その差はそのまま、動員しうる兵の数の差でもある。実戦を多く経験する土地柄であるから、騎士隊も領軍も精強をもって知られるマレス侯爵領ではあるが、絶対的な数の差を覆せるほどのものではない。

 そうであるからこそ、追放刑が脅しとして機能する、ということでもある。

「でも、あちらにはあちらの問題が──時間の問題があるのよね」

 アリアレインの形のよい指が、地図の上に描かれた線をなぞる。

「マレスへ下る街道は、その途上でりゆうよく山脈を越えます。山脈の王都側──北西側は雪深いことで名高いわよね。実際のところ、冬にここを越えて軍を動かすことはできないわ」

 とん、と地図上の1点を指したアリアレインが顔を上げて、一同を見渡した。

「ごく単純に言えば、冬になるまで──このアラス峠に雪が降るまで峠を確保できれば、王室は少なくとも当分の間、それ以上の干渉ができなくなる。つまりそのためには」

 アラス峠、と書かれた山脈の中の1点からアリアレインの指がさらに東へ動き、山脈の麓のあたりに描かれた街で止まった。

「ここを」

 言葉とともに、広げた掌で、地図の上に描かれた街の一帯を押さえる。

「レダン、でございますな」

 スチュアートが念を押すように、街の名を口にした。

「ええ。アラス峠と、そしてレダンの港を押さえること。それが条件よ」

 祐筆たちが顔を見合わせた。

 押さえる、と言ってしまえば一言ではあるが、それをどのように実現するのか。

「攻め落とされるのですか?」

「それも悪くはないけれど、あまり時間をかけるわけにもいかないでしょう? それに、ことが成ったならば、アラス峠の東側は、マレス侯爵が支配する新たな国になるから」

 祐筆のひとりが発した疑問に、アリアレインが応じた。

「そう大きくもない同じ国の中で、遺恨を残すことはできるだけ避けたいの」

「──つまり調略」

 別のひとりの言葉に、アリアレインは笑顔で頷いた。

「そうね。なるべく犠牲者を出さずにレダンを取り込む、となれば」

 武力でなく、計略、あるいは交渉でもって味方に付けるほかはない。

「レダンとレダン子爵家を取り込む方法はともかくとして」

 地図を見つめたまま、アーヴェイルが言った。

「軍を動かされれば王都からマレスまでは半月、アラス峠までは10日少々です。そして、雪が降るのは12月を待たねばなりません。あとひと月半ほどはありましょう」

 圧倒的な戦力差の中でひと月以上を持ち堪えることは難しい。

「調略と戦支度を同時に進め、その上でレダンとアラス峠を押さえてひと月以上」

 アーヴェイルが視線を上げる。

「──どのように、時を稼がれるのですか」

 深い緑の瞳を灰色の瞳で正面から見返したアリアレインが、小さく笑った。

「やりようはあるわ」

 アーヴェイルは黙ったまま、視線を逸らさない。

 こうなったアーヴェイルは納得しない限り、あるいは命令しない限り動かないことを、アリアレインは知っている。

 同時に、それがただの頑迷さではなく、自分への忠誠と信頼ゆえであることも。

 ふ、と息をついたアリアレインが、ふたたび地図に視線を落とした。

 白く細い指を持つ右手が、王都からマレス街道の上を滑るように動く。

「マレス侯爵領を攻めるということは、こう、軍が動くことになるのよね」

 マレス街道の上を西から東へ。

「でも、動かすと決めたらすぐに動けるわけではない」

 言いながら、アリアレインは左手を上げた。

「兵を招集して、糧食の備蓄を確認して、それを移動させて──ああ、移動させるための馬車や馬の手配、酒保商人の手配と契約。他にもいろいろ」

 ひとつひとつ数えるように指を折り、そしてまた広げながら、必要な段取りを挙げてゆく。

「そういうものが全部揃って、はじめて軍は動ける。そうよね?」

 念を押すように言われて、アーヴェイルははい、と頷いた。

「つまり、逆に言えば、その鎖のどこかを断ち切れば、軍は動かせない。そうなるわね?」

「そうなります、理屈で申せば」

「そうであれば、やるべきことはおのずと決まるのではなくて?」

「──どのようにして?」

 アーヴェイルの問いに、アリアレインはくすくすと笑い、居並ぶ祐筆たちを見回した。

「つまりそれこそが、あなたたちをここに集めた理由、ということよ。あなたたちのペンとインクで、断ち切るのです」

 黙ったまま話の成り行きを見守っていた祐筆たちが顔を見合わせ、幾人かが低い声を漏らした。

 この執務室で軍を押し留め、侯爵領を守る。

 その役回りに、気がたかぶっているに違いなかった。

「もちろん、他にやるべきことはたくさんあるわ。あちこちとの取引を畳んで、この屋敷や別邸の始末をつけて、王都に残る皆の先々のことも面倒を見て。わたし、皆に言ったわよね?」

