◆ライリーの嫉しつ妬と◆


 なぜあの時、キース男爵の名前を呼んだシンシア様を怒いかりに任せて殴ってしまったのか。数週間経たった今でも俺には分からなかった。

 出会った時からずっとシンシア様のことをあんなに愛いとしいと思っていたのに。

 元第一王子の妻である貴族女性を暴行した罪であっけなく俺は捕つかまった。捕まったとはいえ入れられているのは貴族牢ろうだ。労働もないし、食事もまともなものがきちんと提供される。ただ無む為いな時間だけが過ぎていく、そんな場所だった。


「お前は人間として最低なことをした。ここから出たら一から鍛きたえなおすから覚かく悟ごしろ」


 俺が捕まって初めて面会に来た時の父親は、たった数日会わなかっただけなのに随ずい分ぶんとやつれていた。ずっと背中を追ってきた尊敬する父親に軽けい蔑べつするように見られたことがショックだった。そして同時に騎士団を解かい雇こになったことも教えられた。

 きっと牢から出た後が俺にとっての本当の地じ獄ごくの始まりなんだろう。



「ライリー様は、恋こい人びとはいらっしゃらないんですか?」

 学園に入学して初めて女性に話しかけられた時、今まで訓練ばかりしていて女性に免めん疫えきのなかった俺は動どう揺ようしてしまってどう答えればいいかわからなかった。


「どうせ爵しやく位いが目当てなんだろう?」


 頭が真っ白になった俺の口から出たのはそんな言葉だった。俺に話しかけた女性はひどく傷ついたような怯えた顔をしてその場から去っていった。何も言わずに去っていくなんて、自分から話しかけてきたくせになんて失礼な女なんだ。本気でそう思った。

 それからは女性に話しかけられるとわざと最初の女と同じような厳しいことを言った。そうすると媚びるように俺を見つめていた目が一気に冷めて皆みんな逃にげて行った。勝手に話しかけてきたくせに思い通りの反応じゃないと被ひ害がい者しや面づらして逃げ出すなんて、女は皆ろくでもない。そんな女なんてこっちから願い下げだ。

 そんな態度で過ごしていたら入学して数か月しか経っていないのに、あんなに俺の周りに溢あふれていた女達は一人もいなくなった。……なぜだ?

 ルイスの許もとにはいつまで経っても変わらずに女達が寄ってきていたのに。普ふ段だんはキース殿でん下かと、俺と、もう一人の側近で婚こん約やく者のいる侯こう爵しやく子息のバオンと一緒だったから話しかけられることはなかったが、ルイスが一人になった時やイベントの時なんかは顔を赤らめた女達に話しかけられているところを何度も見た。どうしてルイスの周りにはいつまでも女達が群がっているのに、俺の周りには誰だれもいなくなってしまったんだ?


 俺とルイスの何が違うんだ? 爵位は同じだ。将来だってルイスは次期宰さい相しよう候補かもしれないが、俺だって次期騎き士し団長候補だ。成績だってルイスは勉学は得意かもしれないが、実技は俺の方が優すぐれている。顔だって確かにルイスは整ったキレイな顔だちをしているが、俺だってそれなりにかっこいいと思っている。

 それにルイスはキース殿下に何の配はい慮りよもしていなかった。俺は実技の時に相手がキース殿下の場合は、キース殿下が気持ちよく勝てる最高のさじ加減でいつも負けていた。それなのにルイスは試験でキース殿下を差し置いていつも一位をとっていた。俺はルイスに忠告をしてやったことだってある。


「おいルイス。もっとキース殿下に配慮しろよ。そんな調子だとお前だけいつか側近から外されてしまうかもしれないぜ」

「僕は、僕に出来ることをやっているだけです。僕の方が試験の成績が良いという理由でキース殿下が僕を遠ざけるのであれば、僕はその決定に従うだけです」


 ルイスはいつもの真面目まじめな顔で当然のように言った。……そんなルイスに対して俺はそれ以上言葉を続けることは出来なかった。あの時、俺は多分そのままルイスを無視してその場から去ったんだったと思う。


