
「マーガレットちゃん。今日はホワイト男爵家に行ってきたのよね? ソフィアさんは元気だったかしら?」
モーガン伯爵家のディナーの席でルイスのお母様がとても嬉しそうに話しかけてくださった。ルイスと私の結婚式の時にソフィア様とお話をしたルイスのお母様は、素直で明るくて笑顔が素敵なソフィア様のことが気に入ったみたいで、それ以来ソフィア様のことを気にかけてくださっているのよね。
「……えぇと……」
いつもなら笑顔でソフィア様との思い出をお話しするのに、ライリー様から厳しい態度をとられているソフィア様の諦めたような様子を思い出して私は思わず答えを躊躇ってしまった。
そんな私の様子に、ルイスのお母様は心配そうにナイフを動かす手を止めた。そして、ルイスのお父様もワイングラスを置いて私の方を見た。
「ライリーの件でしょうか?」
沈黙を破ったのは、私を気遣うルイスの声だった。
「ライリー? ああ。スミス伯爵家の嫡男か」
私が答えるより先にルイスのお父様が呟いた。
「ルイスの学友だったわよね?」
ルイスのお父様の言葉を拾ったルイスのお母様も言葉を続けた。
「はい。僕の学生時代の友人だったスミス伯爵家のライリーの話です。そのライリーがソフィア様に婚約を申し込んでおり、今日はマーガレットと三人でお茶会だと聞いていたので」
「まぁ! ソフィアさんに婚約の申し込みが? それはとても喜ばしいわね」
ルイスのお母様は嬉しそうにはしゃいだ後で、俯く私に気付いて声を強張らせた。
「……あまり良いお話ではないのかしら?」
完全に食事の手をとめて心配そうな視線を向けてくださるモーガン伯爵家の皆様に対して隠し事をすることは私にはできなかった。それに、やはり私の中でまだライリー様に対する怒りが収まらなくて、私は今までの、そして今日のライリー様のソフィア様に対する傍若無人な態度や暴言をすべて話した。……もちろん妖精さん達の力で空からライリー様に向かって一直線に水が降ってきたことは伝えることができなかったけれど。
「確かにライリーには学生時代から爵位の低い人間を見下すようなところはありましたが……。自分から婚約の申し込みをした女性に対してそれはあまりにも……」
私の話を聞いたルイスは、ライリー様に分かりやすく引いていた。
「もし貴方が結婚前に一度でも私にそんな偉そうな態度をとっていたら、絶対に結婚しなかったわ」
ルイスのお母様はなぜかルイスのお父様に対して怒りを爆発させていた。突然怒りをぶつけられたルイスのお父様は動揺しながらも、冷静な声で語った。
「スミス伯爵家とホワイト男爵家に婚約の話が持ち上がっているということは聞いてはいたが、スミス伯爵は騎士団長も務める清廉な人間だ。まさか爵位が下だからと無理矢理男爵家に婚約を承諾させようなどとするとは思えないが。それにホワイト男爵家との婚姻は、スミス伯爵家に何のメリットもないように思えるが」
……確かにスミス伯爵からしたら、ホワイト男爵家と縁を結んでも政略的なメリットは何もないわ。それなのにどうしてライリー様は思惑通りに家の力を使ってホワイト男爵家へ縁談の申し込みが出来たのかしら。
思わず考え込んでしまった私に代わってルイスがお父様に向かって声をかけた。
「しかしソフィア様しか跡継ぎがいないホワイト男爵家がソフィア様の婚姻相手となる後継者を探していたことは間違いないです。それにホワイト男爵家に対して、スミス伯爵家側がソフィア様が後継を放棄せざるを得ないような縁談を持ち込んだことも事実です」
「そうね。貴族同士の婚姻には政略が絡むものだけど、子どもの頃ならともかくすでに学園を卒業したソフィアさんをお嫁に出すということは下手をしたらホワイト男爵家の後継者が見つからない可能性だってあるものね。スミス伯爵が真面目で誠実な人柄だということは私も知っているけれど、これはやはりおかしいと思うわ」
ルイスのお母様もいつもの柔和な笑顔を捨てて、険しい顔をしていた。
「そうだな。他家の家庭内のことに口出しなどできないが、スミス伯爵に話くらいは聞いてみよう」
力強く頷くルイスのお父様の様子に私は安堵していた。良かったわ。きっとこれでソフィア様の悩みが少しは軽くなるはずだわ。
それにしても、困ったことがあった時に相談できる家族がいるということは……私や私の友人が困っていることを真剣に聞いてくれる家族がいてくださるということは、なんて心強いことなのかしら。
私はルイスとの結婚によって繋がることができた新しい家族の頼もしい顔を見ながら、しみじみと染み入るようにそんなことを感じていた。

(マーガレット嬉しそうー)
(ソフィアからの手紙ー?)
