庭にフェリクスが場所を作ってくれております。いくつか道具を貸してはいただけませんか。大きめの水差しと──」

四半刻後、中庭に、小さなテーブルがいくつかしつらえられた。
テーブルに乗せられた大ぶりの水差しは、ミントが入ったもの、輪切りにされた柑橘が入ったもの、と様々な種類がある。
テーブルごとに、控え目な美しさの季節の花が飾られ、通りがかる使用人たちがちらちらと視線を向けていた。
そこへ、小さ目に切られた四分の一ケーキをトレイに乗せた料理人たちが現れ、それぞれのテーブルに置いてゆく。
「さあさあ、皆さん、」
ぱんぱん、と手を打って、執事が声を張った。
「お嬢様の振る舞いでございますぞ。当邸自慢の四分の一ケーキで一息入れましょう。お嬢様の振る舞いでございますぞ!」
言いながら、手近にいた使用人のひとりを、さあこちらへ、と手招きした。
「サーブなし、立ったままで申し訳ありませんが、それでもケーキは絶品でございます。さあさあ!」
では、と手を伸ばす使用人に、執事がどうぞと頷いてみせ、ひと
通りがかった仲間を手招きし、あなたも食べて、と手振りで示す。
それをきっかけに、中庭に使用人たちの人だかりができ始めた。

「うまくいきましたな」
一息入れては三々五々、それぞれの持ち場へ戻ってゆく使用人たちを眺めながら、執事が言った。
「焼いた甲斐があったというものです」
傍らに立つ料理長が応じる。
「やはり絶品でしたなあ」
クルミを生地に混ぜ込んだもの、ドライフルーツを混ぜ込んだもの、フルーツを切って乗せたもの。
様々な種類のケーキは、どれももうほとんど残っていない。
「幾年も焼いているものですからね。しかし、お許しも得ずに、よかったのですか?」
焼いたケーキを、主人が不在のまま、振る舞いと称して使用人たちに食べさせてしまった、そのことを料理長は指摘していた。
「いらっしゃれば、必ずや、それでよいと仰ったはずです。あなたもそう思うから反対なさらなかった。違いますか」
笑顔のままに断言した老執事に、まあそうですが、と料理長が頷く。
「ご存知かどうか、あの方は、屋敷で働く者すべての名と顔を憶えておられます。わたくしやあなたは言うに及ばず、キッチンや洗い場で働く者も、ランドリーで働く者も、日々屋敷を掃除する者たちも、すべて」
それぞれの持ち場を離れることがほとんどない使用人たちの、その誰もが、アリアレインと直接言葉を交わしたことがある。採否を決める面談のときに口に出しただけの家族の近況を尋ねられて驚いた使用人も、ひとりやふたりではない。
「あのお嬢様であれば、そうもありましょう」
納得の表情で、料理長が頷いた。
人並み外れた記憶力。常に的確に物事を捉える客観性。いくつもの選択肢を生み出す思考力。
そしてそれらに裏打ちされた、迷うことのない判断力。
侯爵令嬢の世評はそのようなものだが、屋敷の使用人たちにとってはそうではない。
仕事に厳しく、しかし屋敷で働く自分たちのことを常に気にかけてくれる、若い女主人。
使用人たちのひとりひとりの顔と名を憶え、下々の者であってもじかに話すことを厭わない。
そうであればこそアリアレインは使用人たちに敬愛され、残らねばならないような事情のない者は、そのほとんどがアリアレインとともにマレスへ赴くことになっている。
「あなたは、よろしかったのですかな」
料理長はその、数少ない、王都の屋敷に残る使用人のひとりだった。
「いやいや」
執事の言葉に、料理長は笑顔で応じる。
「あの庭師と変わりませんよ。使い慣れたキッチンを、そう簡単に離れられるものではありません。それに、料理長は屋敷にひとり、ですからね」
料理長の返答に、今度は老執事が小さな笑みをこぼした。
「なるほど、では引き続き」
「ええ、よろしくお願いいたします」
ふたりの重鎮は笑顔で礼を交わし、中庭を離れた。
短い休憩の時間は終わり、ふたりにはこれからまだ、それぞれの仕事があるのだった。