 そんなルイスに対する鬱うつ屈くつした思いをひっそりと抱かかえている中で、俺はシンシア様に出会った。

 新入生歓かん迎げい会かいで俺のパートナーになった新入生の女は、上級生の、俺の同級生の女達から何かを聞いていたのか俺に対して終始ビクビクしていて入場するとすぐに俺の前から去っていった。くそ。なんなんだ。

 苛いら立だつ俺を救ったのは、シンシア様の言葉だった。

『ライリー様は信しん頼らい出来る人です!』

『これからライリー様のことをもっと教えてください! それに私のこともこれから知っていけばいいじゃないですか!』

『私は、ライリー様のことをもっと知りたいです!』


 こんなに可愛かわいい女性にそんなに可愛いことを言われたことなんてなかった。俺がどんなに厳しいことを言ってもきっとシンシア様は変わらずに俺に媚こびて、ずっと俺の側そばにいてくれると思った。だから俺はシンシア様を愛しいと思ったんだ。



 俺の知っている学園でのマーガレット・シルバーという女は、無表情で大人しいだけの女だった。王おう妃ひ教育は完かん璧ぺきだと聞いてはいたが、こんな女が王妃になれるか甚はなはだ疑問だった。だがソフィアの家で会ったマーガレット・モーガンという女は、強したたかで気の強い女だった。シルバー公こう爵しやく家を出て家族と離れ性格が変わったのかと思っていたが、モーガン伯はく爵しやく家で愛いとしそうにルイスを見つめるマーガレット・モーガンという女は、今まで見たどんなマーガレットとも違ちがっていた。

 なんだこの女は? どれが本当のマーガレットなんだ?

 俺は混乱したが、俺にとってマーガレットはただシンシア様の異母姉あねというだけのどうでも良い存在だったのでそれ以上考えることをやめた。

 だけど本当はあの時にもっと考えるべきだったんじゃないか? 牢での生活で俺はやっと考えた。

 マーガレットに色んな顔があるのと同じように、学園で俺が『俺に怯おびえた』という理由だけで侮ぶ蔑べつして切り捨てた女達にだってもっと他ほかの顔があったんじゃないのか?

 どんな俺でも受け入れていつだって俺に媚びてくると信じたシンシア様が、窮きゆう地ちに陥おちいった時に呼んだ名前は『キース』だったように。


 女には一面だけでなく、いろんな顔があるんじゃないのか? だとしたら、たったその一面を見ただけで『この女も他の女と同じだ』と侮蔑してシンシア様以外の女達を簡単に切り捨てた俺には、きっと何も見えていなかったんだろう。


 今の俺には、考える時間だけはたっぷりあった。それでもどんなに考えても俺には分からなかった。どうしてあんなに愛しいと思っていたはずのシンシア様のことを、あんなに簡単に、自分自身の手で殴なぐるなんてことができてしまったのか。



「今日は『聖女の儀ぎ式しき』の日だから牢でも恩おん恵けいが受けられるぞ」

 そう言って看守が運んできた食事はなるほどいつもより豪ごう華かだった。無為に過ごす日々の中で、今日が『聖女の儀式』の日だということすら忘れていた。


 一年前、シンシア様が『聖女の儀式』の日に『聖なる水すい晶しよう』を床ゆかに叩たたきつけた時には心底驚おどろいたが、顔を歪ゆがませながら必死で『なんで? なんで?』と叫さけび続ける彼女を醜みにくいと思うよりも、可哀かわい想そうに思う気持ちが勝まさった。やっぱりシンシア様には、俺に媚びるしか幸せになれる道はないんだと本気で思った。あれからまだ一年しか経たっていないのに、まさか今年の『聖女の儀式』はシンシア様を幸せにするために奔ほん走そうした結果、牢ろう屋やで迎むかえることになるなんて思ってもみなかった。