(その手紙をソルト王国中に公開してやろうか)
妖精さん達の楽しそうでいたずらっぽい声を聞きながら、先ほどソフィア様から届いたお手紙を読む私の心は弾んでいた。
あのライリー様との最悪なお茶会の日から二週間もしないうちに、スミス伯爵家からホワイト男爵家への縁談の申し込みは取り下げられた。ソフィア様は取り急ぎその旨をお手紙でご報告してくださった。
「すべてルイスのお父様のおかげだわ」
一緒にソファーに座って私の隣で寛いでいたルイスに向かって、私は笑顔を向けた。
「まさかライリーが自分の父親であるスミス伯爵に対して、『ソフィア様が自分のことをとても慕っていて婚約者になりたいと切望している。ソフィア様の熱い想いに心動かされた自分もソフィア様のその想いに応えたい』などという嘘をついていたとは驚きました」
「スミス伯爵は、ご自分の息子の願いを叶えたいという親心でスミス伯爵家側にメリットはないけれど、ホワイト男爵家に縁談の申し込みをしたのよね。そして、その後の対応はすべてライリー様に任せていたから、ホワイト男爵家が突然降って湧いた婚約の話に困惑していることにまったく気付いていらっしゃらなかった……」
きっとそれもすべてライリー様の思惑通りだったのだわ。父親は今回の婚約について自分にすべての対応を任せているから、ソフィア様やホワイト男爵家の使用人達どころかソフィア様のお父様に対してでさえどんなに傍若無人に振る舞ってもホワイト男爵家からの情報がスミス伯爵の耳に届くことはないと高をくくっていたのね。
だけど、スミス伯爵は宰相であるルイスのお父様からライリー様の話を聞いて、すぐにソフィア様のお父様と直接お会いになったのよね。そこで、ホワイト男爵家では困惑していること等を聞き出してすぐに婚約の申し出を取り下げたというのだから、スミス伯爵はやはりルイスのお父様とお母様がおっしゃっていた通り清廉な方なのだわ。
「それにしても、ソフィア様が望まない婚姻をすることにならなくて本当に良かったわ」
私の言葉にルイスは優しく微笑んで、そっと私の頬を触った。そんなルイスのさりげない仕草に私の胸が思わず高鳴った時、部屋のドアがノックされた。
「スミス伯爵家のライリー様がいらっしゃいました」
メイドのアンナに告げられて、私とルイスは一瞬顔を見合わせて気を引き締めた。
「マーガレット。大丈夫ですか?」
「私はもちろん大丈夫よ。それに今日はルイスもついていてくれるもの」
(私たちもいるよー)
(マーガレットの優秀な護衛なのー。えっへん)
(悪い奴は成敗してやろうか)
ルイスと妖精さん達という頼もしい皆に囲まれて、心強い気持ちで私はライリー様が待つ応接室に向かった。
ライリー様とソフィア様の縁談が取り下げになったという話は、事前にルイスのお父様から聞いていた。そして翌日には、ライリー様から私に会うためにモーガン伯爵家を訪問したいという先触れが届いた。
ルイスのお父様とお母様は、『人妻と二人で会いたいなどという先触れは非常識だ』と怒ってくださるとともに、ソフィア様との婚約の件での逆恨みを心配してくださったけれど、ルイスが同席するということでなんとかライリー様の訪問を許可してくださった。ただし、ライリー様の訪問中に起こった出来事はすべて報告することと、場合によってはモーガン伯爵家から正式にスミス伯爵家に抗議するという条件付きだったけれど。
お母さまがはかなくなってからルイスと結婚するまでは、私のことを守ってくれる家族なんてどこにもいなかった。
私は公爵家の娘として育ったけれど、たとえ私に何かあったとしてもシルバー公爵家はきっと何もしなかった。家族に助けてもらえないということは、私にとっていつの間にか当たり前のことになってしまっていた。私にとっての家族とは、嫌みを言われて、気が済むまで物差しで叩かれて、私の話なんて聞いてくれない人間達のことだった。私のことを見守って助けてくれるのは、いつだって妖精さん達だけだったから。
それに比べて、ルイスの家族はいつだってとても温かかった。何かあったら家族が守ってくれると思えるということは、私にとってとてもくすぐったくて、涙が出るほど幸福だと思えることだった。
応接室に入った瞬間に、私の目にはソフィア様のお屋敷で見たのと同じようなライリー様の不機嫌そうな顔が飛び込んできた。
「ライリー。久しぶりですね」
だけど、ルイスからの声かけにライリー様は少しだけその顔を綻ばせた。
「ルイス。お前は卒業しても変わらないな。……結婚式には出席できなくてすまなかった」
「騎士団に入団して最初の遠征だったのでしょう? ライリーはずっと騎士になることを目指していたのでそちらを優先するのは当然のことです」
「懐かしい。学生時代にはよくそんな話をしていたよな。キース殿下を支えるという夢はもう叶わないが、それでも俺は必ず騎士団長になるぞ」
ルイスと話しているライリー様があまりに自然体で、ソフィア様や私に対する棘のある態度とは全く違っていて、私は思わず唖然としてしまった。
「だがお前には女を見る目がないな」
ルイスと和やかに話していたはずのライリー様が突然睨みつけるように私を見た。
「自分だと俺より爵位が低いからとルイスの父親に泣きつくだなんて、随分卑怯な真似をするじゃないですか」
「私は、私の家族に事実を伝えただけです」
ライリー様の睨みに動じることなく平然と答えた私に、ライリー様は苛立ちを隠さなかった。
「マーガレット様のせいで俺は父親に怒られて、危うく謹慎までさせられそうになったんですよ!」
「これでソフィア様を盾に私を脅すことは永遠にできなくなりましたね」
「なんだとっ!」
私の言葉に激高して、思わずソファーから立ち上がりそうになったライリー様を見てルイスが声を荒げた。
「ライリー! 僕の妻を恫喝するのは止めてください!」
ルイスが声を荒げるだなんて……。こんなに感情的なルイスは今まで見たことがないわ。私の身に危険が及ぶことを心配してくれているのね……。私は思わずルイスを見つめてしまった。
「ルイス! お前は学生時代を共に過ごしたこの俺よりも、たかだか妻だからという理由だけでマーガレット様を庇うのか!?」
「ライリー。僕は、学生時代から貴方の女性達に対する態度を窘めてきたつもりです。少なくとも内面も知らない初対面の女性に対して酷い言葉で傷つけることは止めた方が良い、と」