「『苦労と、それに見合う給金は保証する』──ええ、たしかに」

 アリアレインの話の先を、アーヴェイルが引き取って応じる。

 どこか愉しげな表情だった。

「皆も、納得したのならば働いてもらいましょうか。手分けして書状を準備してちょうだい。まずは、近衛のマレス騎士館ね。それと教会。内容はこれから伝えます」

 幾人かの祐筆がてきぱきと紙やインク、そしてペンを取り出す。

「それと、誰か、取引の帳簿を確認しておいて。できるだけ先方に損をさせないように取引を畳みたいのよね。わたしたちの債権は回収できなくなるけれど、わたしたちの債務も、わたしたちが王都を引き払ったら宙に浮いてしまうから」

 別の幾人かが、分厚い書類の綴りを棚から引き出してページを繰り始める。

「もうひとつ、執政府の書記官の名簿を。勅任──は動かせないだろうから、その下の奏任書記官かしらね。いくつか書状を出す必要があります。内容はあとで伝えるわ。明日の朝にはすべて整えておく必要があるから、これもこれで急いでちょうだい」

 更に別の数人が、これも分厚い書類の束と格闘を始めた。

「それから、船の手配ね。コルジアへ早馬を出して。うちの用船は非常呼集をかけて、遅くとも明々後日しあさつての朝には出せるように。あとは少なくとももう1隻、うちの使用人とその荷を載せる船が必要ね。付き合いのある商会が荷主になっている船を見繕って、そちらに話をつけます。誰か、当たりはつく?」

 取引の帳簿を確認していた祐筆のひとりが作業を止めて手を挙げた。

10日ほど前に、マレスから毛織物を積んでコルジアへ着いた船があるはずです。戻りの荷の予定はあるでしょうが──」

 祐筆の言葉に、アリアレインはにこりと笑って頷いた。

「それを押さえましょう。あとで委任状を渡すから、あなたが出向いて話をして。荷主と話がついたなら、馬車を仕立ててコルジアへも。船の方にも話を通しておかなければ。荷役の手筈も整えておいてちょうだい」

 かしこまりました、と一礼した祐筆が、己の準備を整えるために退出した。

「言い忘れていたけれど、明日以降の予定はわたしもあなたたちも全部取りやめ。理由は『急病』とでもしておいて。察する相手は察するでしょうし、そうでなくても今日の顚末はどこかから伝わるでしょうから」

 それぞれに了解の意を示した祐筆たちが、それぞれの仕事に取りかかる。

 このようにしてその夜、アリアレインの逆襲は始まった──侯爵家王都邸において。



 侯爵家の名代の名で発出された書状が近衛騎士団のマレス騎士館に届けられたのは、その日の夜のことだった。

 食事を終えて私室に下がっていた騎士館長が広間に呼び出され、書状が手渡される。

 髪に白いものの混じった騎士館長は、歴戦の騎士だけあって、書状を一読してもその顔色を変えなかった。しかし、事態の重大さは即座に理解している。

「名代様には、しかと承ったとお伝えいただきたい」

 は、と一礼した使者が退出する。

「総員を非常呼集。非番で外出している者も呼び戻せ。それと──若様をここへ。すぐにだ」

 使者が広間を出ていくや否や、騎士館長は部下にそう命じた。



「姉上……」

 広間に呼ばれ、書状を手渡されて読み終えたマレス侯爵令息クルツフリート・ハーゼンはそれだけを言って天を仰ぎ、しばし絶句した。

 短く整えられた黒い髪に、灰色の瞳を持つ切れ長の目。姉であるアリアレインに似た顔の造りではあるが、見る者が受け取る印象は冷たさや厳しさよりも親しみの方が大きい。

「いかがなさいますか、若様?」

「書いてあるとおりにやるかどうか、だけだな」

 騎士館長の言葉に、左手に持ったままの書状を右手の指で弾いて、クルツフリートが応じた。

 ぱん、と小さくも小気味よい音が広間に響く。

「書状には、騎士館は総員退去、明後日の昼をもって王都邸で名代様に合流せよ、と」

「そうだ。姉上は王都を引き払う」

 ひとつ息をついたクルツフリートは、手にした書状にまた視線を落とした。自分の考えをまとめるように、そこに書かれた文字を目で追いながら続ける。

「追放を取り消してもらうなら頭を下げればいいし、逃げるつもりなら手配をした上でマレスに戻るだけでいい。騎士隊を連れていくというのなら、マレスに戻って何かする気だろうね」

