王太子エイリークの思惑


 午後遅くから開かれたパーティを夕刻で中座した王太子エイリーク・ナダールは、ノール伯爵令嬢クラウディア・フォスカールを伴って王城へ戻った。

 これまでであれば、外出した先でクラウディアと会うことはあっても、無紋の馬車でフォスカール家の王都邸へ送り返していた。フォスカール家と、そして自身の婚約者への、一応の遠慮だった。

 だが、その婚約者は──マレス侯爵家の令嬢は、もういない。

 クラウディアをすぐさま婚約者として扱うことはなくとも、私的な客人として遇することに、エイリークは何ら抵抗を感じていなかった。

 王城内に設けられた王族のための一画に、エイリークは自らクラウディアを案内する。

 行き会う使用人や侍従たちが一様に丁寧な礼を捧げ、クラウディアはいちいち優雅な会釈でそれに応じた。

 あとでクラウディアの立場を侍従の誰かに教えてやらねば、とエイリークは思っている。

 ひとまずは私的な客人として。いずれは婚約者として。

 王族の私的な客人を招くために設けられた応接室の前で、エイリークとクラウディアは思わぬ相手と顔を合わせた。

「殿下」

 ほんの一瞬だけ顔に浮かんだげんそうな表情を柔和な笑顔でかき消して呼びかけたのは、大臣のひとり。

「内務卿か。一体どうした。──クラウディア、すまぬが中で待っていてくれ」

 ややこしい話になるのであれば、クラウディアに聞かせるわけにはいかない。

 立ち話も長くなればただ待たせるだけになってしまう、ということもある。

 はい、と簡潔に応じたクラウディアが内務卿に会釈して、侍従が開いた扉から応接室へ足を踏み入れる。

 エイリークはクラウディアに視線を送り、それから中にいた侍従に軽く頷いてみせる。その所作とわずかな視線の動きだけで、クラウディアには茶菓が供されるはずだった。

 扉が閉められるのを確かめてから、エイリークは内務卿に向き直る。

「陛下の御加減は、と伺いに参ったのですが」

 うっすらと笑みを浮かべたままの表情で、内務卿はそう切り出した。

「──お変わりはない」

 簡潔な一言は噓とは言えなかったが、事実のすべてを語っているわけでもない。

 父王は2年前に倒れて以来、ほとんど床から離れられなくなってしまった。

 記憶も物事の認識も曖昧になり、政務を執ることができる状態にない。

 だから、法と典範の定めるところに従って、エイリークが摂政として国の政務を切り回している。

 その状況は変わっていない──だが、容態はじわじわと悪化している。

 もう王に残された時間は、年よりも月で、ひょっとしたらもっと小さな単位で数えなければいけないものであるのかもしれなかった。

 そのようなことを大臣とはいえ、臣下に話せるはずもない。

 さようでございますか、と内務卿は悲しげな表情で首を振った。

「ところで殿下、先ほどの女性は──?」

「ノール伯の息女だ。ハーゼンの娘とは、」

 半拍置いて内務卿に視線を向け、エイリークは宣言した。

「──縁を切った」

 その返答に、内務卿は、ああ、と笑みを大きくして頷いた。

「陛下のお選びになったご婚約者様を悪く申すわけではございませんが、殿下、よいご判断かと」

 エイリークがうむ、と頷く。

「頭は回る。弁も立つ。だが、将来の王妃として最も求められることが何であるかを、あれは理解しておらなかった」

「まさしく、さようでございますな」

 柔和な笑顔の内務卿が、わかっております、とでも言いたげに応じた。

「そのようなわけだ。婚約は解消した。ノール伯の息女──クラウディアを、余の新たな婚約者に、と考えておる。無論、伯には話を通さねばならんが」

「よいご人選かと」

 内務卿がそう言って頷き、付け加えた。

「ノール伯爵にお話をされるのであれば、殿下、早い方がよろしゅうございましょう。人の口に戸を立てられるものではございませぬ。噂の形で伯爵の耳に入れば、何かと──」

 ノール伯爵とて人の親である。相手が王太子とはいえ、娘の婚約を噂の形で知るようなことがあれば、心穏やかにいられるものではない。内務卿は、そう指摘していた。

「無論だ。すぐにも屋敷へ人をやらねばならんな」

 ではわたくしが、と内務卿が応じた。

「殿下のお名前で、ノール伯爵の屋敷に使いを出しましょう。ただちに登城するよう、と」

 一礼して立ち去る内務卿を見送りながら、エイリークはひとつ息をついた。

 いまひとつ読めない部分のある重臣。

 重責の職務を大過なくこなし、言葉も態度も王室への忠誠を表してはいるが、その内心までを見せることはない。程度の大小はあれど、それが内務卿をはじめとする諸卿に対する、エイリークの評価だった。