「あの女達は俺の地位や名誉や顔を目当てに近寄ってきただけだ! その証拠に少し厳しいことを言っただけですぐに踵を返して怯えたようにそそくさと逃げて行ったじゃないか! 挙句に俺のことを冷たい人間だなどと言いふらしやがって!」
ルイスの話を聞く限り『少し』厳しいどころの暴言ではなかったけれど……。
「ソフィアだってそうだ! せっかく伯爵家の俺の婚約者になれるチャンスだったのに喜ぶどころか困ったような顔をしやがって! おまけに少し強く言っただけで怯えやがった!」
私が見た限り『少し』強く言ったどころの態度ではなかったけれど……。
私はライリー様の身勝手な言い分に呆れながらも口を開いた。
「ソフィア様は、ライリー様とは無関係の方なので呼び捨てにするのはお止めください」
ライリー様は忌々しそうに私を睨みつけた。そんなライリー様に対して、ルイスは冷静に話しかけた。
「シンシア様は違ったのですか?」
「はぁっ!?」
「シンシア様は、ライリーの言っているような地位や名誉や顔を目当てに近寄ってきた人間とは違ったのですか? ソフィア様を利用して傷つけてでも手に入れたいと思い詰めるほどに?」
ルイスのその冷たい声にライリー様は一瞬怯んだ。だけど、必死の形相で話し出した。
「シンシア様は、シンシア様だけは! 俺が厳しい言葉を吐いても怯えなかった。変わらずに俺のことを知りたいと言った。今までそんな女はいなかった。どんな女も少し厳しいことを言っただけで手のひらを返したように俺から離れて行った。シンシア様だけはどんな俺でも変わらずに接してくれた。だから俺はシンシア様が時々見せる歪んだ顔さえも、それさえも愛しいと……」
「ライリー様は、シンシアの歪みに気付いていたのですか?」
思わずライリー様に問いかけてしまった。
だって、ライリー様はキース殿下と同じだと思っていたから。シンシアの愛らしい表面的な顔を見て、その様子を好ましいと感じているのだと思っていたから。シンシアがシルバー公爵家で見せていた歪んだ顔なんて知らずに愛していたのだと、そう思っていたから。
「マーガレット様に虐げられたと話している時のシンシア様の顔は、いつも歪んでいましたよ。なぁ。ルイスも気付いていただろう?」
そんなライリー様の言葉にルイスは気まずそうに顔を伏せた。きっと私に気を遣ってくれているのだわ。……シンシアが私から虐げられていると言いふらしていたことは知っていたから。そんなこと気にしなくても良いのに……。それでも私を心配していたわってくれるルイスのその優しさを嬉しいと思う。
「ライリー様は、その歪みさえ含めて、それでもなおシンシアのことを……?」
「シンシア様はきっと優秀な異母姉を貶めることでしか自分の価値を認められない不憫な女性なんでしょう。だから俺が助けてあげないといけないんです。俺だけがシンシア様を助けてあげることが出来るんです」
そんなことを言うライリー様は、まるで自分自身の言葉に酔っているかのようだった。
……シンシアが不憫? じゃあ私は? お母さまの形見のブローチ以外すべて奪われて、虐げられてきた私は?
「シンシア様は不憫な女性などではないですよ。それにこの世の中に誰かから不憫などと決めつけられて良いような人間はいません」
私の心を代弁するかのように、ルイスはきっぱりと言ってくれた。
「ルイス。お前は俺を、学生時代の友人であるこの俺を否定するのか?」
「僕は、誰かの考えを否定したりなどしません。ですが自分が正しいと思うものしか肯定もしません」
「マーガレット様のせいだ! 貴女のせいでキース殿下もルイスも変わってしまった!」
ライリー様はそう言って、今までで一番鋭く私を睨みつけた。その目はひどく鋭くて、その視線だけで殺されてしまうのではないかと錯覚してしまうほどだった。一瞬怯んだ私の隣でルイスが何か言いかけたけれど、それより前に妖精さん達が行動を起こした。
(マーガレットに意地悪するやつはやっつけるのー)
(ばっしゃばしゃの刑ー)
(前回より水量を二倍にしてやろうか)
妖精さん達の言葉と共に、ライリー様の頭の上からソフィア様のお屋敷の時と同じようにまた水が降り注いだ。初めて見るその光景にルイスは驚愕していた。その間にも妖精さん達はライリー様に何度も水を降らせていた。
(もっともっとばっしゃばっしゃにするのー)
(マーガレットに酷いこといっぱい言ったからやっつけるのー)
(次の水は辛辛にしてやろうか、それとも苦苦にしてやろうか)
くっきー、しょこら、みんと。さすがにもうやめて。ライリー様とソフィア様の婚約はなかったことになったからもう大丈夫よ。
私の説得を聞いて妖精さん達がやっと水を降らせるのを止めた後には、びしょ濡れになったライリー様が取り残されていた。
……すごい。ライリー様だけがびしょ濡れ状態で、床やソファーは全く濡れていないわ。妖精さん達の室内を配慮したやっつけ方に私は思わず感心してしまった。これなら後片付けで使用人達の手を煩わせなくて良いわね! なんてことまで思わず考えてしまった。
「前回のことといい、なんだこれは! 伯爵令息であるこの俺にこんなことをしてどういうつもりだ! マーガレット様を訴えますよ!」
びしょ濡れのライリー様は激高していた。
「マーガレットを訴える、ですか? どういった件で? マーガレットを睨みつけたら天罰がくだって室内なのに突然水が降ってきたとでも訴えるつもりですか?」
ルイスに冷静に言われてライリー様は何も言い返せなくなっていた。確かにそんなことで訴えたら、意味不明すぎてライリー様がおかしくなったと思われてしまうわ。
「そっ、それに! もしかしてミントのことにもマーガレット様が関わっているんじゃないのか!?」
「……ミント?」
その聞きなれた単語に嫌な予感がしすぎて、ライリー様に聞き返してしまった。
「ソフィアの屋敷でマーガレット様と話した日の夜から、毎晩毎晩大量のミントの葉にぐるぐるに巻かれて動けなくなる夢や、ミントでお口がすっきりさせられる夢を見るんだっ! そしてなぜか俺がミントに謝罪するまでその夢は決して覚めなくて! 訳が分からな過ぎていい加減ノイローゼになりそうなんだよっ!」
思い当たる原因がどう考えても一つしかなくて、私は慌てて妖精さん達の方を向いた。
くっきーとしょこらは、私から不自然に目を逸らして口笛を吹いていた。みんとは、ライリー様を見ていたずらっぽく笑っていた。
みんと。もしかしなくても貴方がライリー様にやってるわね?