「何か、とは──?」

「俺に訊かないでくれよ。この書状だけじゃわかりようがない。でも、姉上の気性は知っているだろう? 何か無茶を──王太子殿下が考えてもいないような無茶を、する気ではいる。賭けてもいい」

 ため息とともにクルツフリートが吐き出す。

 穏やかな表情の中に、ある種の諦念が浮かんでいた。

「選択肢はふたつしかない。今すぐに姉上を止めるか、姉上の言うとおり動くか」

「……それはまた難しい」

 クルツフリートの言葉に、騎士館長が苦笑しながら応じた。

「姉上は」

 小さく息をついて、クルツフリートが続ける。

「成算や計画なくこういうことを始めるような人じゃない。意地や体面だけで勝てない戦いを始めたりもしない。少なくとも今まではそうだった」

「仰るとおりかと、若様」

「殿下に婚約を解消されて自暴自棄になっている、という可能性もないわけじゃあないが」

 言いながら、可能性としてはどうかな、とクルツフリートは思っている。

 当の姉は、クルツフリートの知る限り、自暴自棄という言葉からは最も遠い人物なのだ。

「それにしては文面が」

 騎士館長が、書状にちらりと視線を投げながら応じた。考えていることはクルツフリートと似たようなものであるらしい。

 本文を書いたのは祐筆だろうが、淡々として余計な言葉のない文章を指示したのは名代である侯爵令嬢、クルツフリートの姉本人にほかならない。

「署名やら追伸やらの筆跡も普段と変わらない。つまりはいつもの姉上だ」

「そうであれば若様、選択肢はおのずと定まるのではありませんか」

 騎士館長の言葉に、クルツフリートがああ決まりだ、と頷く。

「総員退去、明後日の昼をもって王都邸へ。館長、手配を進めてくれ。俺は明日の朝から姉上に呼び出されている」

 広げなおした書状の追伸の部分を、クルツフリートが指でなぞった。

「ほかにふたりという指示もあるな。人選は任せる。警護役の務まる者を選んでくれ」

 騎士館長が、は、と応じて一礼した。



 夜にもかかわらず急激に慌ただしい空気となった近衛騎士団マレス騎士館の廊下を、クルツフリートは自室へ向かって歩いている。

 近衛騎士団はその名のとおり、王と王室を守るために王室が直轄する騎士団ではあるが、直轄領のほかに各貴族の所領からも相応の人数が所属している。

 それは有事の戦場にあって密な連携を取り、あるいは平時において練兵の効率化と各所領の騎士たちの交流を図るための方策だった。

 出身地別に分けられた騎士たちの居館は騎士館と呼ばれている。

 マレス侯爵領の騎士館の規模は王室直轄領のそれに次ぎ、貴族所領の騎士館の中では最大である。

 各所領の人口や領軍の規模に応じた、王都に駐留すべき騎士の員数の割り当てからしても過大な規模ではあった。

 なるべく多くの騎士に王都勤務を経験させる、という先代侯の方針をそのままに、中小の貴族たちに割り当てられた分を少しずつ引き取る形で、異例の規模の騎士館は成り立っている。

 そのマレス騎士館が、今は戦支度のような有様だ。

 無論、王都で一戦、というわけではない。だが、追放された主家の令嬢とともに所領へ下ろうというのだから、ある意味で立派な謀叛の企てではある。

 クルツフリートは、たどり着いた自室の扉を──平の騎士ではあるが、主家の令息であるから一人部屋をあてがわれている、その自室の扉を開けて中に入り、いささか乱暴に扉を閉めて、そのまま扉に身体を預けた。

 ずるずると、扉にもたれるように床へ座り込む。

「姉様も殿下もさあ……」

 その姿勢のまま、天井を見上げてクルツフリートはため息とともに小さく言葉を吐き出す。

 頭を抱えたい気分だった。

 クルツフリートが騎士に叙任され、王都に上ったのがおよそ半年前。

 その頃すでに王太子と姉の仲は冷えているという噂がちらほらと聞こえてはいた。その後、なんとかいう伯爵令嬢と王太子が接近するのと反比例するように、王太子と姉の間の溝は深く広くなっていった。

 ──まあ無理もない。

 天井を見上げた姿勢のまま、クルツフリートは考える。

 姉は黙っていれば完璧な淑女。口を開かせても少々当たりが厳しいところはあるが、それでも並の令嬢よりも礼儀と作法をわきまえた上に広く深い知識と教養を持ち合わせた女性であることに間違いはない。

