「事実ならば、クラウディア、あの侯爵令嬢を排するには十分な事情となろうが」

 クラウディアが細かな部分をぼかして伝えたがために、王太子の返答は今一つ断定的なものではない。

「ここにあるものが証でございます、殿下。それに──」

「なんだ?」

「かの侯爵令嬢はこう言っているも同然でございます。『侯爵家の手の届く場所で気を損ねるようなことがあれば、いつでも』と。そのようなことをする者が王妃となれば、何が起きましょうか」

 侯爵家であれば領地とせいぜいが王都まで。だが、王室の中に入り、王妃としての権を握れば、同じことが全土で起こりうる。彼女はしんしやくそんたくもなく、手際よく鞭を振るうことだろう。

「──クラウディア」

 短い沈黙のあと、顔を上げた王太子は、低く重い声でクラウディアの名を呼んだ。

「はい」

「これから言うことは、しかるべき時までけっして口外してはならぬ」

 言葉を切った王太子は目を閉じてひとつ息をついた。再び目を開き、クラウディアの目の奥を覗き込むようにして問いかける。

「誓えるか」

「はい、殿下、わたくしの命と名誉にかけて」

 藍色をした王太子の目を正面から見返して、クラウディアは応じた。

「そなたの言うとおりだ。あれは余の婚約者として──次の王妃として相応しくない。ゆえに排さねばならぬ」

「お聞き入れくださり、ありがとうございます、殿下」

「そなたはあの侯爵令嬢のようなことはせぬと、余は信じておるが」

「誓って、さようなことはいたしませぬ」

「ならばクラウディア、これからはそなたが余の側で、余を支えてくれ」

「はい、殿下、御意のままに」

 一礼して顔を上げたクラウディアは、決意の籠もった笑顔で付け加えたのだった。

「クラウディアは嬉しゅうございます、殿下」



 かすかな音を立てて、応接室の扉が開かれた。

 部屋へ入ってきた王太子は、いつものように優しげな笑顔をクラウディアに向けてくれた。

 そのまま、という王太子の手振りに気付かなかったふりをして、クラウディアは立ち上がり、一礼する。

「待たせてすまなかった、クラウディア」

「いいえ、殿下。どうかお気になさらず」

 内務卿がどのような人物で、どのような話を交わしたのかを、クラウディアは尋ねなかった。

「いちいち立たずともよいのだ、そなたは余の客人なのだから──食べていなかったのか?」

 王太子の視線の先には、小皿で供されたままの焼き菓子がある。

「同じいただくのならば、ご一緒に、と思ったものですから」

「かえって気を遣わせてしまったか。城勤めの菓子職人の作だ、遠慮は要らない」

 手振りで座ってくれ、と示しながら、王太子自身もソファに腰を下ろす。

 ほどなく運ばれてきた茶に口を付けてから、王太子は告げた。

「そなたの父君をここへ呼んだ。本来、こちらから出向くべきなのかもしれぬが」

 いいえ、とクラウディアが首を振った。

「父も殿下のお呼びとあれば、すぐに参じましょう。これまではお忍びでしたから、いささか驚くかもしれませんが」

 クラウディアの父であるノール伯爵への、正式な婚約の申し込み、ということは、既に暗黙の了解だ。

「父君は、その──どのような? 世評は聞こえてはくるが、どのような人物かはよく知らぬのだ」

「おおよそ世評のとおりの人物ですわ、殿下。ただ、領民からは慕われておりますの。家族と領民に要らぬ苦労をさせたことがないことだけが自慢、と、父はよく申しております」

 そうか、と頷いた王太子の左手で、なにかが光る。

 その光の正体に気付いたクラウディアが、王太子の手を取った。

「いけませんわ、殿下。もう失われた約束の、その証などを身に着けておられては」

 小声で言いながら、するりと指輪を外す。

「ああ、すまない、クラウディア。そなたの言うとおりだ。これはすぐにも処分させよう」

 壁際に控えていた侍従に王太子が頷き、歩み寄ってきた侍従に指輪を手渡して、片付けておけ、と短く命じる。

 それだけで察したらしい侍従は、一礼して部屋を出て行った。



 その日の夜、王城へ呼び出されたノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは、ひどく緊張していた。