(ミントを罵った恨み忘れまじ。妖精は執念深いのだと思い知らせてやろうか)
みんと。ライリー様の様子がおかしいからさすがにもうやめてあげて。
(だっだが、ここでやめたらミントを馬鹿にした男の末路が、みっ見られなくなってしまう)
み、ん、と。
(志半ばで断念するとは、我、無念なり)
しょんぼりとしたみんとが心なしかいつもよりも弱めに羽をパタパタさせて飛んで行った。そんなみんとを、くっきーとしょこらが追いかけて行った。
(みんと元気出してー)
(僕は食べるとスースーするからミント好きだよー)
そんな妖精さん達の様子を見て、呆れながらも思わず可愛いと思ってしまっていた私と、落ち込むみんとを見て戸惑うルイスに、ライリー様は自分が無視をされていると感じたのか声を荒げた。
「シンシア様だって男爵にすぎないキース男爵とこのまま結婚生活を続けるよりも、次期騎士団長で伯爵家当主の俺と結婚する方がよっぽど幸せになれる! マーガレット様は自分がルイスと結婚出来て幸せだから異母妹の幸せなんてどうでもいいんですね! これ以上こんなに冷たい人間と話していても気分が悪い!」
言いたいことだけ言ったライリー様は、びしょ濡れのままモーガン伯爵家から出て行った。
「マーガレット。僕が不甲斐ないばかりに貴女に不快な思いをさせることになってしまいすみません」
ライリー様が帰った後でルイスは悲しそうな顔をしていた。
「不甲斐ないだなんて……。どうして?」
「僕は、最後のライリーの暴言を何としてでも止めるべきでした」
「ルイスはいつだって私を、自分に出来る精一杯で守ってくれるじゃない? そのおかげで私は今も笑っていられるのよ? それに……最後のライリー様の言葉は、きっと私自身が自分と向き合ってしっかりと考えなくてはいけないことだから……」
言いながら私は、オリバー殿下の歓迎パーティーでキース男爵から言われた言葉を思い出していた。
『……だけれど……マーガレットはただの一度さえもシンシアに会いには来なかったね。……もしも……本当にもしも……シンシアがこんなに我儘になる前に……マーガレットが止めてくれたなら……。マーガレットがシンシアを諦めさえしなければ……』
確かにシルバー公爵家にいたころの私は、いつだって自分のことだけで精一杯だった。妖精さん達に守ってもらっていたからなんとか呼吸が出来ていたような状態だった。
……だから、シンシアの幸せが何かなんて考えたことがなかったわ。
「……私はきっとシンシアに会いに行かなければいけないと思うの……」
「マーガレット。以前も言いましたが、マーガレットがシンシア様を諦めてくれて本当に良かったと僕は心から思っているのです」
「私自身のためにも。……私は、今まで自分の心を守るのに精一杯でシンシアがどうして自分を虐げるのかなんて、その理由すら考えたこともなかったわ。だけど、今なら。ルイスが私の心を守ってくれているから。だから、今なら。シンシアの本当の気持ちを知りたいと……そう思うの。きっとそれは、私自身が前に進むためにも必要なことなのだとそう思うの」
私はゆっくりと自分の中で考えながら言葉を選んで、それを口から出した。後悔しないように。
「……マーガレットがそう決めたのなら、僕はそれを支えます」
「ルイスの言葉はいつだって私の背中を押してくれるの。……いつも私を信じてくれてありがとう」
ルイスの優しさを感じながら、それでも私は自分で口にしたことなのに、やはりシンシアに会うことを心のどこかで躊躇っていた。

「マーガレット様。今日はお越しくださいましてありがとうございます。それにライリー様の件も本当にありがとうございました!」
先日のお手紙で『マーガレット様に直接御礼を伝えたい』と言ってくださったソフィア様の気持ちが嬉しくて、私はまたホワイト男爵家を訪れていた。
「私がソフィア様のために出来たことなんてきっと何もないわ。だけど、何よりもソフィア様に明るい笑顔が戻って本当に嬉しいわ」
私の言葉に、ソフィア様はとても嬉しそうに笑ってくださった。そんなソフィア様の笑顔を見て心がふんわりと温かくなっていた私の耳に、楽しそうな妖精さん達の声が飛び込んできた。
(いいにおいがするのー)
(ショコラミントクッキーのにおいだよー)
(他にもたくさんの美味しい匂いがするのだと気付いてやろうか)
妖精さん達ははしゃいで応接室の方に飛んで行った。
「マーガレット様。応接室にご案内します」
楽しそうな妖精さん達を見つめていた私に声をかけてくれたのはシャーロットだった。
「シャーロット。ありがとう」
ソフィア様とシャーロットと一緒に応接室に向かいながら、私はついつい執事を捜していた。いつもだったらシャーロットと一緒に玄関ホールで迎えてくれるのに……。今日はお休みなのかしら?
