それだけ言って、アーヴェイルは退出した。

 廊下を足早な靴音が遠ざかる。

 しばらく閉じられた扉を見つめていたアリアレインは、ややあって天井に視線を逸らした。

 きつく目をつむり、心の中のなにかを追い出そうとするかのように深く深く息をつく。

「──大丈夫」

 小さく口に出して言い、軽く自分の頰を叩く。

 立ち上がったアリアレインはふたたび呼び鈴を手に取り、控えている侍女を呼んだ。



「メイロス様?」

 戸惑ったような馬丁の声が、アーヴェイルを考えごとから現実に引き戻す。

 鞍と、そして公用使であることを示す馬衣を付けられた駿馬が馬丁に引かれていた。

「ああ、すまない。ありがとう。夜更けに悪かった、お嬢様から急な使いを言いつかってね」

 馬丁に声をかけて鞄を鞍に取り付け、鐙に足をかけて一息に乗る。

 いえいえ、と欠伸あくび混じりに馬丁が応じ、自分の部屋へと戻っていった。

 アーヴェイルが考えていたのは、命じられた使いのことではない。

 ──あの手。

 書簡を入れた鞄を差し出した、アリアレインの手が、かすかに震えていたことを思い出していた。

 その前の、ふざけたような、甘えたような態度も。

 ──不安でないはずはない。誰にも気付かれぬように、それを押し殺しておられるだけなのだ。

 叱られるのを覚悟で戻るべきか、とふと考え、そういう扱いをお嬢様は望まないだろう、と思いなおす。

 明かりの消えた書斎の窓を一度だけ振り仰いで、アーヴェイルは屋敷を出ていった。



 その夜、アリアレインはほとんど眠れていなかった。

 あのあと──アーヴェイルを送り出したあと、湯をつかって、侍女に化粧を落とさせて肌の手入れをしてもらい、着替えて寝室へ引っ込んだ時点で夜半はかなり過ぎていた。少しでも身体を休めなければと寝台に横になって目を閉じたものの、様々なことが頭の中をぐるぐると回って目が冴えてしまい、ほんのわずかまどろんだと思ったらもう空が白み始めていた。

 寝台の天蓋をぼんやりと眺めて四半刻ばかりを過ごし、結局眠るのを諦めて床を出た。

 ぐっすりと眠っているであろう侍女をわざわざ起こす気にもなれず、自分で着替えて顔を洗い、最低限の化粧をし、髪を梳いてまとめるまでにもう四半刻。

 どうにか人前に──屋敷で働く皆の前に顔を出せる姿になったアリアレインの身体の芯に、ずしりと重い疲労が残っていた。何もかもを投げ出して寝台に戻りたくなるような気分ではあったが、為さなければならないことはあまりに多い。

 こんなときにアーヴェイルがいてくれたら、という思いが頭をかすめ、アリアレインは自分の身勝手さが心底嫌になった。いてくれたらも何も、そのアーヴェイルを公用使として送り出したのは他ならぬアリアレイン自身なのだ。

 複雑で困難な仕事を与えられ、途中で身体を休めることもままならない長い道のりだというのに、そのことには文句ひとつ言わず、頼られるのが嬉しいとまで言ったあの忠実で優しい従士に、今更ここにいてほしかったと言える義理などありはしない。

 ──そうよ。

 休む時間すらなく出立し、おそらく一睡もしないままで、ひたすら街道を進んでいるであろうアーヴェイルの方が自分よりもよほど辛いはず。柔らかい寝台で横になることのできたわたしが、弱音など吐けるものではない。

 萎えそうになる心を奮い立たせて立ち上がり、寝室を出る前に姿見で己の姿を確かめる。

 簡素な出で立ちに少し疲れた表情。

 これではいけないと姿勢を正し、背筋を伸ばし、胸を張って、鏡の中の自分に笑ってみせる。

 眠れなかったにしては悪くない姿に、アリアレインには思えた。


 廊下で行き会った侍女のひとりに、食事は軽いものを、書斎へ運んで、と言い置いて、アリアレインは書斎に向かった。

 部屋に入ると、まずは窓際に行ってカーテンと窓を大きく開ける。外の光と風を部屋に入れると、少しだけ気分が落ち着いた。しばらく窓際に立ったまま、今日するべきことを指を折りながら数え上げる。

 商人たちや商会との取引をできるだけ穏便に畳み、使用人たちの給金や紹介状の手配をして、聖堂へ出向き、屋敷から持ち出すものを選んで、残してゆけないものの処分の段取りをつけて……。

 ほとんど数えきれないほどの処理すべき諸々があり、それらをひとつずつ片付けながら、おそらく飛び込んでくるであろう不測のあれこれにも対処しなければいけない。考えるだけでも憂鬱になる話ではあった。

 だが、憂鬱であれ面倒であれ、自分で始めた話なのだから自分が動かないわけにはいかない。

 愛用のペンと紙の束を取り出して、アリアレインはまず、先ほど数え上げた今日やるべきことをひとつずつ書き出していった。少しだけ考えて、最初に「やるべきことのリストを作ること」を付け加え、リストを終わりまで書き上げてから、最初の1行にさっと横線を引いて消す。

 子供騙しのようなものではあるが、それでもやるべきことをひとつ片付けた、というのは事実だ。

 では次を片付けましょうか、と独語して、アリアレインは次の項目に取りかかった。



 早朝、誰もいないだろうと半ば儀礼的に書斎の扉をノックした祐筆のひとりは、予想外にも書斎の中からの返事を聞いた。声は己の主──侯爵令嬢アリアレイン・ハーゼンのそれだ。

