自動清掃機の試作品の実験から一ヶ月。

 最初は一応陶器や金属などで自動清掃機を作ってみたのだけれど、いまいち『これだ!』というものが見つからなかった。軽くて丈夫で割れない素材がいい。

 わたしがそれで思いついたのは鍋だった。

「金属の鍋がありますよね? あれみたいに薄い金属で作ったら軽くて頑丈になりませんか?」

 というわけで、現在はいくつかの鍋の素材で試作してもらっている。

 他は順調で、もう魔法式を刻む彫り師も絵付けなどをしてくれる細工師も集めているそうで、みんなが新しい魔道具の素材が何になるのか期待しているらしい。

 今は試作の出来上がりを待っている状態だ。

 その話はともかく、今は自動清掃機よりも重要なことがある。

 なんと、紫水の清掃員に新人が入るのだ。

 数日前に「新人の面接をしたからね~」とメルディエル様が楽しそうに教えてくれて、数人が受かり、今日より正式に紫水の清掃員として働くそうだ。

「ミスティ、ご機嫌だね」

 アルに言われて頷いた。

「だって新人が入るんだよ? これで紫水の区画がもっと綺麗になれば、使う魔法士様達も来る人達も、みんな嬉しいでしょ?」

「それにミスティの担当部屋も減るから?」

「うーん、部屋はそのままでもいいけど、共用スペースの清掃のほうもお願いしたいかなあ。今はほぼわたしがやってるから、他の人が部屋数を減らす代わりに、そっちもやってもらえると嬉しいかも」

 他の清掃員は振り分けられた部屋の清掃で手一杯のようで、共用スペースは普段からわたしが掃除をしていたが、結構大変なのだ。

「確かに、ミスティにはかなり負担がかかっている。士団長もそれを分かっているから新人を入れたんだろう」

「ありがたいねえ」

 そんな話をしながら士団長室に着いた。

 扉を叩き、許可を得てから中へ入ると、メルディエル様が振り返る。

「ああ、二人ともおはよう~。丁度良かった。ミスリルちゃんに紹介したい子がいてね~」

 メルディエル様の横には女の子がいた。

 年齢は私と同じか少し下くらいだろうか。だが身長はわたしより高い。百六十以上はありそうだ。青い髪を高い位置でツインテールにした、藍色の目の可愛らしい子で、わたしと同じく紫水の清掃員用のお仕着せを着ている。

 ……も、もしかして……っ!?

「紫水の清掃員に今日から入ってくれる子の一人だよ~。あと二人いるけど、それぞれ別の子達に任せたから、この子はミスリルちゃんに任せようと思って」

「え、わたしにですか?」

「うん。この子はちょっと事情があって、短期間だけ入ることになったんだ~。正規雇用ではないけどってところかな~」

 ……正規の清掃員として働くわけではない?

 それは少し残念だったが、仕方がない。

 目が合うと女の子はニッコリと可愛らしく微笑んだ。

「初めましてぇ、ドルクマ騎士爵家の次女、ヴィオレッタ=ドルクマと申しますぅ。どうぞヴィオレッタとお呼びくださぁい。よろしくお願いいたします~」

 のんびりとした口調でふんわり微笑む姿が可愛い。

 わたしも同じように笑顔で挨拶をする。

「初めまして、ヴィオレッタ様。ミスタリア=リュディガーといいます。わたしのことはどうぞミスリルと呼んでください」

 ヴィオレッタ様がキョトンとした顔をする。

「ミスリルってぇ、剣とかに使われるあのミスリルですかぁ?」

「はい、みんなからそう呼ばれているんです」

「分かりましたぁ、ミスリルせんぱぁい」

 間延びした口調はふわふわした雰囲気だ。

「私はリュディガー公爵家の次男、アルフリード=リュディガーです。こちらのミスティは妻で、私は紫水の副士団長を務めています」

「はぁい、よろしくお願いします、副士団長様~」

 一つ頷いたアルがわたしを見る。

「それでは昼にまた」

「うん、また後でね。アルも仕事頑張って!」

 ガッツポーズをしてみせると、アルが僅かに口元を緩め、わたしの頭を撫でた。

「ありがとう」

 アルがわたしの頭から手を離すと、メルディエル様に声をかけられる。

「それじゃあ、ミスリルちゃん。しばらくの間ドルクマ嬢をよろしくね~」

「はい!」

 たとえ短期間だけの付き合いだったとしても、初めての後輩だ。

「これからよろしくお願いします、ヴィオレッタ様。一緒にお掃除頑張りましょう!」

「はぁい、頑張りまぁす」

 ヴィオレッタ様はやっぱりふわふわした返事だった。


「それでは、まずは掃除用具のある倉庫に行きましょう! 今日から二日かけて共有スペースのお掃除をする予定なので、練習に丁度いいと思います!」

 あの後、ウェルツ様も出仕して来たのでヴィオレッタ様と共に挨拶をした。

 ウェルツ様は普段通りの穏やかさで「よろしく」と微笑んでいた。

 それから士団長室を出て、二人で倉庫に向かう。

「そうなんですねぇ。私~、お掃除なんてしたことなくってぇ。それでも大丈夫でしょうかぁ?」

「大丈夫です! 大事なのはやる気と慣れですから!」

 倉庫に着くと、ほとんどの掃除道具は既に使われていて、わたしの分と他に余りがいくつか残っていた。少し前に新しい掃除道具を購入してくれたのは、新人が入るから増やしてくれたのかもしれない。

 後ろを見ればヴィオレッタ様がいる。

 ……わたしが新人教育なんて……!

 感動とやる気とでワクワクうきうきしてしまうけれど、ここは先輩として落ち着いた姿を見せなければ。

 深呼吸をして、ヴィオレッタ様に振り返る。

「ここが倉庫です。掃除用具の場所と使い方について説明しますね。まずはここに箒とチリトリが入っていて――……」

 棚やカゴに入れてある掃除用具の場所と、簡単にそれの使い方を伝える。

 今日はわたしについて来て、少し手伝いながら掃除の仕方を覚えてもらいたいので、道具はいつもより多めに借りることにした。

 桶に雑巾四枚とチリトリ二つ、ハタキも二本入れて腕に引っ掛け、掃除機もわたしが抱える。

 ヴィオレッタ様には箒とモップを二本ずつ持ってもらった。

「今日は廊下をやりましょうか。広いですけど、物が少ないから、掃除しやすいですよ」

 共用スペースは応接室と談話室、廊下とある。

 たった三つだが、特に廊下は広いので大変だ。

 廊下の清掃は一日がかりになってしまい、その分、担当部屋を回る期間の間が空いてしまう。それでも、絵画や花瓶などは飾られていないのと、掃除機で大体の埃は取れるので、掃除が楽な場所だ。

 いつもわたしが掃除を始める位置に移動し、掃除道具を置いて、ポケットからマスクを取り出した。

「良かったらこれをどうぞ」

 マスクを受け取ったヴィオレッタ様が首を傾げる。

「あのぉ、これは何ですかぁ?」

「マスクといいます。口に当てる布ですよ。こうして、紐を耳にかけてつけるんです」

 やってみせるとヴィオレッタ様もつける。

「……ちょっと息苦しいですぅ」

「そうですね。でも、これをつけていると掃除中に舞い上がった埃を吸わなくて済みますし、魔法士様達は実験中につけたりもします」

「へぇ~」

 不思議そうな顔をしたものの、ヴィオレッタ様がマスクを外すことはなかった。

「掃除の基本は『上から』です。あと、埃が立つので窓や机などを拭くのも最後にします。というわけで、最初は窓枠やランプなどの埃をハタキで落とします」

 棒の先に細長い布が何枚かついたハタキをヴィオレッタ様に渡す。

「窓ガラスやランプは割れやすいので、こうして、布の部分を優しく当てて埃を払い落としてくださいね」

 ハタキでパタパタとランプの埃を落としてみせる。

 ヴィオレッタ様もハタキを持ち、慎重にランプなどの埃を落とす。その慣れない手付きから、掃除の経験が初めてだと分かる。

 物を傷付けないよう、丁寧に、ゆっくりと行う姿に懐かしさを感じた。

 ……そういえば、アルも最初はこんな感じだったなあ。

 掃除を手伝ってくれたけど、慣れなくて時間がかかっていたが、丁寧にやってくれていたので二度手間になることはなかった。

 しばらく様子を見て、問題なさそうだったので、わたしも埃を落とすのに集中する。

 ヴィオレッタ様のほうが長身だから、ランプや窓枠の高い位置でもハタキが届くようだ。

 わたしでは背伸びをしても窓枠の一番上には届かないので、背の高いヴィオレッタ様がいてくれるとありがたい。

「ヴィオレッタ様、窓枠の一番上をお願いしてもいいですか? わたしだと届かないので……。代わりに下のほうはわたしがやります!」

 と声をかければ、ヴィオレッタ様が緩く笑う。

「はぁい、いいですよ~」

 しかも二人がかりだからいつもより早い。

 埃を落としたら、次は床の掃除である。

「床を箒で掃きます。もし絨毯の上に大きなゴミがある時はそれも一緒に掃きます。あ、毛足の長い部分にゴミが入ってしまうので、絨毯のゴミは絨毯の上で取ってくださいね」

 絨毯の端は房飾りみたいな部分があるので、絨毯のゴミを床に払い出すとそこにゴミが絡まってしまう。

「はぁい」

「わたしは向こうから掃くので、ヴィオレッタ様はこちらからお願いします。角は埃や砂が溜まりやすいので、しっかり箒で汚れをかき出してください。まずはわたしがやってみせますね」

