侯爵令息クルツフリートの疑問
近衛騎士団マレス騎士隊の騎士3人は、その日の朝、侯爵家王都邸に到着した。
門衛は3人を丁寧に迎え入れ、厩へと案内した。
馬を預けた3人は、ひとりが玄関のあたり、もうふたりは奥へと、特に言葉を交わすでもなく散ってゆく。
あらかじめそういう手筈になっていたのだろう。
奥へ向かったふたりは、アリアレインの書斎の前で立ち止まった。
「若様、私はこちらで」
「うん、頼む」
年嵩のひとりが声をかけ、若い騎士──クルツフリートが応じた。
控えていた侍女を、いいから、と手で制して、ノックとともに中へ声をかける。
「クルツフリートです。お呼びにより参りました、姉上」
入って、という返事があった。
扉を開けると、中ではもう祐筆たちと彼の姉──アリアレインが忙しく働いている。
主君の令息が姿を見せたというのに、誰ひとりとして立ち上がって礼を取ろうとはしなかった。
クルツフリート本人も、それを気にした様子もない。
「姉上、このたびのことはまことに──」
言いかけたクルツフリートを、いいの、とアリアレインが遮った。
「クルツ、騎士隊に話は伝わってるわね?」
「はい。明日の昼過ぎには総員退去、と。全員がその予定で準備を進めています。──騎士館長ほかの幹部は徹夜をしておりました」
「よその騎士館の様子はどう?」
「聞き耳を立てている、というところですね、今のところは。公式には、姉上、あなたの追放刑の公布もまだですから」
「あなたたちの支度は?」
「3名とも、すぐに発てる状態です、姉上。従卒たちは騎士館に残しました。彼らにも準備がありますので」
「あれから準備を整えたということは、あなたたち寝ていないわね? 部屋を用意させるから、少し休みなさい。午後はクルツ、あなたはわたしに付き合ってもらいます。あとのふたりにも交代で休むように伝えておいて──スチュアート」
「はい」
アリアレインの傍らで何やら書簡を検めていた老執事が、視線を上げて応じた。
「クルツたちに部屋を。クルツは昼には起こしてあげて」
「かしこまりました、お嬢様」
老執事は書簡の束を机に置いて一礼し、こちらへ、とクルツフリートを伴って部屋を出ていった。

昼下がりの王都を馬車が走っている。
細かく揺れる馬車の座席で、アリアレインとクルツフリートが向かい合っていた。
「そういえば姉様、行先を聞いてなかったけど」
クルツフリートの口調は、朝の──侯爵の名代に対する公的なそれではなく、弟の姉に対するものだ。
「聖レイニア聖堂。あそこの大司教様と会う約束をしてるのよ」
アリアレインが口にしたのは、王都でも最も古く、最も大きな教会の名だった。
「姉様が修道院へ──ってことじゃないよね?」
だとしたら騎士館に来た話と合わないもんな、とクルツフリートが首を傾げる。
教会は教会によって統治され、世俗の権威や権力からは切り離されている。
つまり、王の名で宣告された追放刑の効果も、教会の中には及ばない。
出家して、以後世俗に関わらないことと引き換えに、罪の実質的な赦免を得る、というのは、古来よく用いられるやり方ではあった。
「クルツ、あなた、わたしに修道女なんて務まると思う?」
「思わない。だって姉様だもの、落飾するところなんか想像できない」
率直すぎる物言いに、アリアレインがくすりと笑う。
「ちょっとは遠慮しなさいよ、もう」
「遠慮や礼儀が欲しくて俺を呼んだわけじゃないでしょ」
まあそれもそうね、とアリアレインがまた笑った。
「──姉様、本気なの? いや、俺も騎士隊の連中もやる気ではあるけどさ」
ひとしきり笑って真顔に戻ったクルツフリートが、声を一段落として尋ねる。
「本気。少なくとも、今は本気で牙を見せないといけないところだから」
「お互い引っ込みがつかなくなってるだけじゃなくて?」
どちらかが──現実的にはアリアレインが、不条理を受け入れて頭を下げてしまえば、話はそこで終わる。終わらせた方がよいのではないか、と問うクルツフリートを、アリアレインは灰色の瞳で正面から見返した。
「そうかもしれないわね。ただ、ここで唯々諾々として引き下がったら、侯爵家は終わりよ」
侮られて黙ったままでいればまた侮られる。
あいつは反撃してこない、と思われればまた攻撃される。
人でも家でも同じことだ。
ことに、マレス侯爵家のような尚武の家──武威をもってその地位を成り立たせている家で、その連鎖が起きればどうなるか。
それは家の威信と価値、そして存在意義そのものの失墜に繫がる。
ゆえに、侮られたならば理解させなければならない。
侮ってはならない相手だった、と。
──理屈としてはそうだろうけど。
理屈としてはそうであっても、それを即断してここまで事態を動かし、この後もそれを止めるつもりのなさそうな姉に、クルツフリートは底知れぬものを見た気がしている。迷う、あるいは戸惑う、ということはあるのかもしれないが、姉は常日頃、それをほとんど表に出すことがない。マレスにいた頃、というよりも、クルツフリートが物心ついた頃からそうだった。
「……アーヴェイルはどうしたの? こういう事態なら、いちばん手許に置いておくべき部下だと思うけど」
クルツフリートが内心の動揺を誤魔化すように口にした名に、アリアレインは視線を逸らした。
「──公用使としてマレス街道を下らせたわ」
「執政府の公用使をうちとブロスナー侯爵家で引き受けてるって話は聞いてたけど」
王国の行政実務を司る執政府の公用使はつまり王の使いということになるから、いつどこの市門でも通り放題で、無論荷物を検められることもない。
ただし、いつどのように発生するかわからない公用のために使者と馬を常に待機させておく、というのは尋常でない準備と経費を必要とする。
文書によるやり取りが王国の隅々まで行き届くようになり、商業と流通が盛んになるにつれてその公用使の必要性は急激に拡大した。
しかし、その必要性を常に満たすだけの準備が、王室だけでできているわけではない。
書記官たちの数そのものが足りていなかった一件と同様、必要に合わせた体制の変化が追いついていないのだった。
執政府に文官を送り込んだときと同じように、アリアレインは公用使の人員と装備の一部を、侯爵家の持ち出しで用立てている。
「国庫に手を付けぬならば好きにせよ、と仰せだったもの、殿下が。執政府には歓迎されたしね、文官派遣の件も公用使の件も」
諸卿が居並ぶ前でアリアレインが述べた、執政府の官吏を増員すべしという提言を、王太子は手を振って遮り、好きにせよ、ただし国庫に手を付けぬならば、と答えたのだった。
以来、アリアレインは『好きに』している。
公用使の一件に関しては、王国の西半に広大な穀倉地を領するブロスナー侯爵家を巻き込んでもいた──王都よりも西側までは手が回りきらなかった、ということもある。
「ふぅん……追放するのに取り上げもしないんだね」
「『許してください』って頭を下げる前提になってるでしょうし、そもそもうちがどれだけ食い込んでるか、詳しくは知らないんでしょう」
「それで公用使ね。どんなことやらせてるのかは聞かないけど、アーヴェイルでよかったの?」
「彼は──わたしの切り札だから」
──『わたしの切り札』。父上の、でも、侯爵家の、でもなく。
たぶん姉が自覚しているであろう深い信頼と、自覚していないかもしれない別のなにか。
姉様はそれでいいの、という問いを、クルツフリートは吞み込んだ。
会話が途絶えた馬車の中に、規則正しい車輪の音だけが響いていた。