 ──御加減を伺いに、か。

 内務卿をはじめとする重臣たちは、けっして口に出して言うことはない。だが、言葉を変えればそれは、崩御の時期とその影響を見定めようとしている、ということでもある。

 宮廷内のちょっとした噂話、侍従がつい漏らす一言。

 謁見すらままならない現状では、そういった断片的な情報であっても貴重、ということなのだろう。

 そのような情報を欲するのは、国政そのもののためでも、父王を気遣ってのことでもない。

 崩御によって国政と宮廷の勢力図のどこがどのように変わるかを推し測り、己の味方をどのように増やし、対立する者たちの勢力をどう削るか。そういったことを考えているに違いなかった。

 不敬であり不遜であると言うほかはない。

 エイリークにしてみれば、不快極まる話でもあった。

 だが、いずれエイリーク自身が王となり、強い王室を──諸卿や高位貴族たちの思惑に左右されない王室を作り上げるためには、そのような者たちをも使いこなさねばならない。

 父王はその方法をエイリークに教える前に病に倒れ、起き上がることのできない病床にある。

 ──そうであれば、己ひとりでやるしかないのだ。

 信頼を置ける者は誰か。

 余計な口を挟まぬ者は誰か。

 分に余る思惑を抱かぬ者は誰か。

 臣下の中から、有能で、それでいて我欲と危険の過ぎない者を見定めねばならない。

 婚約者の立場にありながらそれを理解せず、事あるごとに口を挟もうとする侯爵家の娘など、エイリークの目指すところからすれば、邪魔にしかならない相手だった。

 婚約の解消を、よい判断、と内務卿は言い、クラウディアとの婚約を、よい人選、と言った。

 無論それも、内務卿なりの思惑があってのことだろう。

 婚約の解消に端を発して宮廷がどのように動くかを、重臣たちは見極めようとするに違いない。新たな婚約者の選定に関しても、同じような興味を抱くことだろう。

 父王の容態を知ろうとするのと同じように。

 そして父王の崩御に伴って何が起きるかを考えているのと同じように。

 では自分はこれから何をすべきか、とエイリークは考える。

 決まっている。

 婚約の解消と侯爵令嬢の追放をにして、宮廷を作り替えるのだ。

 エイリークの視線の先、長い廊下の角を曲がって、内務卿の姿は見えなくなった。

 もうひとつ息をつき、知らず知らずのうちに険しくなっていたらしい表情を改めて、エイリークはクラウディアを待たせている部屋に入っていった。


 広い応接室に通されたクラウディアは、侍従に言われるままにソファに座った。

 待つほどもなく、侍女が紅茶と焼き菓子を運んでくる。

 失礼いたします、という言葉とともにテーブルに茶器が置かれた。ソーサーと柄を合わせた彩磁のカップからは、湯気とともに新鮮な果物のような香気が立ちのぼっている。

 一口だけ口をつけると、鮮烈な香りとともに、特徴的な渋みが感じられた。

 ──南方ものの春摘み茶。

 遠く国の外から運んでくるために高価、というところもさることながら、その希少性のゆえになかなか出回ることがない。地味な贅沢を愛してやまない父が幾度か手に入れて、いわば教養の一端にするために振る舞ってくれたことはある。だが、貴族の令嬢が集うお茶会でもそうそうお目にかかれない品だった。

 王太子の私的な客人になる、ということがどういうことであるのか、改めて理解させられた気分になった。

 高揚感よりもむしろ、緊張感が先に立つ。

 とはいえこれも自分が望んだこと、とクラウディアは自分を納得させた。



 クラウディアが王太子と知り合ったのはほんの偶然の出来事だった。

 半年ほど前、婚約者であるマレス侯爵令嬢が急遽出席できなくなった夜会で、誰もが遠慮して声をかけなかった王太子に、クラウディアから声をかけたのがきっかけだった。

 その折も、さほど多くの言葉を交わしたわけではない。

 クラウディアには遠慮が──王太子に対してもその婚約者に対しても、遠慮があった。加えて、王太子も、あまり多くを語ろうとはしなかった。

 ただ、そのときの王太子がひどく疲れていて、しかもそれをどうにかして隠そうとしているということはおぼろげながら理解できた。その理由にも、察しがついた。

「重責を担われての日々、せんえつながら心中をお察しいたします。殿下、どうかご自愛を」

 短い会話の最後、周囲に聞かれぬよう、低い声でそんなことを言ったことを、クラウディアは憶えている。一礼して顔を上げたとき、王太子の顔に浮かんでいた表情を忘れることができない。

