奏任書記官ラドミールの帰郷


 出仕しようと官舎の扉を開けた奏任書記官ラドミール・ハシェックに、どこかの従僕らしい若い男がうやうやしい礼をした。

 路地の先の通りに、馬車が停まっているのが見える。

「ハシェック様、主から言いつかってお迎えに上がりました。そこに馬車を待たせております」

「お迎え」

 ラドミールがおう返しに応じる。

 心当たりがなかった。

「こちらを」

 従僕が差し出した書状を手に取り、文面を確かめる。

 何のことはない、出張の命令書だった。

 至急、と朱の印判が捺されたそれは、たしかにラドミールに出張を命じている。行先は王都から西へ3日の旅程の小さな港町、マノール。

 ラドミール自身の出身地だった。6年前に父が病で他界してからは、母がひとりで暮らしている。

 わざわざ奏任書記官である自分がなぜ、と思う気分がなかったわけではない。

 ラドミールが文句も言わず受け入れたのは、それが曲がりなりにも正規の命令書であったという以上に、仕事の状況が落ち着いていたことと、そして命令書の署名の下に記されていた追伸の一言が理由だった。


『たまにはお母様にお顔を見せて差し上げなさい』


 署名と同じ、見慣れた筆跡。マレス侯爵令嬢、アリアレイン・ハーゼンのそれだ。

 こういう気の回し方はいかにもあの侯爵令嬢らしい、とラドミールは小さく笑った。

 なにか小さな公用があるのだろう。そして、自分の出身地を憶えていた彼女が、ではあの書記官に、と指名したのだろう。

 王都に出てきてもう10年になるが、たしかにここ3年ほどは手紙と仕送りのやり取りだけで、母のもとへ帰ることもなかった。

 そういう話を、彼女と──マレス侯爵令嬢と、したような記憶もある。

「すまないが、今の今ではまだ何の支度もない。それと、部下たちに一言書かねば。少々──そう、四半刻ほど、時間を貰っても?」

 無論です、と従僕は頷いた。

 官舎の中へ取って返したラドミールは、手早く旅支度を整え、机に向かっていくつかの短い手紙を書き上げる。

 自分の元々の部下、アリアレインが差し向けてくれた祐筆、それに書類の整理役兼雑務要員としてやはりアリアレインが差し向けた下働きの男。

 片道3日の旅だから、王都へ戻るまでには7日か8日を見込めばよいだろう、と、その間に予定されている仕事を挙げ、急ぎで処理せねばならないものだけに絞ってそれぞれに指示を出す。

 残った仕事は自分の机に積んでおいてもらえればよい──戻ってから少々忙しくなるかもしれないが、数日もあれば十分取り戻せるはず、とラドミールは踏んでいた。

 きっかり四半刻ののち、ふたたび官舎から出てきたラドミールは、書き上げた手紙をまとめて従僕に渡す。

 受け取った従僕は、かわりにふたつの荷をラドミールに手渡した。

 一方の封筒はマノールの代官に宛てたものだ。届けろ、ということだろう。

「こちらは、マノールで御用を済ませてからお開けください」

 もう片方の包みを渡しながら従僕が言う。

「今ではなく、あちらで、ということだね。それは、侯爵令嬢が?」

「はい。そのように聞かされております」

 意図を測りかねる話ではあったが、持ってみてもわかったのは意外に軽いということだけで、中身が何なのかはよくわからない。

 あの侯爵令嬢のことだから、何か意味があるのだろう。そう思いなおして、ラドミールは馬車に乗り込んだ。



 小刻みに揺れる馬車の座席で、ラドミールは目を覚ました。

 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。

 小さな窓を開けて外へ目をやると、変わり映えのしない田園風景ではあったが、だいぶ山が近づいてきていた。

 日はもう高く昇って、街道の両脇に広がる畑を照らしている。

 刈入れの済んだ小麦畑、青々と葉を茂らせるてんさいの畑、今がまさに収穫期の芋畑。

 今年の小麦はなかなかの作況だったな、と、ラドミールはいくつかの報告書を思い出した。

 たしかにラドミール自身がそれを読み、王都へ送らせる量や各領地で備蓄すべき量を算定したのだから間違いはない。

 見る限り、芋も甜菜も順調な様子ではある。細かいところで多少の収穫の増減はあるかもしれないが、天候不順で凶作、ということはなさそうだ。

 そこまで考えてから、ふと思う。

 ──母のこともマノールへの公用も、あの侯爵令嬢にとってはついでに過ぎないのかもしれない。

 広いこの王国で、どこにおいても不足が出ないよう農作物を備蓄させ、あるいはあちらからこちらへと動かす。それは不作や天災への備えとしては勿論のこと、危急の折に兵士たちを養うためにも必要なことだった。