《私は、このような場所でスピーチをすべき人間ではきっとありません》


 なんだこれは? 突とつ然ぜん頭の中に誰かの声が流れ込んできて驚いた。それは俺だけじゃなかったようで、周りの牢からは驚きの声が上がっていたし、看守でさえ驚いた顔をしていた。

 その声は、凜りんとしていて、聞いているだけで心が澄すんでいくような、そんな声だった。

 よく聞くとその声は何度も聞いたことのある声で、ただシンシア様の異母姉であるだけのどうでも良い存在だと俺が過去に切り捨てた女の声だった。

 気付くと周囲の声が消えていた。きっと全員がそのスピーチを夢中で聞いているのだろう。俺も同じだった。そのスピーチをただひたすら真しん剣けんに聞いた。


 スピーチが終わった時、牢ろう獄ごく中が拍はく手しゆで包まれた。誰かのすすり泣く声がぼんやりと聞こえた。


 どうして愛していたはずのシンシア様をあんなに簡単に殴ってしまったのかやっと分かった。

 俺は、本当はシンシア様を愛してなんていなかったんだ。

 シンシア様は、ただ可愛くて、憐あわれで、扱あつかいやすくて、そんな都合の良い存在だったから。きっとそれだけの理由で側に置いておきたかっただけなんだ。だから手に入らないと分かった時、理想と違うと気付いた時、怒いかりに任せて殴るなんてことが出来てしまったんだ。


 可愛い女ならソフィアだって良かったはずだ。だけど俺は彼女を選ばなかった。なぜなら彼女は、周りから愛されていて可哀想ではなかったから。

 俺に怯えない女ならカナン様だって良かったはずだ。だけど俺は彼女を選ばなかった。なぜなら彼女は、自分の芯しんを持っていて扱いづらかったから。



 俺は、この時になってやっといつかレオナルド殿でん下かから言われたことを思い出した。忘れてしまいたくて心の奥にしまいこんだ暗い記き憶おくにやっと向き合った。


 レオナルド殿下はキース殿下が廃はい嫡ちやくされることが決まった後で、キース殿下が第一王子だった時の側近である俺とルイスとバオンを招待して婚こん約やく者のアリス様とのお茶会を開かい催さいした。

 レオナルド殿下の婚約者になったアリス様は、こういう場にまだ慣れていないのかどこかおどおどしているような頼りない少女だった。キース殿下は俺達とマーガレットを関かかわらせることはなかったからマーガレットとお茶会なんてしたことはなかったけれど、あの女ならもっとスマートに振ふる舞まえるだろうと思い、未来の王妃がアリス様になることに不安を感じた。


 そのお茶会の後から、俺はなぜかレオナルド殿下に遠ざけられていると感じた。

 ルイスやバオン、それに護衛のハンクスでさえもキース殿下の時代と変わらず重宝されているのになぜ俺だけが? たまらず俺はレオナルド殿下の執しつ務む室に押しかけた。

「レオナルド殿下! どうして俺のことを遠ざけるのですか!?」

「ライリー? 急にどうしたの? 謁えつ見けんの連れん絡らくは来ていなかったと思うけど」

 心底不思議そうな顔をするレオナルド殿下に、俺は苛立った。


「……俺はキース殿下の側近でした! キース殿下とお話をする時に謁見の申し込みなどしたことはありません! それに俺は次期騎き士し団長ですよ! そんな俺を遠ざける意味が分かりません!」


「ライリーはあくまで兄上の側近候補だったよね? それにライリーが次期騎士団長? そんな話は聞いたこともないよ?」

「俺は! まだ新人なのに先せん輩ぱいも含ふくめて騎士団の中の誰だれにも負けたことなんてありません! そんな俺を差し置いて次期騎士団長になれる人材がいるはずないでしょう!」