 登城せよ、という王太子の命は唐突なもので、なぜ呼び出されるのか見当がつかないからだった。

 呼び出されそうな事情が──たとえば、王室への隠し事が、ないと言えば噓になる。だが、フォスカール家のそれは、貴族の誰もが抱えるような些細な秘密に過ぎない。

 そう考えるとますます呼び出される理由がわからなかった。さりとて王太子のお召しとあればすぐさま出向かぬわけにもいかない。

 王城へと向かう馬車の中で、ルドヴィーコは肥満した身体を神経質に揺すり続けていた。

 家紋を印した馬車が王城の跳ね橋に差し掛かると、橋を守る兵士は何も言わずに道を開けてくれた。

 普段ならば馬車の中をあらためられ、登城の用向きをこと細かに尋ねられるところだ。

 すべて話は通っていると言わんばかりの対応も、兵士の丁重な態度も、常のそれとはかけ離れている。

 ルドヴィーコとしては喜ぶべきところなのかもしれないが、事情もわからず呼び出された身にはかえって薄気味悪いとしか感じることができなかった。

 控えの間に通されても気が休まらず、ルドヴィーコは秋の夜だというのに吹き出てくる汗を拭い続けている。

 部屋の中をうろうろと歩き回らないのは、辛うじて働かせた自制心と自尊心の為すところだった。

 案内役の侍従が部屋に現れ、こちらへ、と先導する先は、公的な面会に用いられる謁見の間ではなかった。

 私的な用向きに使われる一画で、どちらかと言えば個人的な、あるいは内密な話の場だ。

 やはり理由がわからない、と思い悩む間に、もう扉が目の前にあった。

 ここまで来たならばどうとでもなれ、と腹を括ったルドヴィーコが、ひとつ咳払いをして案内役に頷く。

「ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカール閣下、王太子殿下のお召しにより登城なさいました」