 様々な報告に目を通し、天文官や営農官の予測を聞き、不足や余剰に先回りして買い付けや放出、あるいは物資の移送のための指示を行う。それがラドミールの職務なのだ。

 ──実地を見よ、ということか。

 あちこちからの報告を受けていれば執務には足りると思っていたが、作況をいち早く、詳しく、そして正確に知るためには、実際に見るに越したことはない。

 無論、広い王国の農村の、そのすべてを見ることはできずとも、たとえば主要な穀倉地だけでも部下を送り込むなり自分で出向くなり、ということは可能なはずだ。今ならばどうにかそういった余裕もある。

 そのような状況の自分に口実を設けてちょっとした旅をさせ、実地の検分を示唆するというのは、あの侯爵令嬢ならば考えそうなこと、と思えた。

 ──思えば最初から、そうだったのかもしれない。

 ラドミールは侯爵令嬢と知己を得た、そのきっかけを思い出していた。



 2年ほど前になるだろうか。

 どこだかの侯爵令嬢が、王太子の婚約者として執政府の実情をじかに見たいと言っている、と伝えられたとき、ラドミールは少なからぬ反発を覚えたものだ。

 王太子の婚約者の来訪ともなれば仕事を中断して出迎えるのはもちろんのこと、失礼のないよう執務室を整え、職務について下問でもあればすぐさま適切な答えを返せるよう準備をしなければならない。

 当時のラドミールと、そして部下たちにそのような準備を整える余裕など一切なく、それどころか来訪に伴う寸刻の中断すら惜しんで仕事をせねばならないような状況だった。こんなときに物見遊山の気分で来てもらっては困る、というのが、最大限控え目に表現したラドミールの心情だった。

「準備は一切要らない、とのことで」

「……そうは言ってもこの有様では」

 来訪の旨を伝えにきた事務官の言葉に、複雑な気分でラドミールは応じた。

 準備など必要ないとは言っても侯爵家の令嬢、このような有様を見られては王太子や大臣たちにどのような話をするか知れたものではない。そこで何かあれば、叱責を受けるのは自分や部下たちなのだ。

「いえ、その──侯爵令嬢から、仰せつかっているのです。仕事の中断はならぬ、特別の準備も禁じる、そうでなければありのままを見たことにならない、と」

「見ていただきましょう、ハシェック様」

 言いにくそうに答える事務官に当てつけるように、いささか投げやりな口調で、部下の書記官が言った。

「どこの御令嬢だか存じませんが、実情を見たいと仰るなら見ていただけばよいではないですか。どのみち、訪問は明日でしょう? 今日これからここを片付けて取り繕ったところでたかが知れています」

 まあそれはそうだが、とラドミールは唸った。

 その日のうちに始末をつけねばならない仕事もひとつふたつではなかったし、それらを中断して部屋を片付けてもそうそう片付くとも思えなかった。何より、そんなことで自分と部下の食事や睡眠の時間をまた削るなどということは、ラドミールには許せそうになかった。

「本当にこのままでお迎えするが、それで差し支えないのだね?」

 およそ他人を招き入れられる状況ではない、恐るべき有様の執務室を見回して、念を押すように尋ねたラドミールに、事務官ははい、と頷いた。

 ならばもうどうとでもなれ、実情とやらをたっぷりろうじろ、と、部下の書記官同様に投げやりな気分で、ラドミールは翌日の訪問を迎えた。

 だが、処理しきれない書類がうず高く積まれた執務室を見ても、あの侯爵令嬢は非難めいたことをひとつも口にしなかった。

「ほかにここで働いている方はおられないのですか」

 執務室の惨状を見て、そしてそこで働く書記官や事務官の、生気が削げ落ちた顔を見て、侯爵令嬢はそう尋ねた。

 その何か月か前、どこかの部署で誰かが激務に耐えかねて倒れた、という話があった。

 玉突きのように人事が行われ、最終的にラドミールの部署から同僚が──ラドミールと同格の奏任書記官が、ひとり消えた。

 無論、仕事の量が減ったわけではない。

 政治的に力の強くないラドミールの上司が様々な綱引きの結果として貧乏くじを引かされ、書記官をひとり引き抜かれた、ということだった。

 悪いことにと言うべきか、引き抜かれた書記官は実に有能かつ社交的で、執政府のあちこちの部署に顔の利く人物だった。

 簡潔に過ぎる引き継ぎの──しかしそれですら無理矢理にお互いの時間を捻出しなければならなかった引き継ぎのあとで、同僚が残していった仕事を抱えたラドミールと部下たちは、綱引きに負けた上司と大臣を心の底から恨んだ。