 ──己をただ労わってくれるお相手が、この方にはおられないのだ。

 そのように考えたのは、クラウディアの直感でしかない。

 不遜な憶測だ、とも思った。だがそれ以上に、王太子の表情が──心の奥に畳み込んだ何かに触れられた驚きと、そしてかすかな喜びの入り混じった表情が、クラウディアに確信を抱かせたのだった。

 王たる者は孤独だという。

 何もかもを最後には自分で決め、その結果を引き受け続けなければいけない。

 助言を受けることはできても、誰のどの助言を採り上げるのか、決めるのは王ひとりだ。

 父君である陛下が倒れ、急遽摂政に就任されてから1年半。正式に戴冠こそしてはいないが、陛下の代理としての日々は、ある意味で陛下以上に孤独な、重圧を感じながらの日々であったに違いなかった。

 マレス侯爵令嬢は、助言者としては申し分ない人物だった、とクラウディアは思う。クラウディア自身が並び立つことなど考えようもないほどに、あの令嬢の俊才ぶりは際立っている。

 若くして──クラウディアと変わらぬ年頃であるにもかかわらず、侯爵家の王都における名代。

 それも名目のみのものでなく、実際に実務を切り回していると聞く。

 どれほどのものか定かにはわからないけれど、いつも忙しくあちこちと出歩きながら仕事をしている父を──伯爵を見ていれば、侯爵家の名代という立場がどれほど忙しいか、そしてその職責がどれほど重いか、ということはわかる。

 自分と変わらない年頃でそれをこなしてしまう、しかも陛下に選ばれた殿下の婚約者。自分が及びもつかないほどの俊才。

 ──でも。

 殿下のお心に寄り添うことはできない。

 そうであれば、殿下があのように苦しげなお顔をなさるはずがないのだから。

 殿下やその婚約者といえどひとりの人間で、だから好悪の感情や合う合わないの相性の問題はある。

 それはもうどうしようもないことなのだから、ひとりで足りないのならば誰かが補えばよい。もし自分が補えるのであれば、と、クラウディアは考えていた。


 側室であれ何であれ、それが殿下とあの令嬢を支えることになるのなら、それもひとつの道だと思っていた。

 つい最近までは。

 クラウディアが考えを改めたのは、ひと月ほど前のことだった。

 その頃、友人たちが──王太子と知り合ってから広がった交友関係の、そう付き合いの長くない令嬢たちが、侯爵令嬢に幼稚な嫌がらせをした、ということがあった。

 ことは既に済んでいた。事前に知っていれば止めることもできただろうが、もう実行に移したあととなっては、クラウディアにできることなどほとんどありはしない。

 柄巻きの革紐と封筒に入れられた鳥の羽を持ち込んだふたりの令嬢を前に、正直なところ、クラウディアは閉口する気分だった。

 なぜそのような幼稚な手段に訴えたのか。当然のように意に沿わぬ結果に終わったその話を、なぜ自分のところへ持ち込むのか。なにもかも、クラウディアの理解の範疇を超えていた。

 断片的で要領を得ない話をふたりの令嬢からどうにか聞き出して整理しなおすと、嫌がらせをした令嬢はもうひとりいて、そのひとりはショックのあまり家から出られなくなってしまったらしい。

「これが──」

 差し出されたのは封をされていない封筒。香水を散らしてあるのか残り香か、ふわりと柑橘を思わせる爽やかな香りがした。ベルガモットにシダーウッドあたりかしら、と当たりをつけながら、封筒の中を覗き込む。

 動物の爪のようなものが見えた。

「これは?」

「猫の、だと、思います。私のところには、鳥の羽が届けられましたから……」

 震えの混じる声で片方の令嬢が説明した。

「あの侯爵令嬢なら、やりかねませんわね」

 ため息とともに告げる。

「他にこのことに関わった方は?」

「……存じません。私たちが知っているのは、3人だけです」

「彼女も侯爵家の名代です。出所を調べるくらいのことはするし、できるでしょう。殿下に御注進などされてしまわなかっただけ、むしろ運がよかったかもしれません」

 反りが合わないとはいえ殿下の婚約者、王族の関係者であることに変わりはない。

 表沙汰にされてしまえば、きついお叱りくらいで済むような話でもなくなってしまう。

 遠回しに浅慮を咎めるクラウディアの言葉に、びくりと身を縮めた令嬢たちが、何かを思い出したかのように顔を見合わせた。

「──クラウディア様、その封筒が置かれていたのは、寝室のドアの下だった、と」

 クラウディアの背筋を、冷たいものが走った。

 ──苛烈に過ぎる。

 実行者を調べて送り返すまではまだ理解できる。ことを公にせず、しかし自分はすべてを把握している、泣き寝入りなどする気はない、ということを理解させる手段として、選択する余地がある。