(めがねがいるのー)
(カナンもいるよー)
(パーティーの始まりは、シャンパンのはちみつ割りミント添えオリジナルカクテルで乾杯をさせてやろうか)
えっ? ルイスに、カナン様? 妖精さん達は何を言っているのかしら? ルイスは今日もお仕事に向かったし、カナン様がいらっしゃるだなんて聞いていないわ。
「扉を開けますよ!」
困惑している私の隣で、ソフィア様が応接室のドアに向かって大きい声をあげた。……こんなに大きな声を出すなんてソフィア様どうしたのかしら? 更に困惑する私の目の前でシャーロットが応接室の扉を開けた。
「「「マーガレット様、お誕生日おめでとうございます(ですわ)!!!」」」
私は、目の前に広がる光景に愕然とした。
応接室の中では、妖精さん達の言葉通りルイスとカナン様に執事とシェフまでもが勢ぞろいして私に向かって微笑んでいた。そして、テーブルの上にはショコラミントクッキーやショートケーキにチーズタルトなどのたくさんのスイーツに、サンドイッチやポテトフライなどの軽食が揃っていた。そして、シャンパンのボトルと紅茶のティーポットまでもが並べられていた。
「これは一体……」
混乱する私に向かって、ソフィア様が優しく答えてくださった。
「マーガレット様の十八歳のお誕生日を皆でお祝いしたくて、少し早いですがサプライズです」
「サプライズ……」
私は皆の顔を見回した。皆とても優しい笑顔で私を見つめてくれていた。
「ルイスは仕事なんじゃ……」
「生まれて初めて嘘をつきました」
「……優しい嘘ね。それにカナン様までいらっしゃるなんて……」
「お誕生日をお祝いするのは当然のことですわ! 友達なのですから!」
「ありがとうございます。去年もですが、カナン様にお友達と言っていただけて本当に嬉しいです」
私は改めて一人一人の顔を見た。
「ソフィア様達も忙しいのにこんなに準備をしてくれてありがとう。とても嬉しいわ」
(お誕生日当日は私たちが一番にお祝いするのー)
(今年はめがねに一番は譲らないよー)
(忘れられない最高の記念日にしてやろうか)
くっきー、しょこら、みんとも毎年ありがとう! 貴方達に毎年お祝いしてもらえて本当に幸せなの。

くっきーの明るい笑顔、しょこらの照れたような甘い顔、みんとの満足げな顔。ルイスの温かい笑顔。カナン様の得意げな顔。ソフィア様の優しい笑顔。シャーロットの懐かしい笑顔。涙ぐむシェフ。そして、緑色の瞳で私を見つめる執事……。
皆の優しさを感じて。去年と変わらない温かさが胸に溢れて。きっとこれからもこの方達は変わらずに、私の側にいてくれるんだろうなという安心感と揺るぎない信頼で満たされて。それだけで、たまらなく幸せで。生まれてきて良かったと。産んでくださったお母さまへの感謝が沸き上がってきて。
そして、執事の、お父さまの、その瞳を見ていたら、お母さまと同じ私の青い瞳からはいつかと同じようにまた涙が溢れてきた。
「マーガレット! どうかしましたか?」
「マーガレット様? 大丈夫ですか?」
「また目にゴミが入ったのならすぐに流さなければいけないのですわ!」
私の目から涙が溢れた瞬間、笑顔だった皆の顔がとても心配そうなものに変わって、私は慌ててしまった。
「違うんです! これは嬉しくて……。人前で涙を見せるだなんて貴族女性のしていいことではありませんが、抑えられないくらい皆のサプライズが嬉しくて……。本当にありがとうございます」
私の言葉を聞いた皆が一斉に嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見ているだけで、私の心はまた満たされていくようだった。
「それでもすぐに目を冷やした方がいいでしょう。濡らしたタオルを用意しますので、マーガレット様は客間でお休みになってください」
私の心にお父さまの心配そうな声が届いた。
「マーカスありがとう。マーガレット様。目が腫れてしまうといけないので、少しお休みください。マーガレット様が戻られましたら、皆で乾杯をしましょう」
ソフィア様の優しさが沁みてきた。
「僕が付き添います」
ルイスがそっと私の肩を支えた。
「すぐに執事が濡らしたタオルをお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
ルイスと私を客間に案内してくれたシャーロットは綺麗なお辞儀をして、部屋から出て行った。きっと気を遣ってルイスと二人にしてくれたのね。
「ソフィア様からサプライズパーティーの連絡が来た時には驚きましたが、マーガレットが喜んでくれて本当に嬉しいです」
「まさかサプライズパーティーだなんて想像もしていなかったから、すごく驚いたわ。でもそれ以上にすごく嬉しかったの。私のために皆が時間を割いて集まってくださったことも。ソフィア様達がたくさんの準備をしてくださったことも。すべて」
「誕生日の当日は僕にお祝いをさせてください。今年も抱えきれないほどのマーガレットの花束を贈ります」
「ルイス。ありがとう。それもとても楽しみだわ。……私もこれから毎年ルイスのお誕生日には、手作りのショコラミントクッキーを贈るわ」
「それは……とても楽しみです。楽しみすぎて前日は眠れないかもしれません……」
ルイスと私が見つめ合っている時に、扉がノックされた。
「濡らしたタオルをお持ちしました」
客間に入ってきた執事は、私にタオルを渡してくれた。
目が合うと心配そうに見つめてくれて、それが嬉しくて、私は思わず微笑んだ。
まさか本当のお父さまとお会いできるだけでなく、十八歳のお誕生日をお祝いしていただけるなんて、そんなことお母さまからのお手紙を読んだ十六歳の時には想像もしていなかった。この現実が本当に嬉しくて、私はまた泣きたくなった。
「マーガレット……?」
お父さまに夢中になっていた私は、ルイスの発した声で我に返った。ルイスは、私の隣で息を吞んでいた。
ルイスは、学園に通っていたころからずっと私を見てくれていた。だから、きっとお父さまに対する私の様子がいつもと違うことに気付いたのだわ。
私の瞳が、家族を映していることに。
ルイス以外の人間なら決して気付かないような些細な私の変化に、ルイスだからこそ気付いたのだわ。
ルイスは静かに私の顔を見つめて、それからお父さまの顔を見つめた。
そしてお父さまのタイピンに視線を移した時に、私のお母さまの形見のブローチとペアのようにそっくりなことに、その宝石の色の意味さえも含めてきっと気付いたのだろう、とても驚いた顔をした。
私はそんなルイスに対して何も言うことができなかった。客間に長い沈黙が流れた後で、ルイスは立ち上がった。
「僕は先に戻っています。すみませんが、マーガレットが休んでいる間、付き添っていてくださいますか?」
ルイスから声をかけられた執事は、一瞬とても驚いた顔をしたけれどすぐに真顔に戻って頷いた。
「マーガレット様が落ち着かれましたら、応接室にご案内します」
「ありがとうございます。僕は一人で戻れますので、このまま応接室に向かいます」
ルイスは、お父さまと私が残された客間の扉をしっかりと閉めた。そしてそのまま客間を後にした。
……ルイスは気付いていたわ。
執事が、私の本当のお父さまであるという事実に……。
だからこそ私が男性と二人きりになるのにもかかわらずしっかりと扉を閉めたのだわ。だけど、何も言わずにいてくれた。それだけなく、お父さまと向かい合う時間を与えてくれた。もしもチャンスがあれば、私はお父さまにどうしてもお伝えしたいことがあった。だけど、お友達のお屋敷の執事と二人きりになる機会なんてそうそう訪れるはずがない。前回お父さまと二人きりでお話ができたのは本当に恵まれていたのだと、きっと最後のチャンスだったのだと、そう諦めていたのに。ルイスが私にもう一度お父さまと向き合う時間を与えてくれた。
私は、ルイスが与えてくれた大切な時間を無駄にしないよう決意を込めて妖精さん達の方を見た。
くっきー、しょこら、みんと。お願いがあるの。
(マーガレットのお願いー? なぁにー?)
