
◆キース元殿下の後悔◆
「お姉様が私に会いにこんな場所まで?」
先触れがあったことを伝えるとシンシアはひどく戸惑ったような曖昧な顔をしていた。
「なんで?」
「理由までは……。先触れはキーファ公爵家から来ていてね、マーガレット様も一緒にシンシアに会いに来ると記載されているよ」
伝えながら、マーガレットの訪問をきっかけにシンシアが少しでも変わってくれることを僕はきっと心のどこかで期待していたんだと思う。けれど返ってきた答えはどこまでいっても今まで通りのシンシアのままだった。
「じゃあ久しぶりにドレスが買いたいわ! キースと結婚してから何も買ってもらってないもの」
「……そんな余裕があれば少しでも領民のために使うべきだと何度も説明しているだろう? それに実の姉に会うのにドレスを新調する必要なんてないだろう?」
「領民のため、領民のためってキースはいつもそればっかり! お姉様より素敵なドレスを着て、私の方が幸せだってお姉様に見せつけないといけないのに!」
「……実際のシンシアは幸福ではないのに?」
思わず疲れたように言ってしまった僕の言葉に、シンシアはその可愛らしい顔を歪ませた。
結婚してから、僕は何度もシンシアのこの歪んだ顔を見た。マーガレットの結婚式の日まで一度だって見たことのなかったその歪んだ顔を何度も何度も。
シンシアが初恋だった。とても愛しいと思っていた。婚約者であるマーガレットの話を全く聞かなくても問題ないと思ってしまえるほどに。けれど僕が見ていたシンシアは、真実ではなかった。
廃嫡されることが決まってからの僕は、ずっと後悔をしていた。
どうしてマーガレットともっと話をしなかったのか? どうしてシンシアの本質をもっときちんと見ようとしなかったのか? ルイス様の忠告を、カナン様の苦言を、どうして受け流してしまったのか? もっと見ていたのなら、もっと聞いていたのなら、そうすればもしかしたらマーガレットが聖女であると気付くことが出来たかもしれないのに。
マーガレットが聖女だと気付くことさえ出来たのなら、僕は決して道を誤ったりはしなかったのに。
「紅茶がぬるいわ! すぐに淹れなおして!」
僕に何も言い返せなくなったシンシアはメイドに八つ当たりを始めた。メイドは慣れた手つきで謝ることもせず黙々と新しい紅茶を用意し始めた。
「公爵家のメイドだったら必死で謝っていたのに!」
シンシアはイライラとしたように叫んだ。シンシアに必要以上に怯える必要がないように、使用人達には『シンシアには人事権はない』と通達してある。『もしシンシアから過度な嫌がらせ等があった場合にはすぐに報告してほしい』とも。今のところそんな報告が来ていないことだけには安堵していた。

「お久しぶりですわ!」
学生時代と変わらない明るさでミラー男爵領を訪れたカナン様の隣には、マーガレットが心なしか緊張した面持ちで立っていた。そんなマーガレットを見て、婚約者だった時代にマーガレットが感情を表情に出すことはほとんどなかったなとふと思った。
「キース男爵。シンシア。お久しぶりです」
「カナン様。マーガレット様。本日はお越しくださいましてありがとうございます」
僕が二人に挨拶をしても、僕の隣にいるシンシアは何も言わず立っているだけだった。
今日のシンシアは、シルバー公爵家から持参した中で一番高価なドレスを着て朝から何度もメイドに化粧や髪型をやり直しさせて外見だけは結婚してから一番華やかに飾っていた。
「……シンシアと二人で話をさせていただけますか?」
マーガレットは、僕とシンシアを交互に見た。
「お姉様と二人きりで?」
僕よりも先にシンシアが戸惑ったように応答した。
「私達がまともに二人で話をしたことは、きっと今まで一度もなかったでしょう?」
「だってお姉様は搾取されるためだけの人間だから……。二人で話なんて……」
当たり前のようにシンシアの口から出た暴言にもマーガレットは顔色一つ変えなかった。