 だが、寝室のドアの下、というのはどうか。

 その気になればいつでも寝室に──人がいちばん無防備になる場所に、手の者を送り込めるのだ、という誇示に他ならない。平たく言えば「これ以上続けるならば、自分はいつでもお前を殺せるのだ」と言っているのと同じことだった。

 あの小柄な侯爵令嬢の、灰色の瞳を持つ切れ長の目が思い出された。

 何もかもを見透かすような、美しく静かで、底の見えない、冷たい目。

 憎むでもなく恨むでもなく、ただ必要だから、それが最も目的に近い手段だから、それを選んだ。

 ──彼女を正妃の地位に就けてはならない。

 クラウディアはそう確信した。

 必要とあればちゆうちよなく脅迫の刃を抜く。おそらく彼女にとっては、暴力も同じことだろう。

 必要かつ有効な手段であれば、そしてその手段を自分が用いうるのであれば、どのようなことであっても実行できる。それはたしかに、為政者として有用な資質ではあるのかもしれない。

 だが、その蛮性も冷徹さも、王妃として──王の最も側近くにある王妃として、相応しいものだとは到底思えなかった。王妃の世評は、それがそのまま王の、つまりはエイリーク殿下の世評ともなる。敵対者を容赦なく誅する暴虐な王としての世評を、殿下が望むだろうか。

 婚約者の座を──将来の正妃たる婚約者の座を奪い取ることをクラウディアが決めたのは、その瞬間だった。婚約者としてのマレス侯爵令嬢を排除する。己がそのあとに座る。

 婚約者として、そして正妃としての自分の役割は決まっている──重責に喘ぐ殿下のために、絶対的に安心できる場所を作り、お支えすること。ただそれのみだ。

 助言者であれば諸卿をはじめとする宮廷貴族や父のような領主貴族たちがいる。自分の差し出口など必要ない。もの言わず、ただ静かに殿下を待ち、お話を聞いて、少しでも日々の重圧を忘れられる時間を作る。

 自分にならばそれができる。そうクラウディアは考えたのだった。

 そして、マレス侯爵令嬢を排除するのであれば今しか──婚約者としての立場が微妙なものになっている、今しかない。

「わかりました。このことは、私が預かります。でも、ひとつだけ、約束してくださる?」

 どのようなことでしょうか、と小さな声で令嬢のひとりが尋ねた。

「絶対に──私に相談したことも含めて、絶対にこの件は口外しないように。あなたたちがなさったことも、私に相談したことも、何があろうとすべてを胸に秘めて、お墓の下まで持って行って。そう誓うのであれば、あなたたちにこれ以上の災いが起きないよう、手を打ちましょう」

 こくり、と、誰かの喉が小さく音を立てた。

 令嬢たちの怯えと緊張が、クラウディアにも伝わってくる。

「──誓えますか?」

 静かな声で、クラウディアが問う。

 もう一度顔を見合わせて、誓います、と令嬢たちは言った。

 その様子を見て、クラウディアは、望み薄だと悟った。己自身の心から出るものではなく、他者の顔色を見て決める誓いなど、当てにならないこと甚だしい。

 具体的なことは何一つ話すわけにいかない、と考えながら、クラウディアは席を立った。

「あの──どちらへ?」

 もう話は終わりか、とでも言いたげな表情を浮かべて、ひとりが尋ねた。

「言ったでしょう、手を打ちます。あなたたちにこれ以上悪いことが起きないように。ですから、安心して待っていてくださいね」

 愛想よくにこりと笑い、クラウディアは扇子で口許を隠して、目にほんの少しだけ力を込めた。

「──それとも、どのような手を打つのか、お知りになりたくて?」

 慌てたように目の前のふたりが首を横に振る。

「そう。では、このことはお忘れくださいな」

 微笑んで頷き、会釈をして、クラウディアはその場を立ち去った。



 次に王太子に会った折、クラウディアは令嬢たちから受け取った品々を持参した。

 それらが自分たちに向けられた嫌がらせの証拠であると告げ、このようなことをする者をお側に置くべきではありません、と訴えたのだった。