(なんでも叶えるよー)
(この屋敷ごとシャンパンでしゅわしゅわにしてやろうか?)
十六歳の誕生日の日にお母さまが私に贈ってくださったあのお手紙を出してほしいの。
(いいよー)
(そんなの簡単だよー)
(我々の手にかかればちょちょいのちょいだと教えてやろうか)
妖精さん達の言葉と共に何度も何度も読み返した大切なお手紙が私の手元に現れた。その通常ならありえない出来事にお父さまは驚いた顔をしたけれど、何も言わずに私を見つめていた。
「マーカス様に読んでいただきたい……読んでいただくべきだと思うお手紙があるのです」
「……私に、ですか?」
「私の母から十六歳の誕生日に贈られた私宛の最初で最後のお手紙です」
「スカーレット様からの……」
お父さまは今度こそとても驚いたまま、その緑色の瞳を揺らした。私はそんなお父さまにそっと一通のお手紙を差し出した。戸惑いながらも、お父さまはそのお手紙を読み始めた。
お母さまとお父さまはお別れもできないまま引き離された。だから、私はお母さまの気持ちを、引き離されてからも心の底では変わらずに持ち続けていたお父さまへの想いを、どうしてもお父さまには知っていてほしいと、そう願ったの。それに、先日シャーロットが話していた三通目のお手紙。そのお手紙にはきっとこのお手紙に書かれていたのと同じように、お父さまへの想いが書かれていたのだと思うから。
だから、私はこのお手紙をお父さまに読んでいただきたいと、そう願ったの。
そんな私をずっと側で支えてくれたのが、専属執事のマーカスでした。マーカスは、いつだって私の側にいて、励まして、支えて、時には私の涙を拭いてくれました。
私は、マーカスに恋をしました。
身分が違う私達が本当の意味で結ばれることはありえないことでしたが、それでも私は彼に恋をしたのです。
そして、あなたを授かりました。
あなたは、あなたの本当のお父さまと私が心から愛し合って生まれた、かけがえのない宝物です。
お手紙を読むお父さまの表情はとても真剣だった。そして、お手紙を読み終えた時に、その緑色の瞳から一粒の涙を流した。
私が家族のことを思うと思わず泣いてしまうのは、お父さまとお母さま譲りなのかもしれないわ。些細なことだけれど、それでも、血の繋がりを感じられることが嬉しいと、そう思った。
「スカーレット様は、太陽のような人でした」
お父さまは、とても愛しそうに言葉を紡いだ。
「私の前ではよくご自分のことを『平凡でなんの取り柄もない』などと言って嘆いておられましたが、周囲から見れば完璧な伯爵令嬢でした。それでも、スカーレット様ご自身は、特にご両親の前では……『失望されたくない』といつも委縮されていました。……ですが、私と二人の時にはとても活き活きとしていました。少しでも楽しいことがあるとすぐに笑って、うまくいかないと悔しがり、悲しいと素直に泣いて、些細なことでも納得がいかないと怒り、感情がすぐに顔に出る方でした。その天真爛漫な明るさは、まるで太陽みたいに眩しく私を照らしてくれました。……そして、他の人間の前では完璧な貴族令嬢として振る舞える彼女が、そのように自由な行動をするのは自分の前だけだと気付いた時には、彼女を愛していました」
お父さまはそこで言葉を切って、それからまっすぐに私を見つめた。
「私は、彼女と出会えたことを、彼女に愛していただけたことを奇跡だと思っています。そして、彼女の子どもを何よりもかけがえのない宝物だと思っています。生まれてきてくれて本当に良かったと心から感謝しています」
私の名前を出すことはなかったけれど、それでもお父さまからまっすぐに『宝物』だと伝えられて、私の青色の瞳からも一粒の涙が流れた。
そこから言葉はいらなくて、私達は二人で見つめ合った。ただそれだけで、離れていた長い時間が満たされていくようだった。
「……一年程前のとてもよく晴れた日に、青空が突然真っ白に染まりました。それは空を埋め尽くす程のまっ白なマーガレットの花びらでした」
ふいにお父さまが口を開いた。
「あの日は、私にとってとても特別な日で、『大切な人が幸せになれますように』と祈りながら何度も空を見上げていたのでよく覚えています」
それは私の結婚式の……。お父さまが幸せを祈っていた相手はきっと……。
「そして空に現れたマーガレットの花びらは地上に降り注ぎ、そのうちの一枚の花びらが私の手元に落ちてきました。信じられないことにその花びらは、私の手のひらで一輪のマーガレットの花に変わりました。私だけでなく、シャーロットやシェフ、この屋敷の使用人全員に同じことが起こっていました。気付くと皆の手には一輪のマーガレットの花が握られていたのです」
お父さまは緑色の瞳を輝かせて眩しそうに私を見つめた。
「そのマーガレットの花びらはソルト王国だけでなく世界中に飛んで行き、病める人の許では薬になり、飢える人の許ではパンになり、窮する人の許では金貨になったと聞きました。その話を聞いて、その花びらが手のひらで一輪のマーガレットの花に変わった自分はなんて恵まれているのだろうと思ったのです」
「……恵まれている?」
「私は、私だけでなくこの屋敷で働く人間達は、病んでもいないし、飢えてもいないし、窮してもいないということを改めて感じることができたのです」
そんな風に思っていただけたなんて。