「分かりましたぁ」

 ハタキを片付け、箒を持ち、わたしが床や絨毯を掃いてゴミを取る。

「絨毯は優しく、表面のゴミを取る感じでいいです。あまり強く箒で払うと傷んでしまうので」

「はぁい」

 緩い返事に何となく訊き返してしまった。

「出来そうですか?」

 ヴィオレッタ様が頷いた。

「出来ますよぅ」

 と言うので、やってみてもらう。

 少し見ていたけれど、若干の掃き残しはあるものの問題なさそうだ。

 ……とりあえず口出しはしないでおこう。

 アルが言っていたが、先に口出しをすると嫌がられやすいので、自分がやったところを本人に確認させて、出来具合を比較させたほうが失敗に気付きやすいのだとか。

 確かに、やっている最中に横からあれこれ言われたらうつとうしいかもしれない。

 それなら、自分で気付いた時にそっとアドバイスをしたほうが、話も聞いてもらいやすいだろう。

 わたしも反対側から、廊下を箒で掃いていく。

 いつもと同じはずなのに、今日はヴィオレッタ様がいるからか普段より楽しい気がする。

 互いに掃除を始めた中間地点にはわたしのほうが早く着き、顔を上げれば、ヴィオレッタ様が角の埃を何度も箒で取ろうとしている。

 最初は壁に箒をつけて直角に払っていたけれど、途中で、壁につけた箒を並行に動かして、横向きに払い出したほうが綺麗に取れると気が付いたようだ。

 ……うん、大丈夫そう。

 わたしもそのまま箒でゴミを掃きながら、ヴィオレッタ様に近づいていく。

 最後に集めた埃や砂をチリトリで取る。

「次は床と絨毯に掃除機をかけます。使ったことはありますか?」

 掃除機を指差すと、ヴィオレッタ様が見た。

「何度か見たことはありますけどぉ、使ったことはありませぇん」

「じゃあ使い方と注意も教えますね」

 箒を隅に片付け、掃除機に近づく。

 使い方を教えて、袋や服などに掃除機をかけないこと、詰まりそうになったらすぐに止めること、陶器製なので本体を廊下の角にぶつけたり蹴ったりしないよう気を付けること、ホース部分を無理やり引っ張らないことなども伝えた。

「ヴィオレッタ様は魔法を使えますか?」

「使えますよぉ」

「それなら掃除機も使えますね! わたしは魔力内向者なので、アル……夫や担当部屋の魔法士様に魔力を注いでもらっているんです。すみませんが、魔力を注いでもらえますか?」

「はぁい、構いませんよぅ」

 ヴィオレッタ様が魔力を注いでくれる。

「ありがとうございます」

 そうして、わたしが掃除機で床や絨毯の汚れを吸ってこれまで通り実演すると、ヴィオレッタ様は興味津々といった様子で掃除機を見ていた。

 少し目を丸くしていて可愛らしい。

 ……騎士爵家って言ってたけど、裕福なのかなあ。

 そう考えたものの、貴族の中でわたしみたいに掃除や仕事を好んでするほうが珍しいのだと思い出して苦笑が漏れる。

「それでは、掃除機をお願いします」

「はぁい」

 ヴィオレッタ様が掃除機で床や絨毯を吸っていく。

 動きはぎこちないけれど、やっぱり丁寧だった。

 ふと、ヴィオレッタ様が顔を上げた。

 自分が箒で掃いたほうと、わたしが掃いたほうを見比べて「あれぇ?」と目を瞬かせている。

 どうやら、掃き残しがあることに気付いたらしい。

 それに気付くとより丁寧に掃除機をかけ始めた。

 しかし、掃除機が角の埃まで吸えないことにムッとしたり、汚れが吸い切れなくてしつこく吸い口を当てたりする姿はなんだか微笑ましい。

 苛立つということは、真面目にやろうとしているのに上手くいかなくて戸惑っている証拠だ。しばらくするとコツを掴んだようで掃除機を使いこなしていた。

 それでも掃除機をかけ終わると「お掃除って難しいですわぁ」とぼやいていた。

 掃除機を片付けたら今度は桶を手に取る。

「これからは水を使うので井戸に取りに行きます」

「ミスリルせんぱぁい、私~、水を出す魔法を使えますよぅ」

 とヴィオレッタ様が言って、詠唱を行い、桶の中が水で満たされる。

「わっ、すごい! ありがとうございます!」

 魔法士様達の部屋には水道が引いてあるけれど、廊下などに水場はなく、かといって近くの部屋に声をかけて水をもらうのは出来なかった。

 研究中や仕事に集中したい人が多いため、掃除の時以外は極力、声をかけないのだ。

「モップの先を外して、水に浸けたらよく絞ってモップに取り付けて、これで床を拭きます」

「箒で掃いて掃除機もかけたのに、まだ拭くんですかぁ? もう十分そうに見えますけどぉ」

「モップで拭いたほうがより綺麗になるので。……ここの床を触ってみてください」

 ヴィオレッタ様が床に触れる。

「ザラザラしませんか?」

「ザラザラしますぅ。まだ砂が残ってるんですねぇ」

「それをモップで拭き取るんですよ」

 床にモップをかけていけば、表面がより綺麗になる。

 ヴィオレッタ様はわたしの動きを少しの間見て、それから、自分でモップを持ち直すと廊下の向こうに歩いて行った。

 でも、モップで床を拭こうとしてつんのめっていた。

 ……水拭きってたまに止まるんだよね!

 慣れない動きでモップをかけるヴィオレッタ様を微笑ましく思いながら、わたしもモップをかけていく。

 説明をしている分、結果的に普段よりも時間がかかっているので巻き返したいところだが、もしかしたら廊下の掃除は明日もかかるかもしれない。

 だが、ヴィオレッタ様は初めてなのだから時間がかかるのは当然だ。

 ……わたしに掃除を教えてくれた時、みんなも同じような気持ちだったのかなあ。

 気になって、上手く出来ていない時やぎこちない時は大丈夫か心配で、でも少しずつ出来ていく姿や真面目に頑張る姿は微笑ましくて。

 子爵領にいた頃、わたしに掃除を教えてくれたメイド達はきっと大変だっただろう。

 特にわたしは小さい頃は身体強化の加減が出来なくて、よく物を壊していたし、最初は箒を振り回して怒られたり雑巾を丸めて投げて遊んだりしたこともあった。もちろん怒られたが。

 モップを洗い、桶の水を捨てに行く。

 こればかりは魔法でもどうしようもない。

 わたしが桶を持ち、二人で外に出て、水を捨てる場所を教えて戻って来る。

 階段を二人で上っている時、ヴィオレッタ様の足元からズルッと音がして、その体が後ろへ傾く。

「危ない!」

 思わず桶を放り出し、階段の手摺とヴィオレッタ様の手を掴んでいた。

 ガランコロンと桶が数段下に転がり落ちる。

「ヴィオレッタ様、大丈夫ですかっ?」

 声をかけるとヴィオレッタ様がきちんと立つ。

「え、ええ、大丈夫ですわぁ。申し訳ありませぇん。滑ってしまったみたいですぅ」

「足とか捻ってませんか? もし痛いようでしたら、夫が治癒魔法を使えるので治してもらいましょう!」

「いえ、足も何ともないですぅ。助けていただいて、ありがとうございましたぁ」

 まっすぐに立つ様子は確かに平気そうだ。

 それにホッとした。

「良かった……」

 とりあえず、転がってしまった桶を取りに下りる。

 周囲に少し飛び散ってしまった水は、ヴィオレッタ様が魔法で乾かしてくれた。

 それから、元の場所に戻って掃除を再開する。

「最後に、窓を濡れ雑巾と乾いた雑巾で綺麗に磨いて終わりです。まずは濡れ雑巾で拭いて、次に乾いた雑巾で拭きます。汚れが取り切れていないと、こうやって見る方向を変えた時に筋が残って見えるので、これがないように綺麗に拭いてくださいね」