 やがて部下の事務官がひとり倒れ、彼の職務も抱えねばならなくなったラドミールと部下たちがいよいよ限界を意識した頃、というのが、侯爵令嬢の来訪のタイミングだった。

 官舎には寝に帰るだけ、というのであればまだしもましな方で、当時は何日執政府に泊まり込んだあとだったか憶えていない。

 もはやいちいち説明するのも億劫になっており、そしてそのときもまさに山積みの書類と格闘していたラドミールは、いささか礼を失するほどの簡潔さで答えたものだ。

「おりません。これで全員です」

 その返答にも、侯爵令嬢は顔色を変えなかった。

「わかりました。忙しいところ、邪魔をしてしまいましたね。いくらかでも手を増やせぬものか、殿下にお願いしてみましょう」

 最初の日、執務室で交わした会話はそれだけだった。

 次の訪問は1週間ほど後で、開口一番謝られたことを憶えている。

「申し訳ありません、殿下にあなたがたの窮状を伝えきれませんでした」

 ラドミールにしてみれば、正直なところ、二度目の来訪があるとは思っていなかったし、殿下に伝えるというのもその場限りの口約束だとしか考えていなかったから、謝られたときには驚いた。

 曖昧に受け流したその次の訪問はさらに3日ほどの後。

 侯爵令嬢は、4人ばかりの文官を連れていた。

「報告を検めて分析し、計画を立てるところまではあなたがたしかできないでしょうが、その先はどうでしょうか」

 文官を引き連れた侯爵令嬢は、そう言って小首を傾げた。

「文書の作成をしなくてよくなるのであれば、随分と変わると思います。今はそれが職務の時間の大半を食い潰しておりますから」

 少し考えて答えたラドミールに、侯爵令嬢はにこりと笑って頷いた。

「では、この者たちを使ってください。ひとまずはこの部屋に溜まった仕事が片付くまで。その先は……また、相談しましょう」

 それから2週間ほどで、執務室はひとまず見られる程度には片付いた。

 溜まりに溜まった処理すべき書類の山が消え、整理することもできないまま積まれていた資料の山はそれぞれ適切な場所へ適切な方法で片付けられ、目を通すこともできていなかった報告書の山は回覧した書記官たちに書き込みを入れられて資料と同じように整理された。

 そのようにして2週間が経った日の夕刻、ラドミールは久々に日暮れとともに執政府を出て、ゆっくりと食事をしてから官舎へ戻り、落ち着いて眠ることができたのだった。

 執政府の他の部署でも似たようなことが起きていたこと、文官たちは侯爵家の家臣で、つまり彼らの働く分は侯爵家の持ち出しであることはしばらく経ったあとに別の部署で勤務する同期から聞いた。

 ラドミールがいる部署では、今も侯爵家の家臣ふたりが仕事に加わっている。

 あの侯爵令嬢は、月に3回か4回ほど手土産の菓子と茶を持って執務室を訪れ、四半刻ばかり話を聞いて帰ってゆく。

 家臣たちの見舞いというのが理由だったが、どちらかと言えば書記官たちの方と話すのだから、見舞いというのは口実なのだろう。

 それは仕事に関する世間話のようでもあり、上司には話せないことを吐き出す場でもあり、純粋に一息入れる時間でもあった。

 誰も口に出して言うことはないが、無茶振りをするとき以外に顔を見せない大臣よりもあの侯爵令嬢を信頼している書記官は少なくない。ラドミール自身もそのひとりだった。

 ──彼女がいずれ王妃となったならば。

 ラドミールは思う。

 王太子殿下の代は言うに及ばず、その先二代三代と安泰な国を作られるに違いない。

 最近、殿下との不仲が噂されることが心配ではあるが、婚約者となればそういった噂もつきものではある。

 ──いっとき他の女性に心を動かされることがあろうとも、あれだけの出来物を手放すことなどあろうはずがない。