「……オルタナ帝国でそれまで勤めていたお屋敷を追い出されてから、このお屋敷で働かせていただくまでの間に色々なことがありました。……飢えて、窮して、絶望しそうになった苦しい時間もありました。もしもあの苦しかった時に花びらが舞い落ちたなら、間違いなく一輪のマーガレットの花には変わらなかったのだと思います。もしあの時に目の前でマーガレットの花びらがパンになったのなら、金貨になったのなら、そんな奇跡が目の前で起こったのなら、それはあの時の私にとってはとてつもない救いになったと思います。けれど、病んでいない、飢えていない、窮していない今でさえそれはとてつもない希望になりました」
お父さまの言葉を聞いて、私はレオナルド殿下から言っていただいた言葉を思い出した。
『マーガレット様の結婚式での出来事は希望になったと思うんだ』
『だけどそれは、ただ薬や、パンや、金貨を与えられたからという物理的な話だけではなく、奇跡が起きたという精神的な希望によって』
「私は、マーガレット様を誇りに思います」
お父さまの言葉は、私の体中に染み入るようだった。
「それは、スカーレット様からのお手紙にあるようにマーガレット様が妖精の愛し子だからではありません。ソフィア様の、友人の幸せのために自らの危険も顧みずライリー様に向かってくださるマーガレット様だからこそ。私は妖精の愛し子だからではなく、マーガレット様ご自身を愛しているのです」
それは何物にも替えがたい、私にとってのかけがえのない言葉になった。
十六歳になったその日にお母さまからいただいたお手紙には、誰にも言えない私の秘密が二つ記されていた。
一つは、私が妖精の愛し子であること。
一つは、私がシルバー公爵の本当の娘ではないこと。
その二つの秘密をどちらも知る人間は、今のこの世界には私以外に二人しかいない。
一人は、目の前で私を見つめる唯一無二のお父さま。
一人は、きっと先ほど私の秘密に気が付いた、だけど何も言わずに受け止めてくれた大切なルイス。
タオルで目を冷やした後で、私と執事は皆のいる応接室に戻った。皆は楽しそうに話をしていたけれど、飲み物にもお菓子にも手をつけずに私を待っていてくれた。
「マーガレット様おかえりなさいませ」
ソフィア様が優しく笑って微笑んでくれて。
「目が腫れていなくて安心したのですわ」
カナン様が心配そうに言ってくださって。
「すぐに飲み物の準備をします」
シャーロットが懐かしい働きぶりで。
「今日のショコラミントクッキーには僕の魂が籠っています」
シェフがドヤ顔をしていて。
(私たちもマーガレットが来るまで我慢したのー)
(つまみ食いなんてしてないよー)
(乾杯を待ちわびていたと伝えてやろうか)
妖精さん達がとても元気で。
「マーガレット。乾杯をしましょう」
ルイスが何も変わらず私に微笑んでくれた。
私にはこんなにも大切な人達が近くにいてくれて、病んでもいないし、飢えてもいないし、窮してもいない、それはどれほど恵まれていることなのか、やっと気付いた。
シンシアに会いに行くというほんの少し戸惑っていた気持ちに、今は迷いはなかった。
そして、フェスティバルでのスピーチも前向きに考えようと思った。こんな私でも、それでも誰かの希望になれるなら。私は、私に出来ることならどんなことでもやってみようと思った。
「「「「「「「乾杯(ですわ)!!」」」」」」」
ルイスとカナン様とソフィア様と私はシャンパングラスで、仕事中の執事とシャーロットとシェフはティーカップで乾杯をした。
一口飲んだそのシャンパンは、もしかしたらオルタナ帝国の皇城で出されたものとは品質は違うかもしれないけれど、それでも私には結婚式の時と同じくらいに幸せな味がした。
「ルイス様! すでに顔が真っ赤ですわ! そのようにアルコールに弱くては次期宰相候補には相応しくないのですわ!」
シャンパンを飲みながら美味しいお菓子や軽食をつまんでしばらく経った頃にカナン様の声が響いた。ルイスがアルコールを飲むとすぐ真っ赤になるのはいつものことだけれど……。それよりもカナン様も真っ赤なお顔をされているわ。それに言っていることもなんだかおかしいような……宰相とアルコールの強さは関係ないように思えるけれど……。
「カナン様。僕はこの眼鏡に懸けて、マーガレットを生涯愛することを誓った男です」
「ルイス様。その眼鏡に懸けて誓ったということは絶対に破棄することなどできませんわよ」
「カナン様。もちろんです。僕の眼鏡に対する誠実さはご存知でしょう?」
「ルイス様。それを言われてしまうと私はもう何も言えないのですわ。私は、貴方の眼鏡に対する愛情は認めているのですわ」
「カナン様。まだまだです。僕のマーガレットに対する愛情と眼鏡に対する愛情は無限なのです」
「ルイス様。べっ、別にすっ少しも羨ましくなどないのですわ。私だっていつか無限に愛してくださる方を見つけるのですわ」
「カナン様。カナン様にも必ず素敵な方が見つかると僕がこのスペアの眼鏡に懸けて宣言します」
「ルイス様。ルイス様のスペアの眼鏡に懸けて宣言されても少しも嬉しくないのですわ」
「カナン様。ではカナン様はどのような男性が好みなのですか?」
酔っ払ったルイスのぶしつけな質問に私は慌てた。隣にいたソフィア様も慌てていた。
以前、三人でお茶をした時にソフィア様がカナン様に同じ質問をしたことがあるのだけれど、その時のカナン様は、顔を少し赤くして、『そのようなこと言いたくないですわ』としか答えてくださらなかったから。
だけど、そんな私達の心配を余所にカナン様はルイスにはっきりと答えていた。
「ルイス様。私は、怒ってくれる人が良いのですわ。私のために怒ってくれる人。私は、理不尽なことや納得のいかないことがあれば、言いたいことは自分で言えますが、それでも私のために一緒に怒ってくれる人がいたらきっと嬉しいのですわ。それから私に怒ってくれる人。私が我儘だったり、悪いことをしてしまったらそんな私をきちんと怒ってくれる人が良いのですわ」