 案内役が声を張る。

「よい、入れ」

 扉の向こうから、王太子の声が応じた。

 一礼して案内役が開けた扉の先に足を踏み出そうとして、ルドヴィーコは固まった。

 なぜここに娘がいるのかが理解できなかった。

「何を立っておる、入れ、ノール伯」

 王太子が鷹揚に促す。

 その声に引き摺られるように、ルドヴィーコは部屋の中へ足を踏み入れた。

「お召しにより参上いたしました、殿下」

 挨拶をした声が、少々上ずっていたかもしれない。

 くつろいだ態度でソファに腰かける王太子の隣に、娘のクラウディアが座っている。

 領地経営と公務で忙しく、家のことは妻に任せきりという状況ではあったが、こういうことになっているなどとはまったく知らされていなかった。

 なぜこのような、殿下には婚約者がおられたのでは、とルドヴィーコの頭の中を疑問が駆け巡る。

「クラウディアに──娘にお目を掛けていただいておるようで、恐縮の限りでございます。なにか失礼などは」

 取り繕うようにではあっても、どうにか言葉を押し出したのは、ルドヴィーコ自身が重ねた年の功によるところが大きい。

「失礼などない、よく話を聞いてくれる。よい娘御を持ったな、ノール伯」

 頷いた王太子が答える。

 は、ともう一度恐縮するルドヴィーコに、王太子は、まあ座れ、と向かいの席を手で示した。

 失礼いたします、と一礼して応じ、ルドヴィーコが腰を下ろすと、全員に紅茶が運ばれてきた。

 こういった席で供されるからには最高級のもののはずだったが、ルドヴィーコには香りがまったく感じられなかった。

「それで、ノール伯、娘御のことだ」

「は」

「単刀直入に言おう、娘御を貰い受けたい」

「──側室、ということでございましょうか。さようであれば──」

「側室などではない」

 苛立ったように王太子が遮る。

「正妃だ。正確には、正妃とすることを前提に婚約、ということだが」

 ルドヴィーコの口の中が乾く。

 答える舌がもつれた。

「お、畏れながら、殿下、殿下のご婚約者様──マレス侯爵の御令嬢は」

「あの婚約は」

 不機嫌そうに視線を逸らし、王太子が吐き捨てる。

「つい先ほど解消した。あの娘は正妃たるに相応しくない──いや、この国の貴族たるにすら」

 嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、ルドヴィーコは重ねて尋ねる。

「へ、陛下はどのように」

「忘れたか、余は摂政だ。御病気の陛下を煩わせるまでもなかろう」

 ──理屈では、たしかにそうだが。

 たしかに王は病身で、床から起き上がることすら叶わない、というのがもっぱらの噂だ。

 そして王太子は摂政として王に代わり、王の名において国政を取り仕切る身でもある。

 ──とはいえ。

 ルドヴィーコは考える。

 将来の王妃を決めるような大事を、陛下の御意思を確かめずに決めてしまってよいものか。

 まして相手は国有数の大貴族、マレス侯爵の一人娘。その影響力も考慮しての縁談ではなかったか。

「ノール伯、どうなのだ?」

 押し被せるように問われて、ルドヴィーコは己がまだ王太子に返答していなかったことを思い出した。

「御意のままに、殿下。つつかな娘ではございますが──」

 応じながらルドヴィーコは、マレス侯爵にどう言い訳したものか、と考えている。

 マレス侯爵家の現当主ランドルフ・ハーゼンは、穏健で民の生活向上に心を砕く名領主という評判だ。

 ルドヴィーコ自身も知らぬ間柄ではないし、けっして悪い関係でもない。むしろいくつか借りがあるくらいだった。この上娘が王太子の婚約者たる地位を奪い取ったなどということになれば、一体自分はどの面を下げて侯爵に会えばよいというのか。

「うむ、礼を言うぞ、ノール伯」

 満足そうに頷いた王太子が、傍らに座るルドヴィーコの娘──クラウディアに視線を向ける。

「さあ、クラウディア、これで晴れてそなたと婚約したと皆に言える」

「ああ、殿下、クラウディアは嬉しゅうございます」

 この光景を手放しで喜ぶことができたならば自分はどれほど幸福だったことか、とルドヴィーコは内心で頭を抱えている。

 娘のクラウディアは、親の欲目を差し引いても、美しい娘だと思っていた。

 豊かな向日葵ひまわり色の髪と透き通るような白い肌、宝石にも喩えられるような紫の瞳。

 美しいと評判の妻の子とはいえ、正直なところ、自分の血が入っているとは思えないほどの美人に育ってくれた。そのことを、ルドヴィーコは神に感謝している。

 しかしそれはそれとして、この国の正妃たるに足りるかどうか。

 無論、ルドヴィーコも妻も、娘をどこへ出しても恥ずかしくないよう、教育に努めてはきた。

 クラウディアも素直にそれに応え、その甲斐あって人並み以上の知識と教養を身に付けた女性になってくれている。

 ──だが、あの侯爵令嬢を見てしまったあとではどうだろうか。

 マレス侯爵令嬢アリアレイン・ハーゼンは、歳の頃こそクラウディアとそう違わないが、既に侯爵家の王都における名代だった。

 王都に上って以降、王都邸に留まるだけでなく、宮廷、そして執政府にも頻繁に足を運び、執政府の書記官たちと会合を持つことも度々と聞く。

 ルドヴィーコ自身が侯爵令嬢と直接言葉を交わしたことはないが、マレス侯爵は自慢の娘と言っていた。

 あの有能なマレス侯爵が名代を任せるくらいだから、実際に相当なものなのだろう。

 その侯爵令嬢に比べてしまえば、クラウディアの資質──為政者としての資質が一歩二歩劣ることは否定しがたい。

 まあ、そこは群臣がしっかりと固めてしまえばどうにかなるのかもしれない。

 ルドヴィーコのより大きな心配は、やはり彼女の父にあった。

「──しかし、いかに殿下の仰せとはいえ、マレス侯爵がどう思われるか」

 不安をこぼしたルドヴィーコの言葉に、王太子がまた不機嫌そうな表情になる。

「マレス侯がどう思おうと関係あるまい。言ったであろう、もはやあれはこの国の貴族たるにすら相応しくない、と」

「──殿下?」

 王太子の口ぶりに不穏なものを感じ取ったルドヴィーコの、声のトーンが一段下がる。

「あれはこの国から追放することとした。マレス侯の娘であれ、追放の処断とその効力に例外はない」

「なっ……」

 己の顔から血の気が引いていくのを、ルドヴィーコははっきりと感じ取った。

「お、お願いでございます殿下、どうかお考え直しください!」

 叫ぶように言い、腰を浮かせてしまってから、自分の行動に気付く。

 ルドヴィーコはそれほど動転していた。

「いかなる罪によって追放とされたのかは存じ上げませんが、マレス侯爵家は王国の柱石、東部国境の守りの要にございます。その一人娘を追放など──分を過ぎた差出口と存じてはおりますが、どうか、どうかご再考を」