「はぁい」

 掃除を始めようとしたところで、言い忘れがあったことに気付く。

「あ、拭く前に鍵がかかっているか確認してから――……」

 横を向いた時には、既にヴィオレッタ様が窓に触れていて、パカリと窓が外向きに開く。

 その体が窓の外に倒れかけた。

「うわぁあああっ!!?」

 とっさにヴィオレッタ様の腰に抱き着いた。

 そのおかげかヴィオレッタ様は落ちずに済んだものの、勢いよく抱き着いたせいかわたし達は床に座り込んでしまった。

 心臓がドッドッドッドッと早鐘を打っている。

 いくらここが二階であっても、頭から地面に叩きつけられれば最悪、死ぬ可能性だってある。

「ごめんなさぁい」

 ヴィオレッタ様がのんびりと謝罪をする。

「……いえ、わたしも、伝えるのが遅くなってしまってすみませんでした……」

 はあ、と安堵の溜め息が漏れる。

 わたしの叫び声を聞いたのか、近くの部屋から魔法士様達が顔を覗かせたので、大丈夫だと手を振る。何もないことが分かると彼らは仕事に戻った。

 わたしは立ち上がり、スカートを軽く手で払ってから、ヴィオレッタ様に手を差し出した。

「これからは必ず、窓を磨く時は鍵がかかっているか確認してください。……もし落ちたら笑い話では済まないので……」

「はぁい、気を付けますぅ」

 ヴィオレッタ様は全く気にした様子もなく笑って返事をしたけれど、ヴィオレッタ様の体が外に傾くのを見た時、わたしは心臓が止まりそうなほど驚いた。

 それでも、きちんと気を付けてくれたようで、その後は同じことは起こらず、二人で窓を綺麗に拭いた。

 意外なことにヴィオレッタ様は窓拭きが一番上手だった。

 最初の場所は教えながらだったので時間がかなりかかってしまったが、仕事は一度で覚えたようで、廊下の掃除を続けても手順を訊かれることはなかった。

 清掃中の注意点なども忘れず、手を抜くこともなく、ぎこちなさはありつつも頑張ってくれた。

 おかげで予想よりも広い範囲を清掃出来た。

 この分なら、今日中に廊下の清掃は終わりそうだ。

 昼休憩の鐘の音にわたしは掃除の手を止める。

「はい、では午前のお仕事はここまでにしましょう。午後も続きをするので、道具は隅に寄せておいてください」

「はぁい。……やっと終わりましたぁ」

 二人で掃除用具を廊下の端にまとめる。

「ヴィオレッタ様も食堂に行きますか?」

「行きますぅ。ミスリルせんぱぁい、一緒に食べませんかぁ?」

「わたしは構いませんが、いつも夫やメルディエル様達と一緒なので、それでも良ければ是非!」

 メルディエル様達の返事次第だが、一緒に昼食を摂ることになった。

 いつも通り士団長室に向かうと、途中でメルディエル様達に会う。

「お疲れ様です!」

「お疲れ様ですぅ。私も昼食をご一緒してもよろしいでしょうかぁ?」

 ヴィオレッタ様の問いにメルディエル様が頷いた。

「構わないよ~」

「嬉しい~! ありがとうございますぅ!」

 きゃあ~っとヴィオレッタ様が嬉しそうな声を上げる。

 ウェルツ様は気にしたふうではなかったが、アルが一瞬目を伏せ、わたしのそばに来る。

「アルもお疲れ様」

「ミスティもお疲れ様」

 アルの手がわたしの手に触れる。

 そうして、食堂へ向かう士団長様達の後ろを、手を繋ぎながらわたし達もついて行った。

 メルディエル様とウェルツ様、そしてヴィオレッタ様の三人が楽しそうに話しているのを眺めつつ、歩いていれば、アルに訊かれる。

「新人教育はどう?」

 それに窓の件を思い出して苦笑してしまう。

「ビックリすることもあったけど順調だよ。詳しいことは、仕事が終わってから話すね」

「分かった。負担になっていない?」

 気遣うようなアルの視線に、今度は普通に笑う。

「うん、大丈夫。掃除について教えてる時、紫水で働き始めた頃のことを思い出したよ。頑張るヴィオレッタ様が、初めて掃除をしたアルに似てて、ちょっと懐かしかったなあ」

 アルが少し照れたように視線を外し、前を向いた。

「……もうあの頃ほど部屋を荒らしたりしない」

「そうだね」

 二人で顔を見合わせて密かに笑った。


 食堂に着き、わたしとヴィオレッタ様が席を取り、アルがわたしの分を、ウェルツ様がヴィオレッタ様の分の食事を持って来てくれた。

「ありがとうございますぅ!」

 ニコニコ顔のヴィオレッタ様は視線を集めていた。

 ヒソヒソと「あの子可愛くないか?」「新人の清掃員?」と周囲の人達が話しているのが聞こえた。

 ……分かるよ、ヴィオレッタ様って可愛いよね!

 ツインテールが女の子らしくて、顔立ちも可愛い系で、声も高くて澄んでいて、笑顔も可愛らしい。

 ……あ、でも意外と体はがっしりしてたような?

 窓から落ちそうになった時のことを思い出しつつ、食事の挨拶をして食べ始める。

「ミスティ、これをどうぞ」

 とアルがデザートのゼリーをわたしにくれた。

「わ、ありがとう! お返しにこれあげるね!」

 わたしはアルの好きな肉団子をアルのお皿に移す。

「こんなにもらっていいの?」

「もちろん! アル、これ好きでしょ?」

「ああ、ありがとう」

 わたし達が話していれば、横からヴィオレッタ様に声をかけられた。

「それでぇ、その時の第二王子殿下の近衛騎士様達がすごくかっこよくってぇ。そう思いませんか、ミスリルせんぱぁい?」

 ヴィオレッタ様に話を振られた話題について考える。

「うーん、わたしは第二王子殿下の近衛騎士様達と関わる機会はないので何とも……」

「ええ~? 騎士様カッコイイですよぅ! 今度一緒に近衛騎士様の訓練を見に行きませんかぁ?」

 それに、横にいたアルが口を開いた。

「ミスティは私の妻です」

「別に見に行くくらい、いいじゃないですかあ」

「夫のいる女性を『他の男を見に行こう』と誘うのは、いかがなものかと思いますが」

「副士団長様、嫉妬ですかぁ?」

「そう取っていただいても構いません」

 ……あれ? なんだか変な空気になってる?

 顔を上げれば、頭上でアルとヴィオレッタ様がわたしを挟んで見合っている。

 アルは普段通りの無表情で、ヴィオレッタ様も可愛い笑顔なのに、どこか不穏な気配を感じた。

 とりあえず、慌てて二人の仲裁に入る。

「えっと、ヴィオレッタ様、ごめんなさい! 近衛騎士様の訓練の見学は遠慮させていただきます」

「ええ~? 近衛騎士の皆様、すごくカッコイイですよぅ? ヴィオレッタのお願いですぅ。一度だけでもいいので行きませんかぁ?」

 ヴィオレッタ様がわたしの腕にそっと触れる。

 捨てられた子犬みたいな目で見つめられると頷いてしまいたくなるけど、わたしは首を横に振った。

「やっぱりやめておきます。わたしにとって、この世で一番カッコイイ人は夫ですから。何より、愛する人の嫌がることはしたくないので!」

 しっかり断ると、ヴィオレッタ様は渋々といった様子で引き下がってくれた。

「分かりましたぁ。その代わり、今度一緒にお出かけしてくれませんかぁ? 私~、せんぱいともっと仲良しになりたいですぅ」

「ありがとうございます! そう言っていただけるとわたしも嬉しいです。今度休日の合う日に、一緒にお出かけしましょう!」

「約束ですよぅ?」

「はい、約束です!」

 近衛騎士の訓練見学は何とか回避出来た。

「ドルクマ嬢、アルフリード君とミスリルちゃんの仲を邪魔しちゃダメだよ~」

「そうですよ。妻が他の男性を見に行くなんて、夫からしたら良い気はしません」

 メルディエル様とウェルツ様に注意されて、ヴィオレッタ様が「ごめんなさぁい」と言う。

 ……二人が喧嘩しなくて良かった!

 顔を戻し、アルを見ると目が合った。

「ミスティ、ありがとう」

 アルが目元を和ませたので、一緒に出かけることは問題ないようだ。

「どういたしまして! それに、わたしももしアルが『可愛い子を見に行く』って言い出したらモヤモヤするから、こういうことは気を付けないとね」

「ミスティも嫉妬してくれるんだ? ……僕が愛するのも、そばにいてほしいと思うのもミスティだけだよ」

 そう言ったアルの表情は嬉しそうだった。


 午後の清掃は思ったよりも早く終わり、掃除道具の手入れや片付けなどもヴィオレッタ様にきちんと教えることが出来た。

 終業の鐘が鳴り、挨拶をしてヴィオレッタ様と別れる。

 わたしはいつもと同じく士団長室に行った。

「ミスリルちゃん、ドルクマ嬢はどうだった~? 仕事については結構真面目だと思うんだけど~」

 とメルディエル様に訊かれ、わたしは頷いた。

「少し目を離せないところはありますが、掃除も真面目にしてくれていますし、何か分からないことがあればすぐに訊いてくれるのでわたしも教えやすかったです」

「そっか~。ちょっとクセのある子だから、他の人に任せるのが心配でね~」

 困ったように微笑むメルディエル様に、つい訊き返してしまった。

「メルディエル様はヴィオレッタ様とお知り合いなんですか?」

「何度か会ったことのある顔見知りってくらいで、話したのは今回が初めてだったかな~。僕、こう見えて顔が広いから~」

 ……まあ、そうだよね。

 宮廷魔法士団の士団長の一人だし、伯爵家だし、立場的に城内の騎士や魔法士とも接するはずなので、メルディエル様を知らない人はあまりいないだろう。

「少しの間だけど、色々面倒見てあげてね~」

「はい! 先輩として頑張ります!」

 それから帰りの挨拶をして、アルと一緒に紫水を出て馬車に乗った。

 揺られながら、ぼんやりと車窓を眺める。

 ……今日は色々あったなあ。

 毎日、同じように掃除をして回るのも嫌いではないけれど、今日はヴィオレッタ様という刺激もあって、なんだか一日が早く感じた。

「ミスティ、もしかして疲れてる?」

 アルにそっと抱き寄せられる。

「ちょっとね。自分が普段当たり前にやってることを、言葉で説明するってこんなに疲れるんだね。……あと、ヴィオレッタ様はドジっ子属性だから心配で」

 後半は苦笑交じりになってしまい、アルが首を傾げた。

「ドジっ子属性?」

「うーん、なんて言うか……ちょっとした失敗をするけど、そこが憎めなくて可愛い……かもしれない感じの子?」

 アルの不思議そうな表情にわたしも困った。

 窓の件はともかく、何もないところで足を滑らせたり、箒を窓にぶつけそうになったり、そういう点は目が離せない。

 ……応接室とか担当部屋とか、大丈夫かなあ。

 特に担当部屋は不安だ。人によっては実験道具があったり、希少なものを扱っていたりするので、うっかり壊してしまった時は取り返しがつかなくなる。

 部屋の掃除の際は、そばについていたほうがいいのかもしれない。

「改善されないならメルディエル士団長に伝えたほうがいい。ただでさえ新人教育は手間も時間もかかる。ドルクマ嬢に悪気がなかったとしても、繰り返し失敗してミスティの負担が増えていたら仕事が回らなくなる」

 心配してくれるアルの気持ちはすごく嬉しい。

 でも、ヴィオレッタ様は仕事に対して真面目だし、ぎこちないながらに丁寧に掃除をしてくれるし、気が利くところもある。

 初日の様子だけ見て決めるのは良くないだろう。

「まだ一日目だし、とりあえずもう少し様子を見るよ。もしどうしてもわたしの手に負えない時はメルディエル様にも相談するね」

「ああ、そのほうがいい」

 顔を上げ、背伸びをしてアルの頬にキスをする。

「心配してくれてありがとう」

 短期間だからこそ、ヴィオレッタ様には最後まで頑張ってほしい。

 それは自信にも繋がるし、どんな内容でも、経験したことは無駄にはならないから。


 それから二週間が経った。

 ヴィオレッタ様は真面目に仕事をしてくれるけれど、やはりドジっ子で、担当部屋の清掃では実験道具を落としそうになったり、重い荷物を持ち上げたものの動けなくなってしまったりと大変だ。