 主人の方が早く起きて書斎に出ているとは思わなかった彼は少なからず驚いたが、気を取り直して扉を開け、失礼いたします、と一礼して書斎へ入る。

「おはようございます」

 祐筆にそう声をかけられたアリアレインは、手許の書面から視線を上げて、おはよう、と言葉を返した。

「お嬢様は、お休みになられなかったのですか」

 心配そうな祐筆の言葉に、アリアレインは目と口許だけで笑い、ゆるゆると首を振った。

「休んだわよ。でも、早く目が覚めてしまって。──気が昂っているのかもしれないわね」

 さようですか、とまだ心配そうな顔で頷いた祐筆が、棚から書類の束を取り出して机に置き、ペンとインクを用意する。

 ひとまず昨夜の続きを、ということであるらしい。

 そうこうするうちにふたり目の祐筆が書斎に顔を出し、先刻と似たような会話が交わされた。

 3人目に現れたのが執事のスチュアートだった。



 書斎に人数分が運ばれた簡素な朝食を摂り終えると、続々と祐筆たちが集まってきた。

 昨夜はいささか遅くなったものの、今日の仕事に遅れた者はない。アリアレインを含めた全員が、食事を済ませて書斎に集合している。

「商人たちやあちこちの商会とは、穏便に取引を畳むことを優先します。個人商人くらいであればこちらからの未払い分はないでしょう。連絡がつかない商人がいるようなら、スチュアートから支払えるようにいくらか残しておきます」

 個人としての商人と侯爵家のような上級貴族が取引をすることは多くはない。だが、後々芽が出うると考えれば、たとえ個人であっても目と手をかけておく、あるいは資金援助をして商売を大きくする手助けをする、といったことを、マレス侯爵家は積極的に行ってきた。

「資金援助分については、もう取り戻しようがないから諦めます。恩と思えば自発的に返しに来るでしょう。つまりわたしと父上の人徳次第、ということね」

 肩をすくめたアリアレインに、座の中から遠慮のない失笑が漏れた。

 無論それが咎められることはない。

「商会でうちと先方の両方に債権があるところは、相殺するように、念のため一筆書いておいて。こちらの貸し越しになっている分は、借り越しになっているところへ渡します。基本は8割5分、渋るようなら8掛けまでは値引いて構いません。商会同士の付き合いもあるでしょうから、どこのものをどこへ渡すかはスチュアートが主導して大枠を決めるように」

 いいかしら、と視線を向けられた老執事が、黙って一礼して応じた。

「あまりあれこれ言わずに応じてくれたところには、国外の支店からマレスに繫ぎを付けられるように、それとなく話を通しておいて。うちからの船をコルジアに直接入れることはできなくなると思うから」

 王都から川を下った先、海に面した外港の名を出したアリアレインに、老執事はかしこまりました、と答える。追放された上に頭を下げるどころか国を割ろうとするような令嬢がいる侯爵領からの船を、王都の膝下とも言える港へ、そうやすやすと入れてもらえるはずがなかった。取引を続けるとなればそれなりの手段が必要にはなるが、それにも相応の手順を踏まなければならない。

「それからスチュアート、給金の先渡し分と当座の払いは金庫の中身で足りそう?」

「今のところは問題ございません。とはいえ、何かと物入りではございましょうから、余裕もさほどはございませんが」

「それなら、今日のうちに、預けてある分からできるだけを引き出してきて。皆の紹介状はわたしが──と言いたいところだけど、わたしじゃない方がいいのよね。スチュアート、あなたの名前で出してあげて。文面は任せるけど、次になるべくよいところへ入れるように書いてあげてね」

 心得ております、と老執事が笑みを浮かべて頷く。

 よい紹介状を書けないような使用人はこの屋敷にはいない。どんな相手であれ、アリアレインかスチュアートのどちらかが直接会って採否を決めていたし、そうやって雇われた使用人たちは、みな主人の期待に応じた働きをしてくれているからだった。

「コルジアからの船の話は──送った使いが戻り次第、かしらね。あと誰か、荷馬車の手配を。騎士隊の分は考えなくて構いません。あちらはあちらで運搬の手段を持っているはずだから。うちの皆の荷造りは、合間を見て早めに進めさせて」

 誰かがはい、と応じて、早速書面を作り始める。

「持ち出せる書類は限られてるから、必要最低限ね。スチュアート、あなたが統括。2~3人使って選ばせて。必要なら引き継ぎをお願い」

 老執事が礼で応え、祐筆の中から3人を選んだ。その顔ぶれを見て、アリアレインは満足そうに頷く。

 執政府とのやり取りを統括していた者、マレスに本拠を置く商会との取引を主導していた者、他の貴族家との取次役であった者。王都邸での仕事の軸を考え、持ち出すべきものを選ぶのであれば、ほかには考えられない人選と言えるからだった。

「忙しいところ悪いけれど、わたしは午後から外出します。わたし用の馬車を用意しておいて。クルツが朝のうちにこちらに来ることになっているから、随行は彼ね」

 では、とめいめいが仕事を始める前に、アリアレインは一同を見回した。

「明日の昼過ぎにはここを出ます。あなたたちの支度もあるでしょうから、ここでまともに執務ができるのは今日の夜まで。──皆、頼んだわよ」

 口々に了承の意を返した祐筆たちが仕事に取りかかる。

 侯爵家王都邸の、長い一日が始まった。