私とソフィア様は目を見合わせた。
「ソフィア様。もしかしてカナン様もかなり酔っ払っているのかしら……」
ソフィア様はいつもの優しい笑顔で楽しそうに笑った。
「どうやらカナン様もアルコールには強くないようですね。マーガレット様の結婚式の時も乾杯のシャンパンでお顔を赤くしていらっしゃいましたが、炭酸が苦手なようで一口しか召し上がっていなかったんです。今日はグラスを飲み干していらっしゃるからか、かなり酔っているようですね」
「ルイスもかなり酔っ払っているみたい」
「きっとお二人ともマーガレット様のお誕生日をお祝いできるのが嬉しくて、楽しくてつい飲みすぎてしまったんですね」
「私もついつい飲みすぎて、少し顔が熱くなってきたみたい。……ソフィア様は結構召し上がっているけど、全然平気そうね?」
「私はたまにお父様とワインを嗜んでいるので……」
「きっとソフィア様はアルコールに強いのね」
「嗜むといっても、チョコレートやチーズと一緒に赤ワインを一本飲み干す程度ですが」
「二人で一本だったら十分だわ」
「いえ。一人一本です」
「えっ? 一人で? ソフィア様が? ワインを一本飲むの? えっ? 一人で?」
驚きすぎて思わず大きい声を出してしまった私に、ソフィア様は照れくさそうに微笑んだ。
(まだお土産のはちみつが残ってたのらーうぃー)
(僕たちもはちみつで乾杯したのらーうぃー)
(我、酔っ払いなり)
ただでさえソフィア様の酒豪っぷりに驚いていた私の耳に、次から次へと酔っ払い達の声が聞こえてきた。
「ルイス様。私だって本気を出せばワインの十本くらい余裕で飲み干せるのですわ」
「カナン様。体のためにも飲みすぎはお勧めしませんが、僕だってワインの二十本くらい素面で飲めます」
(レオが好きらーうぃー)
(かんぱーいーうぃー)
(乾杯とは乾杯なのである)
呆れつつも、とても楽しそうなルイスやカナン様や妖精さん達の声を聞いていたら、なんだか私までとても楽しくなってきた。
「大切な人達に囲まれてお祝いをしていただいて、とても幸せな誕生日のサプライズパーティーだわ。皆本当にありがとう」
私は、ホワイト男爵家の皆に向かって言った。そんな私の言葉に、ソフィア様も執事もシャーロットもシェフも、とても嬉しそうに笑ってくれた。

「ミラー男爵領まではあと二時間くらいですわ!」
シンシアの住んでいるミラー男爵家のお屋敷へは、キーファ公爵家の馬車に乗せていただきカナン様と一緒に向かっていた。
あの誕生日パーティーで私が『シンシアに会いに行く』という話をすると、カナン様から『私も一緒に行くのですわ』という申し出をいただいて、あっという間に日程を決めてくださったのよね。
「カナン様。今日は本当にありがとうございます」
「私は、私が行きたいと思ったから行くだけですわ。それに……ソフィア様の婚約の件では、何も知らなくて力になれず悔しかったのですわ」
「ソフィア様はきっとカナン様に心配をかけたくなかったのですよ」
「それでも私に言ってくだされば、ライリー様など学生時代と同じようにすぐに追い払ってあげたのですわ」
「えっ? カナン様は学生時代からライリー様と交流があったのですか? 私はお顔は知っていたのですがお話ししたことはなくて……」
「入学してすぐの頃に、サナ子爵令嬢がライリー様に話しかけたら侮辱をされたらしく目を真っ赤にしていたのです。それですぐにライリー様のところに行って『女性を泣かせるだなんてキース殿下の側近候補に相応しくないですわ』と忠告してさしあげたのですわ」
その光景がすぐに想像できて私は思わず笑いそうになってしまった。……だけど、あんなに女性を侮蔑しているライリー様にそんなことを言ってしまって大丈夫だったのかしら?
「それでライリー様はなんと?」
「何も言わなかったのですわ」
「……何も?」
「ずっと呆然としたまま無言だったので、『このままではお話にならないので失礼しますわ』と言い残して帰ったのですわ」
あのライリー様が女性相手に呆然として何も言えないだなんて……。私は、以前カナン様のお名前を出した時にライリー様の顔が一瞬引きつったように見えたことを思い出した。あのライリー様を呆然とさせるだなんて、さすがカナン様だわ。
「マーガレット様。私は、キース男爵と結婚した後にもシンシア様と会話をしたことがございます。……彼女は自分の何が悪かったのかきっと未だに理解出来ていないのですわ」
そろそろミラー男爵領に着くという頃に、カナン様はそれまでのとりとめのない話から一転して真剣な顔をした。
「……はい。……ですが……私はもうシンシアの言葉や行動では傷つきません」
私も真剣に答えた。大丈夫。だって、ルイスが、カナン様が、側で支えてくれる皆様が、今の私にはいてくれるから。だから……幼かったあの頃の自分とはきっともう違うのだから……。
私の決意表明にも似た言葉を聞いてカナン様は、納得したように優しく微笑んだ。
「……マーガレット様! 私は、子どもの頃にガーデンパーティーでマーガレット様と出会えたおかげで成長できたと思っているのですわ」
微笑んでいたカナン様が突然硬い顔をして言うので、私は戸惑った。
「カナン様。ありがとうございます。……急にどうされたのですか?」
「……本当はマーガレット様にお伝えしたいことがもっとたくさんあるのですが……。ですが今日のところはここまでですわ!」
「……えっ?」
「次はもっと素直に気持ちを伝えられるように精進するのですわ!」
めらめらと決意を固めるカナン様についていけず、私はただカナン様のまっすぐな瞳を見つめることしか出来なかった。