 ……応接室の花瓶も落としかけたっけ。

 悪気はないのだろうが、失敗が多い。

 わたしがすぐに対応出来たから特に問題はなかったものの、一人で清掃を任せるのは難しそうである。

 それから、アルとは仲良くなれなさそうだ。

「ミスリルせんぱぁい、今日もご迷惑をおかけしてしまいすみませんでしたぁ」

 昼食の席で、ヴィオレッタ様がわたしの腕に抱き着いてくる。

「ドルクマ嬢、同性であっても過度な触れ合いは失礼ですよ」

 すぐにアルから注意されて、ヴィオレッタ様が不満そうな顔をして、更にわたしの腕にくっついた。

「いいじゃないですかぁ。私~、ミスリルせんぱいを尊敬してますしぃ、もっと仲良くしたいですぅ」

「親しき仲にも礼儀ありと言うでしょう」

「ええ~? 私にはぁ、副士団長様が嫉妬しているだけに見えますけどぉ? 束縛男ですかぁ?」

 ……またやってる……。

「はい、二人ともそこまでです! ヴィオレッタ様もあんまりベタベタすると嫌がる方もいますので気を付けてくださいね。アルも、喧嘩しないで。……ね?」

 間に挟まれているわたしが仲裁すると、二人は顔を背けて昼食に戻る。

 どうにも、アルとヴィオレッタ様は馬が合わないらしい。

 これにはメルディエル様もウェルツ様も苦笑していた。

 昼食後、アルと二人で中庭に行き、ベンチでのんびり過ごすのはわたし達の日課である。

 ベンチに寝転がるアルに膝枕をして頭を撫でると、気持ち良さそうに目を閉じている。

「アルがあんなに誰かと喧嘩するなんて珍しいね?」

 元より自分の意見はハッキリと言う人だけれど、だからといって、誰とでも対立するわけではない。

 ああやって人前で感情的になるのは珍しかった。

「……僕もよく分からない。ただ、何故かドルクマ嬢を『ミスティに近寄らせたくない』と思うんだ」

 はあ、とアルが小さく息を吐く。

「ヴィオレッタ様のこと、苦手?」

「いや、特には。……でも、何か違和感があるんだ」

 アルが目を開けてわたしを見る。

 上げられた手がわたしの頬に触れた。

「その違和感の正体が分からないまま、ミスティが一緒にいるから、それが心配なんだ」

 アルの手にわたしも手を重ねる。

「分かった。わたしももうちょっと、ヴィオレッタ様のことを注意深く見てみるね。……まあ、色々心配で目が離せないんだけど」

 一人で掃除をさせたら、いつか大変なことになりそうだ。

「……ミスティの心をこんなに占めてるドルクマ嬢に、やっぱり僕は嫉妬しているのかもしれない……」

 そう呟いたアルの頭を撫でて宥めたのだった。


 そんな話をアルとした数日後。

 ヴィオレッタ様と休日が合ったので、約束通り、一緒に出かけることになった。

 午後、昼食後に王城近くの広場で待ち合わせる。

 少し前にお義母様が馬車を譲ってくれたのだが、二台あり、アルとわたしが別々に行動する時でも使えてとても助かっている。しかも、すごく乗り心地がいい。

 待ち合わせの広場近くで馬車を停めてもらった。

 ちなみに、御者はメイド達と同じく公爵家からの派遣で来てくれている。運転も丁寧だし、穏やかで優しい人である。

「私はその辺でのんびりしておりますので、どうぞ楽しんできてください」

 と言ってくれたので甘えることにした。

 広場に入り、待ち合わせの目印に決めた噴水に到着する。まだヴィオレッタ様は来ていないらしい。

 噴水を眺めて待っていると最近聞き慣れた声がした。

「せんぱぁい~!」

 おっとりとも、のんびりとも感じる口調に振り返れば、手を振りながらヴィオレッタ様が小走りに駆け寄って来る。

「あっ」

 でも、直前で何かにつまずいた様子で転びかけたので、身体強化を自分にかけて受け止める。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ですぅ。ごめんなさぁい」

「足元には気を付けてくださいね」

「はぁい」

 ……やっぱり、ヴィオレッタ様ってちょっと体格がいい?

 だが、気にしているかもしれないので黙っておいた。他人様に、それも女性に『意外と体格がいいですね』なんてわざわざ言う必要もない。

「今日は小物を見に行きたいんですけどぉ、いいですかぁ? 最近見つけた可愛いお店があってぇ」

 ニコニコ顔のヴィオレッタ様は今日も可愛い。

 いつもは清掃員用のお仕着せ姿しか見たことがなかったけれど、今日のヴィオレッタ様は柔らかなベビーピンクのドレスみたいなワンピースを着ていた。胸元から腰にかけての大きなリボンや、頭を覆うボンネットのレースなどがより彼女を可愛く見せている。

「はい、いいですよ」

「ここからあんまり離れていないのでぇ、歩いて行きましょう? 一緒にお散歩嬉しいですぅ」

 ヴィオレッタ様がわたしの腕に触れる。

 身長差的に腕を組むのは難しいからだろう。

 ……スキンシップが好きな子なんだよね。

 あっちですぅ、と促されて歩き出す。

「ヴィオレッタ様はいつも可愛いですが、今日は一段と可愛いですね!」

 わたしは水色に白のリボンやフリルを少し使った、落ち着いたワンピースを着て来た。ボンネットはないけれど、代わりに、初めてアルと出かけた時に買ってもらった髪飾りをつけている。派手さはないけれど、地味でもない無難なところである。

「ありがとうございますぅ。今日はせんぱいとお出かけなので張り切っちゃいましたぁ」

「ふふ、わたしが男性だったらドキッとしてしまうところですね」

 わたしが笑うとヴィオレッタ様も笑った。

「ドキッとしてもいいんですよぅ?」

「わたしにはもう素晴らしくカッコイイ夫がおりますので」

「ええ~、副士団長様に負けちゃったぁ」

 それから、歩きながらヴィオレッタ様があれこれと話をしてくれたが、ほとんどが近衛騎士に関するものだった。

 王太子である第一王子殿下の近衛、第二王子殿下の近衛、そして第三王子殿下の近衛。みんなそれぞれに特色があるらしく、話を聞くのは楽しかった。

 第三王子殿下の近衛騎士はラディ君の件で一緒に子爵領まで行ったことがあるけれど、その時も、近衛騎士に興味は湧かなかった。

「それで近衛騎士様達がお強くってぇ。……そういえばぁ、せんぱいが騎士様達を返り討ちにしたって噂を聞いたんですけどぉ、本当ですかぁ?」

 それにわたしは頷いた。

「はい、本当です。襲われそうになったので、正当防衛でやっつけましたね」

「女性を襲うなんて騎士どころか人としても最低ですよねぇ」

「そうですね」

 歩きながら、ふと周囲が静かなことに気付く。

 先ほどまで大通りを歩いていたのに、いつの間にか、人気のない路地に入ってしまっていた。

 家と家との間隔が狭いからか、日陰で、人目もなく、昼間なのに全く人がいないのも違和感を覚える。

 王都内でそれほど治安は悪くないだろうが……。

「ヴィオレッタ様、大通りに戻りましょう。いくら昼間とはいえ、あまり女性だけでこういう道を使うのは――……」

 ザッと足音がして、前後の路地裏から、明らかに荒くれ者だろう男性達が現れる。

 きゃあっ、とヴィオレッタ様が悲鳴を上げた。

 身体強化をかけてヴィオレッタ様を背中に庇う。

「わたし達に何かご用ですか?」

 道は前も後ろも塞がれている。

 ヴィオレッタ様を抱えて屋根まで飛び上がるのは、出来ないこともないけれど、わたしとヴィオレッタ様の体格的にバランスを崩して落としてしまうかもしれない。

「嬢ちゃん達、金持ってそうだからさぁ」

「オレ達にちっとばかしお恵みをくれねぇか~?」

「金がなけりゃあ体で払ってくれてもいいけどな!」

 男性達がニヤニヤしながら言う。

 ヴィオレッタ様は俯いて震えてしまっていた。

 ……二人で逃げるのは無理かも。

 となると、選択肢は一つしかない。

 わたしは更に体中に魔力を巡らせて、身体強化を底上げする。

 いつもはかなり力加減をしているけれど、今回はその余裕は多分ない。相手に大怪我をさせてしまうだろうけど、こちらも命や貞操がかかっているので手加減はしなくていいと思う。

「お金も体も、差し上げるものはありません!」

 拳を握って構えるわたしに男性達がぎゃはははっと下品に笑い、近づいて来る。

「おうおう、威勢がいいね~、お嬢ちゃん」

 わたしの肩を掴もうと伸ばされた腕を掴む。

 そして、後ろへ振り返りながら、その腕を肩にかけて後ろにいた男性達に向けて背負い投げる。

「どっせーい!」

「うわぁああっ!?

 わたしが投げた男性が悲鳴を上げ、他の男性達が思わずといった様子でそれを避ける。予想以上に機敏な動きにわたしは少し驚いた。

 荒くれ者にしては良い動きだった。

「このっ!」

 後ろから捕まえられそうになり、わたしに掴みかかった男の体に肘鉄を入れる。位置的に腹部よりやや上に肘が入ったので、肋骨が折れたかもしれない。

 うぐっ、と鈍い呻き声がしたものの、それを気にする余裕はない。

 壁際で震えて座り込むヴィオレッタ様に、男性の一人が近づこうとしたので地面を蹴って一瞬で男性の横へ移動する。

 握った右の拳で男性の腹部を抉るように殴り上げる。

「お触り厳禁です!」

 そのまま、他の男性達に向かって、今殴った男性を突き飛ばすように放り投げた。

 さすがにそれは予想していなかったらしく、男性達が飛んできた男性の下敷きになる。

 わたしはすぐにヴィオレッタ様の手を掴んで引っ張り上げた。

「走って!!