 悲鳴のような声で言い、低いテーブルにぶつかるほどに深く頭を下げる。

「クラウディア、そなたの父は優しいのだな。そなたの性格は父譲りであったか」

 ルドヴィーコの態度を鼻で笑うように王太子が応じた。

 まあ、とクラウディアの声がする。

 なぜだ、とルドヴィーコは叫びだしたい思いでいる。

 なぜあの家の、あの令嬢を追放刑に処して笑っていられるのだ。

 そこらの下級貴族の娘でもなければ見てくれだけが取柄の姫君でもない。

 王国史に名を残すかもしれぬような才媛を、しかも抜群の出自のその家とともに切り捨てるなど。

「殿下!」

 頭を下げたまま語気を強めたルドヴィーコに、王太子はため息とともに答えた。

「ノール伯、余がなにも考えておらぬとでも思ったか。それに余とて血も涙もないわけではない。あれが前非を悔いて詫びのひとつも入れるならば、恩赦してやるつもりでいる」

「──こ、これはご無礼を。殿下の寛大なお心、わたくしめはまったく感服いたしました」

 安堵のあまりふたたび気を失いそうになったルドヴィーコは、深く息をついてソファに腰を沈めた。

 ようやく周囲が見えるようになり、己の汗がテーブルに滴っていたことに、今更のように気付いた。

 慌ててハンカチを取り出してテーブルを拭い、次いで己の顔の汗を拭く。

「まあ、あれも最初からそのつもりであったのやもしれぬ。3日の猶予を、と願い出てきたからな。ひとまず頭を冷やしたい、というところだろう」

 3日の猶予。

 まだ追放刑に処されたわけではなく、侯爵令嬢としての身分はそのまま。

 その間に詫びを入れ、なにがしかの対価を差し出して、恩赦の形で追放を免れることはできるだろう。

 当の王太子が言うのだから間違いはない。

 供されたままぬるくなっていた紅茶のカップを手に取り、渇いた喉を少しでも潤そうと一口含む。

 香りも味も、ルドヴィーコには感じられなかった。

 ──あとはあの令嬢が頭を下げさえすれば。

 そこまで考えて、ふと心に引っ掛かるものを感じた。

 自慢の娘、というほかに、マレス侯爵はあの令嬢についてなにか言ってはいなかったか。

 記憶の底を探り、困ったように笑うマレス侯爵の顔とともに、その言葉をルドヴィーコは思い出していた。


『あれは娘ながら、わが父の気性を最も強く受け継いでいる、と家中では評判で。

 跳ね返って殿下や陛下を煩わせることにならぬよう、今からよくよく言って聞かせねば』


 先代マレス侯爵は武断派で鳴らし、東の隣国からの侵攻を幾度も食い止めてみせた豪傑だった。

 剛毅にして果断な性格とその実績でもって陛下にも一目置かれ、配下からは強く慕われたとか。

 ──その先代侯爵の気性を受け継いでいる?

 王都で聞くあの令嬢の評判は、そういった人物像とは程遠い。

 だが、それこそがあの有能な令嬢の本性だとしたら。

 マレス侯爵の為政者としての能力と、先代侯爵の気性を兼ね備えているとしたら。

 一体どうするのか、ルドヴィーコには想像もつかなかった。

 ──たとえば、頭を下げようとしなかったなら?

 当然、追放は解かれない。

 親と娘の間柄であっても、追放された者への援助を禁ずるという定めに例外はない。

 だが、あのマレス侯爵が一人娘を、それも若くして名代を任せるほどの娘を、はいそうですかと見捨てるだろうか?

 マレス侯爵領内に匿うようなことになってしまえばどうなる?

 決まっている。殿下は討伐のための軍を発するしかない。

 王室の威信を保つためには、ほかに選択肢などないのだから。

 ──頭を下げるほかない、相手には選択肢がない、そう思いながら、選択肢を失っているのは、実は殿下の方なのではないか?

 口に出すのも恐ろしい想像だった。

 ルドヴィーコはそのあと、王太子とどのような会話を交わしたかをほとんど憶えていない。

 自分がなにか、抜け出せぬ泥沼に足を踏み入れた気がしてならなかった。