「二人で話をするのならマーガレット様とシンシアは応接室を使ってください。カナン様は……庭にティーセットを用意させていただいても良いでしょうか? お客様をおもてなし出来るような応接室は一つしかなくて……」
僕が第一王子だった時には、シンシアとお茶をするだけでも王宮に数ある選択肢の中からその日の気分に応じて好きな場所を選択していた。だけど今の僕には来客をもてなすための場所の選択肢さえもなかった。この屋敷には、来客をもてなすことの出来る場所は、応接室以外には庭園とも呼べないような庭しかなかった。最近は感じることも少なくなってきていたけれど、第一王子だった頃と男爵家当主である今とのその格差に僕は心の底で自嘲した。
「自然に溢れた良い場所なのですわ」
公爵令嬢であるカナン様は、今までこんなに貧相な庭でお茶などしたことはないだろうに、それでも嫌な顔一つしなかった。
……彼女は相手がこれから担う役職や責任において『相応しくない』と感じたら一直線で向かって来て忠告してきたけれど、田舎の男爵に過ぎない僕のもてなしはこれで十分なのだろう。……そうか。僕にはもうカナン様に苦言を呈されるほどの価値すらもないのか。
「二か月後の『聖女の儀式』の日にはミラー男爵領でもフェスティバルを開催するのでしょう?」
一年程とはいえ王妃教育を受けていたはずのシンシアよりもずっと洗練された所作で紅茶を飲みながら、カナン様は僕に問いかけた。近くで控えているメイドですらカナン様のその優雅な仕草に釘付けになっていた。
「はい。ミラー男爵領にある教会の通り沿いで、王都よりはずっと規模は小さいですが屋台や出店を出します」
王宮からレオナルドの名前で王国中の領主宛に届いたフェスティバルの知らせを読んだ時には本当に驚いた。
王都では『聖女の儀式』を開催する教会近くの広場を中心にフェスティバルを開く。王都から遠くそのフェスティバルに参加できない領については、領内の教会近くで同様にフェスティバルを開催してほしい。その準備には貧しい領民を積極的に採用して、もし領内の予算だけで開催が難しい場合には然るべき申請をすれば補助金が出ることまで記載されていた。
『聖女の儀式』は確かにソルト王国民の義務ではあるけれど、こんな田舎では十六歳になる年の女性以外には縁遠い儀式となっていた。女性達にとっては、十六歳になる年の『聖女の儀式』の日に初めて王都に行けることが一大イベントとなっていると領主になってすぐに教えてもらって、王都とは随分感覚が違うのだなと思った。今回のフェスティバルについて領民に通達した時には、今まで『聖女の儀式』の恩恵に与れていなかった領民達は目を輝かせた。
このフェスティバルについて誰が発案者かは分からなかったけれど、もしその誰かがあと二年早く発案してくれたなら、国民にはレオナルドではなく僕の名前で公表できたのに、と思わずそんなことを考えてしまった。もしこのように大きな実績があれば、僕は廃嫡されなかったかもしれないのに、と。
「フェスティバルについては、レオナルド殿下が一人で考えて意見を出したようですわ」
そんな僕の浅はかな考えを見透かしたかのように、カナン様は当然のように言った。
「……レオナルドが? ……国王陛下や宰相の提案ではなく?」
「ええ。考えたのはレオナルド殿下ご自身ですわ。もちろん詳細を決めるためには、重鎮達だけでなくルイス様達若手の意見も積極的に取り入れたと聞いておりますが」
足元が崩れていくようだった。
どうしてだ? 第一王子だった頃の僕は、そんなこと思いつきもしなかったのに。だって少なくとも僕が生まれた時からずっとソルト王国はとても豊かだったから。それに『聖女の儀式』はもう何百年も前からずっと当たり前に行われているものだったから。きっとだから僕は、それらを現在以上に向上させようだなんて考えることすらしなかった。
国をもっと豊かにする方法? それは国王になってから必要であれば検討すればいい。学生時代は王子教育を学んでいるし生徒会の仕事だってこなしているのだからそれで十分だと思っていた。学生である僕に必要なことは、誰の意見でも聞いて平等に判断することだとそう思っていた。