「……ライリーが騎士団の誰にも負けたことがないのは、ライリーの実力?」

「……はっ?」

「ライリーが普ふ段だんから『俺は騎士団長の息子むすこだ』と大声で吹ふい聴ちようしていることとその結果が関係あるとは考えないの?」

「何を言って……」


「冷静に周りの団員の訓練の様子を見ていればすぐにわかるはずだよ。ライリーよりも持久力のある人間や、剣けん術じゆつにおいて天性の才能を持った人間だっている。毎日訓練の時間以外にも朝から晩まで努力して実力を伸のばしている人間だってたくさんいる。そんな中で騎士団長の息子だからと大声で言うだけで訓練の時間以外に努力をしていないライリーが誰にも負けたことがないだなんて、一度も疑問には思わなかったの?」


「いや……。でも……。俺が騎士団長の息子だからと……そんな理由でわざと俺に負けるだなんて……」

「ライリー自身は過去に同じことをしていたのに?」

「……えっ?」

「兄上は自分が第一王子だなんて吹聴していなかったけどライリーは兄上におもねっていつも負けていたんでしょ? どうして自分はしていたのに、自分と同じことを他ほかの誰かがするとは考えないの?」

「……どうしてそれを……」


「僕は、これからソルト王国民全員の人生を背負っていくんだ。一いつ緒しよに国を背負う人間は、僕自身が決めるよ」


「ですが、俺は……」

「お茶会でライリーはアリスを見下していたでしょ? これから支えるはずの僕の婚約者すら見下す人間にソルト王国民の人生を背負うことは出来ないよ」

「そんなことは……」


「爵しやく位いや性別や年ねん齢れいだけで相手を判断して、相手の立場に応じて見下したり傲ごう慢まんな態度をとる人間を信用なんて出来ないよね?」


 年下の、まだまだ十三歳の子どもだと、心のどこかでキース殿下と比べて侮あなどっていたレオナルド殿下の言葉の一つ一つが心に刺ささって、俺は何も言えなくなった。

 そんな俺を厳しいまなざしで見つめた後で、レオナルド殿下はふと真剣な顔をして俺に一つの質問をした。


「ライリー。……兄上は、実技でいつもライリーに勝利することについて何も言わなかったの?」


「……何も。キース殿下は、俺に何かを言ったことはありません」

 俺の答えに、レオナルド殿下は悲しいような苦しいような寂さびしいような、どう表現していいか分からない表情をしていた。俺には今でもこの時のレオナルド殿下の気持ちは分からないままだ。


 そして俺はこの苦い思い出には蓋ふたをして今日まで思い出すことを拒きよ否ひしていた。

 なぜなら自分自身の卑ひ怯きようさや傲慢さに気づきたくはなかったから。



 マーガレットのスピーチが終わった後で、牢の窓からマーガレットの花びらが降ってきて、その花びらはいつかと同じように俺の手元に舞い落ちた。そしてその花びらは、いつかと全く同じように俺の手元で一輪のマーガレットの花に形を変えた。

 一年以上前の俺は、そのことを当たり前だと思った。

 伯はく爵しやく子息であり、騎士団の期待の新人である自分が、少量の薬や、たった一切れのパン、たかが一枚の金貨を必要とするわけがない。満たされた生活の中で自分が不要だと切り捨てたそれらの些さ細さいなもので救われる人間がいることにすら思い至らずに、自分はそんなものを望まなくても生きていけると当たり前のように信じていた。


 ……だけど今は、シンシア様を殴なぐってすべてを失ったはずなのに、それでもなお薬やパンや金貨を必要としなくても生きていける現実に、自分はこんなにも恵めぐまれていたのだと初めて感謝した。


 もうすべてが遅おそいかもしれないが、俺は自分自身の卑怯さや傲慢さをやっと認めることができた。

 ここから出たらきっと本当の地じ獄ごくが始まるだろうけど、それでも父親に見捨てられなかったことだけでもとてつもない救いなのだと、今なら心からそう思えた。