 ヴィオレッタ様の表情を見る余裕はなかった。

 繋いだ手をしっかりと握り、駆け出した。

 とにかく大通りに出れば、もう襲われないはずだ。

 明るいほう、人々の声がする通りに向かって走る。

 そうして、わたし達は大通りに出た。

 急いで後ろを振り返ったが、男性達は追いかけて来なかった。大通りに出ると分かって諦めたのだろう。

 横を見れば、ヴィオレッタ様が荒い呼吸をしていて、しまった、と遅れて気付く。

 身体強化をかけたまま走ったので、ヴィオレッタ様もわたしの速度に引きずられて走るしかなかったのだ。普段の様子を見る限り、運動は苦手そうだったので、この短い距離でも全力疾走はきっとつらい。

「ご、ごめんなさい、ヴィオレッタ様!」

 慌てて近くの露店の人に声をかけ、置いてあった木箱にヴィオレッタ様を座らせる。

 その露店の人が気を利かせて水をくれた。

「ありがとうございます。……ヴィオレッタ様、飲めますか? ゆっくり呼吸をして、落ち着いてください。もう大丈夫ですからね」

 ヴィオレッタ様が力なく頷き、震える手で木のコップを持つ。

 深呼吸を繰り返すと呼吸が落ち着き、ヴィオレッタ様が水を一口飲んで、ホッとした様子でわたしを見上げてくる。

「ミ、ミスリルせんぱぁい……怖かったですぅ……っ」

 ギュッと袖を握られて、その手にわたしも手を重ねた。

「怖かったですね。走れて良かったです。あのまま、あそこにいたら危なかったと思いますし」

 もしヴィオレッタ様だけだったら、お金を巻き上げられるだけでなく、身の危険もあっただろう。

 ヴィオレッタ様がコップの中身を全て飲み切ったので受け取り、露店の人にお礼を伝えてコップを返す。

「大丈夫かい?」

 と訊かれてヴィオレッタ様が小さく頷く。

「今日はもう帰りましょうか」

 そう言えば、ヴィオレッタ様が名残惜しそうな顔をした。

「ええ~っ、でもぉ、もう大丈夫ですしぃ……」

「今は興奮しているから分からないだけで、怖い思いをしたんですから、安心出来るお家に帰ったほうがいいですよ」

 ヴィオレッタ様を促して立たせ、もう一度露店の人にお礼を伝えてから、大通りを使って広場に戻る。

「今日は何でここまで来ましたか?」

「辻馬車ですぅ」

 というので、近くを通りかかった馬車を止めて、ヴィオレッタ様を乗せた。

「無理しないで今日は休んでくださいね」

 わたしと今日はもう出かけられないと分かったのか、ヴィオレッタ様が肩を落として「はぁい……」と頷く。

 ヴィオレッタ様は御者に声をかけ、行き先を告げた後にわたしを見た。

「また明日」

 不安を感じさせないように明るく言って手を振れば、ヴィオレッタ様も小さく笑って頷く。

 そうして、ゆっくりと走り出した馬車を見送った。

 わたしも馬車に戻ったら、御者にビックリされてしまったけれど、予定がなくなったことを伝えて屋敷に帰った。

 ……アルに伝えておかないと。

 屋敷に着いて、すぐに今日あったことを手紙に書き、王城にいるアルに持っていくよう使用人にお願いした。

 ヴァンスとアニー、ラディ君にも話したら、温かい紅茶と美味しいお菓子を用意して気遣ってくれた。

「きっとすぐに旦那様はお帰りになりますよ!」

「奥様とご後輩の方がご無事で何よりです」

 ラディ君がわたしのそばに立つ。

「悪いやつはボクがやっつけます!」

「ありがとう」

 ラディ君の頭を撫でながら笑ってしまった。

 ……ドラゴンの護衛なんて最強だ。

 アルに送った手紙には無事だと書いておいたし、屋敷にいることは分かっているだろうから、仕事を切り上げて帰って来ることはないと思うけど。

 しかし、手紙を送ってから一時間もしないうちに、アルは帰って来た。

 居間にいるわたしを見ると大股で近づいて来て、床に膝をつき、わたしの膝に抱き着いてくる。

「無事で良かった……!」

 顔を上げたアルが手を伸ばし、わたしの頬や首、腕に触れて怪我がないか確認する。

「大丈夫、ヴィオレッタ様もわたしも無傷だよ」

「荒くれ者達はそのまま?」

「あ。……うん、警備隊に言うべきだったよね。ごめん、ヴィオレッタ様を連れて逃げて、とにかく彼女を帰すことしか考えてなくて、いっぱいいっぱいで……」

 ヴィオレッタ様と警備隊に駆け込むべきだった。

 ……自分で思っていたよりも焦ってたのかも。

 アルがわたしの手を握ったまま、振り返る。

「ヴァンス、警備隊を呼んでくれ」

「かしこまりました」

 その後、警備隊の人が二人来て、わたしが今日のことを説明したらすぐに他の警備隊員が現場に向かってくれた。

 荒くれ者達はもういなくなっていたようだけれど、その周辺とわたし達の屋敷周りの巡回を強化すると約束してくれて、警備隊の人達は戻って行った。

「仕事してたのにごめんね」

 謝るとアルが首を振った。

「いや、ミスティが無事ならそれでいいんだ」

 ソファーに並んで座り、抱き締め合う。

 わたしはそれほど怖くなかったけれど、わたしに何かあったらと思うと怖かったそうで、アルが片時も離れなかったため、ずっとくっついて過ごした。

 ……ヴィオレッタ様、大丈夫かなあ。

 わたしにはこうしてアルがいてくれるからもうなんともないが、ヴィオレッタ様のことが心配だった。


 翌日、ヴィオレッタ様はきちんと仕事に来た。

 倉庫に来たヴィオレッタ様はいつもと変わらない様子である。

「ヴィオレッタ様、昨日は大丈夫でしたか?」

 と訊くと、可愛い笑顔を向けられる。

「私は大丈夫ですぅ」

「それならいいですが……あの荒くれ者達のことは警備隊に伝えておきましたから、きっとそのうち捕まえられますよ!」

「えっ!?

「えっ?」

 何故かすごく驚かれてしまった。

「あ、そ、そういえば警備隊に行くのを忘れていましたぁ……」

「はい。わたしも驚いて忘れてしまって、帰ってから警備隊に連絡したんですけど、もうあの道には誰もいなかったそうです。説明すれば警備隊が家周辺の地区の巡回を増やしてくださると思います」

「そうなんですねぇ……」

 ヴィオレッタ様の顔色が悪い気がした。

 ……あ、もしかして!

「思い出させるような話をしてしまい、すみません! 怖かったですよね。とにかく心配ないので! 大丈夫ですよ!」

「お気遣いありがとうございますぅ」

 それでもヴィオレッタ様の表情は微妙だった。


◇◇◇


 ヴィオレッタ様と出かけた翌週、わたしは親友であるアリエラに招かれてボードウィン子爵家を訪れた。

 最近はお互いに色々と忙しくてタイミングを逃していたが、やっと予定が合った。

「招待してくれてありがとう! アリエラとお茶したいなあって思ってたから、すごく嬉しい!」

「私もミスリルと会いたかったから嬉しいわ」

 アルと結婚した後も何度か会っていたけれど、ラディ君の件以降はお互いに予定が合わなかったので、久しぶりに会ったような気がする。

 ……まあ、ウェルツ様から時々、話は聞いていたけど。

 でも、それも一言か二言程度だったから、こうして直接会って、話しているとやっぱりアリエラはわたしにとって大切な親友なのだと思う。

「忙しかったって手紙に書いてあったけど、何かあったの?」

 とアリエラに訊かれて頷き返す。

「そうそう。新しく使用人を雇い入れることになったんだけど、リュディガー公爵家の遠縁の子で、事情があって身寄りもなかったから引き取ることになって――……」

 さすがにドラゴンですとは言えないので、決めてあった設定で話した。

 公爵家で偶然出会い、ラディ君に懐かれて、わたし達のところに行きたいと言われて、アルと話し合って彼を使用人として受け入れることにした。

 その話を聞いたアリエラは優しく微笑んだ。

「ミスリルらしいわね」

「そうかな? わたしには助けてくれる人や支えてくれる人達がいてくれたから、今まで頑張れた。でも、ラディ君はひとりぼっちで……偽善かもしれないけど、放っておけなかったの」

「気にすることないわ。苦しんでいる全ての人々を救うなんて無理だもの。誰かを助けたいと思って行動に移せること自体が大切なことよ」

 アリエラがニコリと笑う。

 ……すごく後ろめたい。

 だけど、事実を話すことは出来なかった。

「今度、そのラディ君に会ってみたいわ」

「うん、次はうちに遊びに来て! 前に比べたら結構余裕も出来たし、アリエラが来てくれたらアニーも張り切ってお菓子を作ってくれると思う!」

「アニーのお菓子はすごく美味しくて、つい食べすぎてしまうのよね」

「分かる~!」

 二人で顔を見合わせて噴き出した。

 貴族の令嬢としては声を上げて笑うなんてはしたないのかもしれないけれど、アリエラと二人だけの時は、お互い我慢しないと決めてある。

 だからアリエラとのお茶会は特別なのだ。

「あ、あとね、紫水に新しい清掃員が三人入ったの。わたしが教えてる子は短期間だけらしいけど、目が離せない子でね」

 名前は出さずに、仕事中の様子だけを説明する。

 仕事は真面目で、少しのんびりしているが物覚えも良く、やる気もある。ただしドジっ子属性だ。

「なんていうか、こういう失敗をしそうだなあって心配してるとやっちゃう子なんだよね」

「ミスリルが全て助けてあげないほうがいいのではないかしら? 少し痛い思いをすれば、今後は気を付けるかもしれないでしょう?」

「そうなのかなあ……」

 気が利くところを見る限り、注意力が散漫なわけではなさそうだし、本人も「またやっちゃいましたぁ」と言ってるので判断がつかない。

 しかし、気付いていながら見て見ぬふりをするのも難しい話だ。

「ミスリルってたまに過保護なところがあるわよね。私も下に弟がいるからその気持ちも分かるけれど、いつまでも助けてばかりだと育たないわよ?」

 アリエラは優しいが、こうして必要なことは言ってくれるし、わたしが悪い時はきちんと指摘してくれる。

「そっか。……うん、次に失敗した時はもう少し強く注意してみるよ。今までは何ともなくても、これからどうなるか分からないよね」

「ええ、注意することで改善するなら、それが一番いいわ」

 わたしは今まで優しく注意していたけれど、それではダメなこともあるかもしれない。

 本当に危険な時は叱るべきなのだろう。

「優しい先輩になろうって心がけてたけど、それだけじゃダメだよね。本人のためにもしっかり言わなくちゃ!」

 それで嫌われたとしても仕方がない。

「アリエラ、話を聞いてくれてありがとう!」

「どういたしまして」

 わたしの話が落ち着いたところで、小休止でお菓子を食べる。

 ケーキを半分ほど食べ進めた辺りでアリエラに声をかけた。

「話は変わるけど、ウェルツ様とはその後どう?」

 アリエラの表情が明るくなり、少し照れた様子でティーカップの取っ手を指で撫で始める。

 けれど、アリエラは自分の仕草に気付くとティーカップから手を離し、両手で自分の頬を包んだ。

「……真剣にお付き合いしてほしいと言われたわ……」

 気恥ずかしそうにボソリと呟いたアリエラに、わたしは思わず拍手をした。

「そうなんだ! おめでとう!」

 貴族にとって『真剣なお付き合いの申し込み』は『婚約、やがては結婚を視野に入れた恋人関係になりたい』という意味だ。

 それはつまり、ウェルツ様もアリエラのことを好きになって、アリエラの気持ちを受け入れ、結婚相手として真剣に考えてくれたわけで。

 ウェルツ様も時々わたしに助言を求めてきたり、その結果がどうだったか教えてくれたりすることもあったが、アリエラとの関係が進展したかについては何も聞いていなかった。

 ……ウェルツ様はデリケートな話題をペラペラ話すタイプじゃなさそうだしなあ。

 アリエラからわたしに伝わるまでは黙っていようと考えたのかもしれない。

「ずっと初恋の人を想っていたから、ウェルツ様とお付き合い出来て良かった~! 本当におめでとう、アリエラ~!」

「ありがとう。まだ、正式なものではないけれどね」

「そうだとしてもめでたいことだよ! その、どういう流れでお付き合いしたか、訊いてもいいかな? あ、もちろん、無理に言う必要はないから!」

 わたしの質問にアリエラが小さく笑った。

「ミスリルとアルフリード様なら話してもいいって、ジョエル様が言ってくれたわ。二人はそういうことを吹聴しないもの」

 そうして、アリエラはウェルツ様とのことを話してくれた。


◇◇◇


 アリエラ=ボードウィンは子爵家の令嬢である。

「こちらで昼食にしましょうか」

 と、ウェルツ様が言う。

 そして、その手が触れている腕の主は初恋の人だった。

 ありふれた茶髪にやや暗い緑の瞳をした穏やかそうな顔立ちの男性で、自分とは歳が離れているものの、落ち着いた雰囲気が大人っぽい。

 幼い頃、王都の祭りで迷子になった時に助けてくれた人をずっと想い続けていた。

 たとえ見つけられなくても気持ちは変わらない。

 そう思っていたが、親友の結婚式で偶然見つけた。

 ジョエル=ウェルツ様。親友が働く紫水の副士団長を務めており、気持ちを告白してから互いを知るために、こうして何度か一緒に出かけている。

 平民出身で派手さはないが、堅実で優しく、会う時はよく花を贈ってくれる。

 そして、その花が枯れる前にはまた次の約束をしてくれるから、毎日もらった花を部屋に飾って眺めるようになった。

 ……早く萎れてほしいなんて、花には可哀想だけど。

 次に会う約束をするのが楽しみになった。

 到着した貴族御用達の店は綺麗で、中に入ってウェルツ様が名前を告げると個室に案内される。

 当然だが、こちらは侍女を連れているので二人きりにはならないけれど、それでも個室に通されたのは初めてだった。

「今日はゆっくり話がしたかったので個室にしました」

 先ほど観劇を楽しんできたので、それについてだろうと思った。

 私が「観劇が好きです」と言ってからは、一緒に出かける時は観劇をして、それから食事やお茶をしながら感想を話して過ごしたり、買い物をしたりして過ごすことが多い。

 ウェルツ様は街に詳しく、貴族に人気の店も、平民に人気の店も知っていて、毎回新しい店を教えてくれるので楽しかった。

「本日の劇も良かったですね。まさか、最後の最後で全てがひっくり返されるとは思いませんでしたが」

「ふふ、あの監督はそういう流れが好きなのです。観客を引き込むのが上手くて、いつもドキドキしながらも先が気になって観てしまいます」

「そうですね、私も思いの外集中してしまいました」

 照れたように柔らかく笑うウェルツ様に、ドキリとする。

 ……ミスリルの言っていたことが分かるわ。

 親友は自分の夫であるアルフリード様のことをよく『可愛い』と表現しているが、確かに、男性相手でも可愛いと感じるところがある。

 それに気付いたのはウェルツ様と会うようになってからだった。

『恋愛にはカッコイイだけじゃなくて、可愛いも大事なの!』

 なんて力説していた親友を思い出して内心で頷く。

 歳上男性の余裕のある姿は素敵だが、照れたり恥ずかしがったりする姿は可愛らしくて、普段は見られないそれに少しドキドキする。

「ボードウィン子爵令嬢がお薦めしてくださる劇はどれも面白くて、一緒に観に行く日が楽しみになりました」

「そう言っていただけて嬉しいです。……その、ウェルツ様さえよろしければ、これからも一緒に、観劇に行きたいです……!」

 私の言葉にウェルツ様が目を丸くした後、真剣な表情で名前を呼ばれる。

「ボードウィン子爵令嬢」

 それに私は姿勢を正した。

「は、はいっ」

 いつもとは違う雰囲気に緊張してしまう。

「まずは謝罪をさせてください。今まで優柔不断な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」

 ウェルツ様が頭を下げたので驚いた。

「そんな、頭を上げてください! むしろ、私のわがままにウェルツ様を付き合わせて、ご迷惑をおかけしてしまって、謝罪をするべきは私のほうで――……」

「いいえ、迷惑などと思ったことはありません」

 言いかけた言葉を遮るようにウェルツ様が言う。

 予想外に強い言葉に俯きかけた顔をあげれば、ウェルツ様と目が合った。

 そうして、ウェルツ様が立ち上がり、私の横に来ると片膝をついた。

「以前もお話ししましたが、私は平民です。裕福な暮らしは難しく、歳も離れているので私はあなたを残して先立つでしょう。……私は足りないものばかりです」

 困ったように微笑んだウェルツ様の手が、私の手を取り、そっと指を絡める。

 そんな手の繋ぎ方をするのは初めてで、ドキドキと胸が高鳴った。

「それでも私を好きだと言ってくれましたね」

 ウェルツ様がまっすぐに私を見上げてくる。

「私も、その気持ちに応えたいと思います」

 その言葉にハッと息を呑んだ。

 驚きと混乱と、まさかという気持ちで手が震える。

 私の気持ちに応えたい。それは、つまり――……。

 でも、これは断るための前置きかもしれない。

「ウェルツ様、そんな言い方では、勘違いをしてしまいます……! お断りの言葉なら、はっきりとおっしゃって――……」

「違う! そうじゃない!」

 思わず離そうとした手がギュッと引き留められ、初めて聞いた強い口調にまた驚いた。

「っ、大声を上げてしまい、すみません。……ですが勘違いなどではなく、私はあなたと、ボードウィン子爵令嬢と正式にお付き合いをしたいと考えています」

 まっすぐに見つめられて息が詰まった。

 まだ、私の手は震えている。

「世話焼きで、親友思いで、優しくて、あなたのことを知る度に自分との歳や身分の差を感じて迷っていた。しかし、一途に私を想い続けてくれるあなたは可愛くて、いじらしくて……その気持ちがとても嬉しかった」

 ウェルツ様が、離れないようしっかりと私の手を握っているのが分かる。いつもは温かな手が今は少し冷たい。

「あなたに会う度に惹かれていった」

 瞬きをするとくすんだ緑の瞳が煌めいた。

 その煌めく瞬間が、とても好きだ。

 昔、助けてくれた時も、微笑んでくれた時も、その煌めきが綺麗だったから。

「あなたが好きだ」

 ウェルツ様がジッと見つめてくる。

「どうか、俺と真剣な付き合いをしてください」

 ぽたりと涙がこぼれ落ちる。

 状況を理解して、これは夢なのではと疑ってしまうくらい、喜びがあふれてきた。

「っ、はい……!」

 嬉しすぎて涙が止まらない。

 本当はいつも不安だった。

 ウェルツ様は貴族である私のわがままに付き合ってくれているだけで、実は迷惑に感じているのではないか。私のことを疎ましく思っているのではないか。

 でも、怖くてそんなことは訊けなくて。

「私も、ウェルツ様が好きです……っ」

 ウェルツ様が照れたような、ホッとしたような、でも嬉しくて仕方がないといった表情で笑った。

「あなたを抱き締めてもいいですか?」

 頷けば、立ち上がったウェルツ様にふわりと抱き締められる。

 意外とがっしりした腕の中はドキドキして、少し落ち着かなくて、だけどそれ以上に幸せだった。

「これからも一緒に観劇に行きましょう。沢山あなたと過ごして、沢山あなたとお喋りをして……俺はもっとあなたのことを知りたい」

「わ、私も、ウェルツ様のことがもっと知りたいです……っ」

 ふ、と笑う気配がして体が離れる。

 しかし、離れたのは体だけだった。

「俺のことはどうか、ジョエル、と」

 耳元で囁かれて顔が熱くなる。

「ジョ、ジョエル、さま……っ」

「ありがとうございます。俺も、あなたを名前で呼んでもいいでしょうか?」

「っ、はい……っ」

 きっと、今、私の顔は真っ赤だろう。

「アリエラ嬢」

 また、息が詰まりそうになる。

 ウェルツ……ジョエル様に名前を呼んでもらえる日がくるなんて。

「……あの時、幼いあなたを助けた自分を、心の底から褒めたい気分です」

 そう笑ったジョエル様の笑顔は眩しかった。


◇◇◇


「うわぁ~っ、素敵~っ!」

 アリエラの話を聞いて、わたしまでドキドキしてしまった。

 ……ウェルツ様、紳士~!

 それに、アリエラは恥ずかしそうに顔を赤くしながらも嬉しいという気持ちがあふれ出ていてすごく可愛い。

 初恋の人の話をしていた時でもこんなふうな表情はしていなくて、本当にウェルツ様のことが好きなのだろう。

「それで今度ジョエル様の休日に、正式に付き合う報告と挨拶のために我が家に来る予定なの」

「それってもう婚約の打診みたいなものだよねっ? 副士団長様は良い人だし、おじ様もおば様もきっと許してくれるよ! でも、もし必要ならわたしも二人の説得をするから!」

 ボードウィン子爵と夫人、つまりアリエラの両親はわたしも昔からよく知っているし、きっとアルも説得を手伝ってくれるはずだ。

 でも、多分そんな説得は必要ないと思う。

 副士団長様はすごく良い人だし、気遣いも細やかで優しくて、仕事の付き合いですらそうなのだから、アリエラのことはもっともっと大切にしてくれるだろう。

 おじ様とおば様も最初は難色を示すかもしれないが、二人はアリエラの幸せを願っているし、初恋の話も知っている。だから、今までアリエラに『結婚しなさい』とは言わなかった。

 ……今のアリエラを見たら分かるはず。

 副士団長様とアリエラが付き合い、結婚して、アリエラが幸せになれるかどうかなんて想像するまでもない。

 だって、もうこんなに幸せそうなのだ。

「ありがとう。その時はよろしくね」


◇◇◇


 アリエラとお茶会をした翌日。

 紫水と騎士団との合同訓練があり、アルも参加する。

 わたしとヴィオレッタ様はそれを見学させてもらえることになった。ヴィオレッタ様の「見学したいですぅ」という言葉に、メルディエル様があっさり「いいんじゃない?」と許可を出してくれたのだ。

 騎士団との訓練にはたまにわたしも体を動かすために参加させてもらうけれど、あくまで非公式の場でのことで、今日のように正式な合同訓練には当然ながら参加は出来ない。

 ……まあ、わたしは清掃員雇用だしね!

 騎士団と紫水の魔法士団の人々が訓練場にビシッと並ぶ姿は圧巻だ。

 わたしとヴィオレッタ様は端から見学しているが、何故だかすごく視線を感じる。

 メルディエル様とウェルツ様、アル、騎士団長様と騎士副団長様、魔法士団の統括である第三王子殿下、そして今回は騎士との合同訓練を見学するからか第二王子殿下もいらしていた。

 紫水の魔法士様達は特にわたし達を気にしていないものの、騎士団長様と騎士様達、それから第二王子殿下と第三王子殿下からの視線も感じる気がする。

 ……それはそうだよね!

 端にいるとはいえ、他に見学している人はいないのでわたし達の存在はとても目立つ。

 この視線の中で平然としているヴィオレッタ様がすごい。

 とりあえず微笑んで視線をやりすごしていれば、メルディエル様達の話し合いが終わったようで、やや高く設置された観戦席に第二王子殿下と第三王子殿下、士団長様と騎士団長様が移動する。

 アルと騎士団の副団長様がそれぞれ、整列した魔法士団と騎士団の前に立つ。

 それから、メルディエル様が魔法を発動させた。

【もうみんなは知っていると思うけど、今日は第二王子殿下と第三王子殿下も観戦されます。日頃の鍛錬の成果を遺憾なく発揮してほしいな~】

 相変わらずのんびりとした声が訓練場に響く。

 魔法で拡声しているらしい。

【あ、だからって無理に目立とうとして怪我をしないように。あんまり目に余るなら、紫水うち特製の死ぬほど沁みる傷薬の餌食にしちゃうからね~】

 いつも通り穏やかなはずなのに圧を感じる。

 魔法士団も騎士団も「はい!!」と一糸乱れぬ返事をしたが、その表情はみんな楽しそうだった。

 あれだけでみんなの緊張を解すことが出来るなんて、さすが士団長様だ。

 今回はアルと騎士団の副団長様がそれぞれの団を指揮するようで、魔法士団と騎士団が訓練場の両脇に分かれる。

「……これ、魔法士様達のほうが不利なんじゃ……?」

 思わず首を傾げると横から声をかけられた。

「そうでもないよ」

 振り向けばウェルツ様がいた。

 メルディエル様が王族の対応を行い、アルが訓練の指揮に当たるため、ウェルツ様の出番はないらしい。

 ……やっぱり身分の問題なのかなあ。

 ウェルツ様がわたしの横に来る。

「ミスリルさんは『魔法士の接近戦の弱さ』について気にしているんだね?」

「はい。一般的に魔法士は後方支援型が多く、魔法を使うには詠唱を必要とするので接近戦は苦手です。そのため、魔法士のほうが不利だと思いました」

「確かに『一般的な魔法士』はそうだけど、紫水うちは少し特殊でね。まあ、その辺りは見てのお楽しみということで」

 そう言ったウェルツ様はどこか楽しそうだった。

 わたしの心配するようなことにはならないようだ。

 そこまで考えて、ふと思い出し、声を落としてウェルツ様に耳打ちする。

「あの、アリエラとの件をお聞きしました。少し早いですが、おめでとうございます」

 朝から忙しそうだったので、これまで言うタイミングがなかったのだ。

 ウェルツ様が照れたように首の後ろを掻く。

「ありがとう。ミスリルさんには何度もお世話になって、感謝してもしきれないよ」

「いえいえ、お気になさらず! あと、余計なことかもしれませんが、ボードウィン子爵夫妻は人を見る目が優れている方々なので、ウェルツ様が誠実に向き合えばきっと分かってもらえます」

 何より、アリエラがあんなに惚れ込んでいる相手だ。

 ウェルツ様とアリエラが二人で説得すれば、きちんと納得して頷いてくれると思う。

「応援してます!」と親指を立てれば、ウェルツ様が笑って同じように親指を立てた。

「あ、始まりますよぅ!」

 ヴィオレッタ様の言葉に、わたし達は訓練場に顔を向けた。

【試合開始~】というメルディエル様の声が同時に響いた。

 そして、試合が始まる。

 副団長様率いる騎士達が接近戦を行うために前へ出た。

 やや軽装備の様子から、前衛で身軽に動くことを想定しているようだ。

 中衛に盾持ち、後衛は魔法も使える騎士が待機している。

 前衛の騎士達の攻撃に、魔法士達の先頭にいたアルが何かを指示する。

 途端に強い風が吹いて前衛の騎士達が押し戻された。

 その間に詠唱を行った魔法士達が魔法を放つ。

 一応、訓練だからか威力は抑えてあるらしい。

「最初の風魔法、早かったですね……?」

「ああ、紫水うちの魔法士達は戦闘時のみ着用が義務付けられている装備品があってね、魔石に魔法式を刻んであるから、一つの魔法だけになるけど魔力を通せば瞬時に発動するんだよ」

「皆様が一つずつそれを持っているんですか?」

 だとしたら、人数分だけ様々な魔法を無詠唱と同じ早さで放てることになる。

「そうだよ。色々と制限はあるけれどね」

 しかし、騎士達も風くらいで怯むはずがなく、もうすぐ先頭のアルのところに辿り着いてしまう。

 アルが魔法で剣を作るのが見えた。

 漆黒の剣を片手に持ち、近づいて来た副団長様と剣を交える。

 騎士と魔法士達の戦いが幕を開け、訓練場は剣と魔法が入り乱れた。

 ……訓練って言ってたけど。

 実戦とほぼ変わらないように見える。

 ヴィオレッタ様が横で「きゃあっ、すごいですぅ!」とはしゃいでいるけれど、わたしは大怪我をする人が出るのではと心配のほうが大きかった。

 幸い軽傷者はすぐに自分で後方に下がり、手当てを受けているので問題はなさそうだが。

 ……それにしても。

「結構、荒々しい戦いですね」

「今日は殿下方がいらしているから、皆の士気も上がって、確かに普段より少し激しいかな。でも、ミスリルさんが騎士や魔法士達と手合わせをしている時もあんな感じだよ」

 と言われて驚いた。

「えっ、あんなに荒々しく戦ってましたっ?」

「ミスリルさんはそうでもないけど、他がね」

 騎士団と魔法士団、騎士団のほうが圧勝するかと思いきや、なかなか魔法士団も強くて力が拮抗しているようだ。

 騎士団の中でも副団長様はかなりの手練れと見える。

 アルが副団長様を押さえているため他に被害は出ていないが、どちらも引くことがないため、何度も剣を交えていた。

「でも、アルのように剣を扱う魔法士様は少ないですね?」

「いなくはないけれど、剣を扱いながらの詠唱は難しいから。息が乱れて詠唱が途切れると魔法が発動しないし、魔力が消費されると体力も削られるし、剣と魔法を扱うには相当な体力と集中力がいるよ」

 へぇ~、と思わずアルを見た。

 普段の手合わせではアルは剣を使わず、わたしに前衛を任せていたが、本来の戦闘スタイルはこちらなのかもしれない。

「アルフリード殿はそういう点でも本当にすごい。魔法と剣の両方とも強くて、どちらの弱点も克服している。……紫水うちで一番強いのはアルフリード殿だろうね」

「士団長様ではなく?」

「戦い方の違いだよ。メルディエル士団長は集団戦に向いていて、アルフリード殿は個人も集団も強い」

 見ていると、アルは副団長様と戦いながらも周囲の魔法士達を手助けしていて、まだ余裕がありそうだ。

 しばらく戦いは続き、最初は遠距離攻撃が強い魔法士団のほうが押していたが、騎士団も踏ん張っており、互いに押し引きを繰り返す様子からして決着をつけるのは難しそうだ。

 どちらも頑張っていたものの、やがてメルディエル様の声が響く。

【は~い、終了の時間だよ~。今回は引き分けだね。どっちもよく頑張ったよ~】

 途端に訓練場が静かになる。

【大怪我をした人はいる~? ……よしよし、いないみたいだね~。じゃあ整列~!】

 全員が元の通りに整列するが、最初に比べてかなり汚れている。

 その後、第二王子殿下と第三王子殿下が見学の感想などを話していて、わたしはその間に訓練を思い出していた。

 ……魔法士様達は遠距離戦が強かったけど、騎士様の連携が上手くて押し切れなかったなあ。

 殿下方の話が終わるとメルディエル様が手を叩く。

【さあさあ、楽しい試合が終わったら、みんなで怪我人の治療と訓練場の地面を直して~。片付けるまでが訓練だからね~】

 そうして騎士様達と魔法士様達が忙しなく動く。

 眺めているとメルディエル様と騎士団長様、第二王子殿下と第三王子殿下が観戦席から下りてくる。

 アルと騎士団の副団長様もそこに合流し、話している。

 ウェルツ様がわたし達に一言断りを入れてから、訓練場に入って行った。

「勝敗が決まりませんでしたねぇ」

 ヴィオレッタ様の言葉に頷いた。

「そうですね」

「あーあ、近衛騎士様ならきっと勝てましたよぅ」

 ヴィオレッタ様が少しつまらなさそうに言う。

 それにわたしは苦笑した。

「ヴィオレッタ様は近衛騎士がお好きですね」

 何かにつけて近衛騎士の話をされる。

「だって近衛騎士ってカッコイイじゃないですかぁ。ミスリルせんぱいは騎士になろうとか思わないんですかぁ?」

「わたし? 特には思わないけど……?」

「ええ~っ? あんなに強いなら騎士のほうが出世出来そうでしたよぅ? どうして清掃員になったんですかぁ?」

 恐らく、先日一緒に出かけようとした件のことを言っているのだろう。

 心底不思議そうに訊かれて私は笑った。

「安定してお給金がもらえるのが一番でしたから。わたしに何かあれば家族がもっと大変な思いをすると分かっていましたし、出世とかは興味ないので」

「勿体ないですよぅ!」

 なんて話していると後ろから声をかけられた。

「ミスティ」

 振り返れば、困ったように少し眉尻を下げたアルがいて、その後ろに苦笑を浮かべたメルディエル様、騎士団長様、それから何故か第二王子殿下と第三王子殿下がいた。

 慌ててヴィオレッタ様と共に礼を執ると、第二王子殿下が軽く手を上げて応えた。

「楽にしていい」

 それに顔を上げれば、第二王子殿下と目が合った。

 後ろへ撫でつけられた短い金髪に、青い瞳を持ち、顔立ちは整っているけれど少し強面に見える。アルと同じくらいの身長なのでわたしは見下ろされるのだが、なんだか、観察されているような気がした。

 どうすればいいのか戸惑っていると、アルがわたしを手で示す。

「私の妻で、リルファーデ子爵家の元令嬢のミスタリアです。彼女が以前噂になっていた『ミスリル嬢』です」

「第二王子と第三王子にご挨拶申し上げます。ミスタリア=リュディガーでございます」

 ……第二王子ってことはアルの本当のお兄様、なんだよね?

 第二王子殿下の横には第三王子殿下のケーニッヒ・オルドア=ユースタリア様もいて、目が合うとニコリと微笑み返された。ラディ君の件では共に子爵領まで行き、命懸けで戦おうとした仲でもあり、それなりに良い関係を築けている。

 第二王子殿下が口を開いた。

「突然声をかけて驚かせてしまったか。紫水に騎士よりも強い清掃員がいるという噂を耳にしてから、一度話してみたいと思っていたんだ。何でも騎士三名を一瞬で叩き伏せるほどの実力を持つが、それでいて騎士になることは断っていると聞いてな」

 ……あー、なるほど?

 確か第二王子殿下は騎士団の統括である。

 手合わせをしている騎士様から、よく『騎士にならないか』と声をかけられていたが、わたしは断っていた。

 そういえば第二王子殿下に興味を持たれているという話も聞いたような、聞かなかったような……?

 騎士を叩きのめした件は城中に広がっていたようだし、アルと王子殿下達は表向き従兄弟という関係なので、噂を聞いて気になったと言われても不思議はない。

 多分、子爵領でのラディ君の件も聞いているだろう。

「時折、騎士や魔法士達と手合わせをしているそうだが、その実力を生かして騎士にならないか?」

 ……直球の勧誘きたー!!

 どうしよう、と困っているとアルの手が、わたしの手をそっと握った。

 顔を上げればアルに頷き返される。

 深呼吸を一つして、わたしは返事をした。

「申し訳ございません。わたしの力を高く評価していただけるのは大変光栄なことですが、殿下のご期待にわたしはお応え出来ません」

「何故だ?」

「わたしには弟が一人おりますが、両親は流行病で亡くしました。弟の心の傷が癒えるのに何年もかかりました。……騎士の職務は危険を伴うことも多いでしょう。わたしにそこまでの勇気はありません」

 ラディ君の件の時は故郷を守るためだった。弟のイシルディンもいたし、アルもいたし、もしもの時は身体強化に特化したわたしが盾になって逃げる時間を稼げばいいと思った。

 でも、自分から騎士になって戦う勇気はない。

 失望されるかもしれないが……。

「わたしは家族が大事なのです」

 ジッと第二王子殿下に見つめられ、わたしはそれを見つめ返した。

 少しの沈黙の後、第二王子殿下は「そうか」と言った。

「だが、やはりこちらとしても実力のある者を遊ばせておくのは惜しい」

 もし王族の意向に従うようにと正式に命令を下されたら、わたしは断れない。

 思わず目を伏せれば、メルディエル様の声がした。

「殿下、僕からも進言させていただきたいのですが、彼女が紫水の清掃員から外れるのは非常に困ります」

「抜けた分を補充すると言ってもか?」

「新人を入れたとしても、彼女ほどの働きを求めるのは難しいかと」

 第二王子殿下が眉根を寄せて考える。

「お前が言うなら、そうなのだろう」

 それに少しホッとした時、第二王子殿下がふとヴィオレッタ様へ顔を向けた。

「ヴィオル、近くで見てどう感じた?」

 ヴィオレッタ様が口を開いた。

「反射神経は私と同等かそれ以上だと思います。私個人の意見を述べさせていただくなら、一度手合わせをしてみたいと思うほどです」

 普段の口調とも声とも違うそれに驚いた。ヴィオレッタ様を見れば、今まで見たことのない真剣な表情を浮かべており、わたしは自分の耳を疑った。

「ミスリル先輩、私と手合わせをしてみませんか?」

 どう聞いても、その声は男の子の声だった。

 呆然としているとアルに抱き寄せられる。

「殿下、これはどういうことでしょうか? 妻を探るために人を使ったのですか? ……メルディエル士団長も知っておられたのでは?」

 淡々とした、でも、とても冷たい声でアルが問う。

「メルディエルに紹介はしたが、これについて詳しく話したわけではない。私が勝手に探らせただけだ。この件についてメルディエルは無関係だ」

「……そうですか。しかし、女性のふりをして妻に近付いていたと分かり、正直、非常に不愉快に感じております。そこの者は女性のふりをして妻にベタベタと触れていました」

 アルが眉根を寄せてヴィオレッタ様を睨んだ。

 それにはヴィオレッタ様も思うところがあったのか「うっ……」と視線を逸らした。

「そうなのか?」

 第二王子殿下の問いにヴィオレッタ様が「えっと、女性のふりの一環でして……」と呟く。

 アルの眉間のシワが更に増えていく。

 ……これ以上、興奮するのはまずいかも。

「アル、大丈夫だよ。怒ってくれてありがとう」

 そっとアルの体に腕を回せば、我に返った様子のアルがわたしを見て、肌に感じていたピリリとした気配が消える。

「女装の件についてはこちらに非があるようだ」

「すみません、それに関しては少し、私もやりすぎました……」

 ヴィオレッタ様が気まずそうな様子で頬を掻く。

 アルがわたしを見たので頷き返せば「謝罪は受け入れます」とだけ言った。

「……この様子では、どうあっても騎士にはならなさそうだな」

 第二王子殿下の言葉にわたしは困ってしまった。

 沈黙の中、ケーニッヒ様が間に入ってくれる。

「兄上、彼女とそこの者とで手合わせをするのはどうかな? 彼女が勝ったら彼女の意見を尊重して勧誘を諦め、こちらが勝ったら騎士になってもらうというのは?」

「ふむ……」

「そもそも、実際に戦ってみたら思っていたよりも実力が低い可能性もあるし、無理に任命しても実力を発揮出来るとは思えないよ」

 ケーニッヒ様の言葉にわたしはつい頷いた。

 はあ、と第二王子殿下が小さく息を吐く。

「随分、彼女の肩を持つな?」

「嫌がる女性相手に無理やり意見を通そうとするのは、少しどうかと思ってね」

「そう言われると返す言葉もないな」

 第二王子殿下がこちらを見る。

「では、手合わせで実力を見せてもらいたい。君が勝てば勧誘はやめよう。だが、こちらが勝った時には騎士になることを前向きに考えてもらう」

 ……あ、負けたら騎士になれとは言わないんだ?

 つい、第二王子殿下の顔をまじまじと見てしまった。

「実力があっても、やる気がなければ意味がない」

 そう言って第二王子は少し顔を背けた。

 その後ろでケーニッヒ様とメルディエル様が苦笑する。

 ……もしかして、そんなに怖い人じゃない?

「後は任せた。……場所を移動する。ついて来い」

 前半は士団長様と騎士団長様に言い、後半はわたし達にかけられる。

 歩き出した第二王子殿下の後を、ケーニッヒ様とヴィオレッタ様が追い、アルとわたしもそれに続いた。