『聖女の儀式』をただの儀式ではなく国民全員のイベントとして盛り上げる? 貴族にとっては『聖女の儀式』は国を左右する重大なイベントだけど、田舎の平民にとっては形骸化していたなんて、そんなことは知らなかった。……だけど知らなかったのはレオナルドだって同じはずだ。それなのにどうしてレオナルドにはフェスティバルなどと考えることが出来たのだろうか? ……いや、僕は知らないまま知ろうともしなかった。だけどきっとレオナルドは知ろうとしたんだろう。国をもっと豊かにするために出来ることがないか考えていく中で、王子教育だけでは、学園に通うだけでは、知ることの出来ない世界を弟はきっと自ら知ろうとしたのだ。
……同じ頃の僕は、ただシンシアが聖女かどうか、そればかりを気にしていたのに。
僕は確かにソルト王国の第一王子だったけれど、公爵家の令嬢を婚約者にもってさえなお王太子には任命されていなかった。だけどレオナルドは、僕が廃嫡されてすぐに王太子に任命された。それは、きっとそういうことなのだと思う。絶望的な事実に気付いて、僕はただ自分の心がひどく落ち込んでゆくのを感じていた。
「貴方は、もしかしてオリバー殿下の歓迎パーティーの時にマーガレット様に何かを言ったのですか?」
カナン様がいるのにもかかわらず考え込んでしまっていた僕は、カナン様のその冷静な声に顔をあげた。
「マーガレット様は何も言いませんが、貴方と話した後で何か落ち込んでいる様子でした」
僕はあの時、思わず漏れてしまった自分の呟きを思い出した。
『……だけれど……マーガレットはただの一度さえもシンシアに会いには来なかったね。……もしも……本当にもしも……シンシアがこんなに我儘になる前に……マーガレットが止めてくれたなら……。マーガレットがシンシアを諦めさえしなければ……』
「あれはマーガレット様に伝えたかった訳ではなく、ただの独り言で……」
そうだ。マーガレットに文句を言いたかったわけでは決してない。僕は過去の自分の行いを後悔しているし、シンシアを救ってくれたマーガレットに感謝だってしている。ただ思い通りにいかない領地経営や、変わらないシンシアという現実に疲れて思わず呟いてしまっただけに過ぎないんだ。……まさかマーガレットがその言葉を聞いていて、本当にシンシアに会いに来るなんて……そこまで望んでいたわけでは決してなかったのに。
「貴方は、後悔の人、ですわね」
そう言うカナン様は厳しいまなざしで僕を見ていた。そのまなざしは僕には見覚えがあった。それは、マーガレットと婚約破棄をしたいと宣言した時の僕に向けられたレオナルドからのまなざしと同じだった。
「私は、自分が間違ったことをしたのなら後悔ではなく反省をします。今まで何回も間違えてしまったことはございますが、そのたびに何が間違っていたのか自分自身の行いを反省して、次はどうしたら間違えないか毎回しっかりと考えているのですわ」
厳しいまなざしを僕から逸らすことはなく、カナン様は言葉を続けた。
「貴方は後悔の人で、自分のしてしまったことを後から悔いることしかしていないから同じことを繰り返すのですわ」
カナン様のその言葉は、今まで彼女から聞かされてきたどの苦言よりもずっと僕の心に響いた。
カナン様の言う通り僕はずっと自分の行動を後悔していた。マーガレットが聖女だと気づいていたら。レオナルドと同じように考えられていたら。未来は変わっていたかもしれないのに、と。そうだ。そんな風にいつだって僕は、ただひたすらに後悔をしていた。
マーガレットに謝罪をしたことだって僕自身が楽になりたかっただけで、心から悪かったと本当に思っていただろうか? 本当に思っていたのなら、あんな身勝手な呟きが自然と口から出たりするだろうか。
僕は……。シンシアのあの歪んだ顔を見た時から本当は何も変わっていないのだろうか。ただ後悔をするだけで反省なんてしなかった僕は……。僕自身こそ本当にシンシアを諦めていなかっただろうか? 僕は……。
「これからの人生は、今までの人生よりもずっとずっと長いのですわ。反省は今からでも十分間に合います」