 だが、目上に対しては礼儀よりも条理と道理をまず優先する。父である侯爵に対しても、理の通らぬことと思えば一切の忌憚と斟酌なく己の意見を述べる姉を、クルツフリートは幾度も見ていた。

 それこそが姉にとって、目上を支える、ということなのだ。

 ──あれを王太子殿下に常々やっていたのだとしたら。

 そういう姉の姿を認めて受け入れられる度量の男が、国にどれだけいるだろうか、とクルツフリートは思う。自分や父はまあ措くとして、と数えようとして、そもそも姉の目上などという人物がほとんど存在しないことを思い出した。

 父のほかに領地貴族の侯爵といえば王国西方に広大な領地を持つブロスナー侯爵だけ、あとは宮廷貴族の大臣級が一代爵位としての侯爵。ほかは王家の傍流から出る公爵とその家族、王太子とその弟である第二王子、そして王そのひと。

 王太子と第二王子は別として、他はみな父侯爵と似たような年齢であったはずだ。

 彼らが目下の、それも娘のような年頃の相手から、手加減のない反対意見を浴びたとき、己の感情を一旦脇に置いて意見の内容を吟味する、というようなことをできるかどうか。

 姉にはできる。そして姉は、自分にできることは目上の他人にもできるし、できるべきだと考えている節がある。

 そんな姉を好んで支えようという人物が、王太子の周囲にいるとは思えなかった。

「反りが合うはずがないんだよなあ」

 深いため息をついて、クルツフリートはもう一度独語する。

 ゆるゆると立ち上がり、室内を見回して付け加えた。

「殿下もまあ、御自身でいろいろやりたいお方だし」

 クルツフリートが王都に上ってわずか半年の間ではあるが、王太子が志向しているのは強い王室だ、ということはクルツフリートにも理解できた。姉を味方に付けることができたならば、それはいずれ王となったその先の治世において実現できたことだろう。

 だが、王太子の婚約者とその生家の影響力をどう見るか、という点で、王太子と姉の間には決定的な行き違いがあった。姉もそのことを理解できてはいたはずだ──だが、持って生まれ、そして十数年をかけて育てた性格は容易に矯正できるものではない。そしておそらく、理解できた時点で、もう修復のしようがないほどに王太子の心は姉から離れてしまっていたのだろう。

「婚約解消だけならまだしもなあ……」

 首を振ってクルツフリートは呟く。

 どう控え目に受け取っても、侯爵家と、そして姉自身を侮っていなければ出てこない処断ではあった。

 姉を心の底から怒らせるには十分なほどに。

 クルツフリートは知っていた。姉は──アリアレインは元来、篤い情を持ち合わせている。

 普段は巧みにそれを己の中に折り畳んで隠し、完璧な淑女を演じているに過ぎない。

 例外が、倒すべき敵を見つけたときと本気で怒らせたときだった。

 そうなったときの姉は、完璧な淑女としての振る舞いのままに、とてつもなく冷徹で、そして苛烈な行動を取ってみせるのだ。

 クルツフリートは幼い頃の幾度かの経験から、姉だけは絶対に怒らせてはならない、と知っている。

 その姉に対して、婚約解消と追放刑。

 姉は王都を引き払い、郷里へ戻るという。ただそれだけで済ませる気であるはずがなかった。

「せめてアーヴェイルあたりが止めてくれれば──」

 マレスにいた頃から姉の側に仕えていた有能な従士の顔を思い浮かべ、彼がどのように行動するかを考えて、クルツフリートは小さく笑った。

 あの従士も整った顔と冷静な態度の内側に、ほとんど絶対的と言ってよいほどの姉への信頼と敬意を抱えている。姉への侮辱と受け取ったのであれば、止めるどころか、まずもってアーヴェイル自身が王太子をしいしかねない、ということに気付いたのだった。

「……似合いすぎてる主従じゃないか」

 クルツフリートはもう一度小さく笑って独語する。苦笑だった。

 ──あの書状が姉様から届いたということは。

 ひとつ息をついて苦笑を吹き消したクルツフリートは考える。姉にとって、その場でなにかをするよりも有効な手があった、ということなのだろう。条理と道理を重んじる姉であればそうする。

 そうであるならばやはり、姉の言うとおり動くべき。

 そもそも今の姉に──経緯から考えて確実に激怒しているであろう姉に、逆らうことなど考えない方がよい。

 心を決めたクルツフリートはもう一度首を振って、出立の準備を始めた。

 明日の朝にはこの私室を出て、そしておそらくは二度と戻らない。持っていかねばならないものと残してはゆけないものを、それぞれまとめねばならないのだった。