カナン様のそのまなざしからは、先ほどよりも厳しさが和らいでいた。学生時代にはただの無礼な令嬢だと思うだけで顧みようともしなかった彼女のなかに潜む優しさに気付いても、今の僕にはただ頭を下げることしか出来なかった。

「ありがとう」
カナン様とマーガレットが帰った後のディナーの席で、シンシアが皿を運んできたメイドに向かって御礼を言った。シンシアが使用人に向かって御礼を言うなんて初めてのことだったので、御礼を言われたメイドだけでなく僕もとても驚いた。
「シンシア。どこか具合でも悪いのかい?」
僕の問いかけに対して、シンシアは不思議そうだった。
「なんで?」
「君が使用人に御礼を言うなんて……」
「だってお姉様が……」
「マーガレット様が?」
「なんでもないわ」
「シンシア。聞かせてほしい。僕達は夫婦だから。僕は一生をかけてシンシアと向き合っていきたいと、そう思っているから」
「……キースは私と一生を過ごしていきたいと思っているの?」
「前にも言ったけれど僕達に選択肢なんてないんだよ。だから僕は一生を一緒に過ごすシンシアとせめて分かり合いたいと、そう思っているんだ」
「……はっ?」
「僕はシンシアを諦めたくはないんだ」
「馬鹿にしないで! 選択肢がないから私と生きていくしかないだなんて!」
怒りに満ち溢れたシンシアの瞳を見て、僕はそっとため息を吐いた。
「シンシア。前も言っただろう? 君はマーガレット様を虐げ続けて、聖なる水晶を割ったんだ。そのせいで僕達には選択肢なんてないんだよ」
「私にはキース以外の選択肢だってある! キースにだって私と離婚するっていう選択肢があるじゃない!」
シンシアのそんな突然の言葉は、僕を驚愕させるには十分だった。
僕達に選択肢がある? 確かにマーガレットと約束をしたのは『二度目の婚約破棄はしない』ということだけだ。その後の人生をどう生きるかまでは僕達の自由だけれど、でも、シンシアに僕以外の選択肢があるだなんてそんなはず……。
「シンシアは、僕がたとえマーガレット様の婚約者だったとしてもそれでも諦められないほどに、僕を好きになったんだろう?」
思わず確かめるように聞いてしまった僕に返ってきたのは、出会ってから初めて見るシンシアの困ったような悲しいような何とも言えない顔だった。
「わからない」
「……わからない?」
「キースのことは間違いなく好きだった。だけどそれがキースだからなのか、キースがお姉様の婚約者だったからなのか」
その言葉は、疲弊した僕の心を凍らせるには十分だった。
「……まさか僕がマーガレット様の婚約者だったから好きになったと?」
「だってお母様に言われていたから。お姉様のものは全部私のものだって。だからキースだって私のものだから、私がキースのことを好きになるのは当然って思ってた! だから今まで考えたこともなかった。だけどお姉様が、お母様の言葉じゃなくてシンシアが自分自身で考えるべきだって。私がどうしたいのか私自身で考えるべきだって。でも私、今まで自分で何かを選択するために考えたことなんて一度だってないもの!」
シンシアの叫びを聞きながら、僕は初めて気が付いた。『僕達には選択肢なんてない』そうシンシアに言いながらも、僕は心のどこかで『僕には選択肢なんてない』と言い換えていたのだと。愚かな僕は、どんな状況でもシンシアが僕を好きなことを疑ったことはなくて、あの歪んだ顔も僕を手に入れたくて僕の前では必死で隠していたのだと、本気でそう思っていた。
だけどそうか。それすらも僕の自惚れだったのか。シンシアはただ田舎に行くのが嫌なだけで、僕と結婚できることはシンシアの望んだ通りだと思っていた。
だけどそうか。シンシアは自分自身で考えたことすらなかったのか。そんなことにも気付かずに、自分だけが被害者ぶって『シンシアと向き合いたい』『シンシアを諦めたくない』そんな言葉を吐き出す僕は、なんて愚かだったのだろう。
そんな風に考えながらも、僕には相変わらず過去の自分の行動を後